Act.1-1
真夜中だというのに、暗い通りには疎らだが人影があった。客を掴み損ねた者なのか、元からそこで一夜を過ごすつもりの者なのかは判断仕切れないが、まともな人間であるはずがない。
この場所がどういったものかも知らず、たまたま足を踏み入れただけであるという者など、ここには存在しない。するはずが無い。そんな者は直ぐに路地裏へと連れ去られる。そして、ただの通行人は一瞬で別の呼び名へと変わるのだ。この町でこの時間に佇む事が出来るのは、この場所に慣れた者のみ。
この闇の中で生きるのに必要なモノは、狂気だ。どこかが狂っていなければ、この空気に耐えられない。腐った町だ。けれども、それはそれだけの事で、住む者にとっては害になるわけでもなんでもないのだろう。だからこそ、こんな場所にも人は集まるのだ。
慣れきった道を歩きながら、カインは煙草に火を点けた。視界の端で、顔馴染の女が手を挙げたの気付き、同じように軽く手を挙げ無言の挨拶を交わす。必要以上の会話は闇に喰われるだけでしかないのだと、ここに住む者はそれを充分に理解している。だからなのだろう。狭い場所に多くの者が居ると言うのに、この一角はとても静かだ。真夜中の街で佇む者も、汚い部屋に身を隠す者も、この闇の中では大人しい。
醜く汚れたこの街にでも、夜はきちんと訪れるものなのだ。
短くなった煙草を指で弾き落とし、カインは空を見上げた。
この街で気に入っているのは、星が見えるところぐらいだろう。ビジネス街の側にあるスラムなので、人工的な明かりは他の場所に比べれば極端に少ない。まるで発達した社会の落とし穴であるかのように、夜になると闇に包まれる。
西の空に沈もうとしている細い月は、死神が持つ鎌のように、鋭く冷たい光を放っていた。だが、地上の光よりも勝るそれは、美しい。だからこそ、言わずにはいられないのだろうか。
小さな息を吐くと共に、カインは祈りの言葉を唇に乗せる。
今夜、自分が奪ったあの魂を、どうか安らかな場所へと導いてくれ、と。
だが、次の瞬間には、自分が奪っておいて何とも都合の良いものだと、低い笑いを落とす。慣れ親しんだ胸の微かな痛みは、新たな傷を教えはしない。どこまでも自分は都合よく出来ているらしいと、カインは笑いを小さな溜息に変えた。
月は不思議な力を持っている、こんな自分に懺悔をさせる。だが、しかし。そこには何も存在しない。
そう、それを一番知っているのは、誰でもない、自分自身なのだ。
カインは小さく喉を鳴らし、今一度、今宵の細い月を見つめた。その死の剣は、自分を狩りそうにはない。ならば、沈む月に用はないと背中を向け、自室がある建物に足を踏み入れる事をカインは選んだ。当然の事だろう。訪れるかどうかわかりはしない時を気長に待てる余裕など何処にもないのが、人間というものだ。
そうして入り込んだ空間は、決して心地良い場所ではなく、どちらかと言えば躊躇うものだ。大きな地震が起きれば間違いなく崩れるであろう、老朽化が進んだ建物。だが、それでも人が住める程度に原型を維持しているのだから、周りの他の建物に比べれば幾分かマシと言えるものでもある。それが比較対象外であるとすれば話は別になるのだろうが、他人の考えに訂正を入れる感覚の持ち主などそう存在しない。誰が何をどう思おうが、どうでもいい事なのだ。
ただ、廃れた建物に住んでいるからといって、半壊した建物に住む者が少なくないこの街では、問題も不満もないのだと住人がそう思っているだけの事。実際は、また別の理由で自分がここに住む事を良く思っていない者もいるのかもしれないが、それこそカインには関係がない。勝手に思っていればいいのであって、やはり問題は無い。しかし。
外の路地と変わらない汚さの階段を昇りながら、けれどもカインはひとつ息を吐く。
そう、確かに問題はない。だが、満足とも言い切れないのも事実。
