36
何が「言っている」、だ。全然言ってはいなかっただろう。偉そうに、当然のように言うな。しかも。ヤクザがどうの、ただの男がどうのと言うのは、この為のものだったのか。地位による価値の格差はないと言うが為の前振りだったのか。ならば結局は、俺の反論など全く聞いてはいなかったと言う事になるんじゃないか?
そして、何よりも。忘れ始めていた寝床話を、ここで再び蒸し返すのかオイ。コイツの頭は幼児並じゃないのかと、しつこすぎるぞと俺は脱力し、寝床話はスルーする。ここでまた構ったら、永遠に終わりはしないだろう。これについてはやはり、秘密でソファを借りればよいだけの事だと、そう手を打つ事にする。怒られたらその時だ。何なら、たかがベッドひとつでここまで話を長引かせてくれた腹いせに、本気で占拠してやるのもまたいいのかもしれない。不便さを知れば、己の浅はかな発言に、多少は気付き反省するだろう。もう、どうにでもなれだ。
それよりも。
「……アンタが言う、俺のその価値って、ナニ?」
結論として、だから水木は何を言いたいのかと。相容れないその解釈をもう一度確かめる為に、俺は問いを向ける。この部屋にいるだけの互いを考えても、俺にはやはり立場も価値も水木と自分が同じであるとは到底思えない。厄介な居候に対し、何をどう考えているのだろう。蔑むというかなんというか、俺の拒絶は当然の遠慮の範囲内だと思うのだが。
「考えすぎたよ、俺にはそんな大層なものが――」
「お前が、お前であるからだ」
あるわけないじゃんと笑うはずの予定が、遮られた言葉によって苦悩に変わる。俺が一体何だって…?
「…クイズかよ。わかるように言えっての」
「他にはない。お前だから、だろ」
「……」
だろ、じゃない。だから、よくわからないんだと言っているだろう、人の話を聞けよ。そのまま繰り返すんじゃねぇよと、全く変わらない言葉に溜息を吐きながら、俺は向けられた言葉を繰り返す。つまりは俺を、自分と同じひとつの命を持った人間と分かっているから、寝床を提供するという事なのだろうか…?
だが、俺が感じる程も水木は俺を邪魔には思っていないのだとしても。先の言葉は、今の俺の疑問を補いはしない。やはり、何を持って価値としているのかわからない。
「…じゃあさ、俺って何? 貴方にとって何なわけ?」
「何もない。お前はお前だ」
「…あっ、そう」
どうあってもそこから離れないらしい水木の答えに、頭を振る。全く、こいつは態度と言葉が全然噛み合っていない。真面目な顔で誠実そうな振りをしておいて、何の歩み寄りも見せない。だが。水木のそれをそれでも寛容に読み解けば、好意からだと思えなくもないので、そうかもしれない善意を完全に無視する事も出来ない。だからこそ厄介なんだと困りながら、いま一度考える。
それが何であれ、自分にとって価値があるのだと言うのならば。ここにいる事を許可し、寝床を与えようとするのを思えば。俺は水木に許されているのは確かなのだろう。聞きようによっては、俺の全てが水木にとって許容範囲内であるかのような、そんな発言の全てに信用はおけないが。実際には寝床だけではなく、居候もこうした遣り取りも全て大丈夫だと許されている現状に、最早言い返す気力がなくなる。
水木が俺を許す理由はなんなのか。抵抗される事も反撃される事も面倒だからか? それとも、自分の都合のいいようにしているだけなのか? そこに意味はあるのか? 明日になればこいつは真逆の事を言うんじゃないかと考えてみるが、出て行けと命令する水木はどうしてだろうか想像出来ない。逆に、新しいベッドだと本気で買ってきそうな男を頭に思い描く方が簡単で、溜息が落ちる。
甘えているのは、俺だ。
許す水木もおかしいが、俺も相当おかしい。
改めて気付きたくはなかったその事実を隠すように、この男は本当に朝から何を言いだすのかと、意識を元に戻す。散々アホな言い合いをしてオチはこれなのかと、馬鹿らしいと水木に呆れる。だから何故、平凡な俺がそうなるのか、理由を言って欲しい。俺の何処に何があるというのか。勝手に一人で解釈して、当然のように頷いているんじゃない。いい加減、ひとりプレイは止めろ。そんな悪態は尽きる事なく出てくるが、それとは別の場所で、俺が間違っているのかもしれないと言う気持ちも表面に浮き上がってくる。少なくとも、猜疑心を向けずに素直に、自分を卑下するのではなく水木に感謝するべき事があるのは確かだろう。
水木の真意を知りたいと、わからない奴だと投げるのではなく、今になって漸く本気で知ってみたいと唐突に思った。だが。水木の方は答える気はゼロのような雰囲気で、それに負けて俺は落とした溜息まで掻き集めて拾い、全てをなかった事にしたいと隠す。関心を示した事が恥ずかしいというよりも、興味を持った自分が信じられず受け入れがたい。
