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毛足の長い真っ赤な絨毯ではあったが、夥しい血を吸い尽くす事も隠す事も出来ないようだと、筑波は拡がっていくその模様を無感情に眺めた。僅かに視線を動かしただけで見えるだろう、物言わぬ人間の顔を眺める趣味もなく、喚き声が聞こえる奥の空間へと足を向ける。目的の部屋までの短くはない距離を進む間に幾つもの銃声が傍で上がるが、関心など向けても意味はなかった。悲鳴や怒声交じりに語られる異国語を聞き取るほどの能力はなく、また対峙する男達の合間に飛び込んでもする事がない。どの組織が、どの組織を潰したのか。その結果だけが重要であり、両組織の人物一人ひとりの存在など、筑波には知る必要のないものだった。
やけに分厚く大きい扉が開き、見知った顔の男が口元に笑みを乗せたまま部屋を出てきた。近付く筑波を認め更に口角を釣り上げるさまは、同じ東洋人ではあっても日本人よりも大陸生まれの者達の方が残忍である事をこの半年で叩き込まれてはいたが、首筋に寒さを覚えて当然のものだった。血生臭い空気と共に味わうそれは、二度と経験したくはないと思ってしまうような無気味さをも含んでいる。
表面上は至って冷静ではあるが、男が興奮状態にあるのだろう事は眼を見ればわかった。普段は烏の羽のように綺麗な黒い瞳が、この国の黒社会の長に登りつめた感慨からか、ギラギラと輝いている。一族の復讐を果たしたという達成感は見えないそれに筑波は首を傾げかけ、けれども、男に数瞬遅れる形で部屋を出てきた人物達に納得がいき質問を飲み込んだ。復讐は、まだこれからなのだ。
「逃げられないよう、手足を撃ち抜いただけだ。いや、喋る必要はないから、舌も切ったか」
「日本に帰ろうと思う」
男の言葉には反応を返さず、筑波は連れて行かれる血塗れの男を眺める整った横顔に、静かに用意していた言葉を向けた。日本人よりも骨格は細く僅かに彫りも深い人形のような顔が、左右に振られ、真正面を向く。
「大陸式の拷問に興味はないのか、筑波」
声は真剣なものであったが、内容はふざけたものであった。だが、そう感じるのは軽視したい自分の感情からであり、実際には多少の本気も含まれているのだろうと丁寧に断りを入れる。笑い飛ばせるほども、対峙する男の精神状態が普通ではない事は筑波とてわかっていた。だが、それは筑波にとっても同じ事で、ここで間違えば日本は愚かもうどこの地も踏む事は出来はしないだろう。慎重になって当然であった。
「日本に帰る」
もう一度、今度はその整った顔を、真っ黒な瞳を見て告げる。
ざわめきなどという可愛いものではない怒号と悲鳴が飛び交う慌しさの中、それでも数秒の沈黙が二人の間に落ち、全てのものを掻き消した。ただ、真っ直ぐと見つめあい互いを探る。いや、一方的に筑波が探られ、それに耐える。
「自ら帰る必要はない」
不意に視線を解き、いつもの傲慢さを滲ませながら男はそう言った。
「既に日本には噂を流させている。お前がここに居るのだとわかるものを、な。もしまだ組織がお前を必要とするのならば、コンタクトをとってくるだろう。自分を見捨てた場所に自ら帰る事はない、迎えが来るのを待て。奴らを見極めてから選べよ、筑波」
焦っているのかと問うように、真っ直ぐと自分を見つめそう言った男の言葉に、筑波は軽く眉を寄せた。男が言う事は、正論だ。やり方は強引でも、それは筑波自身が望んでいた事でもあり文句は言えない。だが、それでも、簡単に頷く事も出来なかった。
たとえ、組織が自分を望んでいなくとも。戻る場所がなくとも。帰らなければならないし、帰りたいと思う。男の言うように裏切られたという感は筑波にはないのだ。組織が自分を見捨てるのだろう事は初めからわかりきっていた事であるし、それを直属の上司達が快く思わなかっただろう事も容易に想像出来た。今になり、形勢が変わったとは言え、果たして組織は自分を迎えに来るだろうか。その問いかけに、イエスという答えを筑波は持っていない。ならば、再び自分は杯を交した男達を惑わす存在になるのだろう。
