Act.1-2
性能の良い義眼だというわけではないだろう。銀眼や金眼はもちろん人工的な色を持つ人間と会ったこともあるが、そんな人間は直感的にそうだとわかるものだった。
そう、それなのに。不思議な事にこの青年にはそれがない。だとすれば、人工的なものではないと言うことだろう。そのことに思い至り、純粋な恐怖をカインは感じた。どう考えても、気味の悪いものでしかなさそうだ。
じっと見つめてくる青年の視線を受けながら、カインは目を細め、微かに振るえる息を吐く。全くもって、厄介な奴が来た者だと。
人間は、突然の事態に上手く反応出来ず、日常の行動をとり続けようとする時があるらしい。自分を落ち着かせようとするよりも、現実逃避なのだろう。特殊な仕事をしているカインにとってみれば、それは時間をロスすることでしかなく、その間にどれだけ状況が変わるのかと考えると危険な行動でしかない。だが、自分もまたそうした普通の人間の感覚を持っているのだと、妙に実感する羽目となった。
先に青年の対処にかからねばならないというのは頭でわかっているのに、それを切り離し悠長に植物に水をやる自分が、カインはおかしくて堪らない。だが、これでいいのだと納得もしているのだ、困った事に。
こうして日常を続ける事により、大したことではないのだと自分に言い聞かせる――だなんて、可愛いものではないか。自分もまだまだ捨てたものじゃないのかもしれない。
そもそもこんな考え自体、腐っているのだと頭の隅で思いながらも、カインは生茂った葉を片手でよけ鉢の中に適量の水を流し込んだ。乾いた土に、水が勢いよく吸い込まれていく。
名前の知らないものばかりで、まともな栽培知識もない。ただ、生きていく上では必要だろうと水を与えているだけだ。けれども、そんな扱いをされようが枯れることなく緑の葉を茂らす植物達は、本当に健気である。まともに育てられていないというのに、こんな自分さえ癒す。なんと強いのだろうか。
決して、好きだというわけではない。ただ、そんな自己満足のために、気付けば買い求めている。そんな自分に、カインは嫌悪感さえ抱く時がある。だが、止められないのだから、自分には必要なものなのだろう。鬱陶しいとこの部屋に入った者は言うが、だからこそ自分は手放せないのであろう。情けないことに――。
「あぁっ!!」
「な、何だっ!?」
突然の叫びに、カインは背中を向けていた青年を勢いよく振り返った。水差しの中で、残っていた水が派手にゆれる。
だが、ソファの上に自分を驚かせた男の姿はなかった。
「おい」
いつの間にか開けた窓の傍に寄っていた青年に、「大人しくしていろと言っているだろう」とカインは声を落とす。その声音にビクリと肩を竦め振り返った青年は、少し引き攣った顔で笑みを浮かべた。
「くー…」
「何?」
ただ軽く眉を寄せただけだが、そのカインの反応が嬉しかったのだろう。青年は今度は満面の笑みを浮かべ、カインに言った。窓辺に置いている、透明のガラスコップを指さして。
「クウ、ゲンキ! でも、シュウは、いない…?」
「お前――」
どこへ行ったと首を傾げる青年に、カインはゆっくりとした動きで、再び銃を構えた。グリップを握る手が少し震えたが、力を入れることでそれを制する。
「――何者だ?」
同じ質問だが、カインの中には先程までにはなかった闇が静かに浮かびあがってきた。状況を把握出来ない困惑さえも消すように、その昏い闇が心を支配する。
「何故、知っている」
冷たいわけでも、低いわけでもない。ただ、無機質な声が真っ直ぐと青年に向かう。けれども青年は、小首を傾げるだけで、色をなくしたその声の意味に気付きはしなかった。
いや、他の何かに気を取られているのだろうか。緊迫した空気にも反応を示さない。
「…答えろ」
何故か少し悲しそうに目を細めた青年は、カインから視線を外し、グラスの中で泳いでいる黒い金魚を見た。それは、小さな生き物に対する愛しげな目ではない。だが、この場には似合わない、優しさがそこには確かにあった。
今の青年と同じ、優しい目で金魚を見つめていた人物を、カインは他にもいた事をふと思い出す。そうあの時、少女は怖かったのだろうに、不安だったのだろうに、何にも負けない優しさを小さな魚に注いでいた。ただの、物言わぬ魚に。
窓辺に置いた、何の模様もないロックグラス。そこには初め、二匹の金魚が入っていた。半年程前に赤い金魚が死ぬまで、2年近くの間、グラスの金魚はニ匹だった。
だが、それを知る者は極僅かだ。この部屋を訪れる者はそういない。窓からは壁が死角となるので、外からは決して見えない。それなのに、青年は知っている。なにより。
カインは戸惑いながらも銃をおろす事は出来ず、そのまま青年へゆっくりと足を進めた。
なにより、金魚の名前を知っている者は、自分一人のはずなのだ。名付け親のあの少女は、金魚にその名を与えた直後、この世から消えた。名前を聞いたのは、自分以外にはいない。誰かに言った覚えもない。
それなのに、何故、この青年はその名を知っている?
