2


 居候先の料亭から大学までは、測った事はないがマウンテンバイクで半時間はかかるので、多分7、8キロはあるのだろう。体を動かすのは好きなので、雨の日以外は電車を利用せずに通学しているのだが、流石に今朝は辛いものがあった。明け方近くに漸く眠り、2コマ目の授業に間に合うように起きたので5時間程しか寝ていない。8時間以上は睡眠を摂らないと頭が働かない俺としては、かなり物足りないものだ。
 大教室に入り空いていた席につこうとすると、後ろから名前を呼ばれた。振り向くと手招く友人の姿があり、仕方がないなと汗を拭いながら俺は階段を上る。エアコンの使用は決められており、冷房は六月に入らなければつけられないらしい。
「おはよ。なあ、黒板遠すぎないか?」
「大丈夫、大丈夫。それよりさ、今夜ヒマ?」
 根拠のない言葉に呆れながら隣の椅子に座ると、覗き込むようにしながらそう尋ねられた。近すぎると立原の頭を押しやり、俺は無理だと答える。
「駄目、バイト」
「マジかよ、休めよそんなもん。誰かに代わって貰え。猪口や下西達と数学の同期集めて飲むんだ、お前も顔だせよ。千束が来たら女の子も喜ぶからさ、お前を連れて来いって言われているの俺、なぁいいだろう?」
「悪いな、また今度」
 頬を膨らませる立原の表情に苦笑しながら、謝る必要は特にないのだが、悪い気にもなり口にする。二才も違うと歳よりじみているのか、大学という環境に慣れているから余裕があるのか、同期生達の活発さを俺はどちらかと言えば微笑ましく感じてしまう。
 二年前の俺もこんな風に、足を踏み入れたキャンパスで弾けとんでいた。内面では自分の中にある違和感に苛立ったり落ち込んだりもしていたので、外に見せる面は必要以上に張り切っていたと思う。それこそ、未成年のくせに飲み会ばかり参加していたし、女の子とも良く遊んでいた。ただの医学生でしかないのに、エリート意識の高い連中が多く、遊び方は派手な方であったと思う。
 あの頃の自分に比べれば立原達はまだ可愛いものだと、「今日は駄目だけど、また誘ってくれよ」と俺は下手に出て頼んでおいた。勿論、常に金欠であまり余裕はないから、付き合えるのは限られるぞと、忘れず釘も刺す。諭吉が要るようなものは、お断りだ。
「金欠って、バイトしてんだろう?」
「家教が3人」
 鞄から引っ張り出したノートを仰ぎ風を起こしていると、「何年?男、女? っていうか、バイトでダメなのはいつなんだよ?」と立原はペットボトルの蓋を開けながら訊いてきた。俺も何か飲むものを買ってこようかと時計を見るが、生協に行き戻ってこられるだけの時間はないし、動く気力そのものもない。
「今のところは、月と木が高三の男で、水が中一のこれも男。っで、土曜の昼に中三の女の子。夏休みになったら、他のバイトも確実にするな」
 そんな俺の説明で立原が反応したのは、女の子と言う言葉にだった。判り易い男だ。
「中三!いいね〜、女子中学生! なあ、可愛い?」
「聞くのはそこかよ」
「当然だろう」
 他に聞く事はないと言うような力強い言葉に、俺は苦笑を零す。
「ああ、そうだな。かなり可愛い部類に入るんじゃないかな。箱入り娘だから、中身も文句なしだし」
「おぉ〜、男のロマンだな、それは。羨ましい。写真ないの?」
「ある訳がないだろう」
「何でだよ、携帯でいいから撮っておけよ。今度見せろよ。っていうか、紹介して」
「馬鹿な事言うな、俺をクビにさせる気かお前。第一、14才に手をだしたら犯罪だぞ、ロリコン」
「おいおい、人聞きの悪い事いうなよ。お嬢様のその娘は兎も角、今時の中三は充分女だろう」
「女じゃないよ、女の子。少なくとも、俺はそう意味で相手にしたくはない」
「そうか?後2、3年もすれば問題ない年齢差じゃん。こう、今はプラトニックな愛を育んでさぁ、いずれは……とかも思わないのお前?」
「思わない。お前は、そこまで飢えているのか。虚しいな立原」
「……この歳で、女に飢えていない方が可笑しいぞ。顔がイイお前は選り取り見どりなんだろうがな、これが普通なんだ」
 俺の顔云々は兎も角、確かに18歳の男ならばそうだよなと内心で同意し笑いながらも、俺はいい加減にしろよと頭を叩いてやった。しかし、それで反省したわけでもないのだろうが、立原は叩かれた勢いのまま机に突っ伏し、しおらしく見上げてくる。
