Act.2-2

 首から下げた十字架を胸の前で握り締め、男はその時をじっと待っていた。指定されたオープンカフェの片隅に座り、降り注ぐ太陽を避けるように無意識に体を丸める。明るすぎるこの場所には、汚れた心を持つ自分は似合わない。空からの恵みの光に脅えるように俯き、男は震える息で長い溜息を吐いた。
 一秒一秒が、自分を刺し殺すかのように鋭く、長い。まるで拷問を受けているかのようだ。
 何度か浅い呼吸を繰り返し、落ち着けと自分に言い聞かす。十字架を握り締めた手は汗ばんでいた。男はそれに気付き、ゆっくりと深呼吸をしながらポケットからハンカチを取り出すと、手の汗を拭き、首から外した十字架も清めテーブルの上に置いた。すっかり温くなったコーヒーを少し脇に避け、十字架の横に携帯電話を並べ、そしてまたひとつ溜息を落とした。
 ここに座って、もう一時間は経つだろう。鳴らない電話を手にしては仕舞い、取り出しては捨てようかと視線を周囲に向ける。だが、結局は何も出来ずに、また同じ事を繰り返すだけなのだ。
 テーブルに置いた携帯電話は、今なお何も反応は示さない。まだ間に合うという事なのだろうか。魅力的なその考えに心を震わせ、次の瞬間には慄きに背筋を震わせる。何度も悩み選んだ結論を未だに迷うという事は、男にとっては神への裏切りに似たものだ。もう、自分は迷える段階にはいないのだと、自らを叱責し進むしかないのだというのに、今なお振り返り救いを探してしまう。滑稽な事に。
 ここで逃げても、状況は良くなりはしない。いや、悪くなる一方だ。たとえ、結果的には何も変わらないとわかっていても、自分がここでするべき事はもう、神に祈る事ではない。迷おうとも、苦しもうとも。神を裏切る事になろうとも。一人の男の名を、死神に告げるのが、残された最後の希望なのだ。
 何度も言い聞かせた言葉を再び男は自らの胸の中で繰り返し、長い息を吐くとともにテーブルから視線を上げた。オフィス街に近い事もあり、きっちりと決めた格好をした男達の姿が目立つ歩道を眺める。今は時間的にカフェの客は少ないが、昼食時はきっと賑わっていたのだろう。
 自分の日常とは少し掛け離れているが、それでも穏やかな日々の光景がそこにはあった。今ここで最も汚れているのは、他ならぬ自分なのだろう。そんな人間がおこがましいのだろうが、祈らずにはいられない。どうか、皆が平穏に、心安らかに暮らせるように、と。
 男がいつものように祈りを口にしそうになった、その時。まるで、分不相応な行いを笑うかのように、携帯電話が着信を伝えた。少し高い電子音を響かせるそれをギョッと見つめ、それでも恐る恐る手を伸ばす。それは、待ち望んでいたのかどうかはわからないが、確かに自分が必要としている救いだった。
 携帯電話は、男が今朝自ら用意したものだが、それとは別にもうひとつ別会社の携帯電話も用意していた。対になるそれを今持つのは、直接渡した仲介屋ではなければ、死神本人であるはず。喉が一気に乾くのを覚えながら、男は通話を受けた。
「……はい」
 殺し屋の話を聞いたのは、一体いつの頃だっただろうか。
 確か初めて聞いたのは数ヶ月前の事であるはずだが、もっと以前から知っていたように錯覚してしまう。それは、ここ最近その事ばかりを考えていたからだろうと、男はどんなに努力しようとも消し去る事の出来なかったひとつの名前を今もまた頭に浮かべた。
 殺し屋の名は、カイン。あの兄弟殺しの罪を犯した者と同じそれは、単なるコードネームなのか、何らかの由来がある通り名なのかはわからないが、何にしてもこの場合はあまり良い名ではないと言えるだろう。その名を告げられた時は、ふざけていると不快に思うまでの事はなかったが、あっさりと受け入れられるものでもなかった。あまりにも、な名前だ。だが、この名前だからこそ、自分は忘れる事はなかったのかもしれないとも男は思う。印象に残ったのは、間違いなくカインと言うその名前だったからこそだろう。現に、自分にその名を告げた人物は覚えているが、相手がどのような場面でそれを話し出したのかはもう忘れてしまっている。内容だけが鮮明に記憶され、常に嫌悪と憎悪を感じ続けたあの男の姿が、その話の記憶からはすっぽりと抜け落ちている。
 それは、快感の為なのだろうか。自分は、漸く見つけ出した歓喜に狂ったのだろうか。それとも。
