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 家庭教師のアルバイトを終えマウンテンバイクに跨がった時は、既に11時を過ぎていた。今日中に帰宅するのは無理かもしれないと頭に思い浮かべ、俺は体の中から毒素を抜くように、疲れの色が濃い息を吐き出す。
 中間試験が始まる旨は前回の時に聞いており延長は覚悟していたが、まさかこんなにも遅くなるとは。先程まで顔を付き合わせていたバカ少年に向かって、これで赤点など取ったら辞めてやるぞと胸中で詰ってやる。これを、もし実際に本人を前に口にしたところで、多分問題はないだろう。言われただけでバカが治るのならば、苦労はない。
 熱心にやる方が損をするようなその生徒は、はっきり言って家教バイトではハズレでしかないレベルの者だ。せめてもの救いは、親が学業の方はあまり期待していない事であり、家教を付ける目的は決められた時間に大人しく部屋に居て欲しいからだけのようである事だった。だが、それならばそれようの遊び相手でも雇えと言うもので、家教でしかない俺には正直手に余る存在だ。バカを相手にする難しさを、多分母親は知らないのだろう。そう彼女にとっては、息子はきっと宇宙人よりも謎で厄介な存在なのだ。
 宇宙人。
 あの母親の息子を見る目はいつでも、何故ここにこんなものが居るのだろうといった、不可思議なものを眺める視線だ。はたして、子供をそう見る自分が、その子供から同じように宇宙人と見られている事を知っているのかいないのか。母親である彼女の目を見る度に、バカだが俺には懐いている生徒を見る度に、俺は思う。世の中の親はどれくらい、子供の視線の意味を知っているのだろうと。
 少なくとも、うちの両親は何も全く気付いてはいないのだろう。視線だけではなくハッキリ言葉にしても、俺の声は彼らに届かなかったのだから、それは確かだ。あの二人にとって俺は宇宙人であり、理解するには値しない存在らしい。
 幼い頃からわかりきったそれではあるが、不意に意識すると何とも言えない気分に襲われもして、軟弱にも胃がムカついた気がした。案外、俺と言う人間はデリケートなのかもしれないと、こう言う時は思ってしまう。だが、所詮は二十歳の餓鬼なのだから、この程度が相応しいのだろう。変に悟っているのも、どうかというものだ。
 こんな自分と比べる訳ではないが。まだ12歳の中一男子がバカなのも、それこそ本当に宇宙人だとしても、総合的に見れば可愛いものなのだ。全く人の言う事を聞かないくせに甘えてくるところも、簡単な問題はわからないのにゲームになると頭が切れるところも、愛嬌があっていい。だが、それに気付くのが、ただの家教である俺で母親ではないというのが、あの少年の不幸なところだろう。
 宇宙人であっても、自分の息子なら愛してやれよ。今それをしなければ、手遅れになる。そう思うのは、俺がまだ子供だからだろうか。俺も人の親になれば、こんな考えはなくなるのだろうか…?
 そこまで考え、疲れている時に答えの出ない事に頭を使うなよと自分で突っ込み、俺は軽く頭を振った。何も両親の顔まで思い出す事はないだろうと、自分のアホさ加減に溜息も零す。悪い癖というよりも、思考回路そのものの出来が悪いような気がして、自分自身に嫌気がさしてきた。
「何だかなぁ……」
 力の篭らない声で呟きを落としながら、ペダルを漕ぐ俺の足は当然の如くゆっくりであり、夜中の街をのんびりと進む。頭では世話になっている叔母に迷惑をかけないよう、少しでも早く帰らなければならないと思っているが、気分以上に身体が重かった。新しい生活を始めて二ヶ月。慣れて来たからこそ、疲れが出始めたのかもしれない。

 帰宅路最後のコンビニに寄り、俺は携帯電話の料金を払った。先月の使用料は八千円弱。いつも五千円切りを目指して使っているが、未だ達成した事はない。だが、定期的に連絡をする相手は特に居ないので、友達間はEメールを利用するようにすれば出来ない事もなさそうだ。
 狭い店内をふらついたが必要なものはなく、少し雑誌を眺め、俺はコンビニを後にした。