だから、それはどうしてなんだ?と。俺は何?と重ねてそう問えないこれは、多分きっと俺の弱さだ。予想の付かない不安に、その影に、俺は敏感に怯えている。警戒している。ヤクザであろうと、宇宙人であろうと。何であれ、自分をこんな風に簡単に受け入れている水木が、少し怖い。
「もっと楽にしろ」
「……」
突如として湧き起こった俺の中のそれを察知したかのように、水木が諭すように低く囁く。楽に出来ない理由は腐るほどあるが、根本にある原因はこの男であるのに、当人がそれを言う。
「お前はその為にここに居るんだろう?」
「……そのタメ?」
「悩むのなら、実家で出来る事だろう。ここに居るのなら、気など使わずしたいようにしろ。そうでなければ、ここに居る意味がないんじゃないのか?」
「…………」
ここに居る意味。
水木が言った言葉をゆっくりと噛み砕き、いつの間にか緊張でガチガチに固まっている身体に俺は浸透させる。これは無視してはならない大切な事だと、頭に叩き込む。
ここに居る理由。
視線を下げ、瞼を落とし、口内で言葉を転がし考える。
そう、それは多分、きっと水木の言う通りなのかもしれない。いや、確かにそうなのだろう。ここに居るのは、だからだ。ヤクザから逃げるのが怖かったのはただのひとつの小さな理屈であって、結局はここが父に知られていない俺だけの場所だからだ。俺自身さえよく知らない場所ならば、他のどこかでもよかったのだろう。当たり前だが、水木に向けた言葉のように、ヤクザに攫われたわけでは決してない。俺が、ここを求めたのだ。それは、逃げる為なのか考える為なのかはわからないが、あの環境から、状況から離れたかったからだ。
そう言う理由で、意味がある。
だが、まっすぐ面と向かって他人にそれを指摘されると、よくわからなくなってくる。本当は良い事ではないのだろうに、まるでそれが絶対の正しさを持っているかのように、迷い悩んでいる自分が間違っているかのように感じてしまう。躊躇う事なく強気に発言する水木が真実のようで、ここに居る限り考えなくてもいいんじゃないかと錯覚してしまいそうになる。そして、真実よりもそちらの方が気になって仕方がない。
水木の発言には、一理ある。だけど、その解釈は、俺を甘やかしているだけでしかない。きっとそんなところには、多分未来はないだろう。今ここで楽をしても、答えが近くなるわけはないのだ。ならば、俺はそれを許容出来はしない。
けれど、そうしてしまいたいと思う程に。そう出来てしまえたらどんなにいいだろうと思う程に、その言葉は魅力的であり魅惑的だ。優しさではないとわかっているのに、水木のその甘さを貪欲に取り込みたくなる。求めてはならないのに、欲してしまう。
理性と常識と誘惑に惑わされ、俺は何をどう応えればいいのかわからない。返事ひとつも出来はしない。否定も肯定も、頭の中からごっそり抜け落ちて。笑いたいような泣きたいような、怒りたいような呆れたいような。感情の波だけが身体の中で沸き起こるが、それは表面まで出てくる事はなく、顔だけを強張らせる。
疲れた心は、例え偽りとわかっていても、一瞬後に醒める夢だとしても、自分を許すかのような水木を望む。けれど、今までの人生が、千束大和という人間が、この状況を拒否している。身を委ねては、これまでの全てをなくしてしまいそうな気がするのは。ただの錯覚か、確実な未来か――。
「どうした?」
「ァ……」
物思いから覚めふと気付けば、ジッと水木に見つめられていた。身を乗り出すようにシンクから離れ、若干背中を丸めて傾けられた首が、必要以上に互いの距離を埋めている。目の前の端正な顔に、頭の中が一瞬にして白くなった。
「腫れている、痛いだろう」
「……な、に?」
乾く喉から零れたのは、擦れた声。呟くように落とした俺の疑問に対し、水木は言葉にはせずただ視線を下げた。まるで引っぱられるようにそれを追い、俺はそこで初めて、腕に温もりがある事に気付く。視覚で捉えて漸く知った触れあいは、どこか遠くの映像のようで、直ぐには頭に届かない。
その中で。そっと捕らわれた右腕の、変色した手首を見る。
「…………挟んだんだ、昨日」
答えるまでの数拍を、水木は静かに待っていた。追加の質問を口にするその声も、とても柔らかくて、今さっき言い合った事実が一瞬にして消えさったような錯覚に落ちる。
「病院は?」
「そこまでのモノじゃないから…」
「そうか」
「……うん」
「気を付けろ」
「…うん」
「痛いだろう」
「そりゃ、まぁ…」
「痛みが引かないようなら、医者へ行け」
「……うん」
ゆっくりと下がった手が、触れるか触れないかの弱さで手首を撫で、過ぎ去り離れていく。解放された腕を俺は無意識に引き寄せ、胸の前で抱くようにし指先で傷へと触れる。
痛みとは違う熱があるように感じるのは、気のせいだろうか…?
