1


「――済みません、少し手を貸して頂けませんか…?」
 微かに震え掠れる声は、けれども何故かはっきりと耳に届いた。
 繁華街から少し離れた真っ暗な路地裏に座り込んでいる男は、酔っ払いか、訳あり者でしかない。後者なら面倒だとそう思いながら進んだ俺の足は、そんな言葉で止められた。
 不思議なものだと小さく驚いたが、声の主の目を見た途端、納得する。相当に痛め付けられているようなのに、見上げてくる瞳は確かな力を持っていた。汚れた壁に凭れかかり、殴られたのだろう腹を庇い背を丸める姿とは不似合いなそれに、一瞬にして呑み込まれる。
 だからだろう。
「……通りまでだぞ」
 肩を貸す気など全くありはしなかったのに、気付けばそう返事をしていた。
 気紛れではない。それはまさに、相手に意思を操作されたかのような変わりようだ。だが、可笑しな事に不快感は沸かない。
 尤も、こんな自分の手を借りて本当に困るのはこの男の方だと思いながら手を差し出すと、腹を抱えていた腕を持ち上げつつ、何も知らない男は小さな会釈を向けて来た。邪気のないその表情は、暗闇の中でもはっきりと魅力を放つ。殴られ腫れている顔にも関わらず、だ。
「ありがとうございます。我儘で済みませんが、通りではなくそこのビルまでお願いしたいのですが、宜しいでしょうか?」
「……」
 相手は軽い仕草で目的地を示したが、俺はそちらを見る事はせずに目の前の人物を見る眼に力を入れる。
 こんな夜中にあんな場所へ、怪我をしながらも向かう人物が素人とは到底思えない。
「……何者だ?」
 男が向かおうとしているのが、更に奥に踏み込んだところに建つ廃ビルだと知り、俺は声を低めた。同業者の臭いを嗅ぎつけるのは勿論、人を見極める眼を自分は持っていると思っていたが、単なる自惚れだったのか。その手の危険はないと判断した自分のそれが外れるのは極めて珍しい事で、答えろと問う声に凄みが加わる。
 だが。
「はい…? あの、それは――私の素姓を問うているのですか?」
 キョトンと間抜けに見える表情を向けてきた男の顔を、雲が切れたのか月明りが照らした。口許にこびりついている血は不似合いだが、やはり何処にでもいる会社員にしかみえない。着ている背広も、センスの善し悪しがはかれるものではなく、多くのサラリーマンが身に着けている制服並のものだ。自分の同業者達が好む服装とは全く違う。
 素人かどうかはわからないが、こちらの奴でもないのかもしれない。
 だが、そうなれば余計に、怪我をした状態で向かうのが廃墟の建物であるのが解せない。浮浪者でもないだろうに、あそこに一体何があるというのか。
 通りすがりの俺を怖がらず呼び止められるという事は、突然暴行された訳ではなく、顔見知りによる犯行なのだろう。容体の割には落ち着き払っているので、それは間違いない。だが、今となっては何故俺に声をかけたのか、疑問がもたげてくる。人通りなど皆無な場所だ、通ったのが俺だけであったのかもしれないが、ヤクザものだとわかる人間を普通呼び止めはしないだろう。ならば、この類の人種に慣れているという事か…?
 やはりただのサラリーマンではないのだろうと観察していると、男は何を考えたのか、情けない声を出した。
「ああ…、どうやら不安にさせてしまったようですね……」
「……」
「こんな時間にこんなところで声をかけるべきではありませんよね。考慮が足らなかったようです、済みません。もう私の事はお気になさらずとも結構ですから、どうぞ行って下さい。本当に不躾に申し訳ありませんでした」
「…………おい」
 不審がられたと思ったのか、馬鹿のように謝罪を口にし自力でビルを目指そうと足を運び出した男の腕を、俺は反射的に掴み引き寄せた。身構えてもいなかったのか、あっさりと男はバランスを崩し半身で壁をこすりながらしゃがみ込む。
「うっ……ッ……」
「…痛いのなら、家に帰るなり、病院に行くなりしろ」
「……お気遣い、ありがとうございます…」
「…………」
 馬鹿なのか、それとも態と間抜けを演じているのか。どちらにしろ、肝が座っている事は確かなようだ。玄人の俺を呼び止めボケられる者は、そうそういないだろう。身体の痛みに気が向いていたとは言え、本来ならば呼び止めた男がこんな輩であれば、対処に戸惑うものだ。普通の素人ならば、一目散に逃げるだろう。
 それなのに、自分の不審さを気にするとは。
 偏見がないのは結構だと言いたいところだが、ただ単に、状況判断が疎いだけなのかもしれない。
「あそこに何がある?」
「えっ…?」
「何をする気だ?」
「あの……。――貴方は…どちら様でしょう?」
 漸く己の思い違いに行き当たったのか、男の眉が軽く寄った。何故か俺は、それを心地良く感じる。
「別に、どちらもこちらもない」
「……そうですね。同じく、私もただのサラリーマンです。する気も何も、あのビルに行きたいのは、あそこの屋上を気に入っているからです。ただそれだけで、他意はありません。ですが、もしもそれが貴方に不都合であるのならば、今夜は止めておきます」
「不都合…?」
 意味がわからず繰り返すと、自分は不法侵入だからと苦笑する。貴方にまで罪を犯させるのは、申し訳ないからと。
 この状況でかます男のボケに、俺の中から力が抜ける。
「…そこからは、何か見えるのか?」
 その問いが指す意味を正確に理解した男は、張れた頬をあげ柔らかい笑みを零した。


