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 夏になっても、紀藤たかしは神戸の下を去らなかった。

「放っておいていいものなのかどうなのか。オヤッサンは、どう言っている?」
「好きにさせておくようだ」
「そうは言ってもなァ…」
 信用が置けないぞと、煙草を口に挟みながら阿田木がぼやく。その言葉を受け、今まで黙っていた風花が、「組長は全て承知でしょう」と小さな笑みを口元に浮かべた。
 まだ寒い季節に神戸が連れて来た男は、当然として注目を浴びた。私設秘書として神戸の傍に仕えたその男を、愛人だと揶揄する噂が流れたのは必然であった。しかし、ただの軽口の域を越えなかったのは、二人の間にそれらしい雰囲気が無かったからだろう。
 だが、呆れと嘲りを多少は込めつつも、確かに笑っていた男達の余裕は、時が経つにつれ消えていった。
 神戸の傍に居る男の存在を見慣れるにつれ、馴染むにつれ、男に対する認識を変えざるを得なくなったようだ。
 組長が気紛れで傍に置いた男。
 それは、一時ならば笑えるが、その立場が確かなものとなると軽視は出来ない。
 その中で、愛人であれ何であれ、使えそうならば使おうとするのがこの世界の常識である。
「承知と言ってもですねぇ……あれでは組長の権威に関わりますよ。もう少し自分の立場をわからせるべきだと思いませんか?」
「組員ではなく、ただの私設秘書ですからね。プライベートまで監視するのは何とも」
 この件に関して首を突っ込む気が無いらしい風花は苦笑するばかりで。「ヤクザにちょっかい出されていてプライベートも何もないと思いますけどねぇ」と紫煙と共に吐きだした阿田木もまた、これ以上の遣り合いを打ち切った。
 誰一人当事者も居ないところで会話をしても意味が無い。
 何より、ここに集まるのは、神戸の心境は兎も角、その性格は充分に理解している面々なのだ。神戸と紀藤が噂されたような愛人関係ではないのを、私設秘書がただの建前ではないのを、紀藤が外見ほども優男ではないのを知っている。そして、それ故に、湧き上がりつつある問題に唸っているのだから、最早するべき事は全員がわかっていると言うものだ。
 必要な処置は。
 神戸が紀藤を全面的に囲い込み、それこそ愛人にするか。それとも、飽きたと捨てるか。
 ふたつにひとつ。
 そうすれば、問題は激減するだろう。だが、神戸はそれをしないのだと、外でもないそれを願うこの面々がよく知っているのである。
「…何とかならないのか、水木」
 灰皿で煙草を揉み消しながら阿田木が問うてきたが、俺には答えられる言葉はなかった。

