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 無理だと言っていたのは覚えていたが、月曜の夜に僕は筑波直純の部屋を訪れた。だがやはりその夜には彼は帰っては来ず、翌日、仕事に向かうギリギリまで僕はそこに留まったが結果は同じだった。
 火曜のその日は定休日前で仕事が長引きその延長で食事をし、同僚達と別れたのは日付が変わってからだった。だが、漸く帰り着いた部屋は、昼間出た時となんら変わってはおらず溜息が零れた。明日は休みなのを良い事に、身体は疲れてはいたが僕は眠らずに家主の帰りを待った。携帯がなるかもしれないと、脱衣所まで持ち込み風呂に入ったが、我慢できずに夜明けに眠りにつくまで僕が作る以外の音は全く上がらなかった。
 李慧珠は言っていた。結婚はしないと。
 果たしてそれが本当に筑波直純の為になるのかどうか、未だ僕にはわからない。彼女の言うように事が運べば湊は喜ぶのかもしれないが、僕は少なくとも嬉しいとは思わない。良かったと思いはしても、李慧珠と会ってしまったのだから胸中は少し複雑だ。
 何が正しく、何が間違っているのかがわからない。李慧珠と一緒になる事が筑波直純の不幸とは思えないし、同じく今の組織でいる事が幸福にも思えない。そもそも答えなんてあるのだろうかと、夢と現実の挟間で無駄な考えを頭に浮かべていたのだから、当然そうしてとった眠りは心地よいものではなかった。
 瞼越しの光りに刺激され目が醒めたのは、昼前の事だった。ベッドの中で意識を集中させ窺うが、人の気配は何処にもない。起き上がる気にもなれず、再び眠れないかと布団の中に潜り込み、流石にそれは出来そうにないと観念し体を起こした。こういう時は少し、自分の寝起きの良さが恨めしくなる。
 リビングにはやはり誰もいなかった。男が戻ってきた形跡すらない。
 ミネラルウォーターをコップ一杯飲み、僕はシャワーを浴びる事にした。意識ははっきりしているが、思考はイマイチだ。それは寝起きだからではなく、求めるものが傍にいないからだとわかってはいたが、微妙な感覚をどうにかしたくて浴室に向かう。
 熱い湯から段々と温度を下げていき、最終的に僕は頭から冷水を浴びた。気持ちいいという感覚は一瞬の事で、直ぐに何も感じない域に達する。散々熱い湯を浴びていたので寒さはなかった。だが、確実に体温は奪われているのだろう、気付けば見下ろしている爪先が赤みを帯びていた。もう三月なのだ、流石に水で凍傷などになる事はないだろう。だが、風邪くらいはひくだろうかとぼんやり考えていると、シャワーの水音に混じり何か音が聞こえた気がした。
「何をやっているんだ馬鹿野郎ッ!」
 身体が傾くと同時に振ってきた男の声は、酷くくぐもって聞こえた。水を含んだ髪が耳に張り付いているからだと気付き掻きあげようとして、両腕を捕まれている事を知る。思った以上に冷えているのか、握られている感覚はなかった。顎を上げると、睨みつけてくる筑波直純と間近で眼が合った。背中から拘束されているのだとわかり、僕は軽く笑い男の胸に体重を預けた。
「おい、こらっ!しっかりしろ」
 失礼な、確りしている。気を失った訳ではない。ただ、少し甘えているだけだろう、それくらい受け入れろ。
 ムッと顔を顰めると、負けん気が強い子供のように男も顔を顰めた。そして、舌打ちしながら僕を抱え上げ、浴槽へと降ろす。何なのかと立ち上がりかけたところを肩を押さえつけられて阻止され、僕は頭からシャワーを浴びせられた。
 そのまま足元に溜まり始めた湯を眺めていると、髪を梳かれ上を向かされる。
「何を考えているんだ、お前は。風邪をひいたらどうする」
 紫だぞと、男の中指が僕の唇を撫でた。帰って来た途端小言かと、約束を反故にした謝罪はないのかとムカつき、僕はその指を口で捕え歯をたててやる。下から見上げた筑波直純のシャツとスラックスは派手に濡れていた。ネクタイを外しただけでボタンをひとつも開けていない首本が、何だか少し窮屈そうだ。
 このままだと男も風邪をひくのではないかと思いながらも、漸くの帰還に今一度咥えた指を噛んでやる。半日の遅刻に気付いているのだろうか。
「止めろよ、おい。腹でも空いているのか?」
 ああそうだ。空いているのは腹ではなく、身体全てだ。欲しいのは食べ物じゃなく、筑波直純だ。
 僕は口で捕えていた手を掴み引き寄せ、男の顎に噛み付いてやった。髭が伸びていない。徹夜で仕事だったわけではなさそうだ、腹立たしい。
「こら、喰うなよ」
 けれど、笑いながら抗議した男の方が、今度は逆に噛み付くようなキスをしてきたので、僕の意識はそこから離れる。たとえ何をしていようと、とりあえず今は自分の目の前にいるのだから良しとするしかない。
 口腔内に侵入してきた舌が温かくて気持ちよくて、僕は男の頭を腕に抱え込むように引き寄せ強請る。だが、直ぐに体を押され、降り注ぐシャワーの下に戻された。啄むように軽く僕の唇を噛み、筑波直純が離れていく。濡れた髪を片手でかきあげる仕草を眺め、僕は男の顔に浮かんでいる疲労の色が濃い事に漸く気付いた。
「お前、今日仕事は?」
 頭を振り応えると、そうかと返事をしながらバスタブの縁に腰を掛ける。筑波直純は暫く僕の髪を梳き頬を撫でていたが、我慢出来ないというように、「…悪いが、寝る」と腰を重そうに上げた。
「お前はちゃんと温まってから出ろよ。そうだな…一時間経ったら起こしてくれ。昼飯、一緒に食おう」
 頼んだぞと浴室を出て行く背中を見送り、今は何時なのかくらい教えていけよと僕は肩を竦める。それがわからなければ、時間は計れない。
 仕方がないので、男の命令通りに体を温めてから上がり、そこから一時間後に起こす事に決めて僕はキッチンへと向かった。朝食を摂っていないので、とりあえず何か腹に入れたいとコーヒーを飲む。熱いそれを啜りながら冷蔵庫を物色し、適当に昼飯を作る事にした。
 米を洗い水気を切る間に、玉ねぎをみじん切りにする。冷凍庫のシーフードミックスを適当に取り出しレンジで解凍すれば、あとは炒めてスープで炊き込めばピラフが出来上がる筈だ。
 長い間務めた店では、料理は時たま助手をする程度だったが、大阪ではそれなりに教えられた。実家に戻り、仕事もデスクワークになったので、こちらに戻ってきてからは料理をする機会はかなり減ったが、元々落ちる程の腕は持っていない。上達する事もないが、錆びる事もさほどないだろう。とりあえず、食べられる物を作る事が出来れば、生きる上では問題ない。
 鍋で炒めた玉ねぎと米を炊きながら、付け合せはサラダにしようかと冷蔵庫を漁るが、レタスくらいしか青菜はないので早々に諦めスープにする事にした。買い出しをしておけば良かったなと今更ながらに思いつくが、既にもう遅い。パン粉とチーズと卵を混ぜたものを、煮立ったスープに入れ掻き混ぜる。
 炊き上がったご飯を蒸らす間にシーフードをフライパンで炒め、混ぜ合わせ味を調えれば昼飯は完成だ。
 若干ご飯は固めだが、別段味は悪くはないので、僕は筑波直純を起こしに寝室へと向かった。