カインが近付いた事に気付いた青年は、カインを見上げ、頭を横に傾けた。
「食べた、のか?」
自分の緊迫とは裏腹な、間延びした声。何を言われたのか、一瞬わからなかった。そして、理解した瞬間、嫌気がさした。
何処の世界に、金魚を食す人間がいるというのか。いや、実際にはいるのかもしれないが、生憎自分にはそんな習慣はない。まして、長い間飼っていた二匹のうち一匹を食べるなど、どんなに飢えようと考え付かないだろう。
自分には出来ない発想をした青年に、カインは心底呆れた。だが、本人は至って真面目なようだ。
「オ、オレは食べていない。本当だぞ!」
「俺も金魚を食べる趣味はない」
その答えをどう捉えたのか、青年は「でも、でも…」と泣き出しそうな程眉を下げ、カインとカップを見比べて同じ事を言った。
「オレはホントに、食べていない!」
「…何を言っているんだ、お前。ふざけるのも大概にしろ」
誰もお前が食べたとは言っていない、とカインは頭を振り、溜息を吐いた。何故、こう話がずれてしまっているのだろうか。金魚を食べる発想からはなれて欲しいと真実を口にする。
「赤い金魚は、半年ほど前に死んだ」
理由は知らないが、決して食べたわけではない。亡骸は植木鉢に埋葬した。多分、もう骨も残っていないだろう。
そこまで説明をする必要などなかったのだが、カインは言葉を閉ざした青年の変わりに、気付けばそう喋っていた。調子が狂うと、一人舌打ちするカインの耳に、青年の呟きが聞こえてくる。
「死んだ…? …オレ、それ知っている。居なくなる事だ」
そうか、シュウは何処かへ行っちゃったのか。場違いにも、青年はそう悲しげに目を細めた。心底寂しそうなその姿に、その命を奪ったのは自分ではないと言うのに、何故か罪悪感が浮かぶ。冗談じゃない。
だが、いちいち突飛な事を言い話の腰を折る奴だと苛立ちはするが実際に怒る気にはなれず、カインは根気良く会話を再開する。何だか、根を上げたらそこで負ける気がして、引くに引けない状況だ。
本心を言えば、さっさと追い出したいのだが、敵意がなさ過ぎてそれも出来ない。性質が悪すぎると、カインは拳銃で項垂れた青年の頭を小突いた。一匹になってしまった金魚に向いてた目が、驚きに大きく見開きカインを映す。
「まだ質問に答えていないだろう、気を抜くな。俺が引き金を引いたら、お前もあの世行きだぞ」
「カイン…?」
「何故、金魚の事を知っている」
「ナゼって…見たからだ。クウとシュウは、いつもここにいた」
「お前、この辺に住んでいるのか?」
キョトンとした表情をした青年は、少し考えてから首を横に振った。
「なら、何故名前まで知っている」
「カインが教えてくれた。あと、オレにクウとシュウを食べるなとも言った」
「嘘をつくな、俺はそんな覚えはない。何より、お前と会ったのは今夜が初めてだろう」
違うとでもいうのか?
