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 規則正しい振動は眠気を誘う。
 落ちそうになった欠伸を噛み殺しながら、仁科は手元の書類から視線を上げた。興味のない内容は頭に入る事などなく、ただ疲れた目を一層痛め付けるだけでそれ以外の効果はない。街は日付が変わったとはいえまだ明るく、車窓を流れるカラフルなネオンは、理解出来ない文書同様疲労を生む。
 流れる光から意識を切替え、今度は少し焦点を変えてから仁科は真っ直ぐと窓を見た。夜鏡となった汚れたガラスに映るのは、一体何者なのか。自分だが自分ではないその中の相手を観察する。
 今時何処で手に入れたのだろうか、時代錯誤な黒縁眼鏡。しかし、これがビシリと着込んだブランドスーツにおかしな程似合っており、本来持っているはずの己の安っぽさが消えている。車窓に映るのは、どこから見てもステイタスの高い職業につく青年だ。ダサイ眼鏡も、若い自信がもたらす洒落たアイテムのようにさえ見える。本来の自分とはかなり毛並みの違う人物が、ガラスの中にいた。
 さすが、と言うべきなのかどうなのか。自分にこんな格好をさせた雇主を思い出しながら、仁科は体を捻り目を落としていた書類を脇に置く鞄に仕舞った。
 その瞬間。
 まるでそこが空くのを待っていたかのように、組んだ足の上に鈍い衝撃が落ちる。声を上げなかったのは、その驚きがあまりにも大きすぎたからなのだろう。ギョッと目を見開き見下ろした先には、人間の頭があった。理解し難い物体ではなかった事に、一瞬ほっと息を吐いたが、次の瞬間にはそれでもここにあるのは可笑しい物だと怒りが沸き起こる。隣に座っていた人物が眠りこけ倒れてきたのだと解かったところで、驚かされた苛立ちは消える事はない。
 熟睡しているのか、起き上がる気配を見せない男をどうするべきなのか。このまま立ち上がり床へと転がり落としてやりたい心境ではあったが、終電間際の車内にはそれなりの客がある。普段なら迷わずそれを実行しているところだが、さすがに今夜は無理というものでもあった。何処で誰が見ているのか分からないのだ。ならば、誰に見られても良い行動をとらねばならない。
 暴走を留まらせる雇主の言葉を今一度思い起こしながら、仁科は飲み込めなかった溜息を落とす。幾つか与えられている命令を、自分は全て遂行するのだろう。たとえ違えたところで咎められるいわれはないというのに、馬鹿正直もいいところ。だが、何故かあの雇主は人を従わせる能力に長けており、結局は何だかんだとぼやきながらも協力してしまうのだ。決して意志は弱くはないのにそうなのだから、相手の方が何枚も上手なのだと諦める外はないのだろう。そして。今は、何故こんな事にと原因を追究する時ではなく、作った外見同様の対処をとらねばならない事態。こんな所で居ない者相手に抗議をしてもどうにもならない。巧くやれと言われたのならば、それに応えそれ以上の結果を出さねば、最終的に自分の立場が悪くなるだけなのだ。何があろうと、自ら失敗への行動を率先して起こしてはならない。
 それ相応の行動をと、自分に言い聞かせる仁科を救うかのように、電車が終点駅へと滑り込んだ。ホームは夜中だと言うのになかなかの騒がしさで、酔っ払いの怒声まで飛び交っている。その声が五月蠅かったのだろうか、自分の膝枕を無許可で使用しているふざけた男がわずかに頭を持ち上げた事に仁科は気付いた。
「終点ですよ、退けて下さい」
「ん…」
 すかさず声をかけるが、反応は鈍い。だが、親切丁寧に起こしてやる義理はないと、身動ぎした事で出来た隙間に無理やり手を入れ、仁科は男の頭を押し上げた。支える手を軸にし、体を反転させ立ち上がる。頭から手を放すと、男はそのまま仁科が退けた部分に頭を倒れ込ませた。受身を取る事もせずシートの上で僅かに跳ねる男を本当にふざけた奴だと思いながら、勢い良く体重を受け止め軋んだ音を鳴らす座席から鞄を取り上げる。
 ただそれだけの動作であったが、酷く疲れているのが自分でも良くわかった。思わず溜息を落とし、仁科は舌打ちをしたい気分になる。だが、まだ気は弛められない、仕事は残っているのだ。否、むしろこれからが本番だと言うべきだろう。
 本当になんて、割に合わない仕事なのか。雇主が認めなくとも、それ相応の追加手当てをとってやる。慰めになるのかイマイチ判らないそんな決意で自分の尻を叩き、仁科は鞄を脇に抱えながら踵を返した。
