+ Act.1 +

「マンボウみたいだな」
 男はそう言い軽く笑った。
 大きな体を波に乗せてあても無く海を漂っているかのようなその魚と、プールに浮かぶ俺とが似ていると言ったのだ。
 だが、マンボウは惚けたような外見とは違い意外に行動派だ。
 はたして、男はそれを知っているのだろうか。知っていて、俺をからかったのだろうか。
 マンボウは一日に何度も光が届かない深海に潜る。
 彼らは一体そこで何をしているのか。真っ暗な海の底で、彼らは何を見て、何を思うのか。
 一滴の光も無い、真の闇とはどういうものなのだろう。
 似ているのかもしれない俺は、それを知ることが出来るのだろうか――?


 夜になっても、真の暗闇は訪れはしない。
 暗いプールに仰向けで浮かんだ俺が目にするのは、闇に浮かび輝く星達。夜空は雲の流れがわかるほどに明るい。無数の星、大きな月。
 水面から出た肌を、南国の温かな風が掠めて行く。この風ももう少し経てば冷たいものとなるのだろう。だが、それを感じる前に俺をここから連れ出す者が現れる。星の動きがそのことを教える。
 静寂を破るのは、いつもレンガに響く靴の音。
 聞き慣れたその音にそれでも首を動かすのは、単なる小さな反応。そこに特別な理由は存在しない。
 玄関からそのまま来たのだろう。ネクタイすら緩めていないスーツ姿の男。だが、手にはノートパソコンだけしか持っていない。鞄は途中で放ってきたのだろう。慌てた様子もなく現れるのに、一度部屋による事はせずこの場に直行してくる。そんな男の真意がわからない。
 だが、それは俺が考えても意味がない事だ。
 予想通りの人物の姿を捉え、俺は直ぐに視線を空へと戻す。
「また、ここか」
 呆れた色を見せながらも、楽しげに言う。
 俺がここにいるのも日常なら、そんな男も日常のもの。真実など関係ない。
 ただ、俺はここにいて、そして、男はしたいようにすればいいだけの事。理由も感情も俺と男の間には存在しない。
「おいで」
 男が俺を呼ぶ。
 だが、俺は動かない。微かに水面が風で揺れる。サワサワと木々が揺れ風の声を伝える。
「ミナト」
 返事を期待しているのだろうか。本当に傍に呼びたいのか。男の場合、全てが疑問だ。
 まともに返事をしない俺に飽きる事なく話し掛けてくるのは、声を掛けること自体を男が楽しんでいるからだろう。会話をしても長くは続かなく、極端に意思というものが少ない俺と、雨が降るように喋るが、真意を見せない遊び慣れた会話しかしない男とでは、話がかみ合うことが少ない。
 元々口数は少なかったが、この暑い国に来て、俺は言葉を忘れ始めているのかもしれない。だが、それも特に問題にはならないだろう。そう、俺はここにいれば良いだけのことなのだから。
 男の苦笑交じりの溜息が風に乗って耳に届く。
 そして、数拍の間をおいて大きな水音が上がる。
 水飛沫が星の光を受け、細く煌く。
 水面を動く波が俺に振動を伝える。
 ――来る。
 そう思った瞬間、足を捕らえられ俺は水中に引きずり込まれる。
 いつもより早く来た衝撃。だが、抵抗する事なく、俺はその力に身を委ねる。
 月の光は暗い水の中にまで届く。俺の体に纏わりつきながら気泡がゆらりと水面に向かって上がって行くのに対して、俺の体は更に沈む。直ぐに月明かりを遮る程の大きな影が俺の目の前に現れ視界を塞ぐ。
 このままもっと、もっと深くまで沈みこむ事が出来たら良いのに。
 直ぐにプールの底に足がつく。その感触に、絶望と言えるほどの空虚が俺の心に現れる。
 暗くて見えない大きな手が俺の体を滑る。
 目を閉じても、瞼の向こうで微かにちらつく明かり。
 暗闇に行き着けられない悲しみと、光を感じる喜び。相違する感情は、現れては直ぐに消える。

 暖かい空気が体を包み込む。
 足を抱えられ、腰から上が水面から出た状態でもなお、俺は空を見る。大きな月の光が降り注ぐ。
「かぐや姫か…?」
 溜息交じりにそう言い、男は俺を抱え上げる腕の力をすっと緩める。そうして、重力に従って落ちたところを再び捕らえられた。
 俺の視界から月を塞ぐように、男が顔を近づけてくる。
「いつからここに?」
「……昼」
「…夕方にスコールが降った時も?」
「あぁ…」
 それがどうしたと言うのだろうか。男は微かに眉を寄せ「感心しないな」と呟いた。
 おかしなことを言う。水中にいるのだから、雨など関係ないだろうに。
 男はその少し固い表情のまま、俺の手を取りふやけた指に唇を落とした。そして、それを軽く噛む。
「水の中ばかりにいて、月が好きで、人間が嫌い…。人魚みたいだな」
 かぐや姫の次は、人魚。魚から人間へと成長したかと思ったら、直ぐに半漁人。この男の思考にはついてはいけない。
 男が弄んでいた手を放し、今度は頬に手を添えてくる。
「だが、お前は残念ながら人間だよ。俺と同じ、人間だ」
「人間、ね…」
 ゆっくりと瞬きをし、男を見上げる。男の後ろから月の光が落ち、はっきりと目の色までは見えないが、それでもそれはとても強いもののように感じる。だが、俺は受ける術を持ってはおらず、流す事しか出来ない。
「…だが、人間でも、あんたと同じじゃない」
 人間だろうが何だろうが、今の状況が変化するわけではない。
 それはこの男が一番わかっているだろう。いや、わかっていなければならない事だ。
「俺はあんたのペット。ただそれだけの生き物だ」
「……そうだな」
 今は、まだ。
 顔を顰めてそう呟いた男は、それ以上の言葉を拒否するように、噛み付くようなキスを俺に落としてきた。
 今は、じゃない。これからもだ。
 まだ、じゃない。これ以外は存在しない。
 男に飼われている間はその関係はかわらない。そして、契約が終了したならば、今までの関係はなかったものと白紙に戻る。全てが消える。ただそれだけの事。
 俺がここにいるのは、あと数ヶ月。
 濡れた俺の髪を弄り、体中にキスを落とし、男は俺に恋人のような言葉を呟く。俺の体にその甘い言葉を染み込ませるかのように。
 だがそれは、温かな空気に溶けるだけで俺には決して届く事はない。

 そう、俺が深い海の底に行く事も、輝く星に手が届く事もないのと同じように。

2002/06/08
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