 今現在の生活環境で言えば、決して貧乏と言うわけではないが、それでも俺には金がない。いや、金を溜めている途中なので、余裕がないと言う方が的確な表現なのだろうか。今のところ衣食住に困ってはいないが、身を寄せている叔母の援助がなければどうなるかわからない崖っぷちに立っている状態だ。今直ぐに叔母のところから出る様な事になれば、俺は多分一年も経たない間に大学に通えなくなるだろう。
 高校を出て入った医大を一年半で辞めた俺は、去年の夏に父親から勘当を言い渡された。それからは、まだ学生だった兄貴の下宿に転がり込み厄介になっていたのだが、彼が渡独する事になり自立を余儀なくされた。しかし、二度目の受験勉強の合間にしていたバイトでは、入学金と授業料を払えば消える。子供の頃から貯めていた貯金では、残りの学費にも足りない。それでも、今更ながらの両親への反旗で迷惑をかけてしまった兄の支援は、どうしても受けたくはなかった。受ける訳にはいかなかった。
 金の見通しがたたないのならば、大学は諦めるしかないのだろうか。そう途方にくれていたところに手を差し延べてくれたが、父の年の離れた妹である叔母だった。料亭を切り盛りしているので、構えないし面倒な事を強いるかもしれないが、それで良かったらうちに来なさいと路頭に迷いそうな甥を温く迎えてくれた。多分その背景には兄も一枚噛んでいたのだろうが、俺にはその手を振り払う事は出来ず、迷惑をかける事をわかりつつもそれに甘え今に至る。
 それでも、このままでは居られないと俺とてわかっている。だが、もう少し金が溜まったら自立しようと思っているが、限られた時間のバイトではなかなか貯金は増えてくれない。日々の食費や雑費に消えていくばかりだ。夏の長期休暇でどれだけ稼げるかわからないが、今はそれだけが頼りである。
 新に大学に入学して、一ヵ月半。同期生は年下ばかりだが友達も出来たし、自分で決めた道なので大学は辞めたくはない。このまま無理に一人暮らしを始めたら、学費の面から休学はま逃れないだろう。だが、いつまでも叔母のところにいる訳にもいかない。実家から勘当された自分が彼女に頼るのは、甘えすぎている。頭が固い父親をよくわかっているから、兄も叔母も気にかけてくれるのだろうが、自分が撒いた種は自分で始末せねばならない。しかし、今の自分に出来る事は少なく、俺は理想と現実の狭間で溜息を吐くばかりだ。少し、いや、かなり情けないのだが、同じ事ところをグルグルと回り続けている。

 内面では迷っていても、すっかり通い慣れた道では迷子になるこ事はなく、亀の歩みでも居候先の料亭が段々と近付いてくる。明かりが燈る表玄関を通り過ぎ、塀伝いに裏玄関へと向かうのも、最早日課だ。都心からは少し離れてはいるが、それでも地価は幾らだろうかと考えてしまうくらいに敷地は広い。通りを曲がり屋敷をほぼ半周して裏玄関へと辿着くその数秒の道程は、俺にとっては自分を切り換えるのに必要なアイテムのひとつであったりもする。
 緊張する訳ではないが、二十歳の男としては当然で、俺は未だに料亭という空気に馴染めていない。叔母も義叔父も気さくな人なので、敷居が高いという事もないのだが、それでもやはり屋敷が持つ雰囲気はヒヨッ子には判りかねるものだ。ダラケ具合を少しでも引き締めておかなければ、余りの場違いにカウンターパンチをくらいへたり込んでしまうだろう。道のりには慣れても、料亭という特殊空間にはまだまだ慣れそうにない。
 気持ちを切り替えながら角を曲がると、路地に黒のセダンが一台停まっているのが目についた。追い抜きざまに横目で中を伺ったが、中に人がいるのかどうかはわからなかった。裏門を開け敷地の中に足を踏み入れながら、客のものだろうかと少し考える。昔程も格式は高くはないが老舗と呼ばれる高級料亭に来る者だ、運転手くらい付いていても不思議ではない。そしてもしそうならば、駐車場ではなくそこに停めていると言う事は、もうすぐ裏から客が出る可能性が高いのだろう。
 砂利にタイヤ跡が付かないようバイクを抱えあげ運び所定場所に停めると、俺はその客と鉢合わせにならないよう玄関へ急いだ。勝手口から上がろうかと考えもしたが、正直板場の空気はあまり好きではないので、いつも通りの帰宅を選ぶ。
