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「分かっているだろうが、俺は戸川のように口が上手いわけでも、若林のように気が回るわけでもない」
「エッ…?」
 喉元まで上がっていたはずの言葉が、一瞬で頭の中からも消え去った。いきなり、何の告白だ…? ンな事、今更教えられるまでもなく知っているんですが?
 思わずマジマジと、体の向きを変えてまで俺は隣の男を眺めてしまう。自らを他人と比べるような発言をするとは、思ってもみなかった。それは俺のように卑下た発言ではないのだろうが、ただ単純に、他人との違いをこの宇宙人が把握している事自体が驚愕に値する。コイツはそう言う事には気付かない人種だと思っていたのだが、そうでもないらしい。
 けれど、それが俺にとって救いになるのかと聞かれれば、答えは当然NOである。気付けない性格ならば、宇宙人と詰れるが。気付きながら他人を軽く扱う人種となるとただの鬼畜であるので、諦め許す隙が無くなり更に怒りを増長させるものとなるだろう。
 こういう言葉はコイツからは聞きたくないなと、横顔を眺め改めて思ったところに、更なる言葉が続けられた。眼球だけを動かし俺を捉える水木にとっては、俺の顔に現れる感情は興味の対象ではないようで、簡単に心を引っ掻き回してくる。
「お前が不安になる一因は、俺にあるのだろう」
 …今になって、それを言うのかオイ。だったら俺も言わせて貰うが、一因ではなく原因全てだろう、間違えるな。そんなところで謙遜せずに、違うところでして欲しい。
「だが、俺はお前を蔑ろに扱っているわけでも、馬鹿にしているわけでもない」
「…………ヘッ?」
 思わぬ言葉に、そうなのか…?との戸惑いと驚きに、おかしな息が鼻から抜けた。
 だが、そんな事に構っている場合ではない。
「……」
 言われた言葉を頭で何度か繰り返し思うのは、馬鹿にしていないなんて一体どの口が言うのだろうと言う事で。ないがしろにしていないと言うそれを、どうやって信じろというのか。それを、そこのところを教えてくれなければ、俺の疑心は拭えないだろう。言うだけなら誰でも出来る、馬鹿な奴だと勢いのまま考え――。不意に、水木が口にした言葉を取り間違っている事に気付き、その存在が俺の中で大きくなる。
 不安、と。確かにこの男は、「不安」と言った。
「…………」
 …ちょっと待て。ならばそれは、もしかして。俺の警戒は、水木にはただのそれに見えているという事か? こんなにも考えて、ベストな道を選ぼうと頑張っているのに。この男にとっての俺のそれは、ただの感情からだけのものなのか?
 思考じゃなく、気持ち? ただの好き嫌い?
 ――ンな訳あるかよバカ野郎ッ!!
 これで馬鹿にしていないなんて、良く言える!
 こいつは、自分が一体何者であるのか全然わかっていない。そう、だからこそこんな事が簡単に言えるんだ。俺にとっての一番のネックは、相手がヤクザである事なのに。どう考えても、気が合うとか合わないとかではなく、重要なポイントはそれなのに。何が、不安だ。お前が言う言葉じゃないだろう、ふざけるな。俺は何度も、ヤクザなどには…とはっきり言っているのに。こいつはホント全く俺の話を全然聞いていないじゃないか!
