Act.2-3

 相手の感情に飲まれてはならない。同情もまたはその逆の感情も、持った瞬間から自分を縛る鎖となる。
 厭となるほどそれをわかっているはずの自分が、それでも囚われてしまうのだから、自分という人間は一生こうなのだろうとカインは諦めに似た溜息を吐いた。その短い息ひとつで、迷いを吹き飛ばすのだ。自分はそれが出来るのだと、どこか空しく感じながらも自らに言い聞かす。
 実際、出来たと思い込まねば、先へは進めはしない。生きてはいけない。まだ、自分は死ぬつもりなど全くないのだから、囚われ続ける事などしてはいられないのだ。何を考えようが、結局は依頼を実行し、人を殺し、また新たな依頼を受ける。それの繰り返しで、変える気も、変われもしないのだから、迷う事自体が滑稽なのだと自らを一笑する。
 しかし。そうだとしても、今回の接触は気が緩んでいたと、カインは煙草に火をつけながら眉を寄せた。悩みの相談室を開いているわけではないのだから、あれはないだろう。
 それもこれも、別の事柄に意識を攫われていたからだ。その疑いようのない事実が、重い内容の仕事以上に、カインに疲れを覚えさせた。プロだという誇りなど全く無いが、この稼業の人間としては、緊張感や集中力を欠くのは絶対にマズイと言うものだろう。失態としか言えないなと、だからと言って誰かに咎められるわけでもないのだが、自らそんな評価を下し呆れる。だが、本当に。
 だからと言って、何かを得るわけでも、失うわけでもないのだ。愚かな行動をした自分をただ一瞬見つめるだけにしかすぎず、その失態が何かを直接もたらせるわけでもない。
 そもそも、自分の何もかもが全て愚行なのだ。稼業は勿論の事、今現在の生活環境も、仕事に対する全ての行動も、血迷っているとしか言えないもの。顔を売り、棲家さえも公にしている、どこの組織にも属さない殺し屋などそうそう居るものではない。そんな事をするのは、自分の腕に余程の自信があるか、それとも狂った奴かだろう。そして、間違いなく自分はその後者なのだと、カインは思う。充分にそれを理解している身としては、今更自分の馬鹿さ加減を知った所で、痛くも痒くもならないと言うものだ。
 まして。その愚かさが何かを生んだとしても。例えば、己の命を奪われる結果が待っていたとしても。自分は自分の愚行を悔やむ事は絶対にないだろう。
 オフィス街を通り抜け、寝床があるスラム街への道をゆっくりと歩きながら、カインは半分程吸った煙草を指で弾き捨てた。肺に残った紫煙を体から追い出し、一呼吸の間を置いて進めていた足をふと止める。立ち止まった自分を追い抜いていくビジネスマンの味気ない灰色のコートを暫し眺め、数歩足を戻した。
 通り過ぎたばかりのビルとビルの隙間を数秒眺め、カインは再び帰路へ着くための足を踏み出す。
 眺めたそこは別段何もなく、何かがあるわけもなかった。幅は人ひとり通るのがやっとと言ったところで、歩道を歩く者は血迷っても足を踏み入れはしないだろう。建設上、とらねばならなかっただけの空間と言うようなそこは、壁伝いにパイプがあるだけで、観察するようなものもない。普段は、視界にも入らない場所だ。
 だが、あの日。
 そこで雨に濡れていたネコを見つけ家まで連れ帰った事を、昨日の事のようにカインははっきりと思い出していた。何故見つけたのか、何故そんな気になったのか。数年前の出来事だからか、それとも何の意味も感情も抱かなかったのか、理由はもう覚えてはいない。ただ、そんな事があった事実は記憶している、それだけだった。それなのに。
 今になってその光景が、何故か瞼の裏にくっきりと浮かび上がる。あの隙間にいた、黒い小さな生き物の姿が。
 カインは歩きながら自分の手を見下ろし、軽く握った。記憶に飲まれたかのように、あの時触れた猫の感触がそこにある気がし、戸惑いを覚える。