「ただいま」
 誰も関心がないだろう事を知っているので、俺はいつもの形ばかりの小さな挨拶と共に玄関を潜った。後ろ手に引き戸を閉めながら、誰も近くに居ない事を確認し小さく息を落とす。
 表程ではないが、広い裏玄関に短く響く俺の声を偶然耳にした者が時折顔を覗かせる事もあるが、声の主を確認すると皆直ぐに顔を引っ込める。別に嫌われている訳でも喧嘩をしている訳でもないので、気が向けば挨拶以外に一言二言話もするが、会話が弾む事はあまりない。その理由は至って単純であり、あくまでもここは料亭であって誰の家庭でもないから、だ。叔母夫婦は勿論、板前や仲居にはここは仕事場であり、客にとってはただの料亭でしかない。よって、従業員でも客でもなくこの空間に存在する俺は、少し異質だ。

 運の悪い事に、靴を脱いだところで、人が近付いてくる気配に気付いた。振り返ると叔母が客を連れており、俺は直ぐに隅に避け場所を空ける。女将に続きやってきたのは、60代半ばと30代半ばのスーツ姿の男が二人と、小さな子供だった。年配の男は豊かな白髪の頭で、がっしりとした体付きはまだまだ力が漲っているように貫禄のあるものだ。並ぶように一歩後を歩く男の方は、腕に3、4才の子供を抱いており、眼鏡をかけた顔には優しい笑みが浮かべられている。父親なのだろうその男の肩に顔を埋め、抱き上げられている子供は既に寝ているようだ。
 タイミング悪く客の帰りに鉢合ってしまった俺に、叔母は瞳だけで小さく苦笑しながら声をかけて来た。
「お帰りなさい、大和さん」
 ただいまと返す言葉に軽く頷き、彼女は客の靴を並べ靴ベラを手に取る。和服姿で膝をつく叔母は、身内贔屓ではないが、映画のワンシーンのように印象的だ。その物腰の柔らかさは、とてもではないが元戦場カメラマンには思えない。変われば変わるものだと言うよりも、昔の彼女を知る身内としては詐欺に近い変化だ。
 ふと視線を感じ顔を上げると、座敷へ続く廊下と玄関の間に男が一人立っていた。女性ならば見惚れるだろう、その辺の映画俳優よりも整った顔立ちの人物は、けれども同じ男としてはプライドを刺激してくるタイプだ。ただ立っているだけなのに、嫌味な程決まっているのが憎たらしい。
 何故か中途半端な場所で歩みを止めている男を更に観察しかけた時、男の視線が玄関の光景ではなく、はっきりと自分に向けられているのに今更ながら気付き、俺は驚きに小さく息を飲んだ。切れ長の目の瞳にはまるで自分しか映っていないのではないのかと、そんな錯覚をしてしまいそうになる程の強い視線に射抜かれる。ドキリと心臓が脈打った。だが、次の瞬間には背筋に寒気を覚えた。女性ならば魅入ってしまうのかもしれないが、男が纏う雰囲気はヤバイものを含んでいる気がする。いや、気ではなく。実際、初対面の子供相手にこんな視線を向ける大人がロクな人物である筈がないだろう。
 何だってこんな目で見られなければならないのかと、恐怖ではなく純粋な疑問で思わず首を傾げた俺は、自分の動きに反応したかのように男の眉間に皺が寄るのを見た。その瞬間、疑問は苛立ちに変わり、俺の中では不快さが込み上げてきた。……これは、見られているというよりも、ガンを飛ばされていると考えるべきなのだろうか。しかも、半端なガンではなく、まさに脅威だ。なめてかかると確実に地獄を見そうな、そんな類だ。
 何故そんなものをというよりも、ここまでくれば、向けられている事実がただただ腹立たしい。
 …人を勝手に見るんじゃねーよ、オッサン。自分の眼力を知りたいのなら、女を相手にやっていろ。
 苛立ちに周りの状況さえ忘れかけ、叔母の客に対し思わず落としそうになった俺の舌打ちを止めてくれたのは、子供を抱いた男の声だった。
「エイ、どうした?放っていくぞ」
「……ああ」
 呼び掛けに応じ進み始めた眼力男は、まるで余計な物を見ていたかのように、時間の無駄をしたというかのように、存在そのものを否定するように俺の前を通り過ぎた。余りの変わりように何がなんだかわからず呆けかけたが、それ以上に男から感じる拒絶に似た空気に、更に怒りが沸く。
 一体何様なのか、この男は。俺が何をしたというんだ、クソッ。ムカツク!