自分の身にどんな結果が待っていたとしても、自ら帰るのが最善の方法だというのは明らかだった。
「身ひとつで戻る方が都合がいい」
「無能者を演じるのか? 健気だな」
「違う。それが下の者の勤めだというだけだ」
「馬鹿みたいに自分を安売りするな。もし買手が付かなかったら、俺が買ってやる」
「遠慮する、俺が仕えるのはお前じゃない」
考えるよりも早く即答した筑波に低い笑いを落とし、男は肩をひとつ叩くとその場を離れた。幾人かの男達が、その後を追う。その光景を眺めながら、筑波はひとつ溜息を落とした。
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中国の裏社会で長い間君臨していた李一族の崩壊を筑波が聞いたのは、5年程前の事であった。大陸でのそれは話題に上っただけのものであり、数年前は小さな組の一員でしかなかった燕昌健という男を頭の片隅に入れる程度でしかなかった。一気に駆け上がり実権を掴み取ったくらいなのだから、一目置くべき存在でありその動向も窺ってはいたが、やはり海を越えた向こうの出来事でしかなかったのは筑波自身の立場が低かったからだろう。傘下の組で役についているわけでもない筑波には、自らの思考で敵を決める判断は必要とはされていなかった。与えられるものが全てであり、それ以外は命取りにしかならないものだ。
そしてその燕家に向かう事が決まった時も、曖昧な立場は曖昧なままであり、敵かどうなのかすらはっきりとは示されなかったのだから、どう頑張ろうと自らの判断など出来はしないというものだった。燕家の動向を窺う為というのは口実でしかなく、結局は相手がどう出るのか重箱の隅を突付いてみよう的な考えで、明らかに敵だと思えるところへ放り込まれるのである。自ら進んで志願した役目とは言え、何をどうすればいいのか、正直筑波には全くわからなかった。杯を交わした組の為ならば、強引な態度に出てでも、不利な接見にはしたくはなかった。だが、本家の微妙な態度を考えれば、自分の判断で何らかの動きをすれば、あげ足を取られかねない状況でもあった。本家は傘下の組自体は兎も角、一構成員の命はとうに捨てての決断だったのだろう。
大概のヤクザは、示されるものがなければ動けない情けない生き物であり、自分もその一人だと筑波は認識していた。
そんな風に。流されるままに流れるのは、嫌いではない。昔は抵抗感もありはしたが、いつの間にか消え去った。だがそれは、その流れを自ら選んだからこその納得であり、相容れない流れに身を置くのは苦しいものであった。もがけばもがく程、飛び跳ねる水が自分が守りたいと思っている場所を傷つけるのがわかっていたので、どうする事も出来ない。ならば、この中で、流れを変えるしかなかった。
しかし、一体どうすればいいのか。
進むべき道を見つけられないままに日本を離れた筑波だが、結局は何も出来ずに終わりを与えられる事になった。燕家の車に迎えられ目的地へと向かう途中に事故が起こり、燕昌健との接見は叶わなかったのである。
車が爆発し炎上するのを自分が何処で見ていたのか、筑波にはわからない。ただ、燃え盛る炎が視界を覆うのを覚えているだけで、それが実際の映像なのか妄想なのかも定かではない。爆発したのだという考えが作り出した記憶なのか、飛び散る人の欠片も、自分を飲み込もうとする水流も、全てが朧気だ。しかしそれでも、人間の焼ける臭いが、鼻の奥に残っている。それこそ、幻臭でしかないのだろうが、そこだけが本物のようにはっきりとしていた。
意識を手放す時に考えたのは、何故こんな事が起きたのかだとか、誰が自分達を狙ったのだとかそう言う事ではなく。ただ、昔からの疑問がここに来て漸く解決した満足感のようなものだった。俺はこうして死ぬのかと、生まれた意味を考え見つけられなかった自分にやっと与えられた答えに笑った。赤い炎は邪魔だが、視線の先には僅かながらも青い空があった。それに、筑波はただ満足した。
だが、だからと言って死にたかった訳ではない。