建物の1階はコーヒーショップになっているのだが、気紛れ店主は、週の半分も店を開けない。しかし、開店している時は何故か周りに住む者がちょくちょく顔を出しているので、人気がない訳ではないのだろう。元々店主に営業をする気があまりないのだろうが、そんな事はどうでもいい。繁盛しようが潰れようが、関係ない。
そんな店の真上の2階は今は住み手は無く、その上の3階は一応カインの事務所という事になっている。しかし、未だかつてそのために使用されたことは唯の一度もない。多分この先もないだろう。単なる物置小屋だ。そして、4階がカイン自身の生活の場だ。
4階へ行くには、狭い階段を上るしかない。人一人通るのがやっとといった程の幅で、傾斜が急な昇り難い階段だ。靴音を低く響かせながら、今夜もカインはいつものように足を進める。そのリズムは一定で、そんな階段だというのに軽やかにさえ聞こえる。慣れている証拠だろう。
そんな4階建ての建物にも、丁寧に屋上がついている。だが、そこへと続くドアは、開かずの扉となっている。錆び付いた鍵があるのでそれを壊せば開くのかもしれないが、そんな努力をしてまで行ってみたい場所ではない。
何より、ドアまでの階段には、誰の物かはわからない埃塗れの荷物がある。中身はここに住む時に調べたが、危険なものではなかったのでそのままにしてあるのだが。それは時と共に汚れた建物と一体化しており、態々それらを踏み散らしてまで屋上に行き、自分が住む街を眺めたくなどないと言うもの。どうせ見えるのは、汚れたこの街と、面白味のない高いビル位なのだ。努力する価値は無い。
カインが満足だと言い切れないのは、こんな錆びれた環境だからではない。汚れた街の汚れた建物だが、それなりにこの空気は気に入っている。1階の店や自分のもとを訪れる人間はいる事にはいるが、実際生活の場として出入りしているのは、自分一人だ。その点では、十二分に満足している。
だが、建物の構造には、少々問題があるのも事実だ。この狭い階段だけは、いただけない。階段の上り下りは苦にはならずとも、だからと言って目を潰れるものでもない。使用する度に、どうにかならないのかと、どうにも出来ない事を知りつつ溜息が落ちる。
カインは一度髪を掻きあげ、腰に手を伸ばした。3階には立ち寄らず、そのまま上へと続く階段に足をかける。一定のリズムを崩さずに、けれども、神経を研ぎ澄ます。
建物に入った時から気付いていた、いつもと僅かに違う雰囲気。その原因はこの上に居るようだ。
何とも面倒なものだと、カインは内心で溜息を吐いた。この自分に夜襲をかけるなど、気が狂っているのか、よほど自信があるのか。完全には消していないその気配の意味を、足を進めながら考える。だが、刺客の心などわかる訳が無い。
それにしても、珍しい。態々この建物内で事を起こそうなど、一体何を考えているのだろうか。敵だというのにその行動に軽い笑いが漏れる。だが、同時に疲れも感じる。こんな狭い場所での立ち回りなど、考えただけで嫌になる。出来れば自分は付き合いたくはないものだ。
だが、しかし。そういう訳にはいかないのだろう。それを許す相手が、こんな時間にこんな場所で潜んでいるはずが無い。
カインは伸ばした手が握った物をズボンから取り出し、その感触を確かめるように強弱をつけて数度握った。緊張はない。ただ、心が無くなる、そんな感じだ。落ち着くと表現したくないはないが、それに近い感覚である事は認めずにはいられない。忌々しいものだと思いつつ、指先で手の中の物を撫でる。ごつごつとした感触は、けれども何よりもこの手に馴染んでいる。
小さな建物だ、直ぐに最上階に着く。ゆっくりと角を曲がると、いつものようにカインの目の前には自室への扉があった。
しかし、今夜はそれだけではなかった。