 落ち着きかけていた心の中が瞬間に沸き上がり、反発心が頭をもたげる。水木の言った事は、全てがおかしい訳ではないのだろうが、全てを否定したい気分になる。
 しかし。
 目の前の水木は全然、戸川さんのようにお尻にシッポが生えているようには見えなくて。もっと言えば、初めに思った堅い職業に就いているような雰囲気そのまんまで。若干見上げる形で眺める涼しげな顔に、怒りが静められてしまう。
 それがまた、何もせず負けたようで、腹立たしい。けれど、噛み付くタイミングを失った俺にはどうする事も出来なくて。視線を下げ、身体を戻すだけで精一杯だ。
「…………」
 シンクに両手を付き、腰で凭れる。床を見ながら、隣の男が座る形なのにこの違いは何なのかと、どうでも良い事を考えてみるが、当然現実逃避は長続きしない。
 水木の、この。
 俺を慮るようなこの態度が、もしも本物ならば。水木は聞く耳を持たない唯我独尊なタイプなのではなく。他人を理解する能力が低い、ただのノータリンになるんじゃないだろうか…? …………いや、まさか。いやいや、でも。考えれば考える程その真実味が増していき、湧き起こったそれを消し去る事が出来ない。
 なんて事なのだろう。だったら、やはり。ただのバカという事か。
 結局、いつも総てがそこに行き着いてしまう。他の答えを探す努力が足りないのかもしれないが、気力を根こそぎ奪うそれを前にしては、俺の力などないに等しい。今の俺には、この答えしか出せない。そうして水木もまた、これしか俺に与えては居ないのだ。
 他人とまともなコミュニケーションもとれず、よくもヤクザ家業とは言え人の上に立っている。……いや、だからこそ、ヤクザか。ヤクザ者だからこそ、成り立っているのか。どちらにしろ俺には関係ないだろう、勘弁してくれよと心で嘆きつつ、けれど俺自身もまたいい加減にせねばならないとも思う。
 だから、つまり。それが真実であろうと偽りであろうと、俺に対しての、俺が見る事が出来る水木は、こういう奴なのだ。常識は勿論、どんな意見であっても通じない、他人は侵すが自分が侵される事は微塵もない人種なのだ。そう、そしてそんな事は今までも何度も感じていただろう、いい加減に覚えろよオレ。何を期待しているのか、バカらしい。そもそも、だったら。そんな水木の真意を探る必要も、考え込む必要もないのではないか。まして、その言葉を鵜呑みにする必要もない。やはり、そう。適当が適切だ。
「もう一度言う」
 だから何故に俺サマな言い方をするのかなんて。気にするな、オレ。
「ベッドで寝ろ。俺はあまりここでは寝ない。だから、お前が基本だ」
 基本ならば、俺の意見を聞けよ。意思を尊重しろよ。などと言うツッコミはしてはならない。聞こえないならば、意味がない。
「それでも気になると言うのなら、ここに戻る時は出来る限り事前に連絡を入れるようにしよう。四六時中気を張るのも大変だろう」
 帰宅コールって…俺は新妻かよ、バカ。ンな事、考え付くな。付いても口にするなよオイ。普通に退くぞ。何ならこのまま、宇宙の果てまで退いてやってもいい。いや、宇宙へ還るのはアンタか。キレイさっぱり何億光年も離れてみれば、ちょっとはその水木節を懐かしく思うのかも知れないが、今はムリだ。絶対ムリだ。死んでも、きっとムリ。
「それでいいな?」
 ハテナが付いていても、アンタそれ命令だろう? 俺は全然良くはないんだ、お前が退きやがれ。去れ侵略者、だから速攻星へ帰れ。
「…………」
 口から零さないよう喉まで上がって来る言葉を次々飲みながら、水木に乱されないよう悟りでも拓こうかと本気で思う。何にも惑わされる精神が欲しい。それくらいに、常に余裕を持っていたい。持っていなければ、この男の相手は務まらない。
 だが、そこまで分かっていても。やはり、暴言に近いようなボケた発言をサラリと繰り返す男が憎らしい。次から次へと、いい加減なものを放りやがって。爆弾の後始末をする気はないのか、コンチクショウ。あくまでも、話の重点はそこなのか。ベッドから離れないのかオイ。お前はひとつの事しか考えられないのかコラ。俺が基本って言いながら、勝手に決めるなボケッ。
「わかったな?」
「……俺が寝ていて邪魔だったら、さ」
 わかったな、じゃないだろうッ!と返し掛け、もう突っ込んでも仕方がないのだと己を押さえ込み、呆れる事でプライドを守り一歩引く。引いて考えてみる。言葉を選ぶ。
「その時は、蹴り起こしてよ?」
 大人な対応は出来ずとも、共にガキ臭くなる気は毛頭ない。バカに付き合うにも限度があり、俺のその限界は、多分とっくに超えている。同じ事ばかり考えているのだ。その思考部分の消耗は激しく、ショート寸前なのだろう。いや、既に忍耐は使い過ぎて磨り減っておりズタボロだ。そんな状態で、まだ耐えねばならない意味が分からない。だったら、そう。もう何でもいいじゃないか。抵抗する気力が、気付けば根こそぎ抜け落ちている。だがもう、それを掻き集める気にもならない。
