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「今日明日の話ではないが。近いうちに籍を入れる事になる」
 新聞を読みながらコーヒーを飲んでいたところに、そんな言葉が落ちてきた。この歳になって読めない字を目の前に突きつけられたような、何とも言えない感覚が僕の中を走る。セキヲイレルとはどう言う事だと、まずその字面を頭に描こうとした僕に、筑波直純は言葉を付け足した。
「結婚をする」
 先の言葉では僕が意味を理解出来ないと察してのものなのか、まるでひと言ひと言区切るように発した音は、コーヒーの苦味よりもゆっくりと僕の身体に染み込んでくる。遅すぎて味などわからないくらいに、じんわりと。不味いのかどうなのかわからないが、甘くないのは確かだろう。
「聞いているのか、保志」
 刺激のなさすぎる侵食に不快を覚え、カップに残っていたコーヒーを流し込む僕の前に男はやって来て椅子に腰掛けた。視線を合わせているというのに、まるで注意を促すかのように爪でコツコツとテーブルを叩く。
「無視をするな」
 そんな事はしていない。ただ、あえて返す言葉がないから、ペンを手にとっていないだけだ。
 人聞きの悪い事を言わないでくれと言うように片眉を上げた僕に、筑波直純は深い息を落とした。溜息だ。何故、どうして、そんなものを吹きかけられねばならないのか。空のカップをテーブルに置く時に大きな音が上がってしまったのは、絶対に僕だけのせいではない。
「保志」
 どの記事を読んでいたのか、どこまで読んだのか、忘れてしまった。
「……保志」
 探す気にもなれず、関心のなくなった新聞をバサリと音をたてながら折り畳む。
「保志…!」
 何度も名を繰り返し呼ぶそれは、まるで壊れた目覚まし時計のようだ。けれど、鳴り続ける音を態々止めるのも面倒だと、僕は避難の道を選び席を立った。机の上に置いていた携帯電話を、ジーンズの後ろポケットに突っ込む。
「言いたい事があるだろう。構わないから、言ってくれ。無視をするなよ保志」
 だから、無視などしていない。僕は至って普通だ、いつも通りだ。自分で言い出しておいて動揺しているのは、貴方じゃないか。
 見上げてくる男の灰青色の瞳が、どんどんと僕の心を冷ましていく。一体、僕に何を言われる事を期待しているのか。何を言って欲しいのか。当然の事ながら僕は人の心の中は見えないので、言えるのは自分の中にあるものだけしかない。
【別に何も言いたい事はないです】
 このキッチンは勿論、リビングに寝室にと、どこに居ても手の届く所に紙とペンが置かれている。まるで、当然と言うように。
 立ったまま記した言葉に、筑波直純の眉が寄るのを見ながら、僕は何とも言えない気分になった。だが、それとこれとはまた別だ。こんな風に言葉を求められても、何もない時は仕方がない。
「…何も訊かないのか、訊きたくないのか?」
【何を?】
「……結婚するんだぞ、俺は」
【ええ、聞きました】
「お前は、それを聞いて…何も思わないのか?」
 思わない?
 それは、本気で言っているのか?
 真っ直ぐと視線を向けてくる男に、僕は軽い溜息と、小さな笑いを落とした。そう、笑わずにはいられない。
【結婚と言われたら「おめでとうございます、末永くお幸せに」くらいは言うものなんですかね?祝いの言葉が遅くなりすみません、冠婚葬祭には慣れていないもので気付きませんでした。
 あとは、「式には僕を呼ぶつもりですか?」と聞くべきですか、僕の立場ならば】
 想っている相手が突然結婚すると言われたのだ。何も思わない人間などいないだろう、普通。それなのに、真面目な顔で問い質される僕は一体何なのだろうか。この男は、何を考えているのか。苛立ちと悔しさに、嫌味のひとつでも言わねば気がすまないと書いた言葉は、日本語としては少々可笑しい様な気もしたが、男には効果があったようだ。僕が突きつけた紙を睨みつけ、唇を振るわせる。
「お前は……」
 何か言おうとした口は、小さく震えただけで直ぐに引き結ばれた。上手い言葉を見つけられなかったのだろう男にフンッと鼻息を落とし、僕はキッチンを後にする。
 筑波直純が、結婚する。
 玄関で靴を履きながら、確かに訊いておかねばならない事が幾つかあるなと思いつく。だが、今の僕にそれについて話す余裕はなく、またの機会でいいだろうとそのまま扉を潜る。しかし。
 エレベーターの振動に身を任せながら、果たして「またの機会」そのものがあるのだろうかとも考える。男が言った「近いうち」とは、一体いつくらいのものなのだろう。
 筑波直純が、結婚する。
 態々僕に言ったという事は、もしかして今の関係を変えるという事なのだろうか。今のままで良いのならば、黙って勝手に籍を入れても何をしても問題はないはずだ。あの男の性格からして、それはフェアじゃないとただ口にしただけなのかもしれないと思いもしたが、この場合どう考えても僕の存在ではなく結婚する相手を中心に考えるべき事柄だろう。ならば、筑波直純が言おうとしているのは、僕との関係の清算か…?