 現金なものだが。
 男の帰宅に、僕は少し浮かれているのかもしれない。


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 昼食の片付けをしていた筑波直純が、カップを両手にリビングへとやって来た。
「李慧珠に会ったんだってな、聞いたよ」
 誰に聞いたのだろうかと首を傾げながら、渡されたカップを受け取り口をつける。甘めのミルクティーが身体に染み渡り、ホッと僕が息を吐いたところで「彼女との婚約は白紙に戻った」との言葉が続けられた。
「だが、今回はこんな結果になったが、俺もこの歳だからいつまたこんな事があるのか、正直わからない。立場的には少ないはずだが、色んな意味で目をつけられているからな俺は。政略結婚とまではいかずとも、身内の何らかに巻き込まれる事はあるだろう」
 この男がその組織の中でどんな立場に立っているのか、どんな役目を引き受けているのか。僕は、そうした事を余り知らない。今回、李慧珠に教えられたのはほんの一部だろうが、それでも僕には想像していた以上のもので、本当に自分は何も知らないのだなと痛感させられた。
 だが、それでも。少なくとも僕が知るこの男の周りの者達は、筑波直純という人間を大切に扱っている。岡山や福島さんなどは勿論、上の立場の湊も名執も大事に思っているようだ。けれど、決してそれだけではいられないのだろう事が、男の言葉で僕にもわかった。
 難しい立場に立つこの男が、今回の事で何を得ようと望み、何を失おうと覚悟したのか。こうして元の場所に戻ってきた事が良かったのか、悪かったのか。やはり僕には何ひとつわからない。再びまた誰かと婚姻する事を思えば、もしかすれば、真摯な想いを持つ李慧珠と一緒になっていた方が良かったのかもしれない。今の組織ではなく違う場所でならば、もっと思うがままにこの男は動けるのかもしれない。
「この前は、悪かった」
 ソファに座る僕の足元に腰を下ろし、ローテーブルに肘を付きながら、筑波直純は斜めに僕を見上げてきた。
「急に向こうへ飛ぶ事になって、俺は少し焦っていたのかもしれない。……相手は少々厄介な奴だったから、な。李慧珠の兄である李独秀は、何をするか予想も付かない男だ。彼に会う前に、俺は都合よく、お前が自分のものである事を感じたかったのかもしれない。今となっては、馬鹿だとしか言いようがないが……慌しさが続いていたし、結婚すると言ってもお前は相変わらずお前だし、それなりに参っていたんだろうな俺は」
 自身に呆れたように、鼻で息を落とし肩を竦めてみせた男は、視線を手元に戻し紅茶を啜る。その横顔は、けれども何処か寂しさを漂わせており、僕は腕を伸ばしその頬に触れた。
「……済まない」
 僕の手を取りながら、筑波直純は謝る。
 多分、きっと。この男は勿論、誰もが悪い訳ではないのに。
 それでも、目の前の恋人は謝罪を口にする。
 僕に向かって――。
「……泣くな、保志」
 卑怯だと言うのはわかっている。僕に泣く資格はないのだろうという事も。
 けれど涙は溢れてくるのだから、止まらないのだから、仕方がない。引き寄せられた胸が大きいから、身体に回る腕が温かいから、どうしようもない。しがみ付いても振り払いはしない男が目の前にいるのだから、我慢など出来る訳がない。
 李独秀は妹の為を思って行動を起こした。李慧珠は、愛した男の為に兄に背いた。筑波直純は上司の為に、自らを与えようとした。湊は部下の為に、手を尽くそうとした。ならば、悪いのはその上の組か?
 多分、そうではない。きっと組は、多くの者の為に、李独秀の話を飲んだのだろう。
 何もしなかったのは、僕ぐらいのものだ。
 自分の事だけを考えていたのも。
「……お前に泣かれたら、俺はどうすれば良いのかわからない」