「いや、それにしてもマジな話さ」
「ん?」
「家教で受験生を二人も見るのって、大変じゃないのか?」
「ああ、二人じゃない、受験するのは高三の一人だけだ。中三のその子はエスカレーター式の学校に通ってくれているから、高校受験はないんだよ。しかも、高三の奴は教える必要がないくらいに頭がイイ。だから、受験生といっても、バカな餓鬼より楽なものだ」
 高三生に関しては、俺は教師じゃなくただのサポーターだと笑ったところで、教壇に教官が立った。頭が綺麗に禿げあがった教授がマイクを使って話を始める。毎回自分が気になる時事問題をひとつとりあげ五分程講義には関係のない雑談をするのだが、今日は今週に入り発表された有名企業の合併についてのものらしい。聞いている者は半分にも満たないだろう眠気を誘うような声が、大教室に響く。
「千束ってさ、確かサークルにも入っていたよな?」
 幾分か声を落として尋ねる立原に、俺が活動するのは毎週金曜日だけのテニスサークルの名を告げると、「誘える日が限られてんじゃん。もっと遊ぼうぜー」と肘あたりのシャツをぐいぐい引っ張られた。可愛い女の子が構って欲しくてするのなら兎も角、男にされても嬉しくないし可愛いくもない。
 鬱陶しいぞと見下ろす視線で黙らせ、俺はシャツから立原の手を外し、漸くはじまった授業に集中した。

 2コマ目の後、そのまま立原と学食で昼食を摂り、3コマが始まるまでそのままそこで馬鹿話をしていた。その頃には眠さも限界を超えていたからか逆にスッキリしており、その状態で挑んだ体育の授業で俺は人一倍弾けていた。苦手なバレーボールであれ程まで燃えたのは初めてだろう。
 しかし、その次の4コマは大半がビデオ鑑賞の一般教養で、我慢する間もなく爆睡してしまい、チャイムの音で気付き慌てて周りの友人達にビデオの内容を聞きながら出席がわりのレポートを書く羽目になった。教室を出て行く教師を捕まえる俺を見ながら笑っていた友人達にはかなり腹が立ったが、怒ってもそれは八つ当たりでしかなく空しいだけだと、溜息ひとつでやり過ごした。今後、仕返すチャンスは幾らでもあるだろう。
 バイトまでの時間を調整する為、放課後、俺は図書館のパソコンの前に座った。来週始めが提出期限になっているレポートがあったが、はっきりしない頭を使って書ける程簡単なものではなく、週末に仕上げる為にネットで適当に資料を取り込んでおくだけにする。FDにデータが書き込まれる音を聞きながら、俺は何度も大きな欠伸をした。衝立で区切られているので、覗き込まれない限り目撃される事はない。
 隣のブースには、3回生か4回生なのだろう、スーツ姿の数人が一台のパソコンに向かい盛り上がっていた。きっと、就職活動中なのだろう。自分と同じ歳の彼らがネクタイを締め頑張っているその姿は、俺には少し眩しく思える。羨ましいというものではなく、ただ何となく、いいなと思う。焦っているわけでも、無駄な回り道だったと思う訳でもないが、この年齢の二年間というものはそう短くはないのだと無性に実感する。俺より二年分先を行く彼らが、単純に輝いて見える。それこそ、早く大人になりたいと願う子供のように。
 今のところ、俺は教師になりたいと思っている。医学部を辞めると決めた時、自分の中には受験生だった二年前の高校時代と同じく、何の夢も目標もない事に気付いてはいたが、それでもこれ以上続ける事は出来ないと自らその道を断ち切った。実際に将来医者になるかどうかはわからなかったが、医学に触れている事自体が堪らず、そんな自分自身が心底嫌で、俺は己を見失いそうな程精神的に参っていたのだ。ベストかどうかはわからないが、それ以外の選択がなかったのは確かだろう。だが、そうして全ての柵から抜け出した後、そこから逃げたのは自分なのに、手には何ひとつ持っていない事に恐れもした。そんな事は初めからわかっていた事なのに、だ。
 自分が思う以上に、あの時の俺はボロボロだったのだろう。大学に退学届を出した後、数日間下宿に引きこもっていた時の俺は、自分で言うのもなんだがかなりヤバかった。それでも己の選択を納得し後悔はないと帰った実家では、理解を示さないのは勿論、勘当を言い渡される程に非難されたのだから荒れるのも当然だろう。見事、躁鬱状態を繰り返すよう、両親と遣り合い一人沈み込む数日を過ごし、俺は父親に言われるまま家を飛び出した。