 叔母が背を向けているのを良い事に、俺は眉を寄せたままその男を眺めた。靴を履き終えると、眼鏡男の腕から子供を抱え上げる。抱き慣れている様な仕種から、もしかすればこの男が父親なのかもしれないと一瞬思ったが、はっきり言って恐ろしく端整な顔を無表情で取り繕っている者に眠る幼子は似合わなさすぎる。やはり父親は、もう一方の男だろう。
 叔母に今夜の礼を口にする年配の男の声を聞きながら、俺はその一群をもう一度眺めてみた。男三人に、眠っている子供が一人。ただそれだけだというのに、何て存在感があるのだろう。空気の密度が急に濃くなったかのように、辺りを支配している。一体、どんな関係の者達なのだろうか。顔を見る限り血の繋がる家族ではなさそうだが、雰囲気はどこか似ていた。纏う空気から、単なるサラリーマンではなさそうなのもわかるが、これと言ったものは浮かばない。一人ひとりは、政治家や企業家、弁護士や役人など色々あて嵌まりそうだが、子供がいるのだから今夜の会食は仕事抜きのものなのだろう。
 共通点は何なのか。そんな事を考えている俺に、エイと呼ばれていた男がまた視線を向けて来た。先程の射抜くようなものではないが、無表情には似合わない何らかの感情が込められて居るような眼だ。何処か物言いたげなそれが、勘につく。顔は良いが性格はそれほどでもなさそうな男の様子に気付いたのか、側の眼鏡の男も俺を見、にこりと笑いかけてきた。ムカツク男とは違い、その男の笑みはささくれ立った心を癒してくれるかのようなものだ。
 可愛い寝顔を見せる子供の父親は絶対この男の方だと妙に確信する俺は、何故彼らに注目されたのか遅まきながら気付いた。年配の男が俺を話題に上げていたのだ。
「あら、イヤですわ、水木様。こんな大きな子供が居るように見えます?私、まだ37才ですのよ」
 息子ではなく甥ですとの叔母の上品な笑い声に押され、俺は仕方がないと男達に挨拶をして頭を下げる。だが、俺自身がそれ以上捕まるのが嫌ならば、叔母としても仕事の邪魔をされては困るというもので。彼女は外まで送らせて頂くと、早々に客と共に玄関を潜り出て行った。
 一気に疲れが増したように感じるのは、気のせいではないだろう。嫌な男だったと、端整な顔を頭に浮かべながら、先程止められた舌打ちを漸く落とし、俺は深い息を吐いた。正直、友好的な視線を向けられる事に慣れている身には、あの男の強い視線はキツイ。今更ながらに怖いものだと感じ、緊張した後のようにドッと汗が噴出した。

 いつの間にか強張っていた体を軽く解きほぐし、終わった事だともう一度深い息を吐く。ここに留まっていては見送りの終わった叔母に捕まってしまうと自室へ向かいかけた時、客間が並ぶ通路から仲居が一人足早にやって来た。
「あ、大和さん。女将さんを見ませんでしたか?小さな男の子をお連れになったお客様、もう帰られましたかね?」
 知りませんかと訊ねてくる声が焦っており、何事かと首を捻る。少し頼りないと言われている若い仲居の手には、小さな赤い車の玩具があった。忘れ物なのだろうか。
「今、それらしき客を送りに外へ出たよ、女将は。それ、忘れたの?」
「ええ。座敷の隅に転がっていたんです」
 間に合って良かったと胸を撫で下ろし足を踏み出しかけた彼女を、廊下に現れた客が呼んだ。手洗いにでも立ち迷ったのか、気まずそうな声音で部屋への戻り方を訊ねる。返事をする筒井さんに、俺は深く考えずに勢いで提案を起てた。
「俺が持って行こうか、それ」
「え?」
「まだ女将も居るし、確認して渡すだけだろう?」
「いいんですか? 済みません。では、お願いします」