 あの雨降る夜に連れ帰った猫は物好きなもので、気付けば、決して愛想のいいわけではない自分の所に通うようになっていた。思いついたようにやって来る気紛れ猫は、けれどもかなりの甘えん坊で、決まって纏わりついてくる。スキンシップが好きなおかしな猫だと、初めはよく思ったものだが、それがこの猫の性格なのだろうと納得する頃にはその行動が単純に可愛いと思えるものになっていた。朝目覚めた時に、いつの間にか来た黒猫がベッドの隅で丸まっていると言うのは、心を癒してくれるものでさえあった。
 だが、それは、片手で持てる大きさでしかない、自分より遥かに小さな生き物であるからこそ向ける事が出来る感情だろう。間違っても、見る者が見れば多少は可愛げがあるのかもしれないが、同じ大人の男に対して持てるものでは決してない。
 人気が少なくなり始めた道を歩きながら、カインは再び煙草に火をつけた。大して美味くもない煙を吸いながら、薄っすらと髭が伸びた頬を指で掻く。
 猫から人間になったのだと言う青年は、恐ろしい事に、今なお自分の部屋に居座っている。その事実をどう自身に納得させるべきなのだろうかとカインは暫し考え、どうにもならないと匙を投げた。問題の人物がいる部屋では対処法など探している暇は全くなく、こうして一人になった時ならばどうだろうかと思っていたのだが、その望みは薄そうだ。頭には、何も浮かんではこない。
 出て行け、イヤだを繰り返し、言いあいも疲れたので無視する事にすると、許してもらえたと思うのか、鬱陶しい事に青年は有ろう事かじゃれ付きに来る。何を考えているんだと怒っても、当の本人にはそれのどこが問題なのかわからない。そうなれば自分が折れるしかなく、疲れが溜まり追い出す気力が減る。仕方がないから、また放っておく。そして、回復した所で、いい加減に出て行けと怒り、イヤだと駄々を捏ねる子供を相手にし負ける。その繰り返しは、確実に自分の精神力を減らしているのだろうとカインは考える。そうでなければ、もっと早くに追い出せているはずだ。
 だが、しかし。居座り続けられ言い合う内に、自分は本当に彼を追い出したいのかどうなのか、今はもうわからなくなっている状況だったりもする。青年の存在感は、思うほども悪いものではなく、心地良くさえ感じられる時があるのだから、非常に厄介なものなのだ。
 己の事を猫だと言う、そんなおかしな青年を自分は一体どうしたいのか。何度も考えた事だというのに、カインは未だその応えを出せてはいない。正直、理解出来ない話をする奴だという点では、あまり関わり合いになりたくはない。頭が弱いと言う点は、問題ない。実際の所、無知な面が多いだけで、感じる程も馬鹿ではないのだろう。幼子のようなもので、教えれば学習していく事も出来るのかも知れない。そう。青年本人は、邪険に扱うほどまずい人間ではない。まずいのは、頭がいたいのは、その存在自体だ。
 本人が言う通り、あの黒猫の記憶を確かに持っているのだとすれば、とてもではないが楽観出来るものではない。信じがたい事だが、猫の記憶を人間に埋める事は絶対に出来ないなと言い切れる、そんな優しい世の中ではないのだ。自分と同じ生き物であるにもかかわらず、虫けらのように人間を扱う者達がいるというのを知っている者としては、どんなに馬鹿げた事であろうと有り得ないと言い切れなどしない。
 あの青年の脳に猫の記憶をどのようにして移したかなど、問題ではない。問題なのは、その者が自分の所にいると言う事だ。決して、腐った世の中だとは言え、誰もがそんな愚かな行為をするわけではなく、それなりの機関が裏で行った生体実験であると考えるのが妥当であろう。その犠牲になったあの黒猫と青年に向けるべき感情は多少はあれど、だからと言って自分が何かを出来るわけではない。
 カインはつたない青年の言葉を思い出しながら、溜息を落とす。
 そう。たとえ必死で自分に会いに来たのが事実だとしても、助けてやる事など出来るはずもなく、またそれに変わる何かを簡単に与えてやれるものでもないのだ。ただ、自分の無力さを漠然と感じ、愚かな行為をする人間の存在に僅かに眉を寄せるぐらいの事しか出来ないのだ。そして、その者達と、自分の欲望の為に人を殺す己とに大差はないのだろうと認識し、それ以上の事は考えずに終わらせる。憤りを抱くほど、自分は必死にはなれはしなし、なれるはずも無いとカインは自嘲する。