 可笑しな男に肩を貸し上った屋上からの眺めは、確かに悪いものではなかった。だが、特別何だというものでもない。周りは似たり寄ったりの高さの建物ばかりで、表通りの明るさが良く見える。だが、それより遠くは高いビルが邪魔をしており、何も見るものはない。一体、何処に好む要素があるのか。呆れながら隣を見れば、錆びたフェンスに凭れた男は幸せそうな顔をしていた。腫れた口許が色褪せる程の笑みに思わず視線を追ったが、やはり目新しい物はない。
「何が楽しい」
「あぁ…、済みません」
 非難に聞こえたのか、振り向いた男は本気で申し訳なさそうに眉を下げ、謝った。たった五階分近付いただけであるのに、先程よりも明るい月の光がその顔を照らす。
 思ったよりも、若い男だった。滑らかな口調から自分と変わらないぐらいかと感じていたが、まだ20代半ば程だ。怪我を負った身の割には緊張感も危機感もない男の行動は、若いからこそのものだろうか。慣れているのだとは思えず、また自棄になっているようにも感じない。あくまでも自然体であり、さからこそそこが不可思議だ。
「つまらないですよね、普通」
「お前は、違うのか?」
「いえ。私もつまらないですよ」
 だけど、それがイイ。
 再び顔を戻し真っ直ぐ前へと視線を放ちながら、男はそう言い小さく喉を鳴らした。
「自分がつまらない存在だと思う方が、何かと楽でしょう?」
「……」
「こういう思考は、お嫌いですか?」
「他人のそれに興味はない」
「確かに」
 そうですよねと声を零して笑った男は、身体が痛んだのか、フェンスに縋るように背中を丸める。それでも笑いを収められないのか、クツクツ揺れる肩を、俺は身体の向きを変え眺めた。
 ただの生意気な餓鬼なのか、可笑しなリアリストなのか、繊細な自虐者か。全くもってわからない。わからないが、この男が作る雰囲気は、悪くはない。
「ここから見る事が出来るものは、そう多くはない」
 笑いを収めないうちにそう零した男は、屈めた姿勢のまま顔をあげて首を捻り、俺を見上げた。
「私には、それが丁度いいんです。自分が見つめられる分だけのものでいい」
 少しでいい、全てを見る必要はない。そう言った男は、ゆっくりと体を起こし、小さく首を傾げた。
 自分は可笑しいだろうかと、問うように。こんな風な考え方は許せないかと、窺うように。
 自分が言うその少しに、俺が成り得るのかどうか、見極めるように。
 真っ直ぐと向けられる視線を暫し受け止め、俺は自分からそれを外す。右腕の時計で時刻を確認すると、行かねばならない時間になっていた。その旨を伝えると、男は自分はまだ留まると答える。
「休んだお陰で、体は楽になりました。心配は無用です。私は大丈夫ですので、どうぞお気をつけてお帰り下さい」
「…動けるのか?」
「はい、平気です」
 気にかけられた事がこそばゆいというように、少し照れた笑みを見せた後、男は自分の名前を口にした。
「申し遅れましたが、私は紀藤と申します」
「水木だ」
 俺が応えると思っていなかったのか、軽く目を開き、重大事項を聞いたかのような大層な表情で紀藤某が深く頷く。それは俺の身分に思い当たったのだろうかと思う硬さが滲んでいたが、ヤクザ者であるとわかったのならば絶対に出てこない言葉を、男は真摯な様子で続けた。
「今夜はありがとうございました、水木さん。また御縁があればお会い致しましょう」
「……」
「お休みなさい」
「……ああ、オヤスミ」
 柄にもないと自覚しながらの言葉は、口の中をカラカラに乾かした。踵を返し屋上から退場しながらも、気持ちはまだ可笑しな男のもとにあるのか、心が騒ぐ。
 次など有りえる筈がなかったのに、階段を降りる俺の心は既にもう決まっていた。
 だが――。


 ――もしも。
 もしも、この時。
 この男が、紀藤たかしが厄介事を抱えているのだと知っていたのならば。
 縁など自ら断ち切り、二度と廃ビルの屋上などに足を運ぶ事はなかったのかもしれない。

 ならば、そう。
 俺達の未来は大きく変わっていたのだろう。
 少なくとも。
 紀藤が堕ちる事はなかったはず――。


2006/03/16
Novel  Title  Next