 しかし、不意に鞄を抱えた側の肘を掴まれ、足を止められる。床へと落ちた鞄の音が、やけに車内に響いた。
「酷いな、あんた。露骨に嫌な顔で溜息を落として立ち去ろうとするなんて、冷たいねぇ」
「……」
 振り返ると、座席に寝転がった状態のまま自分を見上げる男と目が合った。気にもかけておらず気付かなかったが、倒れ込む程に熟睡していた人物は、自分とそう変わらない歳頃の青年だった。酔った中年だと思い込んでいた身としては、意外だとしか言えない。だが、男がジャケットの下に着ているのは少しのびたTシャツであり、色あせたジーパンを履いている事を考えれば、アルコールの有無は兎も角、その他の事は外れていないだろう。電車内で眠りこけるだらしのない人間と言う事だ。堅実なサラリーマンとは到底思えない。少なくとも、仕事帰りでも出勤前でもないだろう。
 実際には、ラフな服装の職場など沢山あるし、仁科自身もそんな仕事場に籍を置いている身だ。格好だけで判断するのは安易だと言うのは判っている。しかし、誰が見ようと男が世間一般的な社会人には見えないのも、今この場での事実だった。見た目で判断を下したとしても、特に恥じるべき偏見ではないだろう。この男をただの社会人だと思う奴がいるのならばお目にかかって見たいものだ。
 そう評したところで、そんな程度の者ではないはずだと、逃避するよう茶化しかけた気分を仁科は引き締める。下から自分を見上げる男には、歓迎したくはない雰囲気があった。意志の強い眼を見下ろしながら、この感覚は何だろうかと考える。特別、危険を匂わせているわけではない。なので、どこが可笑しいのかと聞かれても、これだとはっきり言えるものもない。だが、確かに感じる何かが男にはあった。それは言うなれば、人の上に立つ人物が持つものに似ている気がする。しかし、だからと言って威圧感は全く無い。本当に、不可思議なものだ。
「あんまりだと思わないか?」
 男がゆっくりと、まるで諭すかのように語りかけながら体を起こす。関わるのは得策ではないなと思いつつも、どこか偉そうなその態度が癪に触った。唇の端が不自然な程に上がっている相手を、憎たらしく思う。
「悪いですが、全く思いません。私の行動は当然のものですよ」
 相手にするなと頭は判断し、全身が男を拒絶していた。その本能に判っているさと内心で返答しながら、仁科は肘を掴む男の手をやんわりと外した。ムカツク事この上ない。だが、学生時代ならいざ知らず、仕事を始めてからは少しは感情のコントロールが出来るようになっているのだ。苛立ちを押さえ込むのは好きではないが、不可能でもない。ならば、雇主の命令を破ってまで何者かも判らない男と遣り合う気など、仁科には更々なかった。咄嗟に手が出たのならば開き直るが、考える余裕がある時は、動かないのが利口だ。馬鹿をする場合は、時と場所と相手を選ばねばならないのは、経験上熟知している。
 自由になった手で鞄を拾い上げ再び脇に抱えながら、仁科は逆の手で下がった眼鏡を押し上げた。
「急いでいるので、失礼します」
「まあ、待てよ」
 何故待つ必要があるんだ、馬鹿馬鹿しい。こんな事ならば、やはり始めに床に転がしてやり即座に逃げていれば良かったと思いながら、呼び掛けを無視し電車を降りる。だが、直ぐに男も降りたようで、改札に向かう途中で横に並ばれた。チラリと見やり確認した相手の顔は、良く眠ったからなのか元気なものだ。横からでもわかるその顔色が、口元に浮かぶ笑みが、仁科の限界を煽る。
 無意識に手を握り締めたのは、殴る為でも我慢する為でもない。習性だ。その拳を開いたのは、雇主の顔が頭にちらついたからであり、男に対する感情を変えたからではない。
「なあ、あんたの家ってここから近いのか?」
 眠っていた訳ではないのだろうか、寝起きにしてははっきりと清んだ声が仁科の耳を通り抜ける。こちらは慣れない緊張で疲れきっているというのに、皮肉なものだ。腹立たしい。三割近く八つ当たり気味にそう思いながら、仁科は改札を抜けた。構内では所々で駅員と酔っ払いのやり取りが繰り広げられている。さっさと警官を呼び全員を豚箱に放り込めば良いものを。鬱陶しい。
「なぁ。悪いが、今夜一晩でいいから泊めてくれないかな」