次に覚醒した時いたのは真っ暗な世界であったが、文句はなかった。掴みかけていた子供の頃からの疑問が遠のいてはいたが、それこそ生きるというのはこんなものだろうと思った。そして、そう思った瞬間、身体に現実を叩き込まれた。覚醒した自分に気付いたかのように唐突に襲ってきた激痛が、全ての思考を吹き飛ばした。
その痛みは、生きている事を後悔するのに充分なものだった。全身を襲う激痛に耐え切れず、何度も覚醒しては意識を飛ばす狭間で考えたのは、何故自分は死んでいないのかという事だった。生きているその事実を呑み砕ける頃には、死を与えられなかった自分が滑稽でしかなかったし、骨の中まで襲う苦痛に筑波は堪らず自らも死を願った。
助けられたのか、捕らえられたのか。それさえもわからずに、ただ痛みに耐えていた日数は、後から考えれば思っていた程も長くはないものだったが、精神的には多大なダメージを受けていた。意識の混濁に時間の感覚は掴めず、体を襲う痛みは永遠に続くのではないかという恐怖をその間噛み続けていたのだ。心が参ったとしても不思議ではない。だが、身体に受けた傷がそう深いものではなく、殆ど後遺症も残らずに回復してみれば、味わった苦痛はただの過去として忘れ去った。人間の治癒能力は、身体だけではなく心の面でも高いのだろう。しかし、あの痛みを忘れてしまうのは多分生きる為に必要だからであるのだろうが、また愚かな行為を繰り返す原因ともなるはずで。
己が経験した痛みが記憶からも薄れていく事に、筑波は言葉では言い表せない理不尽さを覚えた。助かった事は、単純には喜べない背景があったとしても、生きているのを無駄だとは思わない。死なずにすんで良かったと、そう思う。だが、それとは別に、人の生死が自分の中であやふやなものになっていた。生きる事が正しいのか、死ぬ事が間違いなのか、何ひとつとして自分の中に答えがないのをこの歳になって知る。
いや、以前は確かに朧ながらもあったものが、死に直面したからだろうか、どこかに消えてなくなっていた。
「それは多分、不安だよ」
そう筑波を表現したのは、佐久間だった。ふざけた事に、佐久間は再び筑波の前に現れていた。あのホテルでの忠告などなかったかのように、気付けば当然のような顔で筑波の主治医になっていた。
「他人に預けた命が、今になって自分自身の元に戻ってきて戸惑っているんじゃないかい? 君は自由になった。だが、筑波くんにすればそれが不安そのものなんだろう。何をどうすればいいのかわからず、己の命さえ持て余し気味だ。自由になったのだから好き勝手に生きればいいのに、不器用だね」
佐久間の言葉は一理あった。だが、彼が自分を不器用だと言うのには頷けない。多分、そういうものではなく、ただの卑怯でしかないのだと筑波は思う。自分は誰かに依存する事で、自分自身を守ってきた。だからこそ、こうして突然ひとりになってしまったら、不安になるのだ。単なる不器用ならば、やりたい事の一つや二つ、思いつく事ぐらいはするだろう。だが、今の自分の頭にあるのは、忠誠を誓った場所に戻る事だけであり、簡単には戻れない事への憤りだ。自由ではなく自ら柵を望むような奴を、不器用だなどと表現するのは間違っている。
「戻るにしても、今はその時期じゃないよ」
佐久間の自分を見透かしたような発言に、わかっていると応えながら、筑波は何をすべきなのかを考えた。今、自分が出来る事と、日本に帰る事を線で結べば、己の道は見えてくるだろう。じっくりと辿るべき道を考えながら、自分の周りに散らばった事柄をひとつひとつ集めた。
中国マフィアに痛い目を見せられているのは、何も本家ばかりではなく筑波が属する組もまたそうであった。けれど、最終的に本家は、一切手を出さない事を下部組織に通達した。それに対し、明らかな反発も起こった。だが、それを治めるだけの力が本家にはあった。カリスマ性にかけては右に出るものがいない総長達の決定を覆すなど不可能であり、命令は絶対である。だが、しかし。彼らは秘密裏にひとつの策を講じ、それに抜擢されたのが、筑波が属する朝加組であった。
