+ Act.10 +
遅い朝を迎え、リビングへ顔を出すと、いつも以上に明るい声が降ってきた。オハヨーゴザイマスと笑顔で言いながら、パタパタと掛けてくる家政婦に、俺は思わず足を引く。見ただけでわかるハイテンション振りに押された結果だ。
「……ナニ」
やって来たニーナは満面の笑みで、俺の逃げ腰に気付く事無く手を突き出してきた。掲げ持つのは、掌サイズの手帳で。開かれたページには、綺麗に文字が並べられている。
一体なんだと困惑していると、細い指先で示され、残されていた数歩の距離を縮められた。再び気圧され、反射的に俺がソファに座ると、家政婦もまた珍しく隣りに腰掛ける。
開かれた手帳を俺の膝に置きながら、少女は異国語を紡いだ。俺に聞き取れるのは、俺の買主の名前くらいだけど。
寝起きでまだ鈍くしか働かない頭でそれを聞きながら、押し付けられた手帳をぱらぱら捲り、漸くそれが何であるのかを悟る。
手帳に記されているのは、簡単な日本語と、俺には文字なのかどうなのかもわからないような異国語。それらがひとつずつ並べられているのを見れば、ふたつの内容が同じであるのは明白で。日本語が日常生活で使用するかもしれないものとくれば、これはもう、目的はひとつ。
家政婦が俺との意思疎通をはかる為の辞書だ。いや、書かれた内容を見る限り、手引書という方が当たっているのかもしれない。
作った人物の性格がでている日本語を眺めながら、「暇人だな…」と俺は呟く。勿論、買主に対してだ。隣りの少女の事ではない。
そんな俺の他人への呆れさえも笑顔で受け止めた家政婦が、ページを戻して指を差した。【食事にしますか?】を示し、その後で、【朝食】【昼食】を細い指先が行き来する。そして、次にまたページが捲られれば、そこには簡単な食事のメニューが記されていた。
どこまで暇人なのだろう。
期待でいっぱいな眼に圧され適当に軽めの食事を頼むと、家政婦は一層喜んで跳ねるようにキッチンへと飛んでいった。置いていかれた手帳を、今度はきちんと最初のページから見直し、マメな男だと改めて思う。所々家政婦の文字もあるが、殆どが買主のものだ。
「……こんなの使うかよ、バカ」
なんてない日常会話に紛れ込ませた、俺も家政婦も使う事はないだろう言葉を鼻で笑いながら、今になって何なのかと俺は少し虚しさも覚える。
この国に来てもう、一体どれだけ経つと思っているのか。こういう事をするのなら、さっさとしておけば良かったものを。
少なくとも、家政婦にとっては便利グッズとなったのだろうに。
俺にとっては、今更だけど。
訳もなく浮かぶ焦燥感に、強がるようそんな事を思いながらも、俺はニーナが食事を運んでくるまで手帳を眺めていた。
バカでしかない、【会いたい】【傍にいたい】【愛している】、そんな言葉を指先でなぞり弾きながら。
例え、俺が使ったとしても。
それを聞くのは家政婦だけなのに。
本当に、バカな男だ。
そんな呆れと、ちょっとした感傷を俺に覚えさせた手帳を。作った男は「便利だろ?」と小さく笑って家政婦と一緒に使えと勧めてきただけで、それ以上の話はなかった。それでも、記される言葉は二人によって日々増やされていっているようなので、男もまた楽しんでやっているのだろう。
何よりも。
ニーナはそれまでも、言葉の通じない相手にかいがいしく尽くしてくれていたが。手帳が出来てからは、一層絡んでくるようになった。答えるまでそれを示し続ける家政婦に負け、気だるくとも返事をする俺を見て笑うのは、勿論、それを作った買主だ。
便利グッズではなく、こうして俺で遊び笑う為のものではないかと気付くのに、日数はあまりいらなかった。
だが、それでも。
意図はどこにあれ、俺と家政婦が親交を深める役に立っているのは間違いなくて。
買い物へ行くというニーナに付き合う気になったのも、そこにその言葉が記されていたからだ。
昼間の街中は相変わらず埃っぽい。
ニーナが屋台を覗いているのを視界の端で捕らえながら、俺は相変わらず雑然とした市場を見回す。行き交う人は殆どが現地人だけど、時たま違う毛色も混じっている。それでも、この風景に溶け込んでいるのだから、違和感は覚えない。