 何とかならないかと思っているのは、誰よりも俺自身である。


 常にその傍に居る印象を周囲に植え付けている男の姿が、けれども今夜はそこになかった。
「最近、アイツも忙しいようでな」
 モテる男は大変だと、決して冗談にはなり得ない言葉を口にして笑う神戸の前に座りながら、「よろしいのですか」と俺は問う。神戸を見た瞬間、数時間前の同僚の溜息と飲み込んだ苦汁が思い出され、意識をする前に言葉が零れ落ちたのだ。
「いいも悪いも、子供じゃないんだ。ワシが口を出す事でもあるまい」
 その答えに、紀藤の今夜の用件を察する。また、誰かと席を持っているのだろう。
「少し無責任に思えますが」
「何だ雅。お前、それは、連れ込んだくせにとワシを責めているのか?」
「少なくとも、無関係ではないでしょう」
 いつもならば言っていないだろうと自分でもわかりつつも放った言葉に、神戸は少し眉を下げ「参ったな」と肩を竦めた。
 紀藤を傍に置いた時から、愛人との噂が立つだろう事は神戸にもわかっていたはずである。だが、それでもこの男は周囲に誤解を与えるように、私設秘書として仕えさせ、どこへ行くにも連れ立ち、時には夜をも同じ部屋で過ごさせて周囲を煽ったのだ。
 そして同じように、紀藤もまた男娼という中傷を一切否定する事無く。ただ、神戸に仕えた。
 そうして訪れたのは、腹にイチモツもニモツも抱える連中の、紀藤への接触。
 神戸の愛人を誑し込もうという発想だろうが、彼等にとっては愛人説の真偽は重要ではない。それがただの秘書でしかなくとも、遣る事は一緒だ。紀藤たかしは、唯一神戸の隙になり得るだろう人物なのだ。例え、今は神戸に不満は持っていなくとも、手駒のひとつとして今のうちに掌握しておきたいと考えるのが普通だろう。
 そう、周囲が紀藤個人にちょっかいを掛けてくるのは、最初からわかっていた事だ。
 そうであるのに適切な対処をせず、そればかりか、紀藤がそれらと接触するのは自分には関係ないような発言をする。
 確かに子供ではないが。まるで突き放すようなそれに覚えるのは苛立ちで。貴方らしくないと俺は神戸を見据える。
「それならいっそ、何故組に入れなかったのですか」
「フジが嫌だと言ったんだ」
「だったら、貴方は縛り付けてでも紀藤を自由にさせてはならないのでは」
「そうだな、お前が怒るのは当然だ。だが、ワシはな雅。お前の時のようにフジを拾ったわけじゃない。あの男は厄介な事に、子供じゃないんだ」
「意味がわかりません」
 何を言っているのかと、神戸に見せつけるよう眉間に皺を寄せ俺は息を吐く。
 子供ではないなど、言われなくともわかっている。戦後の混乱期に拾われた自分とは何もかもが違うのはわかっている。だが、何十年もの極道生活の中で、何十人もの人間を拾ってきた男が何を言い訳のような言葉を口にするのか。今までとは違うのだと、俺に同意させるつもりか?
 三十に近い歳の男を拾い、組から隔離して扱うのは、確かに今まではなかった事だ。だが、結局は、紀藤を組織に巻き込んでいる。違うかどうかなど、神戸の心積もりはもう関係ないところまできている。
 そもそも。相手は大の大人であっても、守るつもりがないのならば、この世界に連れ込むべきではなかった。
 少なくとも、紀藤を相手に。
 少なくとも、神戸自身が。
 感情的になり腹の底でそう吼える自身に気付き、意地でも表面に出さないように目を閉じる。震えそうになる喉で、俺は大きく息を吐く。
 あの時。
 紀藤と再会したあの時。
 子供ではないのだからと、紀藤の事を神戸にそう言ったのは、外でもない自分だ。
 それでも。
「……紀藤を、どうなさるつもりですか」
 あの時にもした問いを、俺はいま一度神戸に向ける。
「ワシにはどうも出来ないようだ」
「……」
 即答に近い速さで返されたその言葉は、静か過ぎるほどに静かであったが。事実を述べる以上の焦燥が、僅かに込められていた。
「あの男はなァ、雅。全然、生きちゃいないんだよ。笑って喋って、欲さえ持っているが、死んでいる。泣かないし怒らないのは、この世に居ないからこそだ」
「……紀藤が、ですか…?」
「少なくとも、ワシはそう感じた。だから当然、無気味な奴だと思った。だがそれ以上に、変えてやろうと意欲が湧いた。変えられると思った。しかし、今は、ワシには無理なんだと痛感している」
「…どうしてですか」
「フジはワシに何も望んでいない。ワシだけじゃない、この組にも、何もかもにも」
 だから、誰がどう出ようとも、フジは大丈夫だ。
「……」
 曖昧な、抽象過ぎる表現。けれど、神戸のそれは、何よりも俺の中に落ちた。
 何も言えず、ただ歯を噛み締める。腹の底で何かが暴れるが、それは重すぎて吐き出す事さえ出来ない。
 それでも大丈夫だと言えるのは、紀藤を信用しているのか。それとも、事実として紀藤が裏切らぬ事を知っているのか。
 俺にはこうして言葉で教えられても到底、二人の関係をわかりきる事は無理であり、ただただ苦味を覚えるのみで。
「雅。お前に、女をひとり紹介しよう」
「…なんですか、突然」
「フジが過ぎた行動を取っていると判断したら、お前が押さえろ」
「……」
「紹介するのは、フジの女だ。前に話しただろう?」
 ワシにまで庇護を求めるくらいに大切な存在だと言った神戸は、確実に、紀藤のアキレスとしてその女を俺に教えるつもりのようだった。
 だが。俺には、守ってくれと言っているように聞こえた。
 紀藤を守ってくれと。


 なあ、紀藤。
 お前は何がしたい。
 何を望む。

 こんなところで、一体何を――。


2009/02/06
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