 腕時計で確認すると、時刻は零時半を少し回っていた。約束よりも幾分早いが、遅刻には煩そうな相手だ、このくらいが丁度良いのだろう。もしかすれば、どこかで時間を潰さねばならないと考えていたので、前の用事が長引いたのは喜ばしい誤算だったのかもしない。自分としては決して思い出したくはない不快な時間ではあったが、そんなものは今更考えてもどうしようもない。終わったのだからそれで良しとしなければ、やっていられない。あれが何らかの役にたっただけでも上出来だ。
 始めた時点で、終わる瞬間までもが決められている仕事だ。与えられた暗い部屋の冷たいベッドに潜り込むまでは、自分に私的な感情は不必要なもの。不快であろうと何であろうと、実際には関係はない。
 だが、それでも。まるで役者のように他人を演じる自分に慣れないのもまた事実だ。少しばかり自分を偽るのならばまだしも、実際にこの世にいる人間に成り済ますのは精神を切り刻む感じさえする。与えられた仕事の内容以前の問題は、確実に己を蝕んでいるのだろう。決して、ヤワな神経は持ってはいないというのに、これだ。一般的な普通の人間には、無理な芸当だろう。仕事だと割り切るには、何もかもが悪質過ぎる。
 しかし、そうだと言うのに辞める事なく、自分は他人に成り相手を騙す。罪悪感など微塵もなく。
 こうして自分は、少しずつあの雇主に改造されていくのだろう。そう判っていても、特に思うところは仁科にはなかった。元々、倫理観の薄い人間だ。問題なのは、自分が感じる不快さであって、相手に及ぼす不幸ではない。他人がどうなろうと、知った事ではないのだ。この点が、雇主が自分を重宝し、更に育てようとしている理由なのだろう。だが、どこまで育てどうしたいのか。それについては、全く興味はない。
 雇主はやりたいようにやればいい。同じく、自分もそうするだけだ。初めから、雇主が自分に対し忠誠心など全く期待していない事を仁科は知っている。尤も、どれだけそれを望まれようとも、元来無いものを生み出せはしないのだが。
「無視するなよ、おい」
 駅構内から出る数段の階段を降りたところで、再び肘を掴まれた。仁科が振り向くと、少し高い位置に僅かに眉を寄せた男の顔があった。男前と呼べる造りだ。だが、生憎仁科には男を愛でる趣味はない。整っている分、逆に壊してしまいたくなるくらいだ。
「何ですか、一体」
「俺を無視するとは、いい根性してるじゃないか」
「それは、どうも」
 良くそんな馬鹿げた台詞を口に出来るなと呆れながら、仁科は男の手を振り払い足を進めた。褒めているわけじゃないとぼやく声が耳に届いたが、関心の対象にはならない。何より、相手の声は言葉ほども怒っている訳ではなく、どちらかと言えば愉しんでいるようなものなのだ。暇な奴の遊びに付き合うつもりは、全く無い。何だか、しつこいキャッチに捕まってしまったのかのようだ。鬱陶しい。
「だから、無視をするなよ。一人で喋って馬鹿みたいだろう」
 みたいではなく、確実に馬鹿だろう。内心でそう返しながら、仁科は鞄から携帯電話を取り出す。使用時以外は常に切っている電源を入れ、サーバーに問い合わせをしてみると、予定通りメールが一通届いていた。雇主からだ。
 内容を確認し、電源を落とす。職場で支給された携帯電話は決まりが多く、使うのは正直面倒だ。パソコン顔負けのセキュリティ機能がついているというのに、何故こまめに電源を落とす必要があるのだろうか。仕事内容に関するやり取りで使用せねばならない時は、まず、プライベートで持つ携帯に電源を入れろと指示が入る。盗聴や盗難を考えての事だろうが、実際のそれは手間がかかるばかりで、余り必要性は見えない。事務職である仁科にすれば、時たま手伝わされる調査時だけの事なのでまだ耐えられるが、毎日よくこんな面倒な事が出来るものだと調査員二人には呆れるばかりだ。凄いなと言う感心は、微塵もわかない。
 一見無駄に思えても、それだけ危険な仕事をしており、安全には人一倍気を使わなければならないという事なのだろう。だが、自分には到底出来ない芸当だと仁科は思う。仕事だからと一応それを守ってはいるが、自分の性格では継続し続けるのはかなり難しい手間だ。どちらかと言えば、そんな無駄をするのならば危険に晒されるのは仕方がないとそちらを選び、出来る事ならそんな危ない環境からはさっさと抜け出したいとそれに力を注ぐだろう。忍耐と言う言葉は自分の辞書には無い。