 ンなに言うのなら、ドコででも寝てやろうではないか頑固者。たかが居候ひとりの寝床に、ヤクザがムキになってんじゃないぜ、全く。
 バカらしい。バカらしい。いや、らしいではなく、馬鹿だ。相手にしては損をする。
 けれど、それでもやっぱりわかったとただ頷くのは癪で、俺は最後の足掻きのように言葉を続けてしまう。
「出来なくはないでしょ?」
 たとえ、相手がバカでもアホでも。俺は、俺。何と言われようが、そう簡単にこの状態に胡座はかけないからと、貴方がおっしゃるようなデカい態度は出来ないからと。自分にはこれが一杯いっぱいだぞと、顔を横に向け水木を上目遣いに眺めながら、一歩間違えれば挑発的だと捉えられそうな言葉で俺は伺いをたてる。そこには俺の葛藤が凝縮されており、きっと醜いものなのだろうが、もうどうでもよい。水木が気付こうがどうしようが何でもいい。投げ遣りな気持ちの方が遥かに大きい内面を、下手な演技のような態度で隠す。どうにでもなれ、だ。アンタの意見は、今だけ耳に入れて頷いておいてやるよ、だ。従うわけでも騙すわけでもなく、ただ、とりあえず、このおかしな事態を一度締め括りたいと俺は願う。
 その為ならば、多少の嘘も、謙虚な態度も、進んで実行しよう。
 よく考えてみれば。ベッドは絶対に使えないと、ムキになり辞退する必要はないのだ。水木がここにやって来ない限り、俺がその日に何処で寝たのかなどバレるわけがないのだから、頷くくらい簡単なことではないか。そうだよ、そうそう。それでいい。
「お願いします」
 起こせなんて言うのはただのパフォーマンスであり、こんな遣り取りがあった後では、最早ベッドを借りるつもりなんて更々ない。けれど、それでも素直に了承するのではなく、こんな風に伺うのは。ただ単純に悔しいからであり、水木に対する貸しみたいなものであり、ただの自己満足だ。自分のこのお願いするような態度に水木が騙されるなどとは、全くもって思っていない。折れた俺を見て、相手も一歩引くかもしれないだなんて期待もしていない。何となく流れでこうなっただけであり、返答を求めている訳ではない。第一、自分の我儘を通した水木に言う事なんて、ある訳がないのだ。満足だろう。だから、これで、終わり。
 漸く終われる。
 ――その、ハズだったが。

「価値がない奴などいない」
「……えっ、価値…?」
 確実に自分の言葉に対する答えではないそれに驚き、俺は馬鹿のように繰り返す。
「価値って…ナニ?」
 また、何を言い出すのか。もとより返答内容に期待はしていなかったが、会話の継続事態を望んでいなかった身としては、これはこれで面白くない。邪魔だからと起こすか起こさないかの答えに、何の価値がどう関係あるというのだろうか。全然わからない。
 問い掛けを放置された苛立ちよりも、またコイツは…と、俺は疲れを覚えゲンナリする。しかし、人に精神的な負担をかけておきながら、水木は真面目モードを崩す事なく言葉を繋げた。
「皆、同じだけの価値を持っているものだろう。俺と同じものがお前にもあるはずだ」
 …………。俺と水木の、価値…? ハイィ?
「……話がよくわかんないンだけど、さ」
 やっぱり変な事を言い出しやがった、おかしな方向に話が曲がったと呆れながら、俺はどうしたものかと髪をかきあげる。価値観の違いがありすぎる人物と、こんな事で討論などしたくない。不毛なだけだ。価値ではなく、カチカチ山の昔話をする方が有意義な時間を過ごせるだろう。このタヌキめ、ドロ舟で沈んでしまえ。
 勝手に俺の唇から、重い息が落ちる。一度吐き出したそれを再び吸い込むと、体内の毒素が高まるような気がした。濃度を上げたそれが、まるで麻薬であったかのように俺の神経を侵す。
「それは違うと、俺は思う」
 水木はこういう奴なんだと諦めた決意は、学習した記憶は何処へ行ったのか。まともに取り合うかのように返事をしてしまうが、結局のところは反発心でしかないのか。自然と口調はきつくなってしまう。
「俺と貴方が同じなわけがない」
「同じだ。持っているのは誰だって、人ひとり分のものだけだ」
「そんなのは当たり前でしょ。理由にはならない」
「違いがあるのは、それをそいつがどう見せているのかどうかだ。本来の大きさに変わりはない」
「…だから、同じと?」
 そう言いたいのか、この男は。
 だけど、それはやはり理由になっていない。命そのものの数は、確かに一人一個だろうけれど。その重みも大きさも、全人類が同じなわけがない。違わなければ、この社会は崩壊するだろう。この男も、違うからこそ誰かの上に立っているのだろうに、何を断言しているのか。多感な女子中学生でも、今時こんな純真無垢な意見は言わないぞ。