カインのその問いに、青年はクシャリと顔をゆがめた。
「オレのこと、忘れたのか…?」
「…知らない」
思わぬ言葉に、カインはドキリとした。だが、縋るような目で見つめてくるその顔に、やはり見覚えはない。何より、この瞳だ。会っていれば、例え顔は忘れたとしても、その目までも忘れられるものではないだろう。
「なら聞くが、どこで会ったというんだ」
「カインはオレを助けてくれた。オレがまだ小さかった時に、雨でびしょびしょになって濡れていたら、ここに連れて来てくれた」
「…そんな訳がないだろう」
今、どう若く見ようとも二十歳は越しているだろう青年が子供の頃となると、一体何年前か。その頃の自分はこの街の事など知らなかったし、何処かでそんな子供を拾った記憶もない。
ありえない話だと、カインは青年を見て言った。
「嘘をつくなら、もう少し考えろ」
呆れ果てて怒る気にもならなければ、きちんと説明をする気にもなれない。だが、青年は真剣に「ウソじゃない、本当だ!」と切実に訴えた。
自分を誰かと勘違いしているのかもしれないと、青年の真剣さにカインはそう思いかけたが、そんな訳もないだろう。自分の名前も、飼っていた金魚の名前も偶然に言い当てたなど、それこそあまりにも馬鹿げている。ならば、この青年は自分に会った事があるのだろうか。
だが、どんなに考えても、思い出せない。
一度見たら忘れはしないだろう、色男とも呼べそうな見目のよい青年の顔をカインはじっと見つめたが、街で擦れ違った事があったのかも知れないと言う可能性さえも見えないほど、綺麗さっぱり頭から抜け落ちている。いや、全てを否定している。何の特徴もないのならばともかく、この見目なのだ。自分が正しいと言い切る自身がある。
やはり、この青年と会うのは今夜が初めてだ。そうだとすれば、残る可能性は、青年が誰かに自分の事を吹き込まれ近付いたと言う事になるだろう。しかし、何のためかは知らないが、そんな者好きなどいるだろうか。
「…カインはオレをキライになったのか?」
「好きになった覚えもないな」
再び拳銃をポケットに戻し、代わりにカインは青年の胸倉を掴み引き上げた。見付からない答えを考えるのは、今でなくとも良い。
「もう、お前に付き合うのは懲り懲りだ。時間切れだ、出て行け」
「え? ――イ、イヤだ、イヤッ!」
「ガキか、お前は。放せ」
服を引っ張り数歩歩かせたところで、青年は引きずられまいとその場に座り込もうとした。だが、それを無視してカインが引っ張ると、片手をソファに伸ばし掴む。
必死のその姿に、カインは服を放し、ソファに掴みかかった青年の手に手を伸ばし引きがはがしにかかった。だが、意外にも体力はなさそうだが意地はあるようで、漸く放したと思ったら直ぐにまたソファを掴むという行為を青年は繰り返す。
先に根を上げたのは、やはりと言うかなんというか、カインだった。
「…意地を張るのが悪いんだぞ、思い知れ」
カインはそう言い放つと、ソファにしがみ付く青年の手首を掴み、コキリと右手の関節を外した。上がる悲鳴を無視し青年の腰を片腕で抱きとり、背丈の変わらないその身体を肩に担ぐ。思った以上に軽い。だが、成人男性の体である事は間違いなく、この状態で暴れられたらカインとて押さえきれないだろう。
だが、青年は手首が相当痛いのだろうか、うなり声を上げるだけでされるがままだった。
部屋の外に放り出し、真っ赤な顔で手を押さえる青年の外した関節をはめてやと、カインはさっさと消えろと踵を返そうとした。
しかし、その動きはシャツを引っ張られ止められてしまう。
振り返り見た青年は顔を真っ赤にし、目に涙を浮かべ庇うように右手を胸に当てながら、自分のシャツを掴んでいた。ここまでくれば、馬鹿ではあるがその執念さに感服しなければならないのかもしれないと思える程でもある。しつこ過ぎる。
「…帰れ」
「……カインは、オレがキライなのか…?」
「ああ、そうだな」
少し考え、カインはそう返事をした。正直、嫌いも何もないが、こんな時間にこんな訳のわからない訪問を受けたのだ。投げ遣りな気分で対応したとしても誰も自分を責めないだろう。当然の答えだ。
「でも、オレは、カインがスキなんだ。…スキなんだ」
「…俺には、関係ない」
「なんで…、なんで、オレ、こんなになったんだ? もう、戻れないのか?」
「……何がだ」
手首の痛みとは別なのだろう、くしゃくしゃと顔を歪めて涙を零しながら、それでも青年はそらすことなくカインを見た。縋り付いてくる様なそれに、困っているのは自分だというのに罪悪感が浮かぶ。
これで最後だと、もう一度だけ相手をしてやろうと、そんな甘さが困った事に生まれる。
「何が、どうなったと言うんだ。どこに戻りたいんだ?」
「…カイン」
「泣いていてもわからんだろう。それでなくともお前は意味不明な事しか言わないんだ、自覚を持て。お前は、まともに話せないのか? 馬鹿なのか? 俺の言葉がわかっているか?