 それとも、いつか破滅への道を自ら選ぶのであろう事を察した本能が、無駄なものを初めから記憶しなかったのだろうか。男には今なお理由がわからず、けれどもそれは大したことではないと、考えてはいつもやり過ごす。
 告げられた名は、ただのきっかけにしか過ぎなかった。たとえ、殺し屋の名前を知らずとも。依頼方法などわからずとも。あの男に死を与えると決心した自分は、どれだけ時間がかかろうとも、結局は今と同じ状況に足を踏み入れていたのだろう。どんな事をしてでも、その方法を探しただろう。
 少し、手間が省けただけだ。
 ほんの少し、死神にあの男の名を囁くのが早くなっただけだ。
 ただ、それだけなのだ。
「…もしもし」
 男は乾いた喉から搾り出した自分の声を遠くに聞きながら、緊張のため微かに震える指でテーブルに置いた十字架を撫でた。先程まで握っていたのだから体温とそう変わらないはずのそれが何故かとても熱く感じられ、指先にかすかな痛みを覚える。
「もしもし」
 返らない応対に繰り返した言葉は、今度は幾分か力を取り戻したものだった。通話口に掛からないよう少し携帯電話をずらし、ひとつ息を吐く。
『――ああ、悪い。目の前をいい女が通ったので見惚れてしまっていた。すまない』
「……」
 聞こえてきたのは予想よりも若い声で、内容もその雰囲気もこれから殺しを請負おうとする緊張も何もないものだった。男は思わず、言葉をなくす。だが、それにかまう事はなく、相手はその調子で言葉を続けた。
『それで。相手は誰だ』
 まるで、興味のない人間に仕方なく質問するかのようなその声の響きに、呆気に取られる。そして、当然のように不安を覚えた。聞いていた人物像とかなり掛け離れている。あの男から聞いた殺し屋は、仕事内容を選ばず、女子供がターゲットでも無慈悲に銃口を向けるという死神そのものだった。
 冷徹で残忍なその男は、20年以上のキャリアを持つ、その世界では名の知られた人物だ。殺しが趣味なので、大小関わらずに仕事を受けており、常に誰かを狙っている。仕事をしくじった事は一度もないという男の身体は、傷ひとつない綺麗なものであるらしい。そんな殺し屋は、殺伐とした壮年の男で、まさに死神といった風貌をもつ。一度見たら忘れないであろうその威圧感に、依頼者本人も死ぬまで恐怖し続けたという話はいくつもある。
 そんな風に流れる噂は、けれども特別な世界なだけに、偽りはないのだろうと男はそれを信じていた。通話の向こうにいる男は、死神なのだとその一声を聞くまで疑いはしなかった。なのに、どうだろうか。そんな雰囲気など微塵もない。恐れるような気配はなく、自分と何ら変わることのない人間のようだった。
 あまりの思い違いに、衝撃を受ける。何て事だ。
『何処の誰だ? わからないのなら名前だけでも構わない、こちらで調べる』
「あ…、いや……」
 一言。たった一言、あの名を口にすればいいのだと気負っていた覚悟が、一気に男の中からかき消えた。死神に、名前を告げる覚悟は出来ていた。だが、この人物に告げる覚悟はない。こんな事態は想像もしていなかった。
『どうした』
「…あ、す、すまない」
 声が震えるのを止められない。だが、「告げる気がないのか?」と通話口から聞こえた色の無い言葉に、慌ててそれを否定した。
「そ、そんなことは、ない。だが、しかし…!」
 このままでは、終わってしまう。何もかもが終わってしまうと焦りを覚える。耳に届く溜息に、男は体を振るわせた。だが、それと同時に、口が勝手に動く。
「そ、その前に、確認したい。本当に、請負ってくれるのか」
『ああ。だから聞いている』
「だが…。まだ、何も決めていない、話していない。それに報酬は…」
『そんな事は、どうでもいい』
 淡々とした声が、男の言葉を切り捨てた。
「ど、どうでもいい…?」
 それは、依頼者が払える払えないに関わらず回収する術があるという事か。それとも、噂どおり人を殺す事が目的であり、報酬は二の次なのか。
 仕事を選びはしないが、必ずしもやってきた依頼を全て請けるという事はしないらしい殺し屋は、その報酬も気紛れだと聞いてはいたが驚かずにはいられない。自分が思った以上に踏み込んではならない領域に足を入れてしまったのではないかと、男は恐怖を覚えた。
 感じる人間臭さとは裏腹な、その態度。死神よりも、人である事を捨てずにいる悪魔の方がよほど恐ろしいのかもしれない。漠然と、自分がこの相手に喰われるのであろう事を感じ、救いを求め祈るかのように男は目を閉じた。その耳に、静かな声が届く。