 俺がミニカーを受け取ると、彼女はパタパタと着物の裾を気にしながらも小さな音を立てて客のところへ向かった。普段はそうでもないが、慌てると他へは気が回らないタイプなのだろう。確かに、老舗料亭の仲居としては少し落ち着きがないのかもしれない。だが、自分と同い年の女の子である事を考えれば、充分やっているように思える。
 客を連れて行く仲居を見ながら、現実逃避のように自分がしても意味のない評価を下しつつも、俺はまたあの男と顔を合わすのかと息を吐いた。別に問題がある訳ではないが、先程の事を考えれば、確実に面白いものではないだろう。
 脱いだばかりの靴を履き外へ出ると、門を潜ってくる叔母と目があった。もう既に客を見送った後のようだ。
「どうしたの?」
「今の客、忘れ物したみたい」
 慌てて道を伺う叔母に声をかけながら、俺はマウンテンバイクを抱えて小走りに駆けた。ついていない、最悪だ。
「大丈夫なの、大和?」
「微妙だな。携帯の番号とか聞いてないの?」
「自宅ならわかると思うけど…」
「なら、駄目元で追いかけてみようか?」
「ええ、お願い」
 残念ながら直ぐに連絡を取る方法はないらしいが、車が向かうのはあちらだと街道の名を口にする叔母に背負ったままだった鞄を預け、俺は追いつかなさそうなら直ぐに戻って来るよと告げるとペダルに足を掛けた。話している時間が勿体ない。
「多分、どこかの信号で捕まっているさ」
 車が向かった方向とは逆に踏み出した俺の背に、失礼のないようにねとの叔母の声がかかる。失礼も何も、追いつくかどうかもわからないのだから、俺としては気を付けろとの言葉が欲しいところだ。自ら動いたというのに、何だかいいように使われている感じがして、俺はスピードをあげながら軽く舌打ちを落とした。漸く帰り着いたのに、何をしているのか俺は。本当にツイていない。
 叔母の勘が正しければ、裏道をいくつか通り抜け表通りへ出れば捕まえられるはずだ。車は幸いにも、やはり先程見た路地に停まっていたベンツのようなので、見落とす可能性は低いだろう。文句を垂れていても仕方がないので、疲れた体に鞭打ちペダルを漕ぐ。流石に真夜中だけあり、住宅地の細い路地には人影がないので、どんどんと速度をあげても怒られる事はなさそうだった。バイトに遅刻しそうな時も、ここまで飛ばした事はないのかもしれないと考えながら、とにかく前へと進む。
 不意の地面の凹凸に、ジャケットのポケットでミニカーが跳ねた気がし、俺は慌てて手で押さえ確認した。小さな車は大人しくそこに収まっている。落としては大変だと片手でチャックを閉めながら、緩い坂を一気に上った。
 食事の席にまで持って来ていたのだから、きっとお気に入りの玩具なのだろう。あの子供が起きた時にそれがなかったならば、大人達は気付き店へと電話をするだけだろうが、持ち主にとっては一大事なのかもしれない。眠っていた子供の泣き顔を想像し、間に合えば良いなと俺は暗い道を駆け抜けた。

 あがった自分の息で喉が痛み出した時、漸く表通りへと出る。すでに追い抜いていると思うが、とりあえずは車の進行方向へ行こうと左に曲がりかけ、交差点に静かに止まっている目標物に気付き俺は慌ててハンドルを切った。だが、左折する気満々だったので、突然の頭の判断に体がついていかず、曲がり切れずに歩道から車道へとはみ出す。後続車がいたら、間違いなく俺は轢かれていただろう。
 危なかったと冷や汗を流しながら見やった信号は、青から赤へと変わるところだった。動いている車がいないのを良い事に、俺は歩道には戻らずにそのままベンツに近付いた。右折レーンに停まる車の運転手がギョッとした視線を向けてくるのに気付き、スミマセン大目に見て下さいと俺は頭を下げる。だが、料亭の前では気付かなかったが、ベンツは全面スモークガラスで近付きがたい雰囲気を放っているのに気付き、驚かれたのは交通マナーの点からではなくまた別の意味なのだろうと悟る。