 ならば、どうするべきなのか。自分はどうしたいのか。
 知らないと追い出す事は、本当はとても簡単な解決策なのだろう。彼をあんな風にした者達が、逃げ出したらしい青年をあっさりと放っておくとは考え難い。追っ手をつれた者を手元に置くなどという悪趣味さは自分にはないつもりだ。ならば、やはり放り出すしかないのだろう。
 しかし。それは難しいと判断する心が自分にはある。そうカインは気付いていた。気付いている時点で、もう既に結果は決まっているようなものでもあった。
 行動は、簡単に出来るだろう。上背が変わらないとはいえ、自分と違い特殊な訓練を受けた事はないに違いない男の一人や二人、本気になれば直ぐに押さえられる。だが、体と違い、心はそう簡単に動きはしない。心を騙すのは難しく、青年を追い出す事に本気になれない己に鞭打ち働かせるのは、自分には出来ない芸当だとカインは知っている。そんな風に自らを思いのまま操れるのならば、心に惑わされないのならば、自分はもっと生き易く生きてきたはずだ。己の欲望を満たす為に愚かな生き方をしている奴が、こんな時だけ常識面を被ろうなど、ふざけているとしか言えないだろう。
 邪魔にならないのなら、勝手にさせればいいのだ。
 追い出せないのならば、そうするしかないだろう。
 それで厄介事がきたとしても、多分、悔やみなどしない。やっぱりな、そんな溜息ひとつで飲み込めるだろう。
 いつの間にか、自分がそんな結論を選ぼうとしているのを、カインははっきりと感じていた。そして、それを仕方がないと頷く誰かが心に存在している事もわかっていた。それは、自分自身だったり、初めて殺した人間だったり、向き合いたいと願っている男だったりと様々だが、今まで生きてきた自分という人間が全てを納得しているからこそのものであるように思えた。
 だが、だからと言って、素直に納得出来る程、それを表にあらわせる程、出された結論は面白いものではない。精神上、こうしなければ仕方がないのだと自分への言い訳を用意しながら、カインは古びた建物に足を踏み入れた。
 初めてこの街に来た時は、それまで同様ほんの数週間居座れれば良いという程度の思いだった。心の何処かできちんとした居場所を持ちたいと思ってはいたが、実際にそれを手に入れるかどうかは別問題の、遠い夢のような憧れでしかなかった。それなのに。
 いつの間にか、気付けば自分の住処となっていた空間を全身で感じながら、カインはゆっくりと階段を上った。少し埃臭い馴染んだ空気が、肺に満ちる。まるでゲームのような感覚で自分にこの場所を与えた男が信じられず、緊張しながら暮らし始めた頃の事が嘘のように体が解れる。百パーセント安全だとは言い切れないが、警戒をしなければならないほどの危険はここにはないはずだった。
 この街の最高権力者であるあの男は、面白そうだと殺し屋の仲介役を強引に引き受け、多少の安全対策にはなるだろうと自分の地位を見せつけて半ば無理やりにこの街にカインを留まらせた。契約を交わした訳では決してないのだ。男が強引だったのは事実でも、居着いたのは自らの意思だとカインは自覚している。それを、間違いだとも思わない。
 それくらいに、今の生活に馴染んでいるのだ。最高だとはいえないが、それなりに満足している。こんな稼業の人間を受け入れる者など、そういないだろう。だからこそ、厄介事はご免なのだ。唯でさえ仕事が仕事だというのに、関係のない揉め事に巻き込まれたくはない。
 何だって、あの青年は自分のところに来たのか。本人の言うとおりあの黒猫の記憶を持っていたとしても、殺し屋のところではなく、他にもっと行けるところはあっただろうに。
 何度も何度も思った事に、もう何度目なのかもわからない溜息を吐きながら、カインは鍵のかからない自室の扉を開けた。そう言えば約束がどうだこうだと言っていたか、とふと思い出したが、青年の姿を見た途端そんなことはどうでも良くなり舌打ちを落とす。