異変の原因は、その扉の前にあった。膝を抱えて座りその上に頭を乗せている人間が一人。気配を消していないも何も、元から隠れる気がないらしく、堂々と人の部屋の前に腰を降ろしている。
俯いているので顔は見えないが、自分とそう変わらない体形から、男であるとわかった。暗闇に慣れた目では、全てを正確に捉えることは出来ないが、それを十分に判断出来るだけの情報は得られるというもの。細身ではあるが、ひ弱な感じがする訳ではない。予想外の姿であろうと、男である以上それなりの力を持っている人物だと考えるべきだろう。たとえその無防備ぶりに拍子抜けを感じたとしても、警戒を解くのは賢くは無い。
そう判断し、カインは手にしていた拳銃をその人物へと向け、ゆっくりと歩み寄った。数歩分の間をあけ、足を止める。未だ俯く男の頭に銃口を近づけ安全装置を外すと、軽く冷たい音が闇に響いた。
「何者だ」
唇から低い声を落とす。だがそれでも、男は動かない。
もう一度同じ問いを口にしかけたカインの耳に、微かな音が聞こえた。この状況で動けないのか、様子を窺っているのか。そんな風に考えていた自分を否定するように、その音は規則正しく鳴っている。信じられなかった。だが、それが事実。僅かに上下する肩は、それが単なる吐息だと物語っていた。
この状況で、有り得ない事態だ。しかし、実際にはそうなのだから、認める外無い。
そう、男はただ、眠っているだけなのだ。何故だかわからないが、こんな所で。厄介な事に。
それを理解した瞬間、情けなくなった。カインは小さな苛立ちに、そのまま突きつけた銃で男の頭を押した。馬鹿らしい事に、相手は見事にコロンと言ったように横へと倒れる。床に頭を打ち付けることにならなかったのは、側に積まれていたゴミ袋のおかげだ。しかし、それが本人にとって有り難い事なのかどうかは、また別の問題だろう。目には見えないが、僅かに埃とカビの臭いがカインの鼻を刺激した。だが。
しつこい事に、ゴミの中にボスッと倒れ悪臭に顔を半分埋めたというのに、それでも男は目を開けなかった。ここまでくれば、警戒以上に腹立たしさが募る。そして、それと同時に脱力感も湧く。これが、この侵入者の狙いであったのならば成功と言えるのだろう。しかし、相手は自分の隙を突いて襲い掛かって来そうにもない。逆に、このまま撃ち殺されても気付かない状況だ。
この事態をどうすればいいのか。カインは一瞬真剣に悩みかけた。けれども、直ぐにその事自体が馬鹿馬鹿しく思え、微かに頭を振る事で消し去る。自室の前に得体の知れない男がいるのならば、何の用かと問う外無いだろう。このまま放って置けるほどの神経は、残念ながら持ち合わせていない。
倒れた事により拝めた顔は、予想通り若い男だった。傾いた姿勢で未だに膝を抱えて寝息をたてているが、やはり自分と変わらない背丈である事もわかる。だが、体は成長途中の少年のように細い感じだ。見た目よりも歳はとっていないのかもしれない。肌はこの暗闇では判別しきれないが、多分白だろう。黄色という可能性も無くはないが、闇の中で際立つそれは、紙のようにさえ見えるそれだった。
シャツにジーンズ、素足で靴を履いている姿はどこか子供のようで、どこをどう見ても刺客には見えない。だが、知り合いでもないのだから、侵入者には変わりない。どんな見目だろうと、邪魔なものは邪魔である。意思を持つ分、その辺に積まれたゴミよりもタチが悪い。
銃口を向けたまま、カインは青年の足を軽く蹴った。何とも面倒なものだと内心で溜息を吐きながら、小さな攻撃と同時に声をかける。
「起きろ、邪魔だ」
僅かに眉が動いたと思った瞬間、青年はぱちりと両目を開けた。まるで、スイッチでも入れられた玩具のように、目を瞬かせながら解いた両手で顔を擦る。だが、状況がわかっていないのか、ゴミ袋に乗っかったままだ。
カインはその様子に毒気を抜かれながらも、銃を下ろすことなく問い掛けた。
「何者だ」