 そんな俺を救ってくれたのは、兄だった。
 兄の大地は、将来などまだ考えないだろう子供だった頃から父の後を継ぐ気はないと宣言するくらいに意思の強い人物だ。だが、自分という者をしっかりと持っているという意味であって、我が強い訳では決してない。第一印象は誰もが優しいと言うだろう、弟に対しては過保護なくらいにまでそれを発揮する、柔らかい性格だ。意志を貫く姿勢は彼をよく知らない人が見れば頑固にも思えるものだろうが、兄は自ら築いた答えをただ信じているだけに過ぎない。それは間違いだと確かな理由をもって示せば、きちんと訂正出来る者だ。兄弟ではあるが、両親の顔色を見て進んできた自分とは全く違うそんな兄を、俺は信頼している。
 だが、長男なりに悩み考えての事だろう彼の決断は、やはり両親にはあまり伝わらず、兄と父は昔から喧嘩ばかりしていた。そんな彼らを見て成長した俺は逆に反抗らしい反抗をする事はなく、だからこそ兄にすれば弟が歯痒くあり不憫でもあったのだろう。小さな頃は良くシャキッとしろよ嗾けられていたが、いつの間にか気付けば守られる事の方が多くなっていた。父が次男に向ける期待と干渉にも敏感で、事あるごとに俺に代わり意見をしてくれていた。それは二十歳をとうに超えても変わりはしていない。
 突然家を出て転がり込んだ俺を追い出す事もせず、逆に俺の選択は間違ってはいないと、兄は励ましてくれた。焦らずとも、ゆっくり興味が持てるものを探せばいいと、何もない俺を認めてくれた。教師になってみたいと伝えた時の兄の顔を、俺は多分一生忘れないだろう。あの時、彼は自分の事のように嬉しそうに笑っていた。それを見て、漸く俺は、自分の中の蟠りを消化する事が出来た。
 そんな兄からは、ほぼ毎週のようにEメールが届く。大変なのはドイツの研究所に勤める事になった彼の方なのに、俺の事ばかりを気にかけてくれている。両親が両親なだけに、兄弟の絆が余計に固くなっているのだろう。兄が心配してくれるのは、素直にありがたいと思う。
 だが、自分は上手く彼の期待に応えられるのか。いつかまたすっぱりと、俺は自分で選んでおきながらこの道を切ってしまうのではないか。馬鹿げているが、そんな不安が消えないのも事実だ。もし、そうなったら。その時、兄は俺をどう思うのだろうか。そんな怯えが、俺の中には常に存在している。それはただの俺の弱さなのだろう、友人達とバカをして笑っている時は忘れるような小さなものだ。だが、小さくとも消してしまえない自分の狡さが、俺は堪らない。
 立原が思う程も、俺が今やっているバイトはそう大変な訳ではない。流石に生徒をこれ以上受け持つ事は無理だが、別の仕事は増やそうかと考えている。ただ、実行に移す気力が沸いてこないのが最大の問題だ。まさに五月病とでも言うように、やる気が出ない。気持ちばかりが空回りしているかのように、焦りだけが体の中にあり意欲は急降下気味だ。金を溜めて自立しよう、バイトを増やそう。そう思うばかりで、体は動いてくれない。
 俺はまた、言い訳を用意し逃げ道にそれようとしているのだろうか。
 そうかもしれないと思う。しかし、そうではないのだと思いたいのも確かだ。教師になりたいという思いは変わらない。だが、それを選んだ時の自分が、少し信じられないようになっているのも事実であるような気がする。どん底で見つけたそれに、俺はただしがみついているだけではないのだろうか。こんな風に意地になっておらず、大学を辞め働き始める方がいいのではないか。社会に出るのが怖くて、キャンパスという狭い空間に甘えているのではないか。
 そんな思いの全てを否定する事は、今の俺には無理だ。
 パチリとパソコンの電源を落としながら、自分の悩みや疲れなどのマイナス部分の全てがこんな風に簡単に消えてしまえばいいのにと思いつつ、俺は図書館を後にした。校舎の向こうに見える太陽が、柔らかい赤に染まっている。
 予想以上に、俺は図書館で時間を潰していしまったらしい。携帯で時刻を見ると、そろそろバイト先に向かわねば間に合わない時間になっていた。