 よく辞めずにこんな仕事を続けているものだ。知人達にも言われ続けている言葉を、他人事のように仁科は頭に浮かべた。本当に、己には合わない職種だとそう思う。だが、一応はまともに仕事をしている事自体が知人達には信じられないようなのだから、何をやった所で彼らには受け入れられないのだろう。ふざけた友人達だ。
 だが、そんな彼らでも、会えないとつまらない。呼び出しを受けても都合のつかない場合が多く、最後に会ったのは一体いつなのか。すぐには思いだせないくらい前の事だ。それもこれも、この仕事のせいであるのだから、益々以て面白くない。
 携帯をスーツのジャケットに入れ、仁科はふと息を吐いた。ほんの僅かだが白くぼやけたそれが、体に感じる寒さ以上に気温の低さを教える。日中は暑いくらいの日が続いているとは言え、さすがに夜中にもなれば冬の近付きを感じずにはいられない。今年も残すところ約二ヶ月だ。年末年始に悪友達に会えるだろうかと考えながら、雇主が日本で働いている限りは無理だろうと早々に諦める。
 態々重要度を高く設定し送られてきたメールの内容は、他愛のないものだった。否、逆に無さ過ぎるそれに、疲れを覚えさせられる。雇主は自分に疲労を与える天才だと、本気で思ってしまう。毎度毎度、いい加減にして欲しいものだ。
「あんたさ、人と話が出来ないタイプ?」
 それはお前だろう。未だめげる事なく話し掛けに来ている男に心の中でそう言い返しながら、仁科は再び息を吐いた。この男も、いい加減にして欲しい。どいつもこいつも、堪らない。
 それでも、覚束無い足取りで前を行く酔っ払いを眺め、歩調を緩める。五月蝿い男に一発食らわせ走り去ったとしても、通報をするような者は周りには居ない。だがやはり、そんなリスクを犯し追い払うほど時間が無い訳ではなく、仕事に支障をきたさない限りはこのままあしらう外ないのだろう。
 何より。面倒な者に絡まれた腹立たしさはあるが、手をあげ口を開き追い払う気力が沸かないのだから、どうにもならない。回復する前にどんどんと蓄積していく疲労が忌々しい。
「なぁ、おい」
「……もう一度言いましょう、これで理解して下さい。私は忙しいんです、貴方と遊んでいる余裕はない」
 夜の街には何故こうも興奮色が点っているのだろうか。走り去る車のテールランプから外した瞳が、今度は赤信号を捕らえる。その光をいやに眩しく感じながら、仁科は隣に立つ男にきっぱりと言った。低い溜息か笑いか、男が微かな息を漏らす。
「まさか、まだ仕事だとでも?」
「貴方は暇でも私はそうではない。話し掛けないで下さい」
「何処へ行くんだ?あんた何の仕事してるの?」
 何を聞かれようとも、これ以上話をする気はない。
「失礼」
 青へと変わった信号を確認すると、仁科は足早に横断歩道を渡った。交差点を南に進み3ブロック目の二番目に立つビルが目的地だ。あの建物かと眺めながら足を運び、懲りもせず付いて来ているらしい男を振り返える。
 案の定、仁科が足を止めると、男も立ち止まり小さな笑いを落とした。
「頼むよ」
 一体何を頼まれているのか、聞き返す余裕は時間的にはあっても、精神的には全くなかった。気力はなくとも、殴り倒したい気分だ。だが、流石にここまで来てそれでは、今まで耐えた分が勿体無い。
「いい加減にして下さい。私に付いて入って来たら、不法侵入で警察を呼びますから」
 仁科はそう言うと同時に踵を返し、さっさと目的のビルへ足を踏み入れた。自分の言葉に男がどんな反応をしたのかなど、興味はない。ただ、最後の言葉を理解してくれるのを願うのみ。今からの仕事に、訳の分からない男の介入は何としてでも避けねばならないのだ。ついて来るのならば、別の手を講じる必要がある。
 後ろの気配を伺い、ビルに足を踏み入れたのは自分一人だと確信したところで、仁科は足を止め振り返った。明かりが絞られた入口が、やけに遠くに感じられる。もう会う事はないだろうおかしな男も、まるで夢の中であったのかのように一気にぼやけた。
 日常も、この仕事も。何もかもが、自分の周りを勝手に駆け回っているだけなのかもしれない。
 疲れからくるのではない、生きる事自体への無気力さが、自分の体に染み付いているのを仁科は妙に実感した。

2005/11/15
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