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 己が有利な立場で離婚が出来るよう、人を雇い妻を陥れた男は、弁護士という肩書きを持つ割にはパッとしたところがない人物だった。女子高生ならば確実に、汚い臭い死ねなどと暴言を吐きかけるだろう、その辺のサラリーマン並…いや以下だ。流石、やる事が汚い人物だ、外見も醜い。
 しかし、挨拶をしながら思ったそれは、単に彼の悪行を知っているからこそなのかもしれないと仁科は思い直す。確かに中年太りした外見は酷いとしか言い様がないし、弁護士風を吹かせ相手を見下す態度には辟易するが、我慢出来ないものではなく寧ろ関心さえ湧かないものだ。卑劣な行為をしている事実を知ってはいても、余り興味も向ける気にはならない。その点において考えればとるに足りない人物であるので、暴言など吹きかけようと思わなければ、外見など直ぐに意識外の事となる。
 ほんの少し、この男に関する事を知り関わっただけである自分にとっては、男自身の外見や中身に個人的な感想はない必要ない。考える分だけ、感じる分だけ、何かを無駄にしていると仁科は人から物へとその認識を変える。対峙するのは弁護士ではなく、ただの不恰好な物体だ。価値のないものに対して評価を下すなど、馬鹿げていよう。
 だが、そう考えたのはあくまでも内面での事であり、外面では慇懃な態度で仕事を進める。たとえ相手に苛立ちを覚えたとしても、嫌味ひとつ言える立場でも状況でもないのは勿論、与えられたのはただ調査結果を伝えるだけのものなのだから、態々仕事を増やす事はない。ウザイ人物だとキレて深夜労働の憂さを晴らせば、もれなく雇主の嫌味がついてくるのだ。とるべき行動は決まっているというもの。ならば、淡々と仕事をこなすのが、終了への一番の近道だ。
「実は心配していたんだよ、きちんと仕事をしてくれるのかとね。君のようなしっかりとした者がいてくれて良かった。あの人は何というか、ねぇ」
 自身の計画が巧く行っているのが嬉しいのか、聞いた報告に安心し気を緩めた男が、馴々しく話しかけて来る。仁科はそれを心底から鬱陶しく思いながらも、軽い笑いを落とし応えた。
 依頼者の前にいるのは、傍若無人な人物ではなく、好感が持てる者でなければならない。それも、相手より優秀であってはならないのだから、素直さと多少の初心さも求められているのだ。無視など出来るはずがなければ、その意見に100パーセント同意し、一緒になり雇主を詰る事も出来ない。
「あぁ、熊谷ですね。彼はあの通り個性が強いですから、さぞ心配された事でしょう。しかし、アレでも腕は確かなのですよ。恥ずかしながら、彼に比べたら私など役立たずでしかありません。まだまだですね」
 雇主を誉める言葉に自身で寒気を覚えながら、それでも仁科は目を細めてはにかんだ。この部屋に入る前に掛け替えた眼鏡は、先程のものとは違い細いフレームの極々シンプルなものである。知的さが強調されつつも奥ゆかしさを残すタイプの人物になるには、打って付けのアイテムであろう。軽く曲げた指でリムを掴み眼鏡の位置を直しながら、機嫌の良さげな物体を観察する。馬鹿げてはいるが、こうした小物の効果は意外にも高く、他人を見る目に長けている筈の弁護士も自分を疑ってはいないらしい事が良く判った。
 此処まで単純であると、逆に疑いたくなるくらいだ。本当に、この男は弁護士なのか。騙されているのは自分の方ではないのか。
 それは杞憂でしかないものだが、持っていて邪魔になるものでもない。寧ろ、何かがあった時の為には、そうした危機感は常に持っておく方が良いだろう。これは仕事ではなく、幼い頃からの経験で培ってきたものであり、仁科にとっては馴染みのあるものだ。危機だけではなく何に対しても、前以て意識しておく方がその時の衝撃は少なく済むはず。
「先生から見れば、熊谷もそして私もまだ若くご安心出来ない箇所もあるでしょうが、どうぞこれからも宜しくお願い致します」
「本当に、君の方が余程それらしい。今こうして聞いても、彼はとても出来る男には思えないよ」
「もしも、熊谷が何か失礼をしましたら、どうぞ仰って下さい」
「なんだ。やはり失礼をするような男なのかね」
「まさか。性格は少々問題があるのは認めますが、仕事は完璧ですよ。先生にも信頼して頂けるものだと、私は思っておりますが。今させて頂いた報告では、何かご不満がおありでしょうか?」
「いや、良く判った。これで充分だ」