 バイト先の家に着いた時は、辺りは既に薄暗くなっていた。駐車場脇にマウンテンバイクを停めながら、いつもとは違う様子に首を傾げる。家人の車の出入りを塞ぐような形で、黒塗りの車が一台、些か乱暴気味に停められていた。誰か客でも来ているのか、少し離れた路地にも、似たような黒塗りの車が二台縦列駐車している。個々に広い駐車場を持つ高級住宅地にしては珍しい光景だと感じたが、だからと言って違和感もない。街中の客待ちタクシー並みに停まっていれば異様だが、高級でも何でも住宅街なのだから路駐もあるだろう。
 だが、いつものように門を開けたところで、いつもとはやはり違う事に俺は気付いた。いや、気付かされた。
「…オイ。何だ、お前は?」
 植木で少し死角になる玄関前にでも立っていたのか、門の開閉音に気付き慌てるような足取りで近付いて来たのは、見知らぬ若い男だった。幾分しゃがれた声だが、見た目からすれば二十代半ばだろう。しかし、そのスーツ姿は少し先程みた就職活動の学生を思い出させた。全く似合わない訳ではないが、不格好である。まさに、着ているのではなく、服に着られているような感じだ。
 スーツを着慣れぬ感じのこの男は誰なのだろうか。この家の主人の会社関係者にはとても思えないし、その息子の友人にも見えない。ならば、親戚かただの知り合いか。訪問セールスマンなどという事は、流石にないだろう。これで営業をするならば、バイト学生の方が断然マシに思える。少なくとも、図書館で見た彼らの方がスーツは似合っていた。
「取り込み中だ、出直せ」
「……はっ?」
 一体誰なのだろうと考えている俺の耳に、理解しがたい言葉が流れ込んできた。思わず何を言っているんだと驚きを表すと、その隙をつくように男は俺を押す。そう強い力ではなかったが、抵抗する気にはなっていなかったので、簡単に数歩後ろへと下がらされ、ガシャンと俺は開けた門を入る前に閉じられてしまった。閉まった門を眺め、眼前の男へと顔を戻す。
 どういう事なのか、これは。何故、追い出されているのだろう、俺は。
「…ええっと、あの、」
「帰れ」
「いや、そう言われても…」
 はいそうですか、で帰れる訳がない。だが、まるで追い払うかのように男は顎で俺の退場を示した。最低限の礼儀も知らないのだろうその仕草に腹が立つ。何者かは知らないが、それはこの男とて同じなのではないだろうか。雇われている身とはいえ、俺は頼まれてこの家の息子の勉強を見ているのだ。実際は偉そうな事が言える程も指導してはいないが、それでもこんな風に追い返される立場ではないはずだ。
「俺は約束をして来ているのだから、悪いですが貴方の言葉だけでは帰れませんよ」
「ウルサイ、帰れ」
「無理です。俺は貴方に雇われている訳ではありません」
「いいから、帰れっ」
 睨みつけてくる男の眼は、昼間なら多少の威力はあるのかもしれないが、薄闇の中では効果は半減で痛くも痒くも感じない。何より、得体の知れないこの男に良い悪いを判断されても、意味がない。
 そんな事もわからないとは、確実にこの男は馬鹿だろう。思うよりももっと年齢は下なのかもしれないと考え直しながら、俺は態と短い息を吐く。
「そうですか。では、入れてくれないのならここから呼ばせてもらいますよ。か――」
「馬鹿、静かにしろ!」
 叫ばれては困るのだろうか、口許を塞ぎにきた男の手を避けると、チッと舌打ちを落とされた。こういう人間でも、一応は近所の視線を気にするのか。それがわかりちょっと優位に立てた気がした俺は、犬の散歩で路地を歩いて行く老夫婦にも聞こえるくらいに、もう一度はっきりと要求を口にする。
「通して下さい」
「……このまま待っていろ」
 苦虫を噛み潰したような顔で呻き、妥協した男が玄関へと向かった。足は踏み入れずドアのところで中にいる人物とやり取りしている男の半身を見ながら、俺は再び門を開け中に入る。入れたくはない相手を一人にするとは、やはり男は馬鹿なようだ。玄関に人がいるのならば、声を上げて呼ぶべきだろうに。
 しかし、それは逆に、そう徹底して俺を拒絶している訳でもないのだと言う事を窺わせるものである。ならば遠慮なくと、俺は数段の階段を上り、男の数歩後ろから家の中に向かって声を上げた。