『迷っているのか。それとも、すでにここまで来た事を後悔しているのか?』
「……」
 先程と違い、その問いに応える事は出来なかった。人をひとり殺して貰おうとしているのだ、恐怖はあった。迷ってはいられない状況が自分を突き動かしてきたが、前へと進む度に躊躇っていた。だが、告げられるはずだったのだ、その声は震えても確実にあの男の名を。こんな事態は、予想もしていなかった。
 何をどうすればいいのか、自分がどうするべきなのかすら一瞬わからなくなり混乱する男に、けれども電話の向こうから意外な言葉が紡がれる。
『ま、それが普通なんだろう。止められるのなら、そうすればいい。別に俺はだからと言ってあんたをどうこうする気はない』
 静かな言葉が、痛みをともない胸に落ちてきた。じわりと与えられる苦痛に、乾いた息が漏れる。だが、返す応えは口からは出ない。
 止められるのならばと言った殺し屋に、何もかも見透かされている気になり背筋が強張った。だが逆に、先程覚えた恐怖はすっと引いていく。いや、通話の向こうの男に飲まれて感じたのは、恐怖ではなく畏怖だったのだろう。相手が口にしたような危惧など、全く心配はしていないのだから、恐れる事はないのだ。むしろ、自らに何かがある方が自分にとっては救いになるのだろうと、少し自虐的に男は考える。
 犯す罪に耐え切れるかどうかの自信は、正直あるわけではない。ただ、罪を犯す自分が楽な死という道を選ぶのはあまりにも卑怯な事であり、それならば生きてその苦しみとともに過ごし、苛まされ続けるのが当然の罰だ。耐え切れなくても、耐えて生きていく道を選ぶと一番初めに決めたのだ。だからこそ、ここまで来れた。
 しかし。
 今まで散々悩み、依頼を決めた後もこの街に来るまで、足を一歩踏み出す毎に迷っていた。仲介屋に会ってからも、電話がかかって来てもなお、躊躇っている。そうだろう。なら、止めればいい。
 沈黙の向こうから、そんな言葉が聞こえる気がする。だがそれは、本当に意外な事なのだが、相手の優しさのようにも思えた。今更悩むなどふざけているなと呆れるのでも窘めるのでもなく、止めてもいいんだぞと自分を許しているようである。
 しかし、それを素直に受け取るには、互いの立場が違いすぎた。裏の社会で生きている男だ。これもまた、相手の思惑のひとつなのかもしれないと、見えた優しさから男は目を逸らした。
 こんな仕事をしているのならば、人を見る目があるのかもしれない。今何処かから自分を見、言葉を交わし、依頼を受けるには危なっかしい人物だと判断されているのかもしれないと男は今の自分をそう評してみた。そして、その通りなのかもしれないと再度確信する。
 何だかんだと言っても、自分の行動を恐ろしく思っている自分がいる。閉じ込めたはずのそんな自分を、相手は感じ取っているのかもしれない。こんな依頼者なら、今その名を口にしたとしても、後悔し中止を言い出すかもしれないと、相手は自分を牽制しているのかもしれない。厄介事はごめんだろう。自分の価値を下げる仕事はしたくないだろう。
 そう。躊躇う依頼者の仕事など誰が引き受けてくれるだろうかと、男は大きく息をつき、覚悟を決めて口を開いた。
「私が迷ったのは、依頼内容ではない」
 自分でも、驚くほど静かな声が出る。
「本当に、あなたに依頼していいかどうかだ」
『信頼出来ないという事か。ならば、仕方がない』
「いや、そうではない。自分の欲望のために、あなたにも罪を犯させて本当に良いのか、だ」
『……』
 口にした途端、確信が持てた。何処にも根拠などないが、やはり相手は人間であり死神ではないのだと。今度は相手が落とした沈黙を、男は飲み込む。
「あの者の死を初めて願った時、私はそんな自分自身が怖くてたまらなかった。だが、その思いを捨てられずに、ここまで来た。私はもう、己を救いたいとは思わない。誰かの死を望んでしまった時点で、自分はもう救われる身ではないのだと自覚している。自分の罪を受け入れる覚悟は、充分にあるつもりだよ、逃げる気はない」
 迷って、迷って、疲れてしまったというのに、欲望を消せない自分を何度罵った事だろう。しかし、そんな自分自身を男は嫌いにはなれなかった。捨て去る事は出来なかった。ならば最後まで、自分と言うものを通してみようとそう誓ったのだ。自分にはもう、戻る道はない。その覚悟でここまで来たのだ。