青年の動きが、ピクリと止まる。そして、ゆっくりと目を擦っていた手を下ろし、カインをその視界に収めた。漸く自分以外の人間が居ることに気付いたのか、目を大きく見開く。暗闇でも、その中の瞳がとても大きい事がわかった。僅かな光を受け、微かに光る。
「何をしに来た」
驚愕した青年に、カインはいつも以上に低い声を出した。それは、何の色もないものだ。脅すでも、怒るでもなく、淡々とした冷めた声が闇に溶ける。
決して心を見せない男らしいと、カインに接触した者は言うだろう。その声は、男そのものを表すのに十分なものだと、誰もが納得するだろう。何の思いもなく、ただ雇われるままに殺人を請負う者の声だと。
聴く者によれば、恐怖を味わわせる事が出来る、冷めた声。
だが、それは目の前の青年には何の効果もないものだった。
自分の言葉が届いたのかどうなのか。青年は暗闇でもわかるほど、パッと顔を輝かせて笑った。そして、体を起こすと同時にガバッと立ち上がり――。何を思ったのか、カイン目掛けて飛び掛ってきた。
「――っ!」
流石に、警戒していたとは言え、驚きにカインの喉から声が漏れる。銃を向けている相手が、まさか笑顔で飛びついてくるなど誰が考えるだろう。平穏に暮らす者よりは多くの経験をしてきたが、今までに一度として同じような体験をした事は無い。驚く以上に、状況が飲み込めなかった。
だが、頭で理解し判断するよりも先に、カインの体は反射的に事態に対応し動くようになっている。危険から身を守る行動を勝手に起こすのだ。たとえ、本人がそれを望んでいない場合でも。
飛びかかってきた青年に驚きながらも、カインは素早く銃を構え直した。体に染み付いた本能だ。だが、そんなカインと違い、青年の方には自分の身を守るという考えはないらしい。向けられた銃が見えているのだろうに、そのまま躊躇いもせずに突っ込んでくる。
そして、案の定。
青年は派手にガツンと、銃口に額を打ち付けた。だが、それでもめげずに腕を伸ばし、カインの肩に手を置く。
執念のような行動。本来ならばそれだけで、何らかの反撃をするべき所だろう。実際に、カインの手には力が篭ってもいた。けれど、それでも引き金を引かなかったのは、青年が笑顔で呟いた声が耳に入ったからだ。
「カイン」
優しげにと言うよりも、ただただ無邪気に、その名が紡がれる。
「カイン」
まるで飼い犬を呼ぶかのように自分の名前を口にする青年を、カインは困惑を抱きつつ見据えたまま、拳銃を持つ腕をゆっくりと伸ばした。
銃口で額を押されて後ろに倒れこみそうになった青年は、首の力を試すように抵抗し、カインの肩を強く握り締める。意地でも張っている子供のようだ。
「離れろ」
「カ、カイン…イタイ」
状況を理解していないような、少し情けない声で、青年はそう訴えた。だが、そんな言葉を聞くほど、カインとて余裕があるわけではない。
たとえこの青年が自分を殺しにきた者だとしても、負ける気はしない。そう易々とやられるほど、自分を過小評価はしていない。その事自体に、焦る気持ちがある訳では無い。余裕がないのは、この見えない状況に対してだ。カインは、青年の額に銃を当てながらも、行動を決めかねていた。
引き金を引けばこの訳のわからない闖入者を消す事は出来るが、むやみやたらに人を殺したい殺人鬼ではなく、自分にはそれは出来そうにない。これまでの経験で培った感覚は、青年は敵ではないと訴えているのだから、尚更だ。だが、自分の名前を知りこの場に来た者が、まともな人間であるわけもない。
客だろうかと考えたのは一瞬で、直ぐにカインはそれを否定した。あどけない雰囲気を持つこの青年が誰かを殺したがっているなど、散々人の醜い面を見てきたカインでも考えたくない事だ。いや、信じたくないと言ったところだろうか。そうであって欲しくはないと言う願いから、可能性を否定する。悪い癖だ。だが、そうと知りつつも、直す気など更々ないのだから始末が悪い。