「海谷さーん、今晩はー」
「おいコラッ!入って来るなと言っただろうっ!」
 ギョッと振り返った男が、俺を追い出そうとでもいうのか掴み掛かって来る。俺の行動がそんなに癪に触ったのか、先程とは打って変わってあからさまに男は表情と態度を変えていた。まさに、キレた餓鬼だ。人相が悪い。
 何なんだ、この男は一体。これが金持ちな海谷家の客なのか、品がなさすぎると訝りながら、俺は男を避け逆に更に玄関へと近付いた。中に居た別の若い男が、すかさず俺の腕を押さえにくる。
「ちょっ、何っ!? 俺はただバイトに来ただけですよ…」
 子供の頃から武道を嗜んでいるので男の手は簡単に外せそうだったが、昔から素人相手に技を出すのは気が引けるので喧嘩事は避けるようにしているその信条は、こういった場面でもそう簡単には破れはしない。殴りかかられるなら兎も角、腕を掴まれただけでは反撃要素には乏しいものだ。なので、放して下さいと言葉で頼みながらも、俺には別段焦りはなかった。第一、目の前に立つ男は俺より背が低く、愛嬌のある顔をしている。誰だってミニのブル・テリアにはビビらないだろうし、威嚇もしないだろう。
 だが、しかし。
「千束くんッ!」
 パタパタと足早にやって来た海谷夫人にとっては、驚くべき光景だったのかもしれない。普段はどちらかと言えばおっとりとした彼女が、駆けて来て俺を取り戻すかのように引っ張るのだから、逆に俺の方が驚いてしまった。
「だ、大丈夫…!?」
 思わず助けられてしまった事実に、苦笑が零れる。
「ええ、大丈夫ですよ。俺は別に何もされていませんから、心配しないで下さい。それより、海谷さんの方こそ顔色が優れないようですが、大丈夫ですか?」
「え?…ええ、大丈夫よ、ありがとう」
 頬を引きつらせる様にして笑った夫人は、漸く俺の腕を放しほっと息を吐いた。いつも通り綺麗に着飾ってはいるが、彼女の顔に乗るのは濃い疲労と怯えの色だ。裕福で温かな家庭はまるでドラマの中のようであったのに、俺の知り得ない海谷家をそこに見てしまった気がして気まずさを覚える。不躾な男の言葉を聞いていた方が、俺にとっても海谷家にとっても良かったのかもしれないなと思いつつ、けれど今更引き返せはしないので淡々と言葉を掛ける。
 知らない振り、気付かない振りをする以外に、単なる家庭教師のバイト学生が出来る事はないだろう。何より、見下ろした海谷夫人は、訊かれる事を恐れているようにも感じる。
「晴一クンはどうしています?」
「あの子も大丈夫よ、心配しないで。何でもないのよ。ただ、急にお客様がお見えになって……。折角来て頂いて悪いのだけれど、今夜のお勉強は次にまわして貰えるかしら…」
「大丈夫ですよ、気にしないで下さい。晴一クンも忙しいのなら、仕方がないですよ。では、また来週と言う事で」
「ええ、お願いします。今日は本当にごめんなさいね」
 俺と接する事で幾分か落ち着いたのか、青褪めながらも笑みを浮かべた夫人の顔が、ドアの閉まる音が家の中に響いた瞬間そのまま固まった。力なく振り向き、ハッと気付いたように体を震わせると、挨拶もせずに玄関を離れる。彼女の背中が消えたのと入れ替わりに、数人の男達の姿が俺の視界に飛び込んできた。
「――ッ!?」
 反射的に目を逸らしたのは、防衛本能によるものなのかもしれない。ちらりと見た男達は、明らかにその筋の者のような特殊な雰囲気を醸し出していた。

 突如として現れたダークスーツの一団が近付くにつれ、背中が段々と冷たくなるのを感じながらも、俺の足は動かない。動けない。逃げなければと理性が叫び命令を下すが、体は完全にその空気に飲み込まれ捕らわれていた。
 たった数歩で外へ出られるのにと視線だけで見やった玄関ドアを、先程言い合った男が押さえている。俺が固まっているのに気付いたのか、ざまあみろと笑うように目が細められたが、とてもではないが今は男の相手は出来そうにもなかった。そんな余裕があるのならば、一目散に飛び出している。
 逃げられないのなら、無事に嵐が通り過ぎるのを待つしかないと視線を泳がし自分のスニーカーの爪先を見つめた時、思いがけない事に俺は声をかけられた。
 問題の一団から。
「あれ? 『萩森』の甥っ子さんじゃないですか、今晩は」