 俺だって出来ればこんな車に関わりあいたくはないが、このまま帰る訳にも行かない。あと一歩遅ければ、今夜はもう接触出来なかっただろう。果たしてこれは、運が良いのか悪いのか。それはわからないが、この車を捕まえる為にこんな夜中に自転車を飛ばしてきたのだから、ここで止めたら俺は単なる間抜けになってしまう。世間の冷たい目は、少しの間は無視だ。気にするな。
 交通量はそう多くはないのでこのままでも良いさと開き直り、俺はバイクに乗ったまま、右の窓ガラスをノックした。信号が変わったのだろう、右折車がゆっくりと動きだす。ベンツの後続車に追い抜かしてくれるよう促していると、「何だ?」との愛想のない声が俺の直ぐ側で上がった。
 振り向くと、強面の兄さんが間近で俺を睨んでいた。乱れた髪を直すのも忘れ、呆然と見返してしまう。予想していた人物と余りにも違うその姿に、車を間違えたのかと背筋が凍る。
 どこをどう見ようと、アチラ系の男だ。
「あ、あの『萩森』の者ですが……」
 そこまで言うのが精一杯で、言葉が続かない。ヤバイ!どうしよう!頭にあるのはそれだけだ。神ではなく、たとえ悪魔でも良いから、とりあえず助けてくれ。その代償に、また後で悩む事になるとしても、この今を俺はどうにかして欲しい。
 間違えましたと逃げ出したくとも、下手に動けば車に轢かれてしまうだろう。前門のヤクザ、後門の夜中の街道。さて、どちらの方が生存確率が高いだろうか。統計学はまだ齧り始めたばかりの俺には難問だ……。
「――坂下、脅すな」
「脅していません」
「お前は、顔が悪い」
 他にも仲間が居るのかと、聞こえた声に震えたのも一瞬。強いではなく悪いのだと、身も蓋もない言い方をして助手席側から顔を覗かせて来たのは、先程の眼鏡の男だった。マウンテンバイクに跨がった俺には車内の奥は見え難く、そこで漸く車を間違えた訳ではないのを知る。だが、わかったからと言って直ぐに強張りが解ける訳もない。
「追いかけて来たようだけど、どうかしたのかな?」
「あ、え…?」
「用があったんじゃないのかい?」
「は、はい、そうです。あ、あの……こ、これお忘れになっていませんか?」
 何故にチャックを閉めたんだと自分を恨みつつも、手際悪くもどうにかポケットから玩具を取り出し、違いますかと差し出す。絶対にそうだと確信をもって追いかけてきた筈なのに、自分の顔から段々と血の気が失われていくのが良くわかった。もし勘違いだったら命はないのかもしれないと思うと、みっともないが手が震えてしまう。
「ああ、ミニカーね。落としたのかな」
 忘れて来たんだねぇ、と俺を安心させる為か砕けた言葉で男はゆっくり話すが、あまり効果はなかった。玩具は間違いではなかったが、俺の認識も間違いではなかったようで、更に背筋が冷える。延ばした腕で玩具を受け取る前に、気が利かないと眼鏡の男は運転手の頭を叩いた。ヤクザの頭を叩く男が何者なのか、半分麻痺した頭でもわかるというものだ。
 スンマセンと謝る強面男の声を聞きながら、俺は30代だろうがそれにしてはやけに綺麗な男の手にミニカーを乗せた。思わずマジマジと指を眺めてしまったのが、多分バレたのだろう。クスリとした軽い苦笑が耳に届き、俺はカッと赤くなり、次の瞬間には青くなった。
 決して指の損傷を確認していた訳ではないのだが、気まずさを覚える。
 やっぱり、このヤクザにしか見えない兄さんの扱い方からして、この眼鏡男もソチラ系なのだろう。ならば、後ろに居るだろうあの二人も、同類か…?