 幼い子供に命の尊さを教えているのではないのだからと、床に向けて息を吐き、俺は眉根を寄せる。
「あのさ、見せる見せないってさ。だからこその価値でしょう。本質は関係なく、それこそが重要なんじゃないの? その差にこそ、意味があるのだと俺は思うけど」
「確かに、そう捉える事も出来る。無意味に自分を蔑みそれを下げる奴もいれば、ハッタリをかまして高める奴もいる。人間の評価はそんなところで決まるんだろう、否定はしない。だが、それでも、元々あるものは人ひとり分のそれだ。そして、それをどうするか、決めるのは自分自身だ」
「……」
 話し合いわかりあう気はゼロだなこいつ。だったら、話そうとしなければ良いのにと、変わりそうもない水木の頭の中に俺は頭を振る。パサパサと、耳の横で摩擦音がした。いつ髪を切りに行こうかと真剣に考えかけるが、今はそんな時ではないと気付き、延ばした手をすぐに引っ込める。触れた髪の感触を思い出すように、指先を擦り合わせる。
「…それで?」
「安く見せていようと、価値がないわけじゃない。違うか?」
「……そうかもね」
 一瞬返答につまってしまうが、何とか搾り出し声を落とすと同時に、胃が重くなった。何度も重ねられた言葉を頭で繰り返し、不意に水木が言わんとしている事に思い当たったからだ。だが、ここで尻尾を巻いて逃げるなんて事は出来ないと、俺はそれに気付かなかった振りをして痛みを誤魔化す。
「…だけど、やっぱり。実際はどう見えるのかが、重要だろ。それが、価値だ。だから当然、差があるものなんだ。同じものを、そうとは言わない。見せかけだろうとなんだろうと、それはそれ。それに、価値は他人が居てこそのものだから、自分ひとりでのものなんて表す意味がない。アンタが言うのは、価値なんかじゃなくて、存在理由とか何だとか、そう言うものなんじゃないの…?」
 予感は的中しているのだろう。水木は、人類愛を説いているのではなく、俺個人のそれを突いて来ているのだ。そして、それは変動する価値ではなく、命そのものを言っているかのような真剣なものであり、投げやりな子供を諭しているかのように真摯なものでもあるようで。
 それが真実ならば、初めからそうとわかっていたのならば、俺は礼を言うだけで良かったのだろう。慰めてくれようとしているのかもしれないとわかっていたら、そう言う状況での会話だったら。そうだねと頷けたのだろう。だが、今は違う。言葉は同じでも、主張は一緒でも、状況が変わればそれは善にも悪にもなる。
 どうして。どうして今、このタイミングでこんな話をするのか。それが信じられない。そんなにも俺は劣等感を滲み出しているのか? 慰めて欲しがっているのか? 価値を与えられたがっているのか? 一体、水木には自分がどのように見えているのか。それを思うと、とてもではないが冷静ではいられなくなる。
「それを、わざわざ価値だと言うなんて…つまりは、さ。貴方は他人より自分のそれが大きいから、他人より優れているという余裕があるから、中身がどうだこうだなどと言えるんじゃないの? 人の上に立っているから、下の奴等に対してそんな風に綺麗事を並べられるんだ。第一、そんな屁理屈で誰が喜ぶんだよ、安心するんだよ。それなら同情の方が余程マシだ。無能だとはっきり言われる方が、何の価値もないと否定される方が、楽だよ。そもそも、人の命の重みは価値と一緒で、皆同じなんて事は――」
「お前はそう卑屈に自分を蔑んでどうするんだ」
「…………」
 俺の言葉を途中で遮った水木のその声は、一日の始まりの朝には似合わないくらい、とても静かなものだった。周りに飛び散った筈の俺の言葉が、その一瞬で全て消滅する。
「そのままだと、何も出来ないぞ。実家に戻ろうと、このまま独立しようと、それではどうにもならない」
 いつからか、水木は俺を真っ直ぐ捉え視線を向けてきていた。鋭く身体を射抜くようなそれを真正面から受け止めてしまい、慌てて顔を背け逃れる。右のコメカミに感じる熱が、じわじわと俺の体を侵す。
「…………余計な、お世話だ」
「余計だろうが何だろうが、事実だ」
「……」
 俺が言いたいのは余計だと、アンタが言う必要はないという事であって、その真偽ではない。甘え腐って逃げているだけであるのは自分が一番よくわかっているのだから、それを誤魔化すつもりは全くないが。けれど今回だけは、自らこの部屋を与えておきながら俺のそれを指摘するとはどういう了見だと、その資格が自分にない事はわかっているが、それでも突っ込ませて欲しい。甘やかせるような事をしたのは、現在進行形でやっているのは、他でもないアンタじゃないか。そうやって、卑屈にならざるを得ないようにその差を見せつけるのはお前だろう。違うか、オイ?