あくまでも個人的な判断という名目で中国に乗り込むのを最初に志願したのは、当然の如く若頭である湊だった。それを説き伏せたのは、筑波ではあるが、それさえも初めから湊の計算であったのだろう。湊が行きもし何かあれば、組は潰されてしまう。マズイ事があれば、本家は勝手に動いたのだと朝加組を切り捨てる。それを簡単にわかっていながら湊が動けるはずがなく、また他の役付きも無理であった。こういう時の為の自分だと中国行きを筑波が決めたのは、ただ本当にそれが最良の選択だったからに過ぎない。組織の中で評価の低い自分ならば、何らかの事があったとしても、個人を切れば済む事で朝加組を潰すまでには至らないだろう。残るのが湊であれば、本家や周りからの弾劾も切り抜けられる。
湊とて、本気で行くつもりはない中での発言だったのだろう。どちらかと言えば、厄介な事を言い出した上層部に苛立っており、誰一人として中国にはやりたくないようだった。それでも頷いたのは、こんな事で上から睨まれては堪らないと、組の為に苦汁を飲み込んだのだ。湊という男の行動は、自分の気持ちではなく全て組の為か、若頭としての立場かで決まる。だがそれでも、あえて己が中国へと言い出したのは、どうにも出来ない彼の苦しさからなのだろう。湊の発言の真意は、結局は筑波を思っての事だったのだ。自分が行くのを止め代わりを果たすのならば、何があったとしてもここに帰って来いと、窮地に陥った場合もここに戻る事だけを考えろと、単純にいえばそう言う思い遣りからのものだった。後味の悪い思いをさせるなと軽口で誤魔化すが、湊が望むのは本家の要求を満たす事ではなく、ただ行かせてしまうしかない者の生還だったのだろう。
自分に示された道がそんな風に複雑な思いの中で出来上がったものだったとしても、筑波はそれを選んだ事に後悔はしていない。はじめからこの結果がわかっていたとしても、自分はこの地に足を踏み入れただろう。だが、それでも。
佐久間に己の立場を聞いた時は、情けない話だがショックを覚えた。
日本では自分は死んだ事になっており、予想通り本家は勿論、朝加組からも切り捨てられた。その事実は、傷が癒えきっていない体の芯に突き刺さり、叫びたいような震えを起こさせた。組としての湊は仕方がなかったのだと納得するだろう。だが、彼自身は簡単にいきはしない。誰にも知られる事のない心の奥底に自ら傷を刻むだろう事が容易に想像でき、堪らなかった。ここまでの危険を予想していなかった自分が甘いといえばそれまでだが、己のそのミスで命を預けた男に苦しみを与えてしまうのは耐えられなかった。誰にも自身を見せないが故、湊の傷は治る事はない。それを知りながら自ら傷をつけるなど、あってはならない事だ。堪らない。
だが、実際には何ひとつとして叫ぶ言葉はなく、また佐久間に言ったところでどうしようもないのだと、筑波は短い溜息とともに「…そうか」とだけ呟いた。何よりも、半ば予想していた事態なのだから、一度飲み込めば納得するのに時間はかからない。
「悔しくないのかい? あっさりと捨てられて」
「わかっていた事だし、それは俺が望んでいた事だ。本家はともかく、朝加の組にはそうして貰わないと困る」
そう言いはしても、眉間に皺が寄るのは止められなかった。湊だけではなく、あの場所には自分を認めてくれるものが幾人もいた。親に捨てられた自分に生きている意味など必要なのかどうなのかはわからないが、彼らのそれは自分自身を認識させてくれるものだった。覚悟をしていたとはいえ、失ったものの大きさに戸惑わずにもいられない。
握力を取り戻してはいない手で作る握り拳は子供のような軟いものであったが、それでも悔しさを潰すように、筑波は出切る限りの力をこめた。そうしないと、この身体で、この立場で、後先を考えずに我武者羅に走ってしまいそうだった。
「馬鹿だね、君は」
全てをわかっているのだろう。筑波の思いは勿論、組の立場や本家の思惑を、佐久間は知っていて馬鹿だというのだろう。そして、それはどこも間違ってはいない。筑波自身、馬鹿だとそう思う。だが。
「だが、これが俺の選んだ道だ」
「そうだね…」
