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 三寒四温とはよく言ったものだ。暖かさが続き春の匂いを胸に吸い込んだと思えば、そんな気の弛みを嘲り笑うように冬が戻ってくる。
 まるで息吹の季節を恐れ抗っているかのようだと、この時期の気候に空しさを感じ始めたのはいつの頃からだっただろうか。
 もうそれはとても遠くて、思い出せはしない。
 だが、一年前。この街を去ったのは。
 夏さえ匂いそうな季節になってさえ、その虚しさを拭えなかったからだろう。
「フジ」
「はい」
 記憶の底を攫うようにして思い出した感覚に再び蓋をし、最後のボタンを外し終え、床に片膝をついたまま顔をあげる。
 本名を告げてもなお商売名を口にする男の意図を考えたのは、最初の二日だけだ。三日目には、単なる渾名なのだとの認識に変え、気に掛ける事を止めた。だが、時たまこうして、この世界に足を踏み入れる前の事を思い出した時にそれが混ざると、少しだけ自分が何者なのか見失いそうになる。
 尤も、何者であろうとも、最早意味はないのだろう。
「介護じゃないんだ、もういい」
 苦笑交じりに言った神戸が、片手でバックルを外す。目前のそれを眺め、抜かれたベルトを受け取りながら立ち上がる。
 介護でも、介助でも、する事は同じ。
「お背中、お流ししますよ」
「そういうのは、お前ではない方がいいんだがな」
 言外に準備が悪いと責められるが、それは図々しいと言うものであり、また本気で望んでいる訳ではないと知れるそれ。私で我慢して下さいと、軽口に軽口を返しつつ、浴室へと神戸を押し込む。
 昨日から冬の寒波が戻り、加えて、夕方から降り始めた雨は深夜になっても止む気配をみせず。シトシトと静かに振り続けるその雨は、神戸の右手の機能を低下させた。
 初対面の時に感じた違和感は間違っていなかったようで、神戸はあの事件の後遺症を抱えている。気候や体調により、右手が不自由になるのだ。それは度合いは違えぞ、動きだけではなく当人に痛みを与えているようなのだが、神戸自身はそれを表には出さず隠し続けている。
『気付いている者もいるだろうが、今のところそれを教えてきたのはお前だけだな』
 神戸が何を考えそう言ったのかはわからない。だが、その言葉で、自分は問答無用で内側へと引き込まれたらしい。主治医以外に不調を口にしない男の面倒を見るはめになったのは事実であるのだから、間違いない。
 だが、この事実がなくとも。
 遅かれ早かれ、同じようになっていただろう。
「色気のない格好だな」
 掃除でもするようだと、シャツの袖とスラックスの裾を捲くった俺の姿を見て溜息を吐いた神戸の左手から、泡が立つ手拭いを取り上げる。
「ご希望ならば、全て脱ぎましょうか」
「脱いだとしても色気はないだろう。お前はワシの好みじゃない」
「口説かれた記憶が私にはあるのですが」
 俺の言葉に、神戸は身体を揺らせて笑った。
「ワシにそのつもりはなかったが。それはお前、勧誘したワシに色気を感じたと言う事じゃないか。なァ?」
「さて、どうでしょう」
 昔過ぎて忘れましたよと肩を竦め、俺は洗った背中をシャワーで流す。
 排水溝へと消えていく白い泡へと意識を向けた隙に、不意に身体の向きを変えた神戸のおかげで、胸元からお湯を浴びる嵌めとなった。
「ごゆっくり」
 それでなくとも広くはない風呂場だ。後は大丈夫だろうと、ローブを着せ掛けるまで用無しだと、早々に脱衣所へと退出する。
 濡れたワイシャツとスラックスを脱いだところで、来訪を告げる呼び鈴が鳴った。入れて待たせておけ、と。訪問者に心当たりがあるのだろう、神戸のくぐもった声が背中に届く。
 時刻的に考えても、訊ねてきたのはそれなり地位に在る人物であろう。絞った服を身につける間もなければ、それが許される立場にもいない。それならば、馬鹿な噂を利用する方がいいだろうと、俺はバスローブに腕を通す。
 神戸は言ったとおり、俺を私設秘書とした。その仕事内容は、契約の半分が過ぎてもなお、未だに神戸の職務を把握しようとしている段階に過ぎない。傍に控えているだけだ。何かを任されることはないに等しい。だが、試用期間ならばこんなものだろう。
 けれど、周囲はそうと判断していない。唐突に傍に置き、一日中連れまわしている人物に向けるのは、当然としてのそれだ。
 組長が男の愛人を連れまわしている。
 そんな噂が立つのに、それ程の日数は要らなかった。
 だから、そう。全てが、今更なのだ。
「組長に取り次いでくれ」
「今は汗を流されております。中でお待ち頂くようにとの事ですので、どうぞ」
 深夜といえよう時刻に訪ねてきたのは、水木雅だった。
 俺の格好にほんの僅か顔を顰めたが、直ぐにそれを消し去り、他の男達にそのまま待つように言いドアを潜る。目前を過ぎるそれに覚えたのは、渇きだ。
 餓えには、耐えられる。
 だが、渇きは難しいなものだと。バスローブの襟元を直しながら、俺はゆっくりと実感をする。
 リビングに案内し席を勧めたが、水木はそれを断り窓辺に立った。鏡となった窓に顔を映しながら、眠らない街を見下ろす。
「いつまで続けるつもりだ」
 同じように窓へと視線を投げ闇を見ていた俺に、水木は静かに問うてきた。
「守りたい女が居ると聞いた」
 ならば、こんなところ居らずに、その女を幸せにしろ。
 言葉にはされなかったが、そんな思いが込められているような眼をガラスの上で見つめ、知らないのかと俺はただ思う。神戸に聞いたのだろうが、隆子の事までは把握していないらしい。
「そうですね。彼女は、大事です」
 だけど。
 守りたいものと、欲しいものは違う。
「とても大切です」
 それでも。
 この心が渇望するのは、別のもの。
「出来る限り、守りたいと思います。だから、私はここに居るんですよ水木さん」
 眉を寄せた男を直接見返し、俺は笑う。

 俺は、愚かな自分をそれでも許し、望むままに生きようとしているのだ。
 だから、その罪悪を埋めるように。
 まるで、その免罪符のように。
 隆子を慈しもうとしている。
 きっと、ただあのまま生きていたのならば。大事ではあっても、守り尽くそうだなんて気にはならなかっただろう。

 神戸は、知っている。
 俺が何を望んでいるのかを。
 幼い少女をどうしようとしているのかを。

 知らないのは、重荷を背負わさせられる貴方だけ。

 貴方だけだと、声には出さずに呟いた俺を、水木雅は真っ直ぐと見た。
 何もなかった、あの頃のように。


2009/01/23
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