「…………ムカツク」
 行き場のない怒り。だが、何と言おうが確かに事実は事実であるので、傍らの男に直接投げ付ける事は出来ずに俺は床を睨み付ける。それでも、気付けば悪態が口をついていた。吐き出したそれは空気に解けると虚しさに変わるが、俺の中では尽きる事なく苛立ちが沸き上がって来る。
「アンタは、何がしたいんだよ……」
 手を貸してやると言いながら、水木がやっている事は苛めだ。否定だ。俺を掻き回しているだけだ。そんな事をして、何になるというのか。ただの悪趣味としか思えない。
「俺は、アンタの持ち物じゃない。アンタの理想なんて、俺にはどうでもいい、関係ない。自分の意見に同意して欲しいのなら、部下相手に蘊蓄を並べていればいいじゃないか。自分の子供相手に説教していろよ。アンタが偉い事は十分わかった。それでもう、いいだろう。何と言われようが、俺はアンタの言うようになんてなれない。なりたくもない。何より、例えなりたくとも、なれないんだ。やりたくても出来ない。世の中の大半の人間は、アンタと違ってそうなんだよ。理想を現実には出来ない。不可能な事の方が遥かに多いんだ。それをわかれよ、理解しろよ。何でも簡単に言うなよ、なあ」
 語りかけるよう腹の底から声を発し、俺は顔を上げ切実に訴える。
「もう、いい加減にしてくれよ。頼むから」
「……」
「…………」
 俺の言葉に、水木は噛み砕くような沈黙を作った。考えるような仕草をし、硬い表情で俺を眺める。だが、開いた口から零れるのは、やはり期待したものとは違う言葉だった。
「別段、偉くなんてないんだがな」
「…………」
 ……指摘箇所は、そこかよオイ。一番どうでもいいとこじゃねぇーかコラ。
 俺、頑張って一杯喋ったんですが? それはあっさりスルーですか?
「お前が言うのが価値ならば、俺のそれは確かに大きいのかもしれないな」
 しかも、前言撤回か…? 認めちゃうのかよ?
「だが、俺は自分のそれがお前のそれと変わるとはやはり思わない」
 …………。……偉いのか、偉くないのか、結局どっちだ。はっきりしやがれ…。
 てか。
 一体、ナニがどんな風に俺と同じなんだよオイ? 今度こそ、わかるように説明しろよ。
「……どういうコト?」
「どうもこうもない、そう言う事だ」
「……」
 いやいや、待て待て。確実に、そう言う事だ、ではない。何を自信たっぷりに決め付けているのか、この男。だから説明はないのかよ。俺の勇気ある行動は、どうもこうもない事なのかコラ。
 水木が一体何処を見てそう言っているのか。全く見えない俺は、何を突っつけばいいのかわからずに、とりあえずはと条件反射のように眉根を寄せる。しかし、頭では教えてくれない答えを探すべく、遣り取りを思い返す。結局、俺の価値についての理論はこいつに採用されたという事なのだろうか。だから、自分のそれを大きいと認めたのか。
 しかし、それなら何故、俺とコイツが同じになるんだ? やっぱり、これは受け入れてはいないという事なのか…?
 矛盾でしかない会話を考えるにつれ酔いそうになる中、無意識に俺はわからないと同じ言葉を二度口に乗せる。本当に、本気でわからない。
「お前が意識している水木瑛慈は、多くの奴らで作り上げたヤクザだ。お前の前にいる俺ではない」
 俺の疑問をここで漸く察したのか水木が更に言葉を紡ぐが、余計に意味がわからなくなる。もう、これならば何も喋らない方が有り難い。
「……俺ではないって…、アンタは水木瑛慈だろ?」
「違う」
「……」
 いや、違う事なくお前だ。俺にそう名乗ったは、間違いなくお前だろう。忘れたと言うのか? ……いや、名刺を渡されたのは戸川さんからか。だけど、そうであっても、水木は水木だ。それは間違いない。
「……違うと言われても、俺はそれしか知らないし…」
「何を知っている?」
「…………アンタが水木瑛慈で、…ヤクザってコトだけど…?」
 俺の返答に、水木がくっきりと眉間に皺を寄せた。怒っているのだろう、無関心時と僅かも変わらない表情の中にも、苛立ちが見える。けれどそれは俺のような気分が全面に出たものではなく、とても静かな、間近で向き合っていなければわからなかっただろうと手も静かなもので怖さはない。ただ、水木のそんな感情に、俺はと惑う。
 ヤクザに向かってヤクザと言うのは、流石に拙いことだろうが。こと水木に関しては、今更だろう。何故、機嫌を悪くする? そんなに、水木瑛慈はヤクザだと認識されたくないと言う事か? だけど、それこそ今更だ。
 確かに強引ではあるが、ヤクザらしい暴力行為を直接向けられた訳ではない。けれど、それとこれとは話が別で、態度により職業が変わる訳ではないだろう。ヤクザならば、ヤクザでしかない。わかりきったそれを、今になって誤魔化すつもりなのだろうろか。しかし、俺はもう知ってしまっているのだから、そんな事をして何の意味がある?