「大学、十時に出れば間に合うんだな?」
「……そうだけど」
「一時間後に出る。それまで俺は休む。用があったら、起こせ」
水木はそう言うと、惚ける俺を気にする事なくキッチンからさっさと出て行った。
まるで、今までの遣り取りなど一切なかったように、あっさりと。
こういうところが、この身の変わりようが、俺には理解出来ない。信用が置けないポイント1だ。俺との言い合いなんて、取るに足らない事なんだなと唇を尖らしかけ、慌てて引き結ぶ。
これではまるで、何だか不貞腐れ拗ねている子供のよう。
「…………」
そんな事はないと、頭を振り息を吐く。気持ちをそこから無理やり引き剥がす。
休むという事は、その言葉通り、寝るという事なのだろう。たった一時間でもこんな時刻から身体を休めねばならない程に疲れているのならば、ますますもって送ってなんて貰えない。けれど。いいよ、と。結構だと、咄嗟に出す事が出来ず戸惑っているうちに決まってしまったそれに、俺はまた重ねて更に戸惑い追いかける事も出来なかった。ただ、摺りガラスが嵌まったドアを見つめ、喉の奥で唸るだけ。
結局、色々遣り合ったのだけれど。ベッドの件と同じく、送迎も最初に水木が出した提案のままで何も変わっていない。ならば今までの俺の頑張りは何処へ行ったのか、抵抗に意味はあったのか、時間を無駄に過ごしただけなのか。それを思えば虚しさが浮かんできて、無性に泣きたくなった。アイツに俺の声は本当に届いているのだろうか。家出人に部屋を提供する程の心の広さを見せておいて、実際には何ひとつ聞いてはいない。俺に対するこの扱いは一体なんだろう?
水木のこれは、鬱陶しいと、面倒だといっているようなものだ。まるで誰かに押し付けられたかのように俺を扱っている。けれどその反面、行動は態度と違い、辟易するような世話を焼いてくる。思いやりのない親切とでも言うのか、興味はないくせに関心だけを示すような人を惑わすその行為は、向けられる側の立場としては堪ったものではない。
都合良く弄びたければペットでも飼えばいいのだ。意思も感情もある人間で遊ぶなど最低だ。気紛れ野郎、俺を振り回すな。頼むから勘弁してくれと、怒りよりも魂そのものからの疲労に毒を吐き、俺はシンクに両手を付き項垂れふと気付く。
っていうか、さ。
そんな事よりも。
俺に用がなかったとしても、もしも一時間後にヤツが起きなかったのならば、その時はまさか俺が起こしに行かねばならなかったりするのだろうか…?
さらっと向けられ流してしまっていた言葉がムクムクとその重要性を主張し大きく成長したところで、俺はその事実に漸く向き合い脱力する。黙ってひとりで出掛けるという方法は、もうこうなっては選択出来ないのだろう。だが、だからって。何故に起こしてまで送って貰わねばならないのか。遠慮している身であるのに、俺が頼むかのようなそんな行動、敢えてしたくはない。しかし、嫌だと言えなかったという事は、一緒に出掛けるのを了承したと捉えられているのかもしれず――。
「――どうしよう…」
馬鹿な事を真剣に考え焦り、けれどもどうする事ももう出来ないじゃないかと溜息を吐きながら、俺は身体を引きずる様にして動かし廊下へと出る。寝室のドアが見える位置で立ち止まり、ちゃんと起きて来いよと、数度念を送っておく。玄関脇の部屋へ入り込む瞬間、諦めの中ではあるが紛れもなく送って貰う事を許容したのだろう自分に気付き呆れかけたが、閉めるドアと共にそれを外へと放り出す。
押し切られたと考えるのは癪だし、流されたと考えるのは情けない。だったらもう高飛車に、送らせてやろうじゃないかと上手に踊り出る方向で受け入れてやる事にする。それは自分のちっぽけなプライドを守る為だけの、愚かなパフォーマンスでしかないのだろうが。実際に水木の前で反り返って顎を突き出す訳ではないので、最早や何だって構わない。アイツが好き勝手するのならば、俺だってそれなりの事をしてもバチはあたらない筈だ。心の中でくらいは、楽したい。
「…………それより、予習しないとなァ」
通学鞄を視界に入れ、辞書で太ったそれに向かって呟きを落とす。予習だ予習、今日は当たるぞきっと多分絶対、と。頭の弱い子供のように口内でブツブツと呟き、勉強しろよと己に暗示をかける。課題は、一時間もあれば充分にやってしまえるものだ。
だが――。
「――なんて、出来るわけねぇーじゃん…」
どう頑張っても無理だと項垂れ、俺は絨毯に座り込み、ローテーブルに肘を付き両腕で頭を抱える。
目覚めてからこっちの水木との遣り取りが、頭の中を駆け回った。遣り合った言葉のひとつひとつはもう思い出せないし、記憶に刻んでいるのだとしても今はそれを探る余裕はないし、何もどうにもならないのだけれど。その衝撃だけが、身体を大きく揺さぶる。気を抜くと、震えてしまいそうだ。
