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「先生はまだお若い。こんな事で人生終わりたくはないでしょう?」
目に痛い派手な服を着た男が、紫煙と共にそんな言葉を吐き出した。
何度もこの件から手を引くよう忠告を受けてきたが、これほど効果の無い脅し文句は無かったように思う。手足を振り上げ暴言を吐き散らす行為は褒められはしないが、あの部下達の方がこの上司よりも、判断が上なのかもしれない。
言葉の脅しにも、直接的な暴力にも。俺は屈しない。だが、身体を痛めつけられれば、動けなくなるのは必至だ。そこに多少の意味は生まれるのだろう。彼等の行いは、それなりに効果的だった。
しかし。未来を脅かす言葉には、何も生まれはしない。
「もう一度、良く考えて下さいよ」
「……ッ!」
「頼みますよ先生」
灰皿ではなく、俺の手の甲で煙草を揉み消した男は、態とらしく肩を叩き去っていった。足元に転がった吸殻を取り立ち上がったところで、漸く火傷が疼きだす。
先日痛めつけられた身体は、今はもう薄い痣を残すだけだ。新たに増えたこの傷も、痕は残っても痛みは直ぐに消えるだろう。
ヤクザに脅される事も、それと同じだ。いつかは終わる。現時点の痛みなど、左程重要ではない。
同じく、人生の終焉も。
若さが利点であるとは限らない。現に、俺が下種の標的になっているのは若者であるからだろうし、それを撥ね飛ばせられないのもまた若さ故だ。26と言う年齢は、今のところ枷でしかない。
この職に就き三年。確かに知識も経験も低い。だが、低いからと言って、愚かであるとは限らない。弁護士である前に一人の人間だと声高に主張する気はないが、それは紛れもない事実であるのも確かだ。
しかし、それでも理不尽な攻撃を甘んじて受けるのは。ただ、自分にとってはそれだけの事であるからだ。
それ以上でも、以下でもない。
だが、上司が部下に及んでいる危険を感じながらもそれを口にしないのは、ただ単に卑怯なだけなのだろう。信念などではなく単純に、矛先が自分に向くような事はしないと言うわけだ。
何てわかり易いのか。
ペンを握る手に火傷痕を見つけても。それこそ、先日のように顔に青痣を作ってこようとも。常日頃から弁護士である事を自覚し行動するようにと注意するだけで、理由は聞かない。臭いものには蓋をすれば罷り通る世界なのだ。本当に、わかり易くて、有り難い。
あまりに有り難過ぎて、感謝を忘れそうだと。
俺は真夜中の廃ビルの屋上で、汚い手摺りに凭れ笑いを落とした。溢したそれが、亀裂の入るコンクリートの上を転がっていく。
生きているだけの人生で、疲れたと思う理由は何もないのだろうが。それでも流石に、身体の草臥れはどうにもならない。腰を下ろし、背中を手摺りに預け片膝を腕で抱くと、もう立ち上がれないような気がしてきた。
だが、それでも問題はない。一生ここでこうしている事になっても、俺は別に構わない。
もしも、本当にそんな事になったならば。俺は腹の底から笑うだろうか?それとも、泣くだろうか? いや、何がどう変わろうとも、今までと同じ。俺は何も考えないのかもしれないと思いながら、顎を仰け反らせ夜空を見上げる。
昔は、明るい空ばかり見ていたのに。
いつの間にか、暗い空しか見なくなった。
「何をしている」
「空を、見ているんですよ」
首を戻し「今晩は」と笑顔を作ると、一瞬胡乱気な視線を向けてきた男は、それでも何かを確認するように真剣な眼を空に向けた。俺の言葉の真意を探る様なそれに、つい喉を鳴らしてしまう。
「星もない夜空が、楽しいのか?」
「雲の動きは、眠気を誘います」
「…だったら、さっさと帰って寝ればいい」
「残念ながら、私のアパートでは、空を眺めながら眠るだなんて風流な事は出来ないんです」
「だからそこで寝ようとでも言うのか?」
凄い風流もあったものだと、呆れを隠さずに近づいてきた男は、俺の肘を掴むと無言で立ち上がらせた。
「……何でしょう?」
「今夜は寒い」
背広姿で座り込んでは、コンクリートに体温を奪われると言いたいのだろう。男の立場を考えれば、らしくはない心配に笑い出してしまいそうになったが、ありがとうございますとの微笑でそれを押さえ肩を並べる。
水木雅。関東の暴力団では、一、二を争う、三代目國分組の幹部。
ヤクザだと言われればすんなりと納得してしまうだけのものはあるが、それでもこうして並んで立っていると、昼間に会った男とは全然違う人種だとも思う。事、俺に対する態度だけを見れば、何処にでもいる四十前の男でしかない。
いや。互いの素性を名乗らず、ただの顔見知りとして接する姿は、社会人からも離れている。まるで、十代の若者のように何も持たずに、俺とこの男は接している。
だが、俺がその立場を知るように、男もまた、俺が何者であるのかを知っているのだろう。
「…何だ」
間近で眺め続けた自分に落とされるのは、単調な声。それが、堪らない。
「俺の顔に何かついているか?」
「いい男だなと見惚れていたんですよ」
「……」
「コイツ馬鹿か?と思いました」
「…ああ」
「正解ですね。私は、死んでも治らない馬鹿ですから」
そう、誰が死のうが俺は馬鹿なままなのだ。彼が死んだ時からも、アイツが死んだ時からも、俺は何も変わってはいない。だから、多分。自分自身が死んだとしても、それは同じだ。
「水木さんも、私には気をつけないと駄目ですよ」
馬鹿が伝染するかもしれないと軽口を叩くと、男の眉が僅かに寄った。それは、呆れなのか、何かを知っているからなのか。
わからないが、追求をする気はない。
思うのは。
ただ単純に。
この接触が少しでも長く続けば良いと。
それだけだ。
2006/04/16