だけど、そんな風に割り切れる性格じゃないだろう。納得していても迷うくせにと、佐久間のどこか呆れながらも非難するような視線に気まずさを覚え、筑波は話題を変えた。そう言うお前は、何故医者なんかをしているのかと。
「突然、なんだい?」
「前から不思議だった。人の命を救いたい性格じゃないだろう。知らない奴の命なんてどうでもいいタマじゃないか、お前は」
「酷いな。ま、どちらかと言えば確かにそうだけど」
「なら、何故だ」
「簡単だよ。知らない奴は兎も角、知っている奴は放っておけない。けれど、助ける事も出来ないから、よく知らない奴を救う事で罪滅ぼしをしているのさ。そうして、自分を甘やかせ僕は生きている、狂う事なく」
「……どう言う事だ?」
「僕は「天川」といたんだよ、筑波くん。あの「天川」と。…僕には、人を守る力はない。自分と同じ人間が目の前であっさりと死んでいくんだよ、この裏の世界では。君達ヤクザも、馬鹿な権力者も、狂った思想家達も。簡単に人を殺す。それを知りながら、僕は何も出来ない、止められない。だから、医者になった。非力な自分を誤魔化す為に。結局は目の前に用意された患者だけしか救えないのだから、これも欺瞞でしかないのだろうけど、それでもその命を救う事で僕は自分を守っている。目の前にいながら見捨てた者達に囚われる事もなく。そう、理由なんて程の理由でもない。ただ、それだけの事だよ」
10年程の付き合いではあったが、所詮は目障りな人間でしかなく、佐久間個人に関心を持つ事など殆どなかった。何よりも、筑波としては恋人であった保志が佐久間を気に入っているその段階で面白くはなかったし、彼らが理解しあっているかのような関係には単純に嫉妬を覚えた。組員としての立場でも、筑波直純という一人の男としてでも、佐久間秀は厄介な男であり、それ以外のものはなかった。だが、こうして近付き眺めた素顔は、認めるのは癪だが憎むような者ではないのかもしれない。多分きっと誰よりも自分をわかり、自分もまた誰よりもわかっているだろう関係を持つ四谷クロウよりも余程、佐久間は医者らしく人間らしいと筑波には思えた。
佐久間は天川という存在を手放し、自分は朝加と言う存在から離れてしまったからだろうか。ここでこうして向き合う佐久間は、同じようにふざけた物言いをしても、敵対心を煽りはしない。知らない土地での不安から、多少は縋っている面もあるのだろう。だが、それを認めても、自尊心は何ひとつ傷つきもしない。それに気付き思ったのは、本来の佐久間秀と言う男はこういう者かもしれないというものだ。彼もまた自分と同じで、自分の為にではなく天川の為に動いていたのだろう。それを捨て自由になった今の彼を見ていると、保志が佐久間を好きだと言い切ったのが何となく筑波にもわかった。だが、天川から決別した彼だからこそ感じるそれを、保志はずっと前から知っていたのだと思うと、やはり面白くはない。
極めつけは、今なお佐久間と保志が連絡を取り合っているという事であり、自分の状況を棚に上げ筑波は何を考えているんだと知った時は悪態を吐いた。佐久間の図太さもさる事ながら、保志の危機感のなさに苛立った。もしも天川に知られ目をつけられたらどうするつもりなのか。だが、一番性質が悪いのは毛嫌いしていた佐久間と自分がこうして関係を築いている事であり、後ろめたさも多少は覚える筑波としては強く出る事は出来なかった。
何よりも。保志の状況を聞けるのは、正直嬉しかった。
別れはしたが、想いが消えたわけではなかった。己の状況が状況なだけに、保志への感情は膨らむばかりだ。死に直面しながらも助かった命で、また危険な場所に自ら望んで飛び込もうとしている。どんな事をしてでも、日本に戻らなければならないと、湊の元に帰りたいとそう思う。その事に迷いはないが、それでも、あの時保志と共に生きる自由を選んでいたらと何度も考えた。結局はその勇気はなく覚悟も出来なかった自分だが、それでも今なお未練がましく彼の事を考えてしまうのは、単純に好きだからこそのものだろう。彼との未来はないとわかりつつも、想う事は止められない。
佐久間は時々、思い出したように保志の事を話題に上げた。その都度、筑波は自分以上に彼をわかっているのだと、佐久間に嫉妬した。だが、そんな筑波を、佐久間はいつも同じ言葉で笑った。