 神を冒涜するつもりは全くない。ただ、自分の思いも捨てられない弱い男だと言うだけの事。もう届かないとわかっていても、やはり自分は祈るだろうし、その存在を信じ続けるのだろう。
 そう。迷いながらもそれでも全てを決めてここに来た。それなのに。
 ひとつだけ計算違いだったのは、依頼をする男もまた、自分と同じ神の子であるということを失念していた事だ。
「あの者の死を願ったその罰は、私一人が背負うものだ。他の誰にも背負わせてはならない。しかし、どうだろう。あなたに罪を犯させるのも事実。あなたはそれで、本当にいいのだろうか?」
 いつしか、電話の相手を、殺したい男に重ねていた。もう何年も昔に、罪を犯す男にかけた言葉を無意識に口にする。人を使い罪を犯す男に心は痛まないのかと、それでいいのかと問い掛けたのは、相手に救いを見たからではなく自分がそれを見つけたかったからだろう。だが、あの男は、馬鹿馬鹿しいと笑い、その後も罪を犯し続けている。
 一体、彼のせいで何人の町人が死んだだろうか、不幸になっただろうか。その一人である自分の娘の姿を思い出し、男は十字架を握り締めた。
 この殺し屋も、自分の言葉を馬鹿馬鹿しいと笑うのだろうか…?
『辻褄が合っていない』
 短い沈黙後、男の耳に、馬鹿な事を言うと怒るでも呆れるでもないそんな声が届く。
『死んでもらいたい奴がいる、だが自分ではそれ出来ない。だから誰かに殺して欲しいんだろう。それなのに、俺には改心して足を洗えと言うのか?』
「……すまない。そう言うわけじゃないんだが」
 だが、感情的なものばかりで、相手に説明のつく正論は何ひとつ頭に浮かびはせず、男はそのまま口を閉ざした。自分は一体、何を期待していたのだろうか。耳を傾けてくれるこの男に、何を言わせたかったのだろうか。それすらわからず、けれども遣る瀬無い思いが心を占める。
『理由が欲しいのか』
「理由…?」
『俺が依頼を受けるワケ』
「訳…」
 ふとした言葉に、鸚鵡返しのように首を傾げる。何の事だと、男は唐突なその言葉に驚きながら、けれどもそれだと確信した。自分が依頼するように、この男が何故それを受けるのか知りたいのかもしれない。少しは、そこに救いが見えるのかもしれないと、身勝手な期待を抱く。
『あんたが納得するかどうかはわからないが、あるとすればひとつだけだ。俺にも欲望があると言う事だ。その欲望のために、あんたのそれを利用する』
 だから、これは取引だ。俺の罪は俺のものだ、あんたが背負い込む事はない。たとえそれを命令したのだとしても、実行するのは俺の意思なのだから。
 気負うこともなくさらりと言ったその事実に、頭を殴られた気がした。
「私は……」
 何もかもが間違っていたのかと、足元から何かがせりあがってき、血の気が引いた。それは、絶望とも恐怖ともいえない、自らの醜い姿に対する嫌悪だろうか。気付けば、人間ではなくなっていたのは、この殺し屋でもあの男でもなく自分なのかもしれないとそう思った。
 だが、もうそれがわかっても、引けなかった。残された他の道はないのだと、ストンと何かが腑に落ちるように覚悟が決まった、いや、そんなたいそうなものではなく、ただ気付いたというだけの事。
 人はこうして、堕ちていくのかもしれない、と。
 昇りたい天はない。ならば、これでいいのではないか。
 自分の口からあっさりと依頼内容が出てくるのを、男は他人のもののように聞いた。
『わかった』
 何も言わず、ただ了承の言葉を殺し屋は返す。その声に、後悔は浮かばず、むしろほっとした。
「報酬は」
『金はいらない』
「何…?」
 いらないとはどういう事なのかと口を開きかけた男の傍を、人影がよぎった。会話を聞かれのたかもしれないと一瞬身を硬くし、けれどもその人物が何故か前に回りこむのに気付き、ゆっくりと視線を上げる。
「金ではなく、別のものが欲しい」
 見上げた先に、見知らぬ男が立っていた。
 テーブルに携帯電話を置き、なんの断りもなく前の席に座る男を、ただ見つめる。じかに耳に届いた声が、今まで電話越しに聞いていたものと同じであると男が気付いたのは、もう一度同じ言葉を聞いてからだった。
「あんたには金は期待出来ないし、そんな奴から巻き上げるほど、困ってもいなければ必要もない。それよりも、別のものが欲しい」
「別の、もの…?」
 この男が、カイン…?