送迎も、寝床も、ただのきっかけ。ちょっとした例え。実際に重要なのは、そんな水木の態度と行動。俺の扱い。事実じゃなく、状況じゃなく、隠された真意。俺には見えていない、その部分。
机にべたりと突っ伏し溜息を吐くと、空気が抜けた風船のように張り付き離れる事が出来なくなる。予習は勿論、身体を起こす事も諦め、俺は目を閉じた。
静寂の中で聞こえるのは、自分自身の息遣いと心臓の音。その中で、ここに居る訳をもうひとつ見つける。それは、ここが何処であれ、水木が何者であれ。俺の居場所がここに用意されているからというものだ。
ここには、俺が休める場所がある。
この部屋も、浴室も、ベランダも、そして水木のベッドも。心穏やかになんて事は無理だけれど、俺のスペースがそこに確かにあるのだ。俺の方には受け入れる余裕はなくても気にせずに、どうぞと誘い促すようにそこを開けて待っている。まるでそれは、何だか家主のよう。
実際の水木は真逆のように、俺の中に問答無用で穴を開け自分を突っ込んでくる。嫌だとどんなに声を大きくして言ったとしても、全く聞いていなければ、全然引く事もない。物凄く強引な男だ。暴力的なところはなくとも、それはヤクザだと納得してしまう威力を持つ一面。けれど、そう確かに思っているのに、それでも何となくゆったりと自分を待っているかのようにも感じる。朧なそれが部屋の雰囲気と重なり、俺をじんわりと惑わす。
苛立ちながらも水木にそんなものを見るのは、それが俺の願望だからだろうか。本物の優しさを、俺は都合よく求めているのか。信用出来る誠実さを、俺は欲しているのか。俺は、部屋でも居場所でもなく、水木を必要としているのだろうか。だが、それが事実でも、だからって。だからとして、それがどうしたというものだ。例えそうだとしても、いま目の前に居るのが彼なだけであって、水木自身に拘っている訳ではないのではないか。それを違うと言い切れる要素は、俺の中にはどこにもない。しかし同時に、他の誰かでも良いのだと言える自信があるのかどうかもわからない。
浮かんでは自ら潰し、消しては生み出す、疑問。真実。疑惑。真意。そして、否定と肯定。許容、放任。今の俺は何でも有りな状態だ。一人でツッコミを繰り返して、気付けば一番初めへと戻っている。結論なんて出ないループな世界。こんな事をして何が楽しいんだと自分で指摘し、全然楽しくないと言い返す。だったら止めろよと提案するのもまた自分であり、けれども止め方がわからないんだよと逆切れするのも俺。
小さく呻き、息が続かなくなったところで、腕立てをするように机を押し起き上がる。そうすれば遠心力で頭に詰まる悩みが飛んでいくのだとでもいうように、何度も頭を振り奥歯を噛む。零れそうになる悪態を腹の中へ押しやり、身体に活を入れるように立ち上がる。
ホントは良くわかっているのだ。どうして、何も出来ないのかを。何故、答えが出せないのかを。けれどもそれは、受け入れた瞬間に多くの物を無くす事になるのだろうもので、俺は怖いのだ。知りたくはないのだ、何も。だから、自ら迷う為に、そこから出ないように行動している。頑なに考えを変えずに、もう少しこのままで居たいからこそ喚くだけ。嫌なら出て行け、利用するのなら逃げるな。実際にはそれだけなのに、だってヤクザだ、水木は宇宙人だと、俺はそんな事で全てを曖昧にしようとしている。
きっと、多分。いや、絶対に。俺はとてもズルイ事を、卑怯な事をしている。
そんな自分が、水木に何を言う資格があるのか。何より、今の俺に、本当に水木を見極める事が出来ているのか。甚だ疑問だ。ヤな奴、宇宙人、最低だと詰っているけれど。実際には、水木の言うとおり俺が卑屈になり歪んで彼を捉えているだけなのかもしれない。しかし、そんな事を言えば逆に全てが正しいとも考えられ、憶測するしかない水木の真意が判る日など、理屈的には永久に来ない理屈になるのだろう。
結局のところ、俺には水木に対する信用が欠けているのだ。全ての原因はそのひとつと言えよう。
「……けど、こればかりはなァ」
仕方がない、どうにもならない。意思だけではなんにも出来ないと、やはり俺は今までと同じ様に匙を投げる。何故なら、投げるしかないからだ。投げずに持ち続けていれば、俺はそれを直ぐに凶器に変え、水木を叩いてしまうだろう。放りつけるだろう。せめて、奴の真意をそれで掬ってみようかと思う程度になるまでは、何度手にしたとしても投げるしかない。それが一番の安全なのだ。
奴をどうすれば信用出来るのかなんて、俺は知らない。思い付きもしない。だったら逆に、他人からどうすれば信頼を勝ち取れるのだろうかと考えてみるが、それもわからない。第一知っているのならば、俺は父親に自分を信じて貰う為に、それを実践しているだろう。出来ていれば、こうなってはいない。俺はこんなところには居ない。