どこに戻りたいんだ。迷子にでもなったのか?」
何だって自分がこんな世話を焼いているのか。放っておけば良いのだと思いながらも、それが出来ない自身をカインは心の中で詰った。これで解決しなければ、馬鹿なのは青年ではなく間違いなく自分だろう。大馬鹿者になる確率は充分にありそうだと、言った傍から後悔を覚える。
案の定。青年はまともな応えを返さなかった。
「…オレは戻りたいわけじゃない。オレはカインに会いたかったから。こうして話もできるから、人間でもいい。でも、カインはそうじゃない。俺がこんなだと、イヤなんだろう? キライなんだろう? …なら、カインに嫌われるのなら、――オレはネコのままで、よかった」
「……」
理解するのに、たっぷりと時間が要った。
いや。正確には、どれだけの時間があっても理解は出来ないというもので、ただその言葉を噛み砕くだけの事にかなりの時間を使っただけに過ぎない。
理解不能な言葉を吐いた青年をたっぷりと眺め、カインは髪をかきあげながら長い溜息を吐いた。聞き違えたという逃げ道は残念ながら自分には作れないが、青年の頭がいかれているのだという救いは存在する。
「…何を言っているんだか。馬鹿話に付き合う気は、何度も言うが俺にはない。そういう遊びをしたいのなら、余所をあたれ。――猫のままでいい、か。馬鹿らしいが、お前は自分が猫だったって言いたいんだな。なら、どこかの道端で蹲ってでもいろ。その顔なら、誰かが拾ってくれるさ」
ヒラヒラと犬を追い払うようにカインは青年に向かって手を振った。本当に、冗談だとしてももう少しまともな話をして欲しいものだ。これでは、疲れが増すだけでしかない。
「…カインが、いい」
やはり聞いたのが間違いだった。黙って追い出していれば良かったのだと、カインが自分に心底呆れた時、青年がポツリと言葉を落とした。
「オレはカインに拾って欲しい、あの時みたいに」
「…あの時ねぇ」
先程助けてくれたと言っていた事だろう。まだそんな嘘をつくのかと、カインは冷やかな声で答えた。この青年を構えば、同時に自分に失望せねばならず、これ以上相手には出来ない。だが、青年はそんなカインを気にする事はなく、そうだと大きく頷き言葉を続けた。
「カイン。オレがネコなら、あの時みたいに優しくしてくれるのか? 抱いてくれるのか、喉をなでてくれるか? 俺が元に戻ったら――」
「ストップ! いい加減にしろ、時と場合と相手を選べ。オレはそんな遊びに付き合う気はないと言っているだろう。今直ぐに出て行け」
ビシリとカインは指で階段を示し、青年を顎で促した。眉を寄せ躊躇いを見せた青年は、けれどもこれ以上は何を言っても無理だと漸く悟ったのかゆっくりと立ち上がる。
「二度と来るなよ」
そう念を押し、カインは部屋の中に戻り扉を閉めかけた。
その時。
「ゴメン、カイン。ごめんなさい」
「……」
突然の謝罪に動きを止めたカインに、青年は言葉を繋げた。
「約束、忘れたわけじゃない。おぼえていたんだ。ここに来るつもりだったんだ。でも、あの日…。あの日、オレ、遠くまで行っていて…。そこで、拾われちゃったんだ。オレはカインのところに行かなきゃいけないんだって言ったけど、人間はネコの言葉がわからないから…。リサはオレをずっと放してくれなくて、危ないから外にも出てはダメだって言って、いつもいつも部屋の中にいた。だから、カインに会いたかったけど、会えなかったんだ。
来いって言われたのに、約束したのに、ゴメン。あの日、来れなくて、ゴメン、カイン」