 駅への道を歩きながら漸く辿り着いたそれに、僕は愕然とした。まさか、今のが別れだと言う事はないよなと、思わず後ろを振り返る。しかし、出てきたマンションは既に見えず、僕に答えを与える気は更々なさそうだった。
 結婚すると言い切ったのだ、あの男は。ならば、僕に何が言えるだろう。彼が決めたのだから、そうかと聞く以外にない。嫌だと反論したところで、筑波直純を困らせるだけで、どうにもならないだろう。どうにかなるような事ならば、男が自分で既にやっているはずだ。
 嫌だという悲しい思いも、ふざけるなよと言う苛立ちもあるが、それは僕が僕自身で飲み込まねばならない事だろう。筑波直純に向けてもどうしようもない。だからこそ、言いたい事はないという態度をとった。訊かねばならない事は確かにあったが、僕は結婚するというその事実だけで一杯で、頭も気も回らなかった。それが落度だと言われれば、確かに抜けていたと認めない訳にはいかない。だが、あそこであの男があんな馬鹿げた事を訊いたからいけないのだ。
 何も思わないはずがないだろうに、真剣に尋ねてきた筑波直純の目を思い出し、僕は舌打ちを落とす。実はあれは僕の我慢を踏み躙る為にした事だというのならば、完敗だと負けを認めてもいい。見事、僕はこうして早々に逃げ出したのだから。
 だが、目を見ればわかる。あの男は本気で訊いてきたのだ。刃を振るったのは筑波直純で、傷ついたのは僕の方だというのに、苛立ちで記した僕の言葉に自分が傷つけられたかのように項垂れたのだ。
 自分は結婚するのだと、はっきり僕に突きつけておきながら。
 ふと顔をあげ、駅への道を外れている事に気付いたが、僕は戻らずにそのまま歩き続けた。男の部屋にコートを忘れた身には、まだかなり気温が低いように感じたが、それでも確実に春と呼べる季節になっているのだろう。通り過ぎかけた桜の木に、幾つか花を見つけ僕は足を止める。
 ここは日当たりがいいらしい。まだ枝ばかりが目立つ樹を見上げ、膨らんでいる蕾や開いた小さな花に目を凝らしながら、降り注ぐ太陽の温かさを僕は暫し味わう。空気はまだ冷たいけれど、陽だまりは気持ちが良い。けれど。
 けれど僕は、こんなところでの日光浴よりも心地良い温もりが他にもある事を知っている。
 こんなつもりではなかったのになと、歩みを再開させつつも、零れるのは溜息のみだ。昨夜男の部屋を訪れた時も、今朝、彼の傍で目覚めた時も。いつものように家主を送り出し、僕はゆっくり過ごし帰るつもりであったのに。まさか、こんな朝早くに上着も着ず、通勤通学の群れに紛れる事になろうとは。
 携帯電話で時刻を確認する。駅に向かうのはもう少し後にした方が賢明だろうと判断し、僕は今度は意図的に駅への道を外れた。擦れ違う学生達が、朝からテンション高く笑いあっている。とても楽しそうに。

 筑波直純が、結婚する。
 とてもではないが、今の僕は少年達のように笑えそうにない。


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 会いたくはない時に限って、会うとは。皮肉なものだ。
 普段は仕事が忙しいと、努力したところで僅かな時間しか作れないというのに、昼日中からこうしてこの男と向かい合っているというのは不思議を通り越し、不気味だ。この数週間、馬鹿みたいに働いていたと言ったのは嘘だったと告白されたならば、今の僕なら素直にそれを信じるだろう。
 昨日の今日でこうして捕まった僕が馬鹿なのか、捕まえた男が優秀なのか。街中の交差点で目の前に立ちはだかった筑波直純を見上げ思ったのは、面倒だというものだけだった。逃げられはしないだろうとわかりつつも抵抗したのは、ただそのひと言に尽きる。それでも強引に誘う男に付きあったのは、指摘されたように仕事までは時間があったし、何より今逃げたところでまた直ぐに追い詰められるのだろう事がわかっていたからだ。そう、男との攻防を早々に諦めただけに過ぎない。
 僕とて、このまま何もなかったかのように過ごす気はない。ただ、昨日の今日では早過ぎる。何も思わないのかと訊いてきた男の視線を、僕はまだ納得出来ないでいるのだ。この接触では、何の意味もないだろう。
 頑なな姿勢を崩さない僕を前に、筑波直純も硬い表情を解きはしなかった。交差点から少し離れた場所に停められていた車の後部座席に乗り込み、運転席に座っていた男が出て二人きりになっても、どこか余所余所しい態度は直りそうもない。そうした自分に苛立つのか、憮然とした僕に怒っているのか、男の眉間が皺を増やす。
「保志、いい加減にしろよ。俺が望んで結婚すると思っているのか!?」
 昨日と同じようにされる質問に、同じ様に言葉を返さずにいると、キレたかのように唐突に筑波直純はそう叫んだ。
「俺だってしたくはない。だが、仕方がない事なんだ」
 聞きたくはなかった。それが男の本心だとしても、向けられたくはないものだった。