「あのさ、」
「それとも」
「……」
「お前の前ではただの男のつもりだったが、違ったか?」
 大きくなった訳ではないが深さの増した声に言葉を飲むと、妙な問いが向かってきた。俺の頭の中を覗いていたかのような、完璧なタイミング。捉え方によっては誘導尋問のようなそれに、無意識に警戒心を強めてしまう。
「…………ただの男が、家出学生を拾うのかよ…」
 頑張って絞りだしのがバレバレな、若干震えた声が自分のものだとはあまり信じたくはない事実だ。
「ヤクザものならば、拾うのが普通と言う事か」
「…ンなの、知るかよ」
 ひとの揚げ足を取るんじゃない、ヤクザめ。
「……けど、普通の奴はこんな事は、考えついたとしても実行は出来ないだろう。だって、俺がここにいるのはアンタがそうだからでもあるし…」
「無理にお前を引きとめたのも、留まらせたのも、俺個人の意思だ。ヤクザ者だというのは関係ない」
 ちょっと待て。だから、俺は言っているだろ。ヤクザのつもりはなくとも、ヤクザであるのが事実ならば、俺はそれには目を瞑れない。発信者はそうだったとしても、受信者は違うのだ。俺がそうだと言っている限り、関係がない訳がない。勝手に作り変えるな!
「ある!それは、絶対にあるだろ!」  当然のように、何でもかんでも決め付けるなよと。俺は、後ろめたさから言葉を濁したそれを、今度ははっきりと口にする。
「だから、アンタがヤクザじゃなかったら、俺はこんな風にはなっていないだろッ! それとも何か? 俺が勝手にヤクザだからと、ひとりで無意味にビビッただけの結果だとでも言うのかよ。誰もアンタのそれを意識はしないと言うのかよ。俺だけがおかしいと、間違っているとアンタは言うのか? 自分は何も特別な事はしていないと、本気でそう思っているのかよ!?」
「言う事を聞かねば売り飛ばす――とでも、戸川に脅されたか?」
「何ッ!?」
 脅さたわけじゃないのなら文句を言うなと言うことか? これはクギを刺しにきているのか? だが、例えそうだとしても、それこそコイツには関係ないだろう。それとも、俺は矛先を変えて水木を恨むような単純な奴だと思っているのかオイ。戸川さんに洗脳されているとでも言うのか…!?
「戸川さんは関係ないだろ。俺はアンタの事を言っているんだ」
「何だ」
「何だじゃない!」
 手を上げなければ、脅しをかけなければヤクザではないのだと、そう言い張るつもりか。家出学生に宿を貸した自分は、善良な市民だとでも言うつもりか。あり得ない。この雰囲気で、なんて図々しいのだ。ヤクザと聞かされた瞬間から、それ以外の何ものでもないのに、何を俺に期待しているんだ、強請っているんだ。頭が可笑しいんじゃないか。認識不足過ぎるぞ。周りには人が沢山いるはずなのに、どうして誰もそれをこの男に教えていないんだ。根本的に間違っている。
 何故にこんな男と自分は付き合っているのか。何処でどう間違えて、日常が絡んでしまったのか。戸川さん、恨みます…。

 落ち着け、俺。そう言い聞かせながら深い息を数度吐く。血が上った頭に酸素を送り冷ます。
「……あのさ」
 何だって、俺がこんな事を説明せねばならないのか。最早、溜息も出ない。
「アンタは、その、何処で何をしているのかは知らないけれど。偉いんだろう? 戸川さんや若林さんよりも上の立場なんだろ? 俺は、そっちの世界なんて全然わかんないけど、ちょっとしか見ていないけど、それでもそうだというのはわかる。だって、皆アンタに頭を下げているし、さ」
「それがどうした」
「だから……そんなのを見せておきながら、関係ないなんて事はないんじゃないか? ヤクザであれ何であれ、アンタのそれを見て自分の現状を見直さずにいられるほど、俺は鈍感な能無しでも、無欲でプライドがない訳でもないから…意識するのは当然だろう。違う?」
「お前が意識しているのは、ヤクザである事をだろう」
「だから、貴方はそれでしょう」
「違う」
「…違わない」
「言ったはずだ、水木瑛慈は個人じゃない。戸川や若林の上に立っているのは、それであって俺ではない」
「……」
 ここに来て、宇宙人は日本語能力を急激に低下させてしまったようだ。今まで以上に、全く話が通じない。その言葉の意味が理解出来ない。確かに日本語で話しているのに、外国語よりも内容を把握出来ない。個人じゃないとはどう言う意味だ。だったら、お前は何ものだ。本当に、宇宙人だとでもいうつもりか…?