ごめんなさいと呟く声を背中で訊きながら、カインはもう今夜は何度目になるのかもわからない長い溜息をひとつ吐きゆっくりと振り返る。
シャツの裾ごと力いっぱい手を握り締め、頭を垂れている青年がそこに居た。部屋からの光を受けその体半分は照らし出されていたが、残りの半分は闇に支配されている。そんな彼の足元に伸びる自分の影に目をやり、カインはまた深い息を吐いた。
「何のことだかわからない、俺には覚えがない。だから、お前が謝る事も、気にする必要もない」
カインの言葉に顔を上げた青年は暫し考え込むようにし、「怒っていないのか?」と首を傾げる。その言葉にどう返答しようか一瞬迷ったが、カインは静かに頷きを返した。この状況には、いい加減に疲れ果ててはいるが、腹立ちさは当然の事ながらある。だが、青年謝罪に対しては、見に覚えがないのだから何とも言いようがない。
しかし。
「そうか。よかった」
そう静かに微笑んだ青年を見、カインは自分の感情など関係ない事に気付く。この青年が納得すればいい事で、何らかの誤解があったとしても、今はこの返答が何よりも正しいものだったのだろう。
俺も良かったよと、嫌味を半分加えながら自嘲気味に口の端を上げたカインに、青年は真っ直ぐと視線を向けてきた。
「カイン」
「何だ」
「あの時は言えなかったから、教える。オレの名前は、アルだ」
「アル…?」
何を突然名乗っているのかと呆れつつ、カインはその名を口にした。覚えがあるだろうかと記憶を探る為の呟きは、けれども青年には関係がないようで、笑顔を見せる。呼ばれた事がとても嬉しいとでも言うように、子供のように笑う。
「そうだ、アルだ! カインはチビスケだのチビだのと言っていたけど、本当の名前はアルなんだ。覚えてくれるか?」
「俺が、呼んだ? チビスケと?」
「そう。オレが大きくなっても、そう呼んでいた。でもオレ、カインにそう呼ばれるの、好きだった」
「チビスケ、ねぇ…チビスケ――」
「何だ?」
またその名前で呼ぶのかと、青年は小さく首を傾げた。
だが、カインの頭にはその姿ではなく、過去の事が回っていた。記憶という引き出しの中から、ヒットする部分を探す。今なら、見付かりそうな気がした。先程は思い出さなかったが、その名前に確かに何かがひっかかる。
チビスケ。
そう、確か、そんな名前を付けた猫がいたのだ。いや、名前ではなくただ便宜上にそう呼んでいただけにしかすぎないが、この部屋に頻繁に来るのはその猫ぐらいなもので、今でもよく覚えている。飼い猫ではなく、ただの通い猫だったが、とても自分に懐いていた。確か、その猫がここにやって来ていたのは、三年程前の事だ。
毛並みの良い黒猫で、金銀の眼を持っていた。馬鹿に思うくらい人懐っこく、実際他の面でも頭が弱かった。猫のクセにソファから転げ落ちて驚いたり、犬のように自分の尻尾を追いかけてぐるぐると回っているような馬鹿猫だった。しかし、本当は頭が良いのではないかという面も持っていた。とても、おかしな猫だった。
そう、猫。
その名で呼んだのは、何処にでもいそうな、黒い猫だ。だが――。
先程の言葉が、青年の戯言が、カインの頭に蘇る。
「まさか…」
はっと気付き、思い出したその小さな猫の姿と重ねるように、カインは青年を見た。だが、人間と猫だ。違う生き物でしかないのだ、そこに面影を求める事は無謀な事だろう。
しかし、それでも。その髪に、その目の色に、馬鹿げていると思いながらカインは記憶の中の猫を見た。