 僕は反射的にドアを開け、地面に足を下ろした。開いた隙間から体を滑らせようとしたが、腕を引かれ車内に連れ戻される。僕の体を覆うように抑えながら、男は開けたドアを閉め気休めでしかないロックをかけた。半分横たわるようになった体を起こそうとしたところで、鋭く名前を呼ばれる。
「保志ッ!」
 怒鳴られても、この体勢でいる方が無理だ。男を押しのける形で体を起こすと、両手首を取られそれ以上の抵抗を封じられた。出て行く事は諦め、溜息を落とし逃げないからと眼で訴える。だが、筑波直純は戒めを外しはしなかった。僕の両手を片手でシートに縫いつけ、もう一方の手を僕の方へと伸ばしてきた。叩かれるのかと思った手が視界を通り過ぎ後頭部へと触れると、一気に力が加わる。引かれたのを気付いた時には、唇が重なっていた。
 無理にこじ開けるよう強引に侵入してきた舌にいい様に弄られ、僕の唇から唾液が伝った。顎に流れていくそれを、気付いた男の舌が拭い、再び口腔内へと入ってくる。積極的に応じた訳ではないが、離れた時には僕の息はわずかに上がっていた。だが、キスをしたという感じはしない。無意味な交わりだ。
「……夕方の便で香港へ飛ぶ」
 顎に指をかけ親指で僕の濡れた唇を拭いながら、筑波直純は先程までと変わらない硬さでそう言った。仕掛けておきながら、彼の方もキスなどしなかったかのようなその雰囲気に、僕は軽く笑いを落とす。それが気に触ったのだろう、咎めるような声で男は僕の名を呼んだ。
「保志!」
 煩いと見やり、もういい加減にしてくれと頭を振ると、深い息と共に腕の拘束が解かれる。溜息を落としたいのは自分の方だと、僕は男を眺め目を細めた。何故、どうして。こんなにも、この男は怒るのだ。苛立っているのだ。仕方がないと自分で言いながら、まるで僕に非があるような視線を向けてくるのだ。
 結婚をするのは筑波直純であり、僕ではないのに。
「…週末だけだ、月曜には戻る。その日の夜は無理だろうが、火曜には都合をつけるから会おう。部屋に来てくれ、いいな?」
 頷きは返さずに、僕は車を降りた。最低だ、視界が滲む。僕のそれに気付いたのか、再び短く名前を呼んでくる男の声が先程とは違うもののようであったが、振り返りはしなかった。離れる自分と入れ違うように、席を外していた男が車に戻り乗り込む音を背後で聞きながら、僕は一歩一歩足を運ぶ。ゆっくりでも前に進まねば、この場で崩れ落ちてしまいそうだ。
 何故もっと、自分が選んだ道を突き進んでくれないのか。筑波直純の態度が、堪らない。僕は男を認めているのだ。彼自身も、己のその立場を理解しているだろう。なのにどうして、僕に迷いなんかを見せるのだ。
 結婚でも何でも、仕方がない事だと考えるのならば、そう口にまでするのならば、それを崩さなければいい。いや、崩すべきではない。しょうがないだろうと、まるで僕に納得させるかのように、自分に言い聞かせるかのように説明するだなんて、この上なくズルイ。
 僕は男と同じ様に、その立場を理解しているつもりだ。理不尽な事もあるとわかっていて、傍にいる事を決めた。それなのに…、いや、だからこそ。筑波直純に揺らがれるのは、困る。彼自身が迷ったならば、一体僕は何をどうすればいいのか。全てがわからなくなる。
 例え、筑波直純が結婚しようとも。僕には離れる気は全くない。
 男が苦しみながらもあの仕事を選んだように、僕もその彼の傍を選ぶ。その選択を、否定する権利は誰にもないはずだ。何よりも、絶対に譲れないからこそ選んだのだから、否定されたとしても想いは簡単に変わりなどしない。
 好きだからこそ、優しくして欲しい。一緒に居たい。愛して欲しいと思う。だが、それでも。強い意思で選んだのだろう事がわかる男の進む道を、こんな事で彼から奪おうとは思わない。結婚が些細な事だとは、僕とて思っていない。けれども、僕はその道を貫く男を納得しているのだ、認めているのだ。結婚だけではなくその他の事でも何でも、その道を行く上で僕から気持ちが離れるような事になったとしても、それは仕方がない事だと思える程に僕はヤクザの筑波直純を受け入れているつもりだ。確かに精一杯の努力をしているとは言えないだろうが、自分の想いと同じくらいに、男の想いも大切にしているつもりだ。
 それなのに。
 この世界からは離れられないと真摯に語った男の傍を選んだ僕の決意を何だと思っているのか。どう感じていたのか。その僕の前で、迷いを吐き出し、ひとり苦しんでいるかのように僕を責めるだなんて、堪らない。つまりは、僕の気持ちを軽視していたと言う事なのだろう。そう考えると、屈辱的ですらある。
 苦しいのかと、可哀想にと言って欲しかったとでも言うのか。意にそぐわない結婚に、同様に心を痛めて泣けとでも言うのか。一緒に嘆かなければ、僕の想いは本物ではないと言うのか。僕の態度に怒るという事は、そう言う事ではないのか…?