「なら、何…?」
「そうだな、象徴みたいなものか」
「……アンタ、天皇だったんだ」
 初耳だ。宇宙人ではなく、天皇陛下だったのか。それは、それは。
 だったらお前は誰なんだと言う意味で向けた問いに対し、捉え間違ったのか水木がふざけた答えを返す。個人ではないヤクザの水木瑛慈は、「象徴」らしい。なんとも立派なものだ。笑える。だが、実際には喉は鳴らない。鳴る訳がない。
「凄いじゃん」
 もしかすれば、時と場合と相手が違えば笑えたかもしれない冗談だが、この場合は最低でしかないそれに、俺は乾いた声で応える。馬鹿にしているのを隠しもせずに、褒め言葉を口に乗せる。しかし、水木は至って真面目だ。
「違う、ただの極道だ」
 知っている。アンタが「国民の象徴」である天皇だったら、俺はとっくの昔に日本人をやめているだろう。自分がヤクザ組織の中での象徴だと疑問も感じずにさらりと言うだけでも、普通に退く。呆れずにして何をどうするというのか、他に出来る事はない。
「だが、何人もの奴がかかって動かしている点は、多少似ているのかもしれないな。そこに個人などない」
「…………」
「お前、そんなヤクザと自分を比べてどうする。何がしたい?」
「何がって…」
「お前が水木瑛慈になりたいのでなければ、それは無意味だ」
「…………」
 どこからこんな話になった、転がった? いつ、俺がアンタに憧れていると言ったんだ。アンタの様になりたいんだなんて、冗談でも口にはしていないだろうが、オイ。例えそこに意味があったとしても、俺は水木瑛慈になどなりたくはない。ついでに言えば、屁理屈など捏ねられたくはないし、説教も受けたくはない。
「…訊かれる意味がわからない。俺はンな事、ひとことも言ってないでしょ。第一、アンタが水木瑛慈なのに、個人じゃないだとか象徴だとか、そこからして理解出来ない。だってさ、だったら貴方は何だ?って事になるんだけど、それはどうなわけ?」
「俺は、俺だ」
「それがわかんないってンだよ…」
「今お前の目の前にいる男だ」
「……」
「ヤクザの水木瑛慈ではない、お前に接している俺だけを見ろ大和」
「…………」
 コイツ、馬鹿だ。阿呆だよ、と思いつつ。美形男の口から平然と零される、向けられる方にとってはとてつもなく恥ずかしくなるふざけた攻撃をくらい、俺はそのまま何も出来ずに固まる。それでも、このままフリーズしていてもこの男は再起動させてはくれないと、自ら修復作業を開始し固まる頭で考える。
 確か、前にも同じ事を言われたような気がする。あれはいつの時だっただろうか、よく思い出せないが。その時はこんな風に、水木はそれほど拘っていなかったはずだ。それとも、俺がただそこを見落としていたのだろうか? だとしても、それが当然であって、落ち度はない。普通は、こんな事を言い出しはしないものなのだから。
 この「俺」と言うのは水木瑛慈である。ならば、見れば劣等感に苛まれるだけのような気がするので、出来るのならばあまり見たくはない。けれど水木は、ヤクザ水木は自分ではないと屁理屈を捏ねているので、それを採用するならば見るのは目の前のただの男――つまりは宇宙人と言うことになるのだろうか。だったら、俺の中に浮かぶのは、呆れ苛立ち無気力そんなマイナスなものばかり。ヤクザを支持するわけにはいかないが、ヤクザであるからこそ一目置く部分があるのであって、宇宙人に示すモノは俺にはない。ならばどう考えようとも、水木にとっては「ヤクザ屋である水木瑛慈」のままの方がいいような気がするのだが。
 それでもこの男は違うと言い張るのだろうか。宇宙人よりもヤクザの方がマシだと言えば、こんなおかしな事は言わなくなるだろうか。
「…………」
 それにしても、水木は何故こんな事に拘るのだろう。
 水木瑛慈は皆で作ったものだと言うが、そんなのは立場が上になれば当たり前の事だろう。周りに支えられているその事が嫌だとでも言うのか。それとも、一般企業の中間管理職のような板挟み的役割であり、不満を覚えながらもその立場に無理やり就かされているとでも? だが、それが嫌なら、下克上までして組長と養子縁組までして上の登る事はなかったのだ。誰もが就ける地位ではないというのに、俺相手に意固地に否定するほどの不平を抱えているだなんて、最悪だ。