 思いがけない出来事に、反射的に勢い良く顔を上げた俺の目の先に居たのは、眼鏡をかけた30代半ばの男だった。どうしたんですかと窺うように微笑んでくるその人物が昨晩の客だと思い出すのに、たっぷり五秒はかかっただろう。
「――あ、…え?えぇっ!?」
 思いきり引きつった顔をしていただろう俺は、思いがけずも見つめあう形になっている事に気付き慌てながらも、男の存在がもたらす事実に頭の中がぐちゃぐちゃになった。この人物がヤクザである可能性が濃くなったのもそうだが、そんな男達と海谷家が関わりを持っている事にただただ驚愕する。
 企業の社長ともなれば俺が思う以上に交流関係は広く深いのだろうが、馬鹿ではないのだ、相手は選んでいるだろう。それなのに、選んでこんな連中なのか。ジェントルマンといった海谷氏を思い浮かべ、彼への評価を変えざるを得ないのかもしれないと俺は頭の片隅で考える。
 だが。
「昨日はありがとうございました。お陰であの子に泣かれずに済みましたよ」
 男ににこりと笑いかけられ、一瞬毒気も何もかもが俺の中から抜け落ちた。
「あ、いえ。それは良かったです…」
 言われた礼に反応し、言葉とともに頭を下げる。だが、それで綺麗さっぱり終われる訳がない。まさか、まさか。まさかこんな団体の中に知っている人物がいようとは。やはりさっさと帰っておけば良かったと後悔を覚える。玄関の男は見張りか何かだったのだろう。彼がしっかりその役目を果たしていれば、俺はこうしてこの人物と再会する事はなかったのだと、苛立ちさえ覚える。八つ当たりもいいところだが、事実だろう。
 何よりも。
 少しばかりそんな気もしていたが、こんな勘は当たっても嬉しくはないというもので。ヤクザなのかと、ヤクザなんだなと、目の前の笑顔にそれ以外のものが見えなくなる。料亭では客の多い時に裏玄関を使用するが、昨夜彼らがそこを使っていたのは別の理由なのかもしれない。そう、こういった相手への対処として、あんな風に裏口を利用するんだなと、今更ながらに俺は気付き感心すらしてしまう。だが勿論、こんな風に納得している場合ではないのも忘れてはいない。
 そう、ヤクザなのだ。ヤクザ。目の前にいるのは、曖昧な昨夜とは違い、はっきりとしたそれなのだ。笑っていようが、優しい言葉を向けられようが、ヤクザはヤクザだろう。
 昨日の今日でそんな男に再会したのも不運なら、正体をあからさまに見せつけられこうして固まるしかない自分は何て不幸なのか。助けて欲しい。昨夜は興味半分で叔母に聞いてしまったが、こんな事ならば、知りたくはなかった。教えないで欲しかった。それに加え、単なるバイト先でしかない海谷家の事情を知ってしまった気まずさが沸き上がり、何故声なんかかけてくるのかと泣きたくさえなる。本当に、最悪だ。
「千束さん、大丈夫ですか?」
「あ、は、はい…」
「突然で驚かれたんですかね。私も、こんなところで貴方にお会いするとは思っていませんでしたよ」
 玄関から外へと俺を促しながら、男は穏やかな笑みを浮かべ言った。落ち着かせる為にだろうか、添えた手で背中を軽く撫でてくる。昨夜見た綺麗な手はとても優しく、温かい気がした。だが、昨夜とは違う馬鹿丁寧な口調が微妙に怖いと感じるのは、俺の妄想ではないだろう。
「こちらで家庭教師のアルバイトをしているんですか」
「あ、はい」
「昨日も帰宅が遅くなったのはバイトだと女将は言っていましたけど、他にもやっていらっしゃるんですか?」
「え?えぇ、三人、みてます。昨日は偶々、中学生だったんですが、試験前で遅くなって……。あ、いえ――す、済みません…」
 何をしどろもどろに語ろうとしているんだと自分の間抜けさに気付き、俺は謝罪を落とし、大きく息を吸った。
「――もう、大丈夫です。失礼しました」
 血の気がなくなっていただろう頬を軽く擦り、俺は頭を下げる。ヤクザなのだろうが、男の言動は明らかに俺を気遣ってのものだ。うろたえるのは失礼だ、しっかりしないでどうする。
「いえいえ、気にしないで下さい」
 多分、俺がびびっていた事も、それが何故なのかもわかっているのだろう。男は眼鏡の奥の目を細め、笑った。ふわりと言うようなものではないが、とても柔らかい空気が俺を包む。
