+ Act.9 +

 浮かぶ俺を何と勘違いしているのか、魚が近付いてくる。
 手を伸ばすと、パシリと尾で俺の指を叩き去っていった。
 俺が放ったのは、金魚数匹であったのに。気付いた時には増えていた。
 男は何を考えているのか。男娼だけでは足りずに、魚まで飼うらしい。
 プールと言うよりも、最早ここは水槽だ。
「ミナト、どうした?」
 浮かぶのをやめ立ち上がった俺を目敏く見つけ、プールサイドから男が呼びかけてきた。その向こうで、木々が風に揺れる。崩した男の髪も揺れ、それは俺のところまで来て肌を撫でた。
 帰ってこなかった日々を懐かしくさえ思うくらいに、この数日、男は俺の傍に居続けている。人の出入りはあり、常に携帯電話とパソコンを傍に置いているので仕事はしているようだが、出掛けはしない。今日でそれが何日目なのか、数える気にもならないくらいに俺に付きまとっている。
 仕事へ行かないのかと、出掛ける様子のない男に疑問を向けたのは一日目。
 男の答えは、「気にするな」だった。
 だから、気にしていない。男が仕事でどうなろうと、俺には構わない。だが、それ故に自分に降りかかる被害までをも、気にせずにいられるわけがないというもので。
 先日確かに感じた孤独を上回るくらいに。俺は早々にも、付きまとう男に辟易している。
「雨になりそうだ」
 契約を結んだ当初から、俺を構って何が楽しいのかと呆れていたが。それは、長い付き合いになった今も変わらない。いや、何ヶ月も一緒に居るからこそ、拍車がかかっているような男の態度が理解出来ない。
 俺は、何にも興味が薄く、出来る事は限られていて。何より、するべき事は決まっているので、買主の近くに居るのは当然なのだけど。主人が居なければ待ち続けるだけの事なのだけど。
 仕事を休んでまで俺の傍に居る意味など、この男にはどれ程もないはずなのに。
 一体、何をしたいのだろう。
「中へ戻るか」
 空を見上げる男につられて薄暗いそこを眺め、俺は問いを零す。
「ニーナは…?」
「帰ったよ」
 挨拶に来ていたぞと言った男が、パソコンを閉じ椅子から腰を上げた。
「おいで」
 プールサイドに立って自分を呼ぶその姿を俺は見上げ、そのまままた空へと視線を飛ばす。
 スコールが来る。
 ならば、このままここに。
「来い、ミナト」
「……」
 再び呼ばれ、俺は短い距離をゆっくり泳いで男の足元へと辿り着く。浮力で反動をつけプールサイドに上がると、直ぐに肘を取られ立ち上がらされた。濡れるのも構わず近付く身体を片手で押しやる。
 水から上がる俺を、魚たちはどう思っているのだろう。陸に立てる俺を羨ましく思うのか、哀れに思うのか。
 振り返り見た檻では、彼らはそれでも自由にたゆたっていた。
 俺の檻は、魚たちよりも少しだけ広いけれど。彼らのように、俺は自由であるのだろうか。男娼としてのそれを保持しているのだろうか。
 傍に立つ男の熱が。いつの時だったか俺が得た確信を朧に溶かす。

 屋敷に足を向けると、後ろからタオルが飛んできた。肩に掛けながら、リビングへと入る。
 キッチンでは、夕食の用意が整っていた。それを横目に水を飲んでいると、男がやって来る。
「腹、空いたのか?」
「全く」
「なら、少しじゃれよう」
 伸びた手がタオルごと俺の肩を掴み引き寄せた。相手をしろと呟いた唇が、直ぐに俺のそれに押し付けられる。
 水の中に居た俺よりも、男の唇は冷たくて。
 その気持ち良さに身を預ければ、瞬く間にそれ以上の快楽へと連れ去られる。
「ぁ…」
 両手で強く掴み体を支えていたシンクから剥がされる。抱きかかえられるようにして連れられたのはリビングで。短い毛の絨毯の上に横たえられると同時に、熱い楔に貫かれる。
 だが、荒々しかったのはそこまでで。深々と俺の中に収まった男は、焦らすかのように動きを止める。
「ミナト」
 呼びかけに視線を上げると、場違いなほどに真剣な眼に見下ろされていた。吸い込まれるというよりも、奪い尽くされそうなそれに、俺の熱が幾度か冷める。
 だが、まるでそれを咎めるように、男は残酷なまでに優しく深い部分を穿つ。俺の喉から、呻きが零れる。
「俺を選んでくれ、ミナト」
「ァ、あ……ナ、二?」
「傍に居ろ」
「……あんたは、俺の、主人だ」
「俺は、お前自身の言葉が欲しい」
「…ウッ、アァッ!」
 敏感な部分への攻めの開始に声を上げるが、昏くもある眼から視線を逸らさずに、俺は男と対峙する。
「あ、ァ、俺は…、ア、あんたには、応えない…最初に、ァ、イ、言ったはずだ…アァッ!」
「……何故だ、ミナト」
「さ、ァ…どうして、かな」
 甘い言葉を囁き合いたいのならば他の男娼にしろと言った俺に、それでもお前がいいと返したのはこの男だ。だから俺は、睦言で終われない言葉は言わない。ひと時の心地良い嘘をこの男は望んでいないからこそ、だ。
 だけど、どうして、この男を苦しませてまで俺はそれを貫くのか。男娼ならば、乞われた言葉を囁いてもいいのだろうに、何故変えられないのか。
 それは、俺にだってわからない。
 けれど。ひとつだけ言えるのは。
 俺は、男娼にならざるを得なかったわけではなく。こうして与えられた買主を受け入れる生き方を、自ら選んだのだ。強要されたわけではない。
 だから、これが。
 これが、俺の本心だ。嘘も秘密も、なんの偽りもない真実だ。男娼と俺に区切りも差もない。
「ミナト、好きだ」
「…ああ」
「愛している」
 どうしようもないくらいにと、顔を歪めた男の頬に震える手を伸ばすと、辿り着く前に捕らえられた。強く掴まれ、指を絡められ、床へと押し付けられる。

 自分が思うように、思うがままに、今まで生きてきたけれど。
 それが、自由であるのかどうかは、俺にはまだわからない。
 たとえば。
 伸ばされる手を取るのは。
 俺はそれが役目の男娼で、俺自身それに納得していて。そして、他人の温もりは嫌いではなくて。この男のそれを気持ちいいと知っているからであるのだけれど。
 何もかもから解放された時、ならば俺はこの手をどうするのかと考えてみても。それでもやっぱり、取るのだろう予感はあって。
 そこに、意思はない。きっと俺は何も思わずに、ただ慣れた行動を取るだけなのだ。
 楽に生きる術として、それは俺の遺伝子に組み込まれているのかもしれない。
 この生き方を選んだ時と、全てが同じ。俺は変わっていない。そして、これからも変わらない。

 そう。変わらないからこそ。
 俺は、この男に返せるものがないのだ。

 あんたはバカだと荒い息の中で俺が言うと、雨宮は「…そうだな」と瞼を落とし、俺の首筋に顔を埋めた。

 外では、激しい雨が降っている。
 異国の雨が。

2009/01/30
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