「それでも、保志くんが愛しているのは君だよ」
何も彼は、自分の理解者が欲しい訳ではない。まして、家族が欲しいわけでもないだろう。佐久間のその言葉に、一体自分は彼の何を知っていたのだろうかと泣きたくもなった。示される態度に振り回されてばかりいた。そんな自分を、保志は何ひとつとして気にしなかった。何度も言った言葉がどれだけ彼に届いていたのか。あの時も、そして今も、思い返しても筑波には自信ひとつなく、確信も得られない。
自分の思いを保志が受け入れてくれているのは、筑波とてわかっていた。彼の意思を捻じ曲げる気はなく、互いの思いに差があるのも納得していた。だが、それでも。必要以上に求めたのは、想う気持ちと同等に自分の中に不安があったからだと筑波は思う。組のことも佐久間や天川との事もそうだが、単純に、保志翔という人間を持て余していた。納得し自ら別れを告げたのは、多分追いかける事にも振り向かせる事にも疲れていたからなのかもしれない。愛している、傍に居て欲しい、自分を求めて欲しい。向ける想いの半分も報われない寂しさを、自分は虚しいと考えたのだろう。彼は彼なりに、自分の持つ想いを真摯に向けてきてくれていたのだろうに、満足出来なかったのだ。
傷ついたのは、痛みに泣いたのは自分ばかりだと筑波は思っていた。だが、別れ、死に直面し、遠い地で彼の事を考えれば、自分は保志を傷つけたのだろう事が良くわかった。振り回して悪かっただの、今なお惚れているがお前を選べないだの、幸せになれよだの。よくも言えたものだと自身で呆れる。保志を思ってこそのあの時の言葉は、結局はただ女々しいばかりで、自虐的な自分に酔って応えない彼を貶しているようなものだったのだろう。
事実、好きな女を作り結婚して子供を持って幸せになれと、そう保志に言ったと筑波が話した時、「君は馬鹿だよ」と佐久間はあっさりと切り捨てた。
「筑波くんがそれを幸せの形だというのを、否定はしない。だが、保志くんの幸せはそんなものじゃないと思うし、何より好きな相手に言われたくない言葉だよそれは。君が彼を想っての発言だとしても、聴くのも辛かったと思うよ。まして、それを最後の言葉にするだなんて、ホント馬鹿だよ」
最もな意見だった。筑波自身、保志に言った事は偽善的すぎるが間違いではないので後悔はないが、考えが足らなかったのは事実だ。あの時の自分にはあれ以上のものは言えなかったと思うし、下手をすれば自分を棚にあげ保志自身を詰っていた事だろう。だがそれでも、あんな風に彼に向ける言葉ではなかっただろうとも思う。数ヵ月後に死んだと伝え聞く男の最後の言葉としては、実に性質が悪いものだ。一方的で理不尽な思いだとわかっていても、もし自分が保志の立場ならば、一生囚われるかもしれない言葉だと筑波自身感じた。
一体、保志は今何を思っているだろうか。それを考えると、会いたくて堪らなくなった。だが、前以上に、会う資格がない自分を筑波は認識する。
「あいつは、元気なのか?」
「僕が知る限りは、元気みたいだよ」
「なら、それでいい」
充分だと答える筑波に、佐久間は何もわかっていないと保志の事をあれこれ話しにきたが、きっともう会う事はないのだろう。日本にいる時は迷っていた。いや、この状況になってからも、筑波は保志を求めていた。だが、今漸く、覚悟が決まった気がした。もう二度と保志に会いはしない覚悟が、ストンと筑波の胸の中に落ちてきた。彼を想う事は止められない。だが、会う事はない。
あの時言った言葉は嘘ではないのだ。
幸せになって欲しい。その願いだけで充分だと、筑波は思った。口にすればまた馬鹿だと佐久間は言うのであろうが、それでもそれ以上の事を望みたくもなかった。
自分の道はやはり、湊達のもとに延びているのであり、目指す場所がそこならば保志を求めるのは間違っていた。想いが捨てられないのはどちらも同じだが、やはり命を預けた場所は譲れない。保志に命をさし出せないのならば、つまりはこれが正しいのだと、筑波は示された道をただ見つめた。
2005/05/23