 子供をあやすように僕の背中を軽く撫でながら落とされたその言葉が、胸に突き刺さる。
 先日、僕もそう思った。筑波直純に揺らがれては、どうすればいいのかわからないと。だが、あれはただの僕の不安でしかなかった。傍を歩くと決めたくせに、自分から男を見失ったくせに、全てを彼のせいにしていた。それなのに。
 筑波直純は、こうして僕の傍に戻ってきた。ひとり勝手に立ち止まった僕のところにきて、こうして手を差し伸べてくれる。お前は悪くはないと言うように、怒る事もなく、温もりを僕に与える。
 同じ言葉でも、僕とこの男のそれとでは全く意味が違うのを思い知らされ、遣る瀬無さが込み上げてきた。何故、こんなにも想われているのに、僕は直ぐに忘れてしまうのだろう。自分の尺度で全てを決めつけ、知ったつもりになるのだろう。僕が想う以上に僕は想われているのに、こんな風に男を追い詰めないとそれを思い出さないとは、なんて傲慢なのだろう。自分が不安を感じたら、相手もそれを感じているという事に、何故その時気付けないのか。
「保志、頼むから泣かないでくれ。お前が泣く事はないんだ」
 身体に回された腕に力が篭り、僕は狭まった空間の中で身動ぎせずに息を吐いた。だが。
 僕は当然のように簡単に温もりを求めるくせに、相手にはそれを与えてはいないのではないかと気付き、身体が震える。考えるよりも早く男の胸を突き、僕は温かい腕から抜け出した。
 突然のそれを非難する事もなく、筑波直純は僕を落ち着けようというのか、静かに手の甲で頬を撫でてくる。伝う涙を拭うようにゆっくりと、けれども少し力強く。
 僕はその手を取り降ろさせ、筑波直純の首に両腕を回した。髪に鼻先を埋めると、男の匂いが身体に広がる。
 再会して一年。東京に戻ってきて五ヶ月。
 僕は僕なりに、この男を想い愛してきた。だが、僕は何も知らない。これだけで充分だと、他は余計だと、男の周りを見てこなかった。知らなければならない事からも、目を背けていた。
 そんな僕に、この男は気付いていたのだろうに。何も言わなかった。今も、何も言いはしない。
 初めて湊と接触した夜も、僕は何も知ろうとはせず、ただ怯えていた。覚える不安を消す事だけに、気を向けていた。それは、多分きっと。知れば自分の負けを認めるしかないと、何処かで判っていたからなのだろう。
 筑波直純の中での、湊や組の大きさに。選んだその道に。
 自分の存在はいつか負けてしまいそうで。それを突きつけられるのが嫌で。僕は何も見ようとはしてこなかったのだろう。だから、こんな風に。
 今、泣くのだ。
 今になって、目の前にいる男に腕を伸ばすのだ。
「保志」
 耳に囁かれると言うよりも、身体全体に響かせるように、筑波直純が僕の名を呼び背を撫でる。労わる様に、宥めるように、愛しむように。自分の温もりを僕に分け与えるように、ゆっくりと大きな手を滑らせる。
 男が迷うその時には耳を傾けもしないくせに、僕はこうして、相手の余裕を計算して縋りついている。今なら、突き放される事はないと。きちんと応えてくれる事を知っているから、腕にとり抱きしめる。
 僕はなんて、ズルイのだろう。

 頬に男の唇を感じながら、僕は思う。
 この温もりを、どうすれば大切に出来るのだろうかと。こんな僕に、大事に扱う事が出来るのだろうかと。

 サックスのように、好きだという感情だけでは駄目なのだ。
 傍を歩くだけの努力では駄目なのだ。
 本当に必要なのは、そんな思いではなく。筑波直純が僕を受け入れ癒すような、そんな心の余裕なのかもしれない。


 いつもより甘い接吻は、けれども自分自身の苦味を僕に教えた。

+ END +

2005/08/04
Special Thanks to 232323hit_sama