 男は目の前の殺し屋を見、驚きと納得を同時に味わった。何処にでもいそうな、なんの変哲もない男性だ。皺だらけのシャツの下の体は、特に大きいわけでも、鍛え上げられているわけでもないのがわかる。頬杖を付き周りを眺めるその目も、暗殺者には思えないほど穏やかだ。だが、それでも。隠し切れない雰囲気に、その稼業をみる。
「祈りが、欲しい」
 眺めた殺し屋の唇が微かにゆれ、言葉が零れる。だが、意外なもの過ぎて一瞬聞き間違いかと思った。
「祈り…?」
「そうだ」
「あなたの、幸を祈れと…?」
「いや、俺はいい。祈るのは、あんたの幸せだ」
 言われた意味がわからない。
「私の…?」
 男は、自分に目を向ける殺し屋の目を見つめた。そこには、歳相応の力強さと、まだ若いと言える外見からは思いもしない程の落ち着きを見る。
「そうだ、当然だろう」
 折角力を貸してやるんだから、残った人生で幸せになれ。周りを幸せにしろ。
 向けられた強い視線が、そう言っているように感じるのは、都合が良すぎるのかもしれない。この男は何ひとつ知らないはずだ。自分がどんな境遇に居るのか、町人がどんな風なのかも知らないはずだ。
 だが、この機械を無駄にはするなと励まされているように男には感じられた。信じられない事に、死神が自分の幸せを願っている。
 言いようのない感情からまともに見返すことが出来ず、男から視線を逸らす。一体、この男は何なのか。悪魔なのか、神なのか。こんな人間がいるのかと、それが何故殺し屋なのかと歯痒さを弄ぶ。
 そんな男に、「あと、もうひとつ」と今度は幾分か躊躇いがちな声がかかった。
「わからなければいいんだが。水嫌いなガキを風呂に入れるのはどうしたらいい? 無理やり入れようとすると、暴れて引っ掻く」
「……風呂?」
「そうだ」
 何の冗談だろうかと思ったが、相手は先程以上に本気の目をしていた。その勢いに、とりあえず、問われた事だけに応える。
「子供なら、大丈夫だと落ち着かせたり、何かで気を紛らわしたりしながら、ゆっくりと温めの湯をかけて慣らしてやればいい。それでも怖がるのなら、しっかりと抱きながら一緒に入ってやる」
「……なるほど、わかった」
 暫し考えるように眉間に皺を寄せていた殺し屋は、「早速実行してみよう」と引き続き真面目な声でそう宣言し、席を立った。
「あ…、」
 呼び止めても、馴れ合える関係でもなく、かける言葉をもっているわけでもなかったが、踵を返す殺し屋に慌てて男も席から腰を浮かした。だが、殺し屋は足を止めることも振り向く事もなく、何もなかったかのように去って行く。通行人に紛れたその背を暫く眺めていたが、いつの間にか視界からは消えており、男は漸く椅子に腰を戻した。
 噂で聞いた者とも、想像していた者とも違った。
 正直、それが今の自分の救いになるのか、それとも新たな苦痛になるのかはわからない。今は、何も考えたくはなく、考えられないと言うのが男の本音だった。
 だが、ひとつだけはっきりとしている事がある。
 自分は、悪魔にも、また聖君にもなれない。ただの人間だ。その自分が、同じ命を奪おうとしている。守るべきものがあるからとはいえ、それは許されはしない行為だ。たとえ、誰かが許したとしても、自分自身が許しはしない。
 そう。本当の苦しみは、今から始まるのだろう。
 男は殺し屋が去った方を見ながら、長い息をゆっくりと吐く。
 だが、どんな苦しみでも、自分はこれを背負って歩いていこう。あの男が言うように、この愚かな己がそれでも今なお周りを少しでも幸せに出来るのであれば、神ではなく、平穏な日常に祈りを捧げよう。それをもたらせてくれるあの殺し屋の幸せを祈ろう。自分の幸せよりも、あの殺し屋を想う方が、自分は救われる気がする。
 男は十字架を握り締め、青い空を見上げた。
 高い空は昇るには遠すぎるが、それでもここから見上げるそれは、涙が出そうなほど綺麗に清んでいた。

2004/11/01
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