 カインの視線の先には、シャツを引っ掛けただけの姿で床の上で眠りこけている青年の姿があった。陽だまりの中でまどろんでいるのは、本人がどう言おうと猫ではなく、大きな人間であるので、見てみぬふりなど出来はしない。
「起きろ、邪魔だ」
「――ん、カイン…?」
「見苦しい格好で、こんな所に寝ているな。放り出すぞ」
「お帰り、カイン」
 軽く頬を靴先で蹴られ起こされたというのに、青年は丸めていた体を仰向けに変えると、真上から見下ろすカインに笑顔を見せた。馬鹿もここまでくれば得だなと思いながら、今度は少し強く頭を蹴る。
「イ、イタい」
「起きろ、……風呂に入るぞ」
 目を細め低い声でカインがその言葉を落とした途端、目を見開いた青年は一瞬で飛び起き、格好も気にせず逃げ出した。しかし、今朝からの格闘でその行動は予想出来ていたので、入口に届く前にその身体を引き戻し、有無を言わさぬ強さでカインは青年を浴室へと放り込んだ。まるで死にそうなほどに顔を引き攣らせている青年の腕をとり、かなり本気で押さえ込む。背中で纏めた両腕を片手で掴み拘束した時、荒い息の間から零れる青年の声が自分の名を呼び続けているのにカインは気付いた。
「何だ、イヤだはもう聞き飽きたぞ」
「カイン、カイン!」
「だから、何なんだ」
 青年に問いかけながら、空いた手でシャワーを開く。流れ出した水音に、青年の体がビクンと大きく跳ねた。声さえ出せなくなったかのように口を動かすだけの青年に、ふと違和感を覚える。
「そんなに、怖いのか?」
「あ、あ、こここ、こわい。カイン、イヤだ。怖い、怖い」
 子供が教えられた言葉を繰り返すように、青年は呪文のようにそう言い続ける。どこか脅えているのはわかっていたが、まさかこれほどまでとは思いもしなかった。カインが縛る手を緩めても、それに気付かないのか青年はただ震えている。
 居座り続けている青年に風呂へ入れといったのは、薄汚れている事に気付いたからで、それ以上のものはなかった。イヤだと抵抗するので、服を脱がせ浴室へと放り込んだのも、それが単なる子供の我が儘だと判断したからだ。しかし、晒された身体に刻まれた傷を見、これが抵抗の理由なのかとカインは気付いた。だが、あえて気付かない振りをしたそれを、青年の方が完璧に気にしていない状況で、人目に晒しても動揺さえしなかった。風呂を嫌がるのは傷のせいではなく、やはり我が儘か。そう、それしかないと思えたのに、けれどもこの脅えようは他にも何かがあると思えるものでしかなかった。一体何なんだ。思わず見上げた低い天井を、カインは睨みつける。
「ったく…。――ほら、大丈夫だ」
 脅える青年の顔を覗き込むように腰を下ろし、カインは柔らかい髪に指を差し入れた。子供の頭を撫でるように軽く揺さぶり、自分に視線を向けさす。銀と金のその目には、涙が浮かんでいた。腹を括るしかない。その目を見た瞬間、そう思う。
「何がそんなに怖いんだ。体を綺麗にするだけだろう」
 抱えるように腕で振るえるその身体を抱きしめたのは、先程受けたアドバイスを思い出したからでしかなく、決して疚しい気持ちからではない。だが、若い男の背中を数度撫でれば、いくらなんでもこの状況がまともではない事に思いあたり、カインはこれ以上はない程の重い溜息を吐き出した。括ったはずの腹は、けれども簡単に緩んでしまったよう。
 しかし、今更ながら引くわけもいかず、カインは自分自身をも慰めるかのように、青年の背を軽く打った。まるで赤子をあやす様に、根気よく、けれども諦めに似た思いを飲み込み続ける。
 狭い室内に彷徨わせていた視線を腕の中の青年に向け、カインは再び溜息を吐いた。この数日落としてばかりのそれは、最早呼吸と同じくらいに自然なものになってしまったようで、息を吐ききる前に別の事に意識が向く。