 先程見た、玄関で居並ぶ姿を俺は頭に思い浮かべる。とてもではないが、疑問を持ってもおいそれとは訊けはしない質問だ。
「態々悪かったね」
「あ、いえ…。じゃ、俺はこれで……」
 軽く頭を下げた時、後部座席の窓が音もなく下がりあの眼力男が顔を出した。運転手の男が可愛く見えるくらいに、その表情は冷たく目にも感情がない。
「名前」
「……?」
 真っ直ぐ見られていても自分に言われている感じがしない、不可思議な問いだった。
「…名前は?」
「俺の、デスカ?」
「他に誰がいる」
「……」
 その物言いも癪に触ったが、それよりも、さっき自己紹介したばかりだという思いに眉が寄る。早くも忘れたのか、それとも聞いていなかったのか。何故またこの状況で名前なんかを訊いてくるのか、胡散臭さ満開だ。
 覚えたいのなら一度で頭に入れろよと、からかわれている感にムッとしながらそう胸中で悪態をついた俺は、けれどもこの男もヤクザなのかもしれないと思い出し、何とも言えない気分になる。……ヤクザに名前を覚えられては、無駄に精神的苦痛を味わいそうだ。教えたくなど無い。
 中途半端な表情を作る俺は顔を引きつらせながらも、それでも無視をする訳にはいかないのだと、名前を口にした。今ここで撥ねつけたところで、白髪男か眼鏡男が先の会話を覚えているだろう。拒絶しても意味がない。
「千束大和…です」
 無言で凄んでくるような男相手に名乗りたくはなかったが、最早抵抗する程の意地もない。するのも馬鹿らしい。ヤクザと言う人種に恐れもあったが、それ以上に威圧的な男に俺は完全に負けていた。いや、負けているというよりも、勝負から逃げているのだろう。今夜はもう、これ以上疲れる事はしたくはない。
「ご苦労だった」
 女将にも宜しく伝えてくれ。事務的に淡々と男がそう口にすると同時に、車が話し終えるのを待っていたように発進し、滑らかに走り去って行った。俺は呆然と首だけで振り返り、小さくなる車を見送る。
「――何なんだよ、一体……畜生ッ!」
 思い出したように、悔しさが胸の中で荒れ狂った。何が何だかわからないが、あの男の視線が頭にちらつき、苛立ちが一気に膨らむ。不意打ちでビビらされた分、先程以上に腹が立つ。
 ムカツクと、顔を顰め舌打ちした俺の横に、軽自動車が遠慮気味に並んで来た。ハッと気付き信号を見ると、赤だった。
「こら、お前っ!」
 ピピーと警笛が響いた直後に、大きな声が背後から近付いて来た。横断歩道を警官が二人走りながら、明らかに俺に向かって怒っている。ヤバイと慌ててバイクを降り、歩道へと出た。相手は徒歩だ逃げられるかもと考えもしたが、流石に簡単には出来ず、迷っている内に捕まってしまう。
 やって来た警官は少し前から見ていたらしく、何をしているのかと呆れまじりに怒られた。停まっていた車は知り合いなのかとまで訊かれたが、運転手に注意をしておけと言われただけで終わった。俺はヤクザにどうやったら注意出来るのかと溜息を吐きながらも、ひたすら謝っておいた。最低だ。今夜は本当にツキが無さ過ぎる。

 バイト帰りに通ってから一時間も経っていない道を、先程以上にゆっくりとペダルを漕ぎ進む。疲れた頭で、あの男達は何者なのかと俺は考えた。先程は焦ってしまい他の考えは持たなかったが、運転手がただ少しばかり柄の悪い奴というだけで、彼らが皆ヤクザだと言う訳ではないのかもしれない。
 少なくとも、眼鏡の男はとても人の良さそうな、優しげな人物だった。年配の男は、ヤクザと言うよりももっと一般人臭い雰囲気だ。そして、あの人の感情を逆撫でしてくる男は、それらしい恐さはあるが顔が整いすぎていた。偏見かもしれないが、俺の中では美形のヤクザは現実世界に存在しない事になっている。そんなものは映画や小説の中だけだ。
 そういえば。どうでも良いが、あのベンツは右ハンドルだったなと、今更だが思い付く。外車は普通、日本でも左ハンドルで売るものなのか、態々付け替えて貰うものなのか、どちらでも選べるようになっているものなのか。庶民なのは勿論、免許は持っていても男にしては車に関心が薄い俺には、ちょっとした疑問だ。もし本当にヤクザならば、粋がると言うのではないが、左ハンドルを好みそうな感じがする。
 そんな馬鹿なイメージを頭に描きながら料亭に戻った俺は、感謝を述べる叔母に男達の事を訊いてみた。しかし、当然の事ながら彼女は当たり障りのない答えしか返してくれなかった。