 正直、この男がヤクザだと言うのはちょっぴりショックだなと思う。だが、ヤクザだけど優しい人だと、俺の中での印象がその笑顔にはっきりとする。そう。品はあるし、賢そうだし、気遣いも出来るし。先程の男達や、俺が思い描いていたヤクザとは正反対な人物だ。普通に大人の男として憧れてしまうくらいだと、ぎこちなさは消えていないだろうが、俺は漸くきちんと笑いを返した。
 だが、しかし。

「何をしている」
 不意に背後から上がった声に、和みかけた心に泥水をかけられた気がした。冷水より確実に質が悪い。俺は聞き覚えのある声に振り向き、重なった視線を瞬時に逸らす。
 いつの間にかやって来ていたのは、昨晩のムカツク男だ。こいつも居たのかと、顔を顰める。連日で会うなど、ヤクザ云々以前の問題であり、最低最悪としか言えない。当たり前ではあるのだが、あわせた顔が昨夜同様に整っている事さえムカツク。
「エイジ、どうやら手間が省けたみたいだぞ」
「…戸川」
 どこか眼鏡の男を非難するような声音が耳につく。多分きっと低音で深みのある声だとか何だとか表現する様な美声なのだろうが、俺ならブタの鳴き声の方が断然良い。
「ああ、ね、千束さん、お腹空いていませんか。昨日のお礼に、今から飯でもどうです?」
「へっ!?」
 本当に人の対抗心をむやみやたらに刺激してくる男だと眉を寄せていた時のその不意打ちに、俺の口からは間抜けな声が零れた。マジですか、本気でそんな事を言ってるんですかと勢い良く顔をあげると、微笑む眼鏡の男と仏頂面の男前に俺は見下ろされていた。何故か頭に「アメとムチ」なる言葉が浮かび、逃げられない事を瞬時に悟っている自分が居る。とても不本意な事に、だ。
「人様の玄関でこれ以上の立ち話もなんですし、行きましょうか、さあ」
「ちょ、ちょっと…!」
 確かに立ち話をするところではないが、何より飯を食いながら話をする関係でもない。行くってどこへだよ、と胸中で突っ込みを入れたのは、肘を掴まれ引かれるままに乗り込んでしまった車の中での事だった。ヤクザとわかったからか、抵抗らしい抵抗も出来ないまま、後部座席に座っている自分が情けない。護身術に空手に柔道。あと、ほんの少しだが剣道も齧っていたと言うのに、全く役に立ちはしない。体を動かすのが好きで子供の頃から続けていたが、はじめの目的は自分の身を守る為のものだった。それなのに。
 ヤクザなどという看板ひとつ見せつけられただけで見事に使い物にならないのだから、自分はなんて小さいのか。情けな過ぎて笑い声さえ出てこない。完敗だ。
「好き嫌いありますか?」
 助手席から振り返り俺に微笑みをむけながら、戸川氏は運転手に合図を送った。動きはじめた車に、現実逃避を謀りかけていた俺の脱力感が吹き飛び、一気に焦りが膨れ上がる。悲観し嘆いている場合ではない。負けを認めはしても、このまま連れ去られるわけにはいかない。
「ま、待って下さい。悪いですが俺、行けませんよ」
「バイトの予定だったのでしょう?なら時間はありますよね。あぁ、勿論お礼なのでこちらで出させて貰いますよ代金は」
 心配せずとも学生に払わせはしないと、俺の問題がそんなところにはないのをわかっているはずなのに、戸川氏が笑う。この人は、印象は良いが、実のところは天の邪鬼なのかもしれない。少し…というか、かなりからかわれているような事実に気付き、俺はパキリと音がしそうなくらい頬を引きつらせた。ヤクザの手の上で踊らされるなど、冗談じゃない。死んでも嫌だ。
 たとえ、驕りで夕食にありつけるとしても、食べて精々数千円だろう。自分の命はもう少し高い筈だと、俺は信じている。高々一食で売り渡すつもりは毛頭ない。
「そ、そんな事じゃなくっ! 車、停めて下さい!」
「落ち着いて下さいよ、千束さん。何か不都合があるんですか?」
 不都合? 何を言っている、不都合だらけだ。ヤクザと食事など出来ないし、そもそも本当に食事なのかも怪しいではないか。信用出来ない。
 そう言えればいいのだが、パニックになりかけの頭にも理性はあるのか、流石に口には出来はしない。それに言ったところで一笑されて終わりだろう。取り合う訳がない。
「で、でも俺、食事を奢って貰うような事はしていませんし、自転車も放ったままだし、そ、それに――」