 青年の首筋にも、体同様の傷があった。それは、頚動脈の直ぐ傍で、傷痕からそう浅くもないものだった事を窺わせる。切ったのではなく刺したかのような、たった数センチの小さな傷は、けれどもカインの目に焼きついた。
「…くすぐったいぞ」
 溜息が顔にかかったのだろうか、引き攣った感を残しつつ、青年がふいに笑う。
「それは、悪かったな。だが、文句を言うな。なんだってこんな事になっているのか考えろよ。全部お前のせいだぞ。風呂ぐらい、一人で入れよな」
「カイン――ひゃッ!」
「大丈夫だ、そう固くなるな、ほら」
 腕に力を入れ逃げられないように押さえ込んだ所で、カインは青年の背中にシャワーをゆっくりとかけ始めた。顔を引き攣らせ恐怖に耐えるその姿に、強情な奴だと思いながらも、シャツの上から徐々にお湯に慣らすようにかけてやる。
「怖いか?」
「こ、怖い」
「どこがだ?痛くもなんともないだろう」
 平然と話しかけながらも、首筋の傷が気になった。身体の傷痕と原因が同じであれば、他者の手によってつけられたものだろう。一体、何がこの身に起こったのか。考えた所で判りはしないというのに、思いを巡らせてしまう。釈然としない感情を抱えつつ、カインは青年の背中を少し強めに撫でてやった。濡れたシャツがピタリと身体に張り付き、肩甲骨が浮き出ている。
「力を抜けよ、疲れるだろう?」
「カ、カイン」
「そう脅えるな。俺が悪い事をしているみたいだろう。一体何がそう怖いんだ」
「わ、わからない。でも、怖いんだ、カイン」
「俺がこうしていてもか?」
 その言葉に、固まっている腕を何とか動かし、青年はカインへとしがみ付いてきた。自分を落ち着けるように、大きく息を繰り返す。その上下する肩に、お湯をかけてやる。
「カイン、カイン」
「今日だけだからな。次から、自分でしろよ」
「……ごめん、カイン」
 面倒をかけているとわかっているのか、青年は小さな声で謝った。出て行けという言葉とは裏腹な、未来を示唆する自分の言葉に気付くことのない彼に、カインは笑いを落とす。当然の事ながら、服を着たままの自分もずぶ濡れであり、もう笑うしかない。
「カイン…?」
 続く笑い声を不思議に思ったのか、肩口に埋めていた顔をあげ、青年が視線を向けてくる。その頭に手を乗せ、髪に指を埋め込んだ。触れた頭皮に傷痕はひとつもないのを確認し、そのまま軽く髪を後ろへと引き顎を突き出させる。しがみ付く身体を少し引き離し、出来た空間を利用し身体の前にもシャワーを向けた。じかに肌を刺激する水の感触に、逃げる事も出来ずに青年が固まる。カインはその身体を、今度は後ろから抱き抱えた。
「ほら、自分で洗えよ」
 情けなすぎる声で自分の名を呼ぶ青年を無視し、前に回した手で石鹸をつけたスポンジを体にあててやる。カチカチになった手をとり、無理やり体を擦らせた。充分泡立つくらいに体を濡らしたのでもういいだろうとシャワーを止め暫くすると、漸くノロノロと青年は自ら体を洗い出す。ふと息を吐きながら、少しからだを離し、カインは未だにシャツを羽織ったままのその姿を後ろから眺めた。
 自分が思うような生体実験を受けた後は、青年にはない。やはり、猫の記憶を青年に埋め込んだというのは考え過ぎなのかもしれない。しかし、それ以外の可能性はひとつしかなく、あまり思い描きたくないものだった。そう、少なくともあの黒猫がいた時期に、自分は誰かに見張られていた事になる。しかも、部屋で話す他愛ない会話全てが筒抜けになっていたと思われるのだから、気が滅入るどころのものではない。
 これならば、本当に猫が人間になったという方がどれだけましだろうか。
 本物なのか人工的なものなのか、振り返り自分を窺う青年の金と銀の眼を何気に見返しながら、カインは何処かでそんな薬が開発されていないだろうかと願った。確か、昔読んだ絵本か童話かに、子供が朝起きてみたら怪獣になっていたという話があった。暇な誰かが、そんな薬を開発しこの世界に流行させていたのならば良かったのに。そうであったならば、至極迷惑な話であるが、自分はこう悩まずに済んだはずだ。