そう、つまり。俺は結局ここにも居たくないということか。居場所なんて、用意されていようがどうしようが、自分が望む場所で無ければそれに意味はないのか。だったら、ここも実家も、理屈としては変わらない。変わらないが、俺にはそもそも居たい場所がない。
望むのは、悩む事をせず好きな事が出来、疲れを癒せ鋭気を養える場所だけれど。そんなものは、この世の中には存在しない。実家に戻りたくはないが、一人暮らしも気が進まない。父に従いたくはないが、家族を失いたくもない。独りは寂しい。だが、誰でもいいから側に居て欲しい訳でもなく。誰かじゃなくて、自分が必要としている者でなければならない。だから、水木はそれに当てはまらない。俺の淋しさを埋めはしない。それなのに、俺はちゃっかりここに居る。そして、与えられた場所にまでケチをつけているのだから、もう救いようがない馬鹿だ。そんな俺が満足する場所など、始めからあるわけがない。
「…俺、すげぇワガママ」
今更ながら確信し、思わず呟く。考えれば考えるだけヤクザ以上に自分が利己的であるように思えてきて、呆れを通り越し笑いさえ落ちそうだ。ヤクザ代表は宇宙人なあの水木であるので、その彼と比較して勝つとなると、俺の我儘っぷりは相当なものなのだろう。
我儘だと、いつまで俺は餓鬼なんだと、愚かだよなとブツブツ口内で言葉を転がしながら、止めていた手を動かし講義の用意をする。学ぶ事は嫌いではないが、今の俺にはその意欲はない。苦労して入った大学も、残念ながら俺の価値をあげる材料にはなっていない。
そう。やはり水木が何と言おうとも。今の自分には大した価値はないと、俺は改めて思う。以前ならば、医者の息子の医大生で、それなりの未来を持っていたけれど。今は何もない。何も出来ない。
そんな考えの中、ふと価値とはそういう可能性であるのかもしれないなと思い付く。他人がする評価は、きっとそんなものの集まりだ。それが自分にとって役に立つか、意味があるかで、価値がつけられるのだろう。皆が平等に他人に求められることはない。だからやっぱり、俺のそれは低いんだよと、ふざけた解釈をした水木に胸の中で訴える。勝ち誇ったように、手柄を取ったように。
だが、当然それはバカな行為でしかなく、次の瞬間には空しくなる。鞄のチャックを閉めながら、確かに卑屈だと自覚する。多少の謙虚は好感でも、俺のこれは鬱陶しいだろう。何だって、水木はこんな奴を構うのか。放っておくのが一番なのに、どうして揉めながらも俺と話すのか。時間もないのに、何故ここへと帰って来たのか。
「……変な奴」
溜息と一緒に落とし、俺もそれに感染しているんじゃないかと、若干不安になる。少なくとも、アイツは楽にしろなんて言うけれど、必要以上に悩ませているのはどこのどいつだか。綺麗事ばかりだ。しかし、そんな奴に付き合い素直に悩んで居る自分も自分。おかしい。充分に変だ。
でも。
鬱陶しい五月蠅いと、水木を前にすればどうしても思ってしまう。だが、意見は相容れないが。邪魔なだけである筈の、彼には何の関係もない俺の相手をしてくれるそのことについては、有り難いと感謝する思いはある。放っておいて欲しいと、その方が楽であると言いはしても。やはり独りは辛いから。だけど、こんな風に女々しいのは俺であって、水木ではない。何がどうであれ、ヤクザをしている彼のこの行為はどんなに考えようと理解出来ない。
考えて考え込んで思い出すのは、惚れたと言ったあの言葉。しかし、それもやはり額面通りには受け入れられないもので、悩みの種のひとつでしかない。騙されているのかもしれないが、俺は水木に多少の好意は持たれているのだと、それは忘れずに意識はしているつもりだ。自惚れてはいないが、だからこそ普通はヤクザ相手には言えないだろう事も言ってしまうのだろう。甘えというよりも、特権を活かしたかのような事をしていながら、そんな気持ちなど知るかよと惚けは出来ない。
そう、受け入れられはしないが、水木のそれは多少なりともわかっているのだ。しかし、それでもその善意を警戒しボロクソに拒絶してしまうのは、水木のそれと態度がズレているからで。たったひとつの短い言葉よりも、自分に向けられる愛想のない態度の方を俺はどうしても意識し、だからこそその好意は間違っていると思えしまうからで。水木の「惚れた」は俺には遠くて、現実味に欠ける。
言葉にすれば同じ感情でも、草川と水木は全然違う。草川の告白は納得出来るが、水木は出来ない。俺の何処に奴の気に入る要素があるのか、ひとつもわからない。それが、俺と水木の間に大きな距離を作っている。そして。
水木はわかっているのだろうに、それを縮めはしない。先程のように会話に混ぜ、何故俺なんだと俺のどこがだと聞いても、曖昧に躱すだけだ。そこに、草川のような必死さはない。言葉の威力ほども、気持ちはない。だから。嘘だとも気紛れだとも言わないが、勘違いだろうと思えてならないのだ。これはもう、俺だけの意思ではどうしようもない。