そう考え、カインは重い溜息を吐いた。
俺は一体、何をウダウダと考えているのだろうか。突然のハプニングに気が動転しているとでも言うのかと、自身をらしくないなと嘲笑ったりしてみるが、当然の事ながら空しいだけでしかない。
カインは、肩にかかる青年の手に手をかけ、捻り外しながら軽く自分を叱責した。仕事の後だから仕方がないといえばそれまでなのだろうが、心が騒ぎすぎている。わからない男が目の前にいるという事実だけで、充分なはずだ。何を考える必要があるというのか。
無理に引き剥がした腕が戻ろうとするのを力で押さえつつ、青年の額に押し当てた銃をカインは引いた。けれども狙いは定めたまま、脇で構える。
「もう一度だけ訊こう」
カインが手を離すと、青年はめげずにその手をまた伸ばしてきた。その、男にしては少し細い長い指を冷やかに見下ろすと、その視線に気付いたのか青年はぴくりと動きを止める。空中に止まった手を見たまま、これが最後だとカインは問い掛けた。
「お前は、何者だ。何をしにここへ来た」
「カ、カイン…?」
「答える気がないのなら、今直ぐ消えろ。邪魔だ」
青年はビクッと大きく体を震わせ、カインの視線から逃げるように、見つめられていた手を胸へと抱えた。そして。どうすれば良いのかわからない子供のように、悲しげな顔でカインを見つめ、僅かに視線を落とす。その瞳は、黒光りする銃を捕らえているのだろう。どこか痛そうに、青年は目を細める。
「それとも、消し去って欲しいのか。それが嫌なら、退け」
「…イ、イヤ、だ」
ぶんぶんと必至に頭を振り、青年はおずおずと再び腕を伸ばしてきた。カインの服の裾を遠慮気味に掴み、けれども強く握り締める。
ほんの少し自分の方が高いといった程度の身長差だが、青年が項垂れるように俯いたせいで、その頭の点先がカインにはよく見えた。柔らかそうな髪の毛は所々飛び跳ねているが艶やかで、僅かな光を受けて輝いている。
何故か不意に、その髪に触れたくなった。そんな衝動にカインは顔を顰める。それを知ってか知らずか、青年が口を開いた。
「オレは、…カインに会いたかった」
「……何故」
「ナゼ? わからない」
「おい」
答えにならない応えに、必要以上に低い声を落としてしまうのは、動揺しているからだろうか。
「ふざけるな」
「会いたかったから。その他に何かあるのか?」
青年は顔を上げ、子供のように無邪気に首を傾げた。本気で疑問を表しているような、純粋な表情。それは俺が訊きたいことだと、喉まで上がってきた言葉は、けれどもカインの口から外には出なかった。
間近で重なった視線に、先程の事があるからだろうか、少し焦りを覚えた。暗くて何色かまではわからないが、色素の薄い真っ直ぐな瞳に射抜かれる。
思わず口を噤んでしまったカインに、青年はさらに首を傾げた。
「会いにくるのは、ダメだったのか…? でも、でも、オレは――」
それでも、会いたかったんだ。
眉を下げ、情けない表情をした青年に、カインは言葉の代わりに溜息を落とした。
全く、話が見えない。
こちらの質問をわかっていて、あえて情報を提供しないようにしているのか。それとも、この男とは会話は成立しないものなのだろうか。
歳は20代前半といった程度の見た目なのだが、もしかしたらもっと若いのか、それとも脳に障害があるのかもしれない、とカインは何らかの可能性を探す。たどたどしく話す言葉は、内容もその声の質もどこかそう思わせる、外見とは違和感のあるものだ。だが、それは希望的楽観でしかなく、当たっていたからと言え救いがある訳でもない。
今一番必要なのは、この男が何者で何をしに来たのか、それだけだ。どんな状態の者だとしても、それがわからなければ話にならず、対応も出来ない。話す気がないのならそれまでで、こちらはそれ以上の事は出来ない。する気もない。