ならば、俺はどうなのだろう。
自分も少しはこの国の空気に染まっただろうかと思いながら、ふと視線を止めれば、少し離れた店の女が手を振っていた。売っているのは、淡水魚。いつだったか、雨宮と市場に来て、帰りに金魚を買った店だ。
その金魚は、今は広いプールでたゆたっている。他の魚も加わり、賑やかな暮らしだ。
俺は女に軽く手を上げ応えながら、それでも彼らはあの小さな器の方が幸せなのかもしれないと、根拠のない考えを思い浮かべる。
広すぎるのも、考え物だ。
狭い方がいい事もある。
「……ッ」
上げた手を下ろした途端、それを掴まれた。驚き横を見ると、見知らぬ男が並んでいて。その顔を確認している間に、肩を抱かれる。
笑顔で何か喋りかけてくるが、理解出来る言葉はひとつもない。それなのに、相手は気にした風もない。
「ダレ、あんた」
問い掛けに返るのも、変わらぬ異国語。何度日本語で問おうと同じで、肩を竦めるしかないけれど。案外しっかり固定されているそれは、片方しか動かない。
中年男と言うよりも、初老と言う方が正しいような男だが。それでも、俺よりひとまわりは大きくて。身体に回る腕を外す事は出来ず、押される力にも抵抗は出来なくて。何なんだと思っているうちに足を進められ、ニーナが居る屋台から遠ざかる。
今ここで、家政婦の名を叫ぶのは有りなのか?
思いついたそれは考えるもないもので。呼べる訳がないなと結論付けると同時に、軽い衝撃が落ちてくる。
男のゴツイ手が頭に載って、そのまま地肌を揉むように髪を掻き回された。子供にするようなそれに、子供と思われているのかと気付く。この国の男の平均身長には少し及ばないのだろうし、体重はそれ以上の差があるのだろう俺は、もしかしたら迷子だとでも思われているのだろうか。
確かに、ひとりで居たけれど。
そんな風に誤解されるほど、俺は泣きそうな顔でもしていたのだろうか…?
まさか、とは思わず、わからないと小さく溜息をついたところで、横合いから声が掛かった。
俺を抱き喋り続けていた男が、一度それを無視したが。行く手を相手に阻まれ、舌打ちしつつも対峙する。
肩に掛かる手が重くなったと感じながら、俺はアジア人らしい新たな人物を眺め、気付いた。知っている男だと。
「…知り合いですか?」
異国語で言い合っていた男が、ふと俺に顔を向けそう問い掛けてきた。その顔は、無表情であったけれど、眼は雄弁で。俺となんか話したくもないといった嫌気が現れていた。
「この男は、貴方の事を友人だと言っていますが」
「アンタ、本気で俺にそれを訊いているのか?」
そんな事もわからない頭しかないのかと含ませて言った俺に、書記官の男は眉を顰めたけれど。
俺に噛み付く事はせず、俺から馴れ馴れしい男を引き剥がし遠ざけてくれた。
罵りだろうか、そう思える言葉を落として去っていく男を見送って、俺は書記官に問う。
「礼は?」
必要かと聞いた俺の言葉を遮る勢いで、「結構です」と放たれた低い声。
思わず喉を鳴らした俺を、男は飽きもせずに睨んできた。そんなに嫌なら、助けねば良かったのだろうに。
この男が見過ごせなかったくらいなのだから、俺はとても危険な目に合いかけていたのだろうけど。思わずそう思ってしまうくらいに、男の目は強くて。厳しくて。
笑わずにはいられない。
そうこうしているうちに、ニーナが駆け寄ってきた。少し怒った風な顔に、心配された事を知る。離れたのは僅かな距離であるのにこの様子では、俺はどんな男と思われているのか。この家政婦の中では迷子になる子供と変わらないのかも知れないと思うと、また可笑しくて。
笑う俺を放って、書記官と家政婦は少し言葉を交わしていたけれど。
俺はそれを無視して、細い腕から荷物を取り上げ、ニーナに帰ろうと促す。
「貴方はいつまでここに居るんですか」
少女と並んで歩き出した俺の背中に、そんな言葉が届いたけれど。
俺はそれを、そのまま乾いた異国の地に流した。
俺が居るのは、ここじゃない。
雨宮の傍だ。
だけど。
契約期限は、既に切れている。
2009/02/23
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