+ Act.2 +

 サラサラと湿り気のない乾いた風が吹き込み、微かに髪を揺らす。
 目を閉じていても外の明るさが瞼越しに差し込む。
 深い眠りから浮上し、けれどもまだ覚醒とはいえない、夢と現の狭間。
 遠くでさわさわと風が木を揺らし音を上げる。
 微妙な浮遊感が俺を包み込む。
 明るい光、真っ白な世界。
 この何ともいえない感覚が、俺は嫌いではない。
 だが、それを妨げる足音が静かに近付く。
 その音を耳に捉えていても、目覚めきれていない俺は直ぐには反応出来ない。
 男はそんな俺を気に入り、鬱陶しがられるのを承知で邪魔をしに来るのだから、性質が悪い。
 俺はまだこの感覚を味わっていたいのに……。
 髪をかきあげられ、額に唇を落とされる。そして、それは体を這う指と同じようにゆっくりと俺の上を滑って行く。
 合わせるだけのくちづけ。けれども、俺を覚醒させるには十分なもの。微かに香るのは男が愛用する煙草。人物そのものよりもその香りが、俺に俺以外の存在を教える。男という存在を。
 ふと瞼越しの光が陰った。
 ゆっくりと薄く目をあけると、そこは闇で――。
「……」
 大きな手で塞がれた視界に、俺は再び瞼を閉ざす。
 男の手を除けようと伸ばした手を逆に掴まれ、俺は自由になった唇で溜息を落とす。
「…ナニ」
 寝起きで掠れた俺の声に、男は喉で笑う。顔が見えないからか、敏感になった聴覚がその笑みの色を感じ取る。俺には理解不能な馬鹿な事を考えているといった笑いだ。
「目をあけないのなら、よけてもいい」
 笑いを含んだ声が俺に落ちる。
「ナゼ…?」
「お前の眼は俺を狂わせる。見つめられたら、やめられなくなる…」
 耳に囁きかけられ、甘く噛まれる。思わず肩を竦めた俺に、男の喉がククッと鳴る。
 寝起きだからと言うわけではなく、俺はいつでも男の行動についていけない。朝からテンションの高い男は、目が見えない俺の神経を逆なでするかのようによく笑う。
 この数ヶ月一緒に住んで気付いたのは、男がこうしたスキンシップが好きだと言う事だ。
 俺にとってはそれは理解出来るものではない。こんな愛想のない俺を相手に何が楽しいのだろうか。猫でももう少し可愛げがあるのだろう。
 やるならやる、やらないのならやらない。そんなはっきりとした付き合いでしか客と関わった事がない。それを別におかしいと思わない。だから、男のこの行動には少し戸惑う。だが、どうでもいいのだと投げやりにする方が多い。わからない事は考えてもわからない。じっとしていても、男は好きなように俺を使うだろうから、考える必要もない。
 体を合わせるのに何もいらないと考えるのが俺ならば、こうしたスキンシップが必要だと思うのがこの男と言う人間なのだろう。そう思うしかない。
 軽い溜息を吐く俺に、男はまた笑いを漏らした。
「…止める気があるのか…?」
「ないよ」
「なら、…よけろ」
 その言葉に、今度はあっさりと男は手をよける。
 きちんとスーツを着込んだ男が、ベッドに腰掛け俺を見下ろしていた。目が合うとにやりと笑う。
「…あんたの方がエロい顔だ」
 そう言いながら俺は体を起こす。
「酷いな」
 そう言って笑う男は、この異国の街の中でも見劣りしないほどの強い印象で人を惹きつけずにはいられない者。
 だが、外見と中身は比例しないのが人間だ。男の中身を多少なりとも知っている俺には、どんな笑顔も効果はない。
 ベッドを降りようとしたところで、伸びてきた腕に捕らえられ、再び寝転がる。
 押さえつけられた腕。だが、体重はかけていないので、痛みはない。
 無意識の気遣いなのか何なのか、この男はやはり理解出来ない。こうした気遣いが出来るのなら、何も朝から押し倒す事もないだろうに。
 紳士なのか、詐欺師なのか、単なる馬鹿なのか。色んな面を持つ男の本当の顔はどれなのか。
 それは俺には関係のない事なのだけど。
「……仕事」
 顔に唇を落としてくる男に俺はそう呟く。それだけで、男は俺の言わんとしている事を察する。
「行くさ。だが、その前に朝食はきちんと取らないと」
「…俺は、エサか」
「なら、金のかかる餌だな」
 クククと笑い男の髪が揺れ、俺の頬をくすぐった。
 そう言うのなら買わなければよかったのだろうと心で呟きながら、俺は頬に触れる柔らかいその感触に目を瞑る。
 男が本心でそう言ったのではない、単なる戯言だとわかっているので口応えはしない。どうせ、直ぐに言葉など交わせられない深みへと俺は連れて行かれるのだ。
 開いた窓から入り込む風がカーテンをはためかせると、その隙間から外の景色が俺の目に飛び込んでくる。鮮やかな色、そして何よりも香る空気。異国の街。
 ゴミゴミとしたあの街を出ても、結局は俺の生活は何も変わらない。変わっていない。
 清んだ空は限りがあるのかと思うほど高い。だが、この空も、あの街の灰色の空も同じ空。俺には手の届かない場所。
「…ン、アッ…」
 自分の口から零れる息の音を遠くで聞きながら、俺は期限のある夢へと落ちて行く。

 男の俺の名を呼ぶ声も、遠くに霞む。

2002/06/29
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