「カイン…?」
「ちゃんと洗ったか? よし、なら流すか」
「流す…?」
 泡塗れのまま無邪気に首を傾げた青年にシャワーヘッドを向ける。レバーを回し水を浴びせるよりも早く、その意味に気付いたのか、青年が勢いよく立ち上がった。
「あ、こら!」
 いい大人の男が二人、一人はシャツを一枚引っ掛けただけの裸だ。態々狭い密室状態など作りたくはなく、カーテンなど引いていない。逃げられる。そう思った時にはもう、カインの足は既に動いていた。
 青年が踏み出した足を引っ掛け、バランスを崩し倒れてきたその身体を受け止める。しかし、とっさの事で自分も体勢を整えられておらず、青年の勢いのまま、カインは押し倒されてしまった。床に頭を打ち付けなかっただけでも良かったのだろうが、背中に痛みが走る。
「ったく、お前なぁ!ここまで来て逃げるなよ」
「イヤだ、カイン。はなせー!」
 起き上がろうと胸に手をつき抵抗する体を片腕で自分へと押さえつけ、カインはそのままの姿勢で青年にシャワーを浴びせた。やはり怖いのか、お湯をかけられ大人しくなった隙をつき、上半身を起こす。無意識にしがみ付きに来る青年の身体をすべる泡が、カインの頬に移り首筋から服の中へと流れていった。
「こら、離れろよ。俺を絞め殺す気か」
 首に絡む青年の両腕を引き剥がそうとすると、益々抵抗し絡みつきにき、最後には猿の子供が親にしがみ付くかのように、青年は自らの足をカインの腰へと回していた。
 なんて格好をしているのか。これでは、マミアの戯言も一蹴出来ないだろう。
 流石に堪らないとカインはシャワーを切り、頑固な青年の耳を摘み、引っ張りながらそこにはっきりと言葉を詰め込んだ。
「さっさと離れろ。でないと、また水をかけてやる。いや、今度はバスタブに湯を張り、そこに突っ込んでやろうか?」
「――イヤだ」
 直ぐに飛びのくかと思ったが、青年はゆっくりと顔をあげ、下唇を突き出しそう言った。まるでそれは、ごねている子供の顔だ。
「だったら離れろ。お前のせいで俺もずぶ濡れなんだ。俺はこのまま、風呂にするぞ」
「カイン〜」
「情けない声を出すな」
「カインからはなれられない。オレ、動けない」
 女みたいなせりふを言うなと呆れかけ、けれどもその意味を悟りカインは盛大な溜息をついた。力を入れすぎたから筋肉が疲れたのか、それとも腰でも抜けたのか。ゆっくりと引き剥がしてやった青年の体は、言葉通りにふやけたものだった。仕方がないと濡れたシャツを脱がせバスローブをひっかけさせ、抱え上げリビングのソファまで運んでやる。
「何て甲斐甲斐しいのかね、俺は。涙が出るな」
「涙? カイン悲しいのか?」
「ああ、ものすごく悲しいよ、お前のお陰でな」
「ゴメン、カイン」
 しおらしくそう言った青年が、何を思ったのかカインの目尻をペロリと舐めにきた。逆の目を舐める為か、呆気にとられる自分を気にせず再び近づけてきたその顔を、カインは押し返す。何て事をしてくるのか。一気に脱力感が襲い掛かってくる。
「……大人しく寝ていろよ」
 何て言い聞かせればいいのかわからず、白旗をあげ、そんな意味のない言葉を残しカインは浴室へと逃げ戻った。
 あの青年が居なくなるまで、ここから出ないで入れたらどんなにいいだろう。
 そんな事を思いながら熱いシャワーを浴び、カインは溜息を排水溝へと流し込んだ。

 風呂から上がり居間へ戻ると、青年はソファの上で寝息をたてていた。
 人を散々ふりまわしておきながら、なんてイイ身分なのか。腹立たしい奴だ。そう思いながらも覗き込んだ寝顔がとても気持ちよささげで、カインは静かに部屋を後にした。
 マミアから報告は受けているだろうが、それだけでは心もとない。
 からかわれるのを覚悟し、この街の実権を握る男の元へとカインは足を向ける。
 青年の事を、この街に認めさせるために。

Act.2 END

2004/11/01
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