金と銀の瞳を持った青年が、自分を見返している。ただそれだけの事が、けれども「それだけ」では終わらない現実で――。
「…嘘だろう」
信じられないと、冗談じゃないと否定したカインの耳に、先程の青年の言葉が再び蘇る。
――カインはオレを助けてくれた。オレがまだ小さかった時に、雨でびしょびしょになって濡れていたら、ここに連れて来てくれた。
確かにあの猫は、雨の日に濡れていたのを連れ帰り面倒を見たのがきっかけで、ここに通ってくるようになった。
――カインが教えてくれた。あと、オレにクウとシュウを食べるなとも言った。
いつだったか、コップの側で金魚を狙っていた子猫に、これはお前の餌じゃないんだと言い聞かせた事があった。頭を叩いたのが効いたのか、言い付け通り手出しをしない猫に感心していたのだが…。
あの時、あいつは自分の言葉を理解していたのか…?
そう考え、直ぐにそれを否定する。そんなふざけた事があって堪るかと。
だが、そう考えれば、あの猫がこの青年だと考えれば、全ての辻褄が合うのもまた事実。
とっくに神になど見限られているのだとはわかっていたが、まさかこんな仕打ちにあうとは。これなら、魂ごと八つ裂きに殺され消滅する方がマシだ。目的の為だけに生きてきたが、それを達成出来ない敗北感に苛まれる方がマシだ。
その方がよほど現実的であると、カインは片手で顔を覆った。これは試練か、罰なのか。それとも誰かが自分を試しているだけなのか。それは、神か?
そうであって欲しいという願いから、それこそ有り得ないそんな考えを頭に浮かべる。だが、それ自体を見抜けなければ状況は全く変わらないのだから、何もかもが無意味だ。
「カイン。もしかして…オレを思い出したのか?」
この感覚は、絶望と言うのか。それとも、また何か別のものなのか。極度の疲労感に襲われる中で、カインは全ての事柄が絡みつき解く事は無理だろうと思えるような言い表せない胸中から、それでも懸命に確かなものを見つけ出そうとした。だが、わかるのは、全て側からないと言う事だけだ。
「カイン?」
自分をこんな状態に陥れた青年が、無神経に声をかけてくる。
「…あの猫は記憶にあるが、お前は知らない」
「オレ、人間になったんだ」
「…信じられない」
「でも、なったんだ。カイン! オレ、カインに会いたかったんだ!」
腹立たしいくらいに鈍感というか、人の言葉を全く理解しなかった青年が、ここに来て妙な勘を働かせる。自分を思い出したと悟ったらしい青年が、これ以上の喜びはないと言うような笑みを浮かべ、両手を広げて飛びついてくる。
逃げられない。
ふと、カインはそれを悟った。
だが、それこそ、冗談じゃないというもので。
「カインーッ!」
本人はスキンシップなのかもしれないが、何らかの攻撃としか思えない伸びてきた青年の腕を避け、カインはドアノブを勢いよく引っ張った。この時程、自分の身体に染み込んだ瞬発力に感謝した事はないだろう。
「忘れる! 今ここで綺麗さっぱり忘れる! いや、頼む。忘れさせてくれ!!」
悲痛な叫びが、古びた建物の中に響いた。だが、それを掻き消すかのように、弾んだ声も同じ場所を駆け巡る。
空が白み始めるまでには、まだ時間がある。話をして理解を深めるまでとはいかなくとも、互いの思いを伝える程度には、夜は充分に残っている。
「カイン! ダイスキだっ!」
「あッ!入って来るな! や、やめろ、コラ!離れろ!!」
太陽が顔を覗かせる頃には、かみ合わない会話も、少しは進展しているのかもしれない。
Act.1 END
2004/05/10