 貴方は最低だ。何故それでもついて来いと言わない。普通は、逆だろう。納得行かない相手を、宥めるのがその立場だろう。貴方自身が揺らいでどうするんだ、筑波直純。自分が何を選んだのか、忘れたのか。貴方が揺れたら、僕は何を信じればいい。何を、大切にすればいい。僕が貴方を想うのは、迷惑だとでも言うのか?
 僕を離したくはないと言ったのが本当ならば、そのまま突き進んでくれれば良かったのだと僕は胸中で男を詰り、詰めていた息を吐き出した。いつの間にか握り締めていた手を解き、いつの間にか止めていた歩みを再び始め、下げていた顔を上げる。数時間後には彼が飛んでいくのだろう空は、上空に風があるからだろうかいつもより明るい水色が広がっていた。珍しく綺麗なそれを見ていたいのに、視界が歪み始める。
 ついて来いよ、と。そのひと言で、僕は良かったのだ。
 実際には全く会えなくなろうが、男が家族を築き何よりもそれを守ろうとしようが。僕はそれを筑波直純だと認める自信はあったのだ。結婚だけではなく、ヤクザ稼業の事でも。彼が誰かを死に至らしめようが、直接手を下そうが、受け入れる気持ちはあったのだ。たとえ辛くとも、寂しくとも。納得出来なくとも、理解出来なくとも。これからある全ての苦しみをわかっていたとしても、僕はこの道を選んだはずだ。生半可な気持ちで、男の傍に居る訳ではない。この街に戻ってきた訳ではない。それなのに。
 目の前に立っていなければならない男が、弱音を吐き跪いているのだ。
 僕にどうしろという。
 そんな立場は捨てろと言ったところで、結婚なんて辞めろと言ったところで、何も変わらない。それは僕以上に本人が知っているはずだ。嫌ならば、きっちりその世界から抜けるしかない。抜けられないのならば、従うしかない。それを棚に上げ、自分の迷いに同調しない僕を責めるなど、何故、どうして出来る。そんな事をして、何を望む。
 憤りが溢れかえり、答えが出ないままに、鉛のように重い苦しみが腹の中にどんどんと溜まっていく。喉元まで上がってきたそれが、僕の呼吸を塞ぐ。怒りで頭に血が上ったせいもあるのか、急に身体がだるくなり、僕はその場にしゃがみこんだ。表通りから一本入った路地の隅で体を丸めながらも、涙を流しながらも、口からは笑いが零れる。
 しんどい。疲れた。もう、嫌だ。
 考えたくないと手放したがっているのは、頭なのか心なのか。どちらかはわからないが、僕自身はその要求を飲み込めそうにない。こんなに苦しくても、辛くても。やはり、筑波直純を考えない事など出来ない。それこそ呼吸をする以上に、僕にとってはそれが生きていく上で必要な事なのだから。
 こんな自分を、馬鹿だと思う。けれど、それとこれとは別で、許せられない事もある。
 好きで結婚をするわけではないと、多分男も思わず言ってしまったのだろう言葉が、僕の頭の中を回る。その時の、失態を犯した男の顔が蘇る。僕に話す前からずっと葛藤し、あそこで爆発させたのだろう筑波直純の顔が、網膜に焼け付いている。
 彼をあんなにも不安にさせたのは、僕なのか。僕と言う存在が、彼の歩みを妨害しているのだろうか。
 傍に居たいという僕の想いは、筑波直純にとっては重荷なのだろうか。
 結婚の事よりも何よりも。今、僕はそれが知りたいと、深く長い息を吐いた。


 翌朝、僕の家のチャイムを鳴らした男が居た。
 湊正道だった。

2005/08/04
Special Thanks to 232323hit_sama