「ゴ、ゴメンナサイ。だけど、カインが怒るなんて、思わなくて。それで、その、あの…」
「もういい」
必要ないと青年の言葉を遮り、カインは脇に構えていた銃を下ろしそのまま無造作にポケットに銃身を突っ込んだ。このままこの男に付き合っていても何かを得られそうにもないと、前に立つ青年を退かせ、自室への扉に鍵を差し込む。
目の端に、青年に握られた形のまま皺になったのシャツが映った。不本意にも、何となく、気まずい思いを味わう。何だというのだろうか。カインの口からは、自然に溜息が零れる。
その時、再び青年の腕が伸びてきた。それが自分の首に絡まろうとしている事を悟ったカインは、咄嗟に青年の身体に肘鉄を埋め込み、攻撃をかわす。そして。そのまま勢いをつけて振り返りながら、片脚を振り上げた。もちろん、反撃をするために。
だが、それを青年の身体に落とす事はせず、カインはあと数センチのところで止めた足を静かに床へと下ろした。
腹を抱え蹲る青年を、数瞬見下ろす。うめき声を上げているその姿は、再び何かをしてきそうな様子はなく、現に首を絞められそうになった事実を理解していても、悪意があるようには思えない。本気で、ただ痛がっているだけに見える。いや、実際そうなのだろう。
何のつもりだったのかと投げかけた視線に、青年は俯いたまま苦しげに言った。
「…イ、イタイ。イタイぞ、カイン」
――単なる馬鹿だ。
それ以外に思いつかない。考え付けない。力も何もなく、一応はプロである自分の命を狙うなど、そうと表現する以外に何があるだろう。自分が背中を見せただけで、首を絞められると考え実行した青年の無謀さは、疲れを覚えさせるものでしかない。見くびられたものだと、声をかける気にもなれない。
実際に自分を狙う者ならばそれなりの対応をしなければならないのだろうが、闖入者の力量を知った今となってはそれをするのも面倒だ。馬鹿に構っている暇はない。そう判断し、鍵を開けた扉を開き、カインは漸く自室へと足を踏み入れた。
暗闇の中、薄汚れた窓から入り込む月明かりが浮かび上がらせるのは、出掛ける前と変わらない見慣れた部屋だ。殆どのスペースが観葉植物に支配されている、ジャングルさながらの鬱蒼とした狭い部屋。だが、どこよりも自分の匂いが染み付いた、他の誰の物でもない空間。
そのまま扉を閉めようとしたカインの手に、手が重なる。
「カイン…」
床に膝をつき、未だ片手で腹を抱えながら、青年は情けない顔でカインを見上げてきた。
「出て行け」
「…イヤだ」
「なら…、勝手にしろ」
執念というよりも単なる子供の我が儘のように思え、気付けばカインは青年の粘りに溜息とともにそんな言葉を落としていた。だが、何を言っているだと自分に呆れつつも、訂正をする事はせずに部屋の中へと足を進める。いつでも追い出せる相手と、今ここで押し問答をする気にはなれなかった。西を向いた窓を大きく開け、篭った空気を入れ替える。
窓は開け閉めをする度、外れるのではないかと思うような音を立てた。こんな夜にその音は、まるで誰かの叫びのように聴こえてしまう。悲鳴や呪詛、声にはならない絶望を聞き飽きるぐらいに聞いてきた自分だからこその幻聴だろう。だが、それに心を奪われる事は、今はもうない。
カインは耳に残る音を振り切るように軽く頭を振り、窓から外を見下ろした。変わった様子はない。いつもと同じ闇が支配する夜だ。追っ手の気配は、もちろんどこにもない。
漸く、心の底から安堵するような息をカインは吐いた。気休めでしかないが、それでも少しは何かが楽になる気がする。だが。
今夜はまだ、別の問題が残っている。
カインが振り返ると、青年は未だ、扉を開けた状態でその場に座り込んでいた。
「いつまでそうしている気だ。入るのなら入れ」
「入っていいのか…?」
「好きにしろ。俺は今から水遣りだ。大人しく…」