けれど、だからと言って。俺は、水木の「惚れた」説を詳しく知りたくもない。気にはなっているが、このまま曖昧な方がいいと思う方が強い。しかし、これは、まさしく。草川の気持ちを察しながら適当に逃げていたそれと何ら変わりないのかもしれなくて。
俺は全然、全く、何ひとつ学習して――
「ッ…!」
唐突に思考を遮るかのように遠くで微かだが確かな音が上がり、反射的に息を飲む。無意識に強張らせた身体が鞄を抱き締めている事に気付き、いつからか自分が動きを止めていたのを知る。屈んでいた足を延ばし立ち上がりながら耽っていた思いを頭から追い出し、俺はゆっくりとドアノブに手を掛けた。静かに押しやり、そっと顔を出す。
廊下に水木の姿はなかった。続く音もない。気のせいか。それとも、トイレへでも行ったのか。タイムリミットは着実に迫っているが、一眠りと言える程の時間はまだ経っていない。
だからどうだと、何かをする訳ではないが、何となく。犬と共にそのまま部屋から出て行きかけたのだが、震えたケータイに捕まり中止する。今さっき放り込んだばかりの鞄から唸る機械を取り出し確認すると、それは立原からの連絡だった。講義開始には間に合わないが、遅れて出席するので席の確保を頼む。似た内容のメールは今までにも何度も送りつけられているので珍しくとも何ともないというのに、暫くジッと見つめゆっくりと噛み砕く。こんな事がパッと頭に入らない今の己の鈍さに気付き、自然と溜息が落ちた。疲れてもいるが、頭が水木から上手く切り替わっていない。
それでも何とか了承の返事を打ち、電波を飛ばす。昼飯奢れよとの軽口すら乗せなかったメールはいつもの半分も勢いはなく、もしかしたら途中で力尽きて立原のところまで届かないのかもしれない。有り得ないのだが、ちょっぴり本気でそんな事を考えてしまう。
だからこそ、俺の言葉は水木に届かないのかと。
もっと頑張れば、父に届くのだろうかと。
……いや、まぁ、それこそ有り得ない事なのだけれど。
一時間もしないうちに起き出したらしい水木は、シャワーを浴び身支度を整え、宣言通り十時には玄関に立っていた。物音に慌てて部屋から飛び出した俺はモゴモゴと口内で謝罪を転がしながら、犬を脱ぎ屈んで靴を履く。
「寝ていたのか?」
「いえ、ちょっとボーとしていて…済みません」
お待たせしましたと続けかけた言葉が、「慌てはしない」との声に引っ込んでしまう。
「……」
…それは、さぁ。俺に合わせて出発するだけであり、何も自分はいま出る必要はないんだと言う事か。だから謝るなと言う事か。何故にどうしてこの男はこんな言い方をするのかと。同じ言うなら判りやすく、急ぐ必要はない慌てなくて大丈夫だからと、柔らかく言わないのか。言葉が声音が感情が、何かが微妙に足りないそれが、いつも俺の意識を刺激する。
俺だって別に、絡みたくはない。流せるものは流したいんだけどなと、顔を上げ俺を待ち佇む男を下から見る。視線を外さずに立ち上がり、履いた靴を馴染ませるよう爪先で床を蹴りながら、鞄を肩にかける。
「…お待たせしました」
「ああ」
行くかとノブに手を掛け、水木は当然のようにドアを大きく開いた。無言で促され、居心地の悪い数歩の空間を走るように突っ切り外へと出る。通路で振り返り、きっちりとスーツを身につけた男を改めて眺めたその時、脈絡もなく不意に彼が俺の寝散らかしたベッドを使ったのかもしれない事実に気付いた。こんな所で思い出してどうするんだと捨てかけるが、持ち主の意思に反し勝手に気まずさが沸き起こる。
振り向いた水木が怪訝な表情を浮かべたが、上手く反応が出来ない。テンポを早める心音に急かされながら、俺は記憶を掘り返す。昨夜はリビングで寝てしまったが、その前は寝床を拝借した。先日のように誰かが出入し整えてくれていたのなら問題ないのだが、俺しか使用しなかった部屋で、それはないような気がする。
「……」
「どうした」
「いえ、何でも…。…行きましょう」
水木を促すかのように、先に足を踏み出しエレベーターへと向かう。部屋からの呼び出しをしていなかったらしく、パネルの前に立った男は太い指で画面を叩いた。操作方法を教えて貰っていたにもかかわらず、部屋の入出状況を確認しなかった自分を今更悔やんだところで、当たり前だが遅い。どうにもならない。まさか、今この状況で水木の間に割り込み、昨日の入室を確かめる事など出来やしない。ならばこれ以上、わからない知らない事を考えても無駄だ。意味がない。
休むと宣言した以上、寝ていない事はないだろう。寝室に篭り、態々床で寝るとも考えられない。そしてそのベッドはやはり、たぶん俺が昨日起き上がったまんまのものだ。どこを探っても綺麗に整えた記憶はやってこない。都合よく誰かの存在も当てには出来ない。
ならば、ここは素直に謝るべきか。気付かない振りも白々しい、よな…?