「水木様?あの方は大きな会社の社長さんよ。それが何?まさか大和、馬鹿な事したんじゃないわよね」
 頑張った甥に何て事を言うのか、この叔母は。いやそれより、社長とは、また何て怪しげな事を。一体何のボスだかわかりはしないじゃないか、…怪しすぎる。
 眠い目を瞬かせながら叔母を眺めたが、それ以上は相手にしてくれなかった。そうなれば俺の方もしつこくは出来ないので、納得はしていないがそこまでにしておく。俺が客の素性を知る必要などなく、また叔母にも教えなければならない義務はない。
 だが、これが極一般的な叔母ならば。甥を客とはいえヤクザなどに近付けたりしたくはないと、つまりはそういう事になるのだろうが、俺の叔母は平気でヤクザだろうが何だろうが相手をする性格だ。これが何らかの答えになっている訳ではないので、安心は出来ない。
 大学を出ると同時に戦場に行き、その中で生活する現地の人々の様子をカメラに収めていた叔母の物の考え方は、実にシンプルだ。その程度では死にはしないから安心しろと、何かを相談する度そう言われた。具体的な解決策を望むと、手足も頭もあって動けるのだから自分で対処しろと、よく鼻を摘まれ説教をされた。どうやらこの叔母は、死なない限りは大丈夫、などという豪快な理論を持っているのだと幼い俺が覚えるのにそう時間は掛からなかったように思う。
 歳をとり丸くなったのか、料亭の女将になり考え方が変わったのか、今ではそう言う事は殆ど口にはしないが、根本的にその性格は変わっていないだろう。どちらかと言えば、俺が大人になり、一方的な受け身ばかりではなく受け流す術を覚えたという事だ。
「あぁ、そうだわ大和」
「何?」
 自室に向かいかけた俺を呼び止め、叔母は母親から電話があった事を告げてきた。
「そうか…ごめん」
「別にあんたが謝る事じゃないわよ。でも、兄さんは兎も角、義姉さんは心配しているんだから、一度ちゃんと顔を見せに帰りなさい。時間が経つ程、敷居が高くなるわよ」
「考えておくよ。俺もこのままで良いとは思っていないしさ」
「あんたは変に真面目で片意地で、優し過ぎるからね」
「何それ、馬鹿みたいじゃん俺」
「馬鹿じゃないけど、気難しいのよね若いくせに。苦労するわよ、今からそれだと」
 もう少し羽目を外しなさいよと、叔母は笑った。その笑みに笑い返しながらも、言われた言葉は受け入れがたく、俺はお休みなさいとその場を後にした。
 確かに、自分は可愛げのない子供であったと思うが、叔母が言うように真面目であった訳ではない。ただ、意思が少し弱かった。いや、意思と言うよりも、父親に抵抗する意地があまりなかった。自分では違うと思いながらも、親の言うがまま進んで来たのは、子供なりに自分と親の言葉を天秤に掛けた結果だった。しかし、今にして思えば何も知らない子供が、社会的地位を築いた大人に勝てる程のものを持っている訳がないのだ。それなのに、馬鹿な俺は平等に扱い選択していた。ある意味健気だったのかもしれないが、簡単に言えば、ただの無能だろう。
 決して父の言葉が正しいと思っていた訳ではないが、俺は打ち負かす努力をする程のものを自分の中に見つけられなかった。その結果が、今の自分だ。関心の持てない医学部に進み、見事に挫折した。生半可な気持ちで現場に立つ自分が許せず、誰に相談する事もなく大学を辞めた俺を、両親は微塵も理解しなかった。だから、家を出た。
 それなのに、結局は叔母の家で世話になっているのだから、彼女がいう事は尤もである。だが、それでも、俺にだってプライドはあるのだ。今のところ父は勿論、母にも会うつもりはない。
 やっぱり迷惑をかけているなと、早く出て行かなければなと、俺は頭に叩き込む。こんな風にして叔母に甘えるのも、限度があるだろう。
 シャワーを浴びベッドに潜り込んだのは、真夜中をまわっての事だった。目を瞑ると、何故か親との確執ではなく、真っ直ぐと自分を見て来たあの男の眼を思い出した。酷く疲れているのに、俺はなかなか寝付けずに自分を持て余す羽目になった。

 物言わぬその目が父のものに似ていると思い付いたのは、漸く暗い深みに身を委ねた時で、何がどういう風に似ているのかなどという考えまでには至らずに終わった。


2005/07/19