していろ、という言葉を紡ぎ終わらない内に、座り込んでいた青年はバッと体を起こし、部屋の電気をつけるために傍に近付いていたカインに飛び掛ってきた。青年の俊敏さは、頭の軽さと直結しているのかもしれない。指先に触れたスイッチを押しながら、自分に向かってくる相手をカインは冷めた目で分析する。
「カイン!」
子供のように弾んだ声が部屋に響き渡る。
カチカチと小さく瞬きながら部屋に光が灯る。
「――勘弁しろよ」
咄嗟にポケットに突っ込んでいた銃に手を伸ばしたカインだが、それをいつも以上に力強く握り締める事によりどうにかそこから抜く事はせず、逆の手でただ飛び込んできた青年の体を押し返した。だが、案の定。その抵抗をものともせず、青年はしがみ付いてくる。
自分に向かってくるものに対して防御をしてしまうのは、職業病だと言えるのだろう。だが、そこにあるものが敵意なのか何なのかがわかれば、それを押さえ込むこともある程度は出来る。確かに、仕事をこなした後で気が高ぶってはいるが、この青年が自分に危害を加えられる者ではないという勘は当たっているだろう。先のような自分の無能振りを晒す理由は、相手にもないはずだ。
だからこそ、部屋に入るのを許可した。飛びついてくる青年に再び銃は向けなかった。だが、しかし。
カインは低い天井を仰ぎ、「本当に、勘弁してくれよ」とこの男にしては珍しい泣き言を吐いた。
明るくなった部屋の中で、カインは目の前にある青年の真っ黒な髪を手に取り、少し強く引っ張る。先程思ったように、その髪はさらりとした柔らかいものだった。だが、だからと言って何の感情も浮かびはしない。訳のわからない相手に対しての頭痛の方が強い。
「離せ。いいか、大人しくしていろ。でないと、このまま追い出すぞ」
「…イヤだ」
「なら、その辺に座っていろ」
引っ張られる髪の痛みに喉を鳴らしながらも、青年はカインの肩に顔を埋めるかのように首を突き出し続ける。これでは埒があかないので、仕方がないとカインは腕力にものをいわせ、ベリリと音がなるような強引さで青年を自分の体から引き剥がした。だが、青年の指はそれでもカインのシャツを掴んでいる。往生際が悪いガキだ。
「おい、いい加減に…」
しろよ、と続く言葉が、またもや喉元で止まる。明るい光の下、漸くまともに顔をあわせた青年に、カインは息を飲み目を見開いた。
「…カイン?」
驚くカインに、青年が首を傾ける。言葉はわかっているのだろう、「…ゴメンナサイ」と呟きながら、握り締めていたカインのシャツから素直に手を離す。
そう、青年は怒っていると思ったのだろう。だが、その事は綺麗さっぱりカインの頭から消えていた。離れていく白い手を見、ああそうだった、とカインは思い出し気を取り直す。
「…座っていろ」
顎で青年にソファを示し、カインはシンクの前に立ち蛇口を捻った。勢いよくでる水を、観葉植物にやるために水差しに取る。毎日の行動。だが、今夜はどこか現実味がない。
容器から溢れ出した水を眺めている事に気付き、カインは溜息を吐きながら蛇口を捻った。自分が動揺している事を、はっきりと自覚する。こんな事は滅多にあることではなく、さらに現状を困惑に変える。
原因は他でもない。今も自分の背中を見続けている、今夜の闖入者。
覚悟を決めカインが振り返ると、案の定、膝を抱えるようにしてソファに座った青年は、じっと自分を見ていた。暗闇の中でもわかったように、青年の顔はとても整ったものだった。その端正な顔立ちと中身のギャップが激しすぎるが、そんなことでこんなにも驚くわけがない。
カインが焦りを覚えたのは、青年の瞳にだった。黒い髪も白い肌も珍しいものではない。この街には肌も髪も、そして瞳も様々な人間が住んでいる。仕事柄、特殊な者と顔をあわせる事もある。だが、青年のような瞳をもった人間には、未だかつてお目にかかったことはない。
銀と金の瞳を持つ人間などに。
2004/05/10