 それは良かったと、言葉にはせずに軽く微笑みながら、仁科は依頼しておきながら馬鹿にしきった態度を隠さない男に心の中で毒を吐き掛けた。よくも、判ったなどと言えるものだ。この報告の内容は全て、初めから依頼者本人の手により作られたものでしかないのだから、判っていて当然なのだ。無い頭を使って考えたのかもしれないが、無駄な事をしていると呆れずにはいられない。そんな事をするからあの男に付け込まれるのだと、仁科は丁寧に頭を下げ部屋を後にしながら思う。本当に、醜い物体だ。早々に廃棄処分すべきだろう。
 弁護士という肩書きを自分の魅力だと勘違いしている男が妻の素行調査を依頼してきたのは半月程前の事で、浮気を疑ってのものだった。結果は今夜伝えたとおり、彼の妻は夫以外の男性と関係をもっていた。本来ならば、単純な調査はこれで終わりとなる。
 だが、依頼者への報告を終えたとはいえ、今回はまだ途中経過でしかない。この続きが、依頼者の預かり知らぬところで存在している。
 何が引っ掛かったのか、中年弁護士との打ち合わせ後に何処かへ消えた仁科の雇主は、戻ってきた時には幾つかの真相を手に入れていた。妻の浮気は依頼者が計画したものだとか、その相手が何処の誰なのか。何故依頼者は別れようとしているのか、何を望んでいるのか。短時間のうちに依頼者自身の愛人にまで接触していたのだから、その能力は確かに本物だと言えるだろう。
 しかし、その男、熊谷正志がその後とった行動は、人間として些か問題あるものだった。ふざけた依頼者も別に彼自身をコケにした訳ではないのだろうに、相手の計画を熊谷は自分に対する挑戦だと受け取った。だからこそ、依頼者を叩きのめすのだと恥もなく高々に宣言した。
 小さな事務所でそれを聞いたのは、事務員の仁科と調査員の小畑葵だけであったが、元々三人しかいない職場であるので結局は全職員で対応する事となった。それが仕事である小畑は兎も角、何故自分までもと仁科は抵抗したが、あっさりと引きずり込まれてしまった。
 やる気な熊谷と面白がる小畑が積極的に動いたので、仁科が調査員紛いの仕事をする事はなかったが、残念ながらそのまま放っておいてくれる二人でもなかった。案の定、妻への接触と依頼者への調査報告を断れない形で頼まれたのは、逃げる間もない半日前の事だ。命令と何ら変わらないそれを嫌々ながらも承諾したのは、いつもの事だと思う事で割り切れたからであり、決して納得したからではない。
 しかし、今更だが言われたままにそれをこなし思うのは、引き受けなければ良かったと言う後悔だけだ。
 今夜会った依頼者の妻は、仁科の心を刺激する女性だった。駄目だと判りながらも人に依存するタイプで、自主性があまり感じられないところが、未だ折り合いの付かない母親を思い出させた。
 旦那の浮気と彼女自身が調査対象にされている事を、同じ事務所の弁護士を装って告げ、反応をみる。それが仁科の仕事であり、彼女が夫と対立するように仕向けるのが目的だった。だが、目の前にした人物は、旦那と事を構えるなどしなさそうな女性であった。弁護士である夫に口答えなど出来ず、言われるままに流されてきた者としか感じられなかった。自分が語る言葉をどれだけ聞いているのか、理解しているのか。仁科には全く掴めず、俯くその姿に苦手な母親の姿が重なり辟易した。
 浮気をしそうにない彼女がその過ちを犯したのは、ひとえに夫が依頼した者の手腕によるのだろう。元ホストだというプロの仕掛け人がどんな風に対象者に近付いたのか、熊谷から詳しく聞いたわけではないが、仁科には何となくわかるような気がした。一度や二度押したくらいでは無理だろう。ある程度の時間をかけたはずだ。
 己のこの数ヶ月がそれだけ周到に計画され運ばれたものだったと知った今、怒りを覚えたならばやり返す事を考えるだろう。このままでは離婚には不利だというのは、素人でも判る。それでなくとも対峙する夫はプロなのだから、何がなんでも弱みのひとつは握りたい。そう考えるのが普通だ。
 だが、交わす会話にすら戸惑っていた彼女は、今までの依存を自ら断ち切れるのか、とても怪しいものだ。彼女はこのまま泣き寝入りをするだろうというのが、接触した仁科の予想であり、疲れの原因でもあった。それは依頼者である男と会ってからは益々大きくなるもので、いい加減勘弁して欲しいと言うのが正直な感想だ。こんな真夜中に頭に置いて気分の良いものではない。
 人を蔑んでいるような自惚れた男もむかつきはするが、自立出来ず流されるまま道を選び自ら馬鹿になる女に、手助けなど必要ないと本気でそう思う。