「……あの、スイマセン。ベッド…直してなかった、ですよね?」
「……何だ」
「…………ァ」
間違っていない選択のはずなのに、何故か眉を寄せ凄まれる。いや、凄んでいる訳ではないのだろうが、多少はビビる程度に怖い顔だ。無駄に眼力が強い。それでも、何を言っているのか理解していないだけなのだろう水木に、だからベッドだと重ねて言いかけ、そういえば昨日の朝も俺はそこで目覚めた訳ではなかったと今になって思い出す。一昨日の夜もまた、俺は酔っ払って帰って来て、そのまま部屋の床で寝たのだった。すっかり忘れていた。
だったら俺は今、全然言わなくて良い事を言ってしまった事になるのか? いや、だからと言って手抜きをした事には変わりないだろう。二日前の朝の記憶など、もうどう頑張ろうと引き出せそうにないのだから、失敗していると考えておくのが妥当だ。だから結局は、例え水木が細かい事は気にならない性格であっても、言わねばならない事は、言わねばならない。それが、昨日であっても一昨日であっても、失態に変わりはない。
そう、その心はちゃんと俺の胸にあるのだけれど。
「あー…うん、いや……何でもないデス…」
勝手に借りておいて、そのまんまな自分を正当化するつもりはないが。未だにわかっていなさそうな水木に、だったらいいかと、なかった事にしようかと、卑怯にも俺は逃げを打つ。今更だけどまだ間に合うのならばと、気付かなかった振りを装う。怒られた時に謝ればいいのだ。ベッドと聞いて、俺が言わんとしている事を察しないのならば、水木にとっては取るに足らない事だったはず。それこそ、過ぎた事を今更もういいだろう。
そう決め、もう一度何でもないんだと言いかけるが、水木の様子に思いがけずも言葉が詰まる。
「……」
お世辞にも顔色が良いとは言えない疲労感が、端正な顔に影を作っていた。休む前より酷く見える。もしかしたら、寝てなんていないのかもしれない。だから、俺の向けた話に気付かないのかもしれない。
「乗らないのか?」
「……乗るよ」
箱が到着し中へと入った水木は、動かない俺を待つようにドアに足を掛け、斜めの視線で問いを放つ。これがまた様になっているから、ムカつく。だけど、流石に気になるものがあり、大人しくエレベーターに乗り込み扉が閉まるのを見ながら問い掛ける。心配ではなく事実確認だと、何故か自分に言い訳をしながら、横に並び立つ水木を伺う。
「…アンタ、大丈夫なのかよ」
「何だ」
「疲れているんだろう。顔色、良くないですよ…」
「問題ない」
「…俺はホント、送ってくれなくてもいいから…寝ていて下さい」
「心配してくれているのか?」
「……ンなことは言っていない」
ただ見えるから気になっただけであるのに、都合よく解釈するな、図々しい。過労死でもなんでも勝手にしやがれと、テンポよく交わしてしまった会話さえ勿体無くて顔を顰めると、水木がフッと笑った。僅かだが緩んでいる口許。気に食わない。こんな男を気遣った自分が、怨めしい。
「……なんだよ、その顔は」
「疲れて見えるか?」
「……知りません」
アンタの身体など、もうどうでもいい。その顔、その態度。今は悪魔にしか見えないぞと胸中で吐き捨てながら、俺は顔を背ける。イタイケな青年の健気なハートを踏み躙るようなマネをしやがって、何を今更ニヤつき言うのか。もう気になんてしてやらない、絶対に。とっととイヤな笑いを引っ込めやがれ。
「まだご機嫌ななめか」
「……」
間違えるな、まだじゃない。俺は今、ここで気分が悪くなっているんだろうがオイ。すり替えるな。
「怒るな」
「…別に怒ってなんて」
「お前を送らずとも、仕事には行かねばならない」
怒らせておいて、怒るななどと言う。こいつはどこまで鬼畜なんだと呆れ果てる俺の横顔に、水木は己の予定をさらりと告げる。しかし、内容はさらりと流す事は難しい。
それは、つまり。俺のせいで今この場に居るわけじゃないということか。俺を送らずとも、休む間はないということか。
「……だったら、俺はついでってこと?」
「そんな事は言っていない」
「……」
先の俺の口調を真似るように水木が言った。からかわれたのだと理解する前に、反射的に最低だと俺は小さく喉の奥で呻く。遊ばれた、嘘だった、最悪だ。心配して損をしたと、なんて不覚だと唇を尖らせ、ハタと気付き舌打ちを落とす。心配、じゃないだろ俺。こんな傲慢男にくれてやるそれは、端から持ち合わせていないはずだ。自分にはどこを探ろうと、そんなものを生み出す余裕はない。
だから絶対に、間違っても、心配した訳じゃあない。よって、裏切られた訳でもない。相手にするな、放っておけ。無関心だ無関心と、ふざけた男に対する苛立ちを根性で押さえこむ。だが、そんな俺の都合などお構いなしな男は、簡単にそれを蹴散らし名前を呼んでくる。
「大和」
「……」
「大和」
「なッ!」