 水木の態度に、俺は無関係ながらも戸川さんや奥さんを可哀相だと思ってしまう。ヤクザに同情する気はないが、多くいるのだろう部下達を哀れに思う。本当に、こんな男が上司でイイのだろうか。
 しかし、それを言うのならば、俺が一番可哀相だ。全然全く知った事ではないのに、何を強請られているんだろう。ただの男って、何だよオイ。その面だけで、既に「ただの男」になるのは無理だろうお前。不可能な事を強要するなコラ。
 正直に言えば、俺だって。ヤクザである事を意識せずに済むのならば、それにこした事はない。暴言を吐いてヤバイとビビる回数が減るだけでも、精神的に安心できて良い。けれど、だからって。水木の都合のイイように忘れてやるのもどうかというものであるし、例えその努力をしても、簡単に実行出来ない事は目に見えて明らかだ。無理強いされても、出来ない事は出来ない。
 だから。
 ただの男、だなんて。
「無理」
 よく考えた結果として、俺は端的に答えを返す。
「だって、アンタは。それでも、ヤクザなんだ」
 例えば。これが国民的アイドルの可愛い女の子で。平凡な自分相手に恋なんかしてくれちゃったりした場合。住む世界が違うよとか何とか言って尻込みする俺に、「アイドルの私じゃなく、ただの女の子の私を見てよ!」と言われたら、胸キュンなのかもしれないが。相手はヤクザか宇宙人かの違いしかない男であり、どちらであろうがあまり差はなく関係ないのだから、水木の意見に頷く理由が俺にはない。
「それをない事にするのは、俺にはムリ」
「そうか」
「…ええ、そうです。でも、当たり前でしょ。大体、ヤクザなんだから……ヤクザでいいじゃん。別に、俺はアンタがそうであるからと、蔑んで見下している訳でも馬鹿にしている訳でもないから、さ」
 何だかちょっと。ほんのちょっとだけだが、水木の諦めるかのような弱さが混じる頷きに、言い過ぎたのかもしれないと俺は反省し取り繕う努力をする。本当は、宇宙人としてのコイツは思い切り全否定してはいるけれど。ヤクザとしてのこの男を拒否っているけれど。それはここで告白すべきような事ではないと、嘘とまではいかないだろう下手な慰めのような言い訳を並べる。先程水木に言われた言葉とダブるが、考えては何も言えなくなるだろう。敢えてそこは無視だムシ。水木もまた俺のように、こんな事を言われては虚しくなるのかもしれない――なんて事は気にしてはならないだろう。多分、それが正しい。
「そりゃ、ちょっと…って言うか、かなりビビッたり、驚いたり、退いたりしているけど、さ」
「ああ」
「それはヤクザだからってのもあるけど、だったら戸川さんにもそうなるだろうって話で、でも、違うから。その、何ていうか、ちゃんと俺はアンタを見ているからこうなわけで、」
「わかった」
「あ、…ン、そう。だったらいいんだけど」
 ホントにわかっているのかと疑いつつ視線を向けるが、何の感情も窺わせない顔に、俺はそれ以上の確認を諦める。わかったというなら、もうこれまでだ。ヤクザな面も、そうでもない面も。本人は分けたがっているが、俺はどちらも見せられたものは全て見て取り込んでいるのだと、それを知ってくれたのならそれでよい。
 ――って。
 本当にイイのか俺? これで終わり…?
 そもそも俺達は何の話をしていたンだっけ…?
「大和」
 ホント、こいつとのキャッチボールは大変だと。何処へ何を投げるかわからないとしみじみ思いながら、先の会話が何処まで進んでいたのかを思い出す前に。名前を呼んできた水木が、どこかに隠し持っていたそれを放ってきた。
「俺は、お前が何も持っていないとは思っていない」
「えっ…?」
 ヤクザ云々に拘っていたわりには、ストレートな球が飛んでくる。
「ちゃんと価値はある。命の重みもだ。俺が言いたいのは、立場の違いは確かにあるのだろうが、ここで居るのにそれは関係ないと言う事だ。ただひとりの人間として、俺はきちんとお前を認識している。だから、自分を蔑んで誤魔化すな。ちゃんと、俺の話を聞け。俺は、この部屋やベッドを貸してやるだけの価値がお前にはあると言っているんだ。下手な遠慮はするな。大人しく借りろ」
「…………」
 ……若干、やっぱり命令かよと、最後の言い方が気に障らなくもないのだが。それよりも。
 そんな話は初めて聞いたんですが…?


2007/06/11