 仕事の事だけを考えれば、彼女に夫の調査依頼をさせるよう、もっと強く押すべきだったのだろう。そうすれば、さすがに調査は別の興信所を使うのだろうが、多少のマージンは手に入る。小さいながらも良く働くおかげで資金には困っていないが、金はある方がいい。挑戦だ何だと口にはしていても、熊谷自身、金になるからこそこんな行動に出ているのだろう。このミッションがどうなっているのか知らされてはいないが、小畑が愛人に接触している事を考えれば、多分その愛人にも何らかの依頼をさせようとしているはずだ。
 熊谷は、三人から三様の理由で金をとるのだろう。流石に、プロの仕掛け人に金を要求する事はしないであろうが、この世界では情報も金と変わりなく価値がある。担保として持っておくには、そう悪いものでもないのだろう。
 そう、結局は、欲の為の仕事でしかない。熊谷のそんなものに必要以上振り回されるのは馬鹿げていると、仁科は消化しきれない感情を溜息に混ぜ捨て去った。醜い男も馬鹿な女も、自分には関係ない。余分な仕事なのだから、適当に手を抜かねば損だ。
 暗い廊下を音を立てずに歩きながら、仁科は教えられたトイレへと向かった。真夜中のビルに、自分の足音だけが響く。
 歩く振動からではなく、スーツの中身の肉の薄さからだろう。肩から滑り落ちそうになった鞄を担ぎ直し、そのまま手を添える。先程まで持っていた書類鞄は報告書ごと依頼者に渡し、その変わりに受け取ったのはデイパックだったのだが、これが意外と重い。一体どんな理由であの依頼者を納得させたのか、熊谷は依頼を受けた時に互いの鞄を入れ替えてきた。依頼者のものは当然の如く中身は空であったというのに、熊谷の鞄には沢山荷物が詰め込まれている。確かに、それこそがメインであるのだが、余分なものも多々あるようだ。
 依頼者の性格を考えれば、きっと中身を確認したのだろう。そして、たいしたものが入っておらず呆れたはずだ。あの弁護士が一度会っただけの熊谷を酷く馬鹿にしているのは、この鞄のせいなのかもしれないと仁科は思い当たる。どうせ、ある事ない事吐かし、嫌がる男に押しつけたのだろう。有り得る…というか、それしかない。
 熊谷という男との付き合いは三年にもなるが、今なおその行動は読めない。一応は常識を持ち合わせているのだろうが、かなりキテレツな人物である。開業している便利屋にはペット探しから素行調査などの依頼は勿論、裏社会に関する危ないものまで舞い込む。どれだけ人脈が広いのかと、考える事すら憚られるものだ。そんな人物達とは仕事であっても関わりたくはないと仁科は常々思っているが、給料との天秤に掛けると若干その意思の方が軽く、未だ仕事は続けている状態だ。仕方がないと言えば仕方がないのだが、納得したくはない内容でもある。
 そんな顔の広い熊谷が仕事を受ける理由は、ひと言で言えば「その時の気分」で決まる。機嫌が良ければ、くだらない依頼も危険な仕事も、両手を広げて受けてくる。仁科が知る限り、熊谷が仕事をしくじった事はないが、今の様にいい加減に依頼を受けていれば間違いなくいつか問題が起こるだろう。痛い目を見るのが熊谷だけならば自業自得だと言えるが、周りに危害が及ばない状況でそれが訪れるとは限らない。寧ろ、そう都合よく行かないのが当然であるだろう。熊谷に何かがあれば、即ち、自分にも小畑にも影響があるというわけだ。
 あんな雇主と一蓮托生など、気持ちが悪い事この上ない。
 何て職場に勤めているのかと、自分自身でよくそう思う。だが、こんな風に自分に合う場所もそうそうないのだというのも知っている。熊谷も小畑も人並以上に我が強く、友人達にさえ柄が悪いと言われる仁科であっても、彼らにすれば赤子と同じようなものである。正直、上手な二人にいいようにあしらわれる度むかつきはするが、気負わず有りのままの自分でいられるのは楽だった。一般的な会社ではこうはいかないだろう。
 自分は友人達の様に、誰かの顔色を見たり己を偽ったりしながらこの社会に居場所を作る、そんな生き方は出来ないのだと仁科は思う。何より、したくもないのだ。それは我儘でしかないのかもしれないが、当たり障りなく生きたくはなかった。型に嵌り、年齢や立場、世間などを意識すれば、自分と言う人間を見失ってしまいそうな気がする。
 だからこそ。不満を感じたり、付き合いきれなく思う事が多々あったりしても、この仕事を辞めてはいないのだろう。職場の環境に、同僚との関係に、溜息を吐きはしてもある程度は満足しているのだ。それなのに。