無視をしたら、二度目は距離を縮めて囁かれた。思いがけず耳に埋め込まれたそれに驚き足を半歩引いた瞬間、肩を軽く突かれ背中を無理やり壁に預けられる。開いた俺の両足の間に、水木の右足。交互になった靴を見下ろし、なんだこれはと顔を上げる。
見上げた先に、腕を延ばせば抱き締められそうなくらいの距離に、端正な顔があった。幾らなんでも近い。だが、近過ぎだぞとの抗議は水木の言葉の前に、無残にも散り果て消える。
「俺がお前を送りたいんだ、送らせろ」
「…………」
「お前は、だったら送らせてやるよと言えばいい」
「……」
「言えよ、大和」
「なんで、そんな――」
思わぬ攻撃に惚けている間に、妙な方向へ話を持って行かれそうになり慌てて止めかけるが。相手はそんな事が効く人物ではなくて。
「言ってくれ」
「…………」
「大和」
「…………ムリ」
「何故」
「だって……怖いし」
「何が」
「……何となく」
何度名前を呼ばれようが、無理なものは無理だから。理由なんてなく、怖いから。だからこれは、絶対変わりはしない「無理」なんだ。
ポツポツとそう答えながらも、テンポの遅い会話とは逆に、心音がどんどん早くなっていくのを俺は身体で聞く。それに合わせるかのように頭はこんがらがり、血が上る。どさくさに紛れて、こいつは何を言っているんだ。何を俺に強請っていやがるんだ。誰だってそんな事、言える訳がないのに。それが普通なのに。送れだなんて、有り得ない。
何をこの男は…と、頭の中はグルグル。胸はバクバク。そして、何故か身体はガクガクで。クシャリと髪を掻き回された時、俺は何も考えずに反射的に顔を上げ水木を見てしまった。間近で見つめあっている事など気にもならないくらいに、目の前の黒い眼に吸い込まれる。
「赤いな」
「…ぇ」
「赤い」
「……ッ!」
前にもこんな風に間近で言われた事がなかったかと記憶から引き出しかけたが、同じ言葉と共に頬を撫でられ、一瞬にして探求心は飛び去る。水木が何を指してそう言ったのか、理解した俺の顔は更に色をつけたのだろう。鏡に写してみなくとも、自分の顔が真っ赤に染まっているのがわかった。
「………………」
何がそうなのかわからないが。死ぬ程恥ずかしい。熱い。
触れる指が悪いんだと、顔を背けながら手で押し返す。スーツ越しに感じる厚い腕に、訳もなくドギマギしてしまう。あ、う、と喉で詰まるばかりで言葉にならない声に、焦りさえ浮かぶ。
「……退けよ」
「……」
「退いて、下さい…」
「泣くな」
「…………泣いてねぇ」
「だったらこっちを向け」
「…嫌だ」
拒否して深く俯いた時、エレベーターが地下に到着した。扉が開く音に遅れ、湿った匂いが届く。けれども水木は動かない。
「…降りないと」
「ああ」
「閉まる…」
「そうだな」
「……」
そうだなじゃなくて、さ。動けよコラと思いはするが、激しく踊る心臓でも頭にまで酸素を運べないのか、霞みがかかったようにぼうっとして言葉には出来ない。気付けば押し退けていた筈の手は、ただその腕に引っ掛かっているだけのもので、力など全く入っていない。
「…ぁ」
逆の手で、顎を取られた。抵抗する間もなく顔を戻され、再び間近で視線が重なる。
「送らせろ」
「…………」
「そんなに嫌か?」
「……別に、嫌ってわけじゃなくて…」
「なら、問題ないだろう。それとも、俺を喜ばせたくないのか?」
「喜ぶ…?」
「ああ。言っただろう、俺が送りたいのだと」
「……」
「それくらいの楽しみは与えろ」
「…………」
それはつまり、俺を送る事が出来たら嬉しいと言う事だよな…? そして、それをさせたくないから、俺が意固地に断っていると言いたいのか?
「…………そう」
そんなわけがあるかと突っ込む気にはなれず、繋がりも考えずに了承ではないただの返事をすると、水木は口許だけを僅かに上げて笑った。そうして、何をどうすればいいのか分からない俺の隙を突くように、不意に肘を掴み強く引く。
抵抗など出来ず、たったニ歩で箱を飛び出した足がコンクリートを踏み締めた。強くなった雨の匂いが、肺の奥深くまで入り込む。
「迷った時は、少しでも楽な方を選ぶものだろう。少なくとも、車なら濡れずに大学まで行ける」
どうだ違うか?と強気なそれは、一体なんなのだろう。助言なのか説教なのか、または別なものなのか。よくわからない。
「……雨の匂いがする」
「ああ」
寝起き早々から使いすぎたからか、それについて考えようにも頭は働かなくて。何故か口から出たのは、身体の中に充満したそれで。
水木の返事が、笑うものでも呆れるものでもなく。けれども無視をしたわけでもない平坦な声に、俺は小さな満足を覚える。
開けられたドアに吸い込まれるように乗り込んだのは、俺の意思で。
助手席に身体を沈めながら、俺はフロントガラスの向こうを左から右へと移動する水木を眺め、目を閉じた。
2007/06/23