「それに、何です?」
「……」
 何か良い案はないか、良いいい訳はないか。頭の中は焦るばかりで、閃きは全く降りてこない。逆に神様に見放された気分とはまさにこんな感じなのかと、どうでも良い事を考えてしまう。
「千束さん」
「……」
 沈黙が、痛い。
 車内のそれもそうだが、隣に座る男の空気に堪えられなくなってきている自分に俺は気付く。俺と戸川氏が口を噤むと、更に襲いかかって来るかのような張り詰めた空気は、痛いなんてものではなく意識をすれば息をするのも難しく苦しい。
 何を考えているのかわからないが、戸川氏の方はまだ良いのだ。強引だが、会話が出来る。運転手も、見た目はその辺にいそうな普通の男だ。ヤクザものだと思って見ても威圧感はなく、怖くはない。だが、隣の男は明らかに異質で、一緒に居たら俺は自分がいる世界を見失ってしまいそうな気がして恐ろしかった。
 やはり、普通の一般人はヤクザだというだけで、恐れるに値するのだ。こんな風に車に乗せられたら、激しく動揺するのが当然だ。食事だと言っていても本当は何処かの港につれていかれて売られるんじゃないのか、俺が食われるんじゃないのか、まだ死にたくない、助けてくれ。こんな風に考えてしまうのも、多分きっと普通だ。ドラマや映画の見過ぎだと、笑おうとする自分も確かにいる。料亭の客なのだから、態々甥の俺に何かするほど馬鹿ではないだろうとも思う。
 だが、そんな考えは、隣に座る男の前では通用しないのだと全身で感じる。まるで、自分の全てが否定されるようだ。今まで歩んできた人生に意味あるものはなかったのだというように。
 圧倒的な力でそれをされたら、俺は再び立ち上がれるかどうか、わからない。自信はない。潰れて、終わりだ。
 そう、だからこそ。今は潰されるわけにはいかない。
「――それに、俺。小さい頃から、よく知らない人に付いていってはいけないと教えられ育ってきたんで…ごめんなさい」
 失礼しますと、俺は運良く赤信号で止まった車から飛び降りた。
 だが。
「…放して下さい」
 ドアを閉めようとした右手の手首が掴まれる。一瞬でもタイミングがずれていたらドアに挟まれていたのかもしれない腕を伝いながら、俺は男の顔を見た。相変わらず不機嫌な表情だが、同じ男としては神に文句のひとつも言いたくなる程に整った顔立ちだ。
 見目のいいヤクザなど、映画やドラマの世界。だが、これは紛れもない現実。振り払う事が出来ないのは、男がヤクザだから。それでも逃げろと脳が命令を下すのも、この男がヤクザだから。
 だが、視線を重ねた瞬間、今まで体の中に溢れかえっていた恐怖が無くなっている事に気付き、俺は呆然とした。何故、あれ程までの恐れが一瞬で消えるのか。わからないが、一瞬にして胸の中が落ち着き払っていた。例えるなら、台風の目に入ったような感じだ。
 不可思議なその答えを探そうとした俺に、男が言葉を向けてきた。
「知らないのならば、知ればいい。そうすれば問題はないだろう」
 何が知りたいと、男は真っ直ぐ俺を見ながら言う。問題はそこではないのだが、反論など出来る気力は俺の中にはなかった。暴風雨に曝され過ぎて、既に力尽きているのかもしれない。
「何が訊きたい」
 男の目は、俺の中の総てを吸い取るかのように強く、魔法を掛けるかのように透明で、恐怖で支配するかのように何もかもを見透かしている。俺の中で新たに純粋な恐怖がふつふつと沸きはじめ、逆らってはならないと本能が訴えはじめる。
「俺は…」
「千束大和」
 名前を呼ばれただけなのにビクリと震えてしまった俺に溜息を落とすと、男は腕を解き、ただ一言「…乗れ」と言った。
 今のこの男に逆らえる奴がいるのなら、それがたとえ極悪人だとしても俺は尊敬するだろう。
 先程一瞬恐怖が消えたのは、男が自分に縋っているかのように見えたからだという見つけた結論は今の俺には苦いものでしかなく、馬鹿な錯覚をしたものだと自分を詰る。誰かを求める事などなさそうな男に俺は何を見ているのか、情けない。結局こうして捕まっていれば世話がないと、襲ってくる脱力感に泣きたいような感情を押さえながら、俺は無言で男の隣に腰を降ろした。

 乱暴だなと低く笑った戸川氏の声が、俺の中で膨らみ弾けて消えた。


2005/07/21