 こうした仕事を頻繁に手伝わされるようになるのなら、もっと考えなければならない。
 見付けたトイレに足を踏み入れながら仁科は思い、とりあえずはそこで思考を打ち切った。今考えても仕方がないし、突き詰めて考える気力もない。
 暗闇に慣れた目には小窓からの僅かな明かりで十分であり、電気は付けずとも用は足せた。銀縁眼鏡を外し、スーツの上着を脱ぎネクタイを首から抜く。襟元を緩めると、建物内とはいえさすがに寒さを覚えた。時刻を意識せずにはおれず、口からはやはり溜息が零れる。
 鞄の中から取り出したカジュアルなジャケットに腕を通し、足下も革靴からバッシュへと履き替え、仁科は軽くまとめていた短い髪を適当に崩した。着替えた荷物を鞄に詰め込みながら、暗闇の中で鏡を覗き込み服装を整える。映し出される姿は、何処にでもいる若者だったが、少し眼がきついようにも見えた。そんな自分の顔を両手で一度叩き、その場を後にする。
 自分以外に残っている者はいないはずだと依頼者は言っていたが、大きな事務所でそれは当てにはならないだろう。周りの気配を伺いながら進み、無事に誰に会うこともなく非常階段へと出た時にはほっとした。
 だが、しかし。
 階段を降りながらスーツの上着に入れたままの携帯電話を取り出そうとし、それが無くなっている事に気付いた時には血の気が引いた。真夜中の路地裏でひとり焦りながら身の回りを調べるが、やはり無い。
 落とした可能性はなくはないが、信じられるものでもなかった。落ちればそれなりに音がするのだから、気付かないはずがないだろう。ならば、何故ないのか。
 そう考えたところで、仁科は自分に付いて来ていた男を思いだした。そう、あの可笑しな男に盗まれたのだと確信する。舌打ちした時には、絶対にそれ以外には有り得ないと怒りが湧いた。
「…最悪だ」
 零れた呟きは今の状況に最も適した言葉であったが、何の解決にもならない。一体いつすり取られたのか考えながら、足を運ぶ。あれから一時間は経っているのだ、未だ近くにいるというわけはないのだろうが探さずにはいられない。
 極普通の人間ならば、あの携帯電話を手にしたところで起動させる事は出来ず、問題はないだろう。だが、もし素人ではないとなると、嫌がらせではなく意図的に掏られたのだとなると、問題だらけだ。何らかの方法で中身を見られたとしても、そうたいした事になりはしない。熊谷のものならば、多少の極秘文書はあるかもしれないが、仁科の場合その心配は殆どない。
 ただ、問題なのはこの状況で、こんな事態に陥った自分そのものだ。一体いつから狙われていたのか、相手は何者なのか。何が目的なのか。全く判らず、その判らないと言うのは何よりも厄介な事なのだ。
 部下の能力の低さを見抜けなかった雇主が悪いのだろうが、そこまで開き直る気分には到底なれず、仁科は己のミスを認めながら路地を幾つか抜け表通りへと向かった。
 逸る気持ちはあったが、周囲を注意しながら駅へと向かう道を行く。今直ぐ熊谷に連絡するべきなのか、それとも明日で良いか。言い訳をしたところで自分のミスである事には変わりなく、どちらも気が進まない。まるで子供のようだとそう考えたところで、今夜はまだあの携帯電話が必要だった事を思い出した。無事に帰宅した時にはその旨を雇主に連絡する、その報告が残っている。
 仕方がないな、と仁科はプライベート用の携帯を取り出し、覚えている11桁のナンバーを打ち込んだ。しかし、呼び出しは掛らず聞き慣れたアナウンスが流れる。私用の携帯の電源を切っているとは考え難いので、熊谷は今、電波の悪い場所にいるのだろう。やはり明日にするかと、携帯をしまいながら流れる車を眺め、仁科はタイミングよくやって来た空車のタクシーを停めた。
 行き先を告げ、座席に体を預ける。何気なく窓の外に視線を向けながら、意識は今夜の報告をどうしようかと疲れた頭で考える。
 しかし。
 先程は歩いて渡った交差点を左折した時、熊谷の事も己自身の事も吹っ飛んだ。依頼者の事務所の前に人影があったのだ。
「何故……」
 近付くに連れ、それがあの男である事がわかり、仁科は軽く混乱する。盗人ではなかったのか? それとも……?
「――悪いが、あの男のところにつけてくれ」
 悩もうがどうしようが今は瞬時に決断を下だすしかなく、仁科は自分の勘にかける事にし、運転手に声をかけた。

2005/11/29
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