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腹が減っていた。
減っていて、減っていて、頭に栄養がまわっていなかった。
それでも、人としてやってはならない事だとわかっていたから、躊躇う気持ちはあったのだ。
だが、それが餓えに勝つ事はなかった。
明るい店内に客が居ない事を、ゴミ箱の傍で改めて確かめる。時刻は午前二時二十分。レジを見下ろす時計が、時を刻んでいる。時間とはどんな状況にあっても止まらず動く。
また、短針が動いた。聞こえないはずなのに、カチリとオレの耳の奥で音が鳴る。
先程まで客が読んでいた雑誌を片付ける店員と、ガラス越しに目が合った。自分と変わらない歳の、小柄な男。弄っていない黒髪が一瞬大人しめの印象を与えるが、重なった視線は明らかに不満げな内面を隠さずに見せ付けてくる。鬱陶しいどこかへ行けよと、ガラスがなければ噛まれそうな鋭さだ。
頭の中に一瞬、檻越しに眺める動物園のチーターを思い出すが、それに構う余裕はない。耳にあてた携帯電話を持つ手が震えそうになるのを、オレは半身をガラス壁に押しあて誤魔化す。外見に似合わないガンを飛ばしてきた店員は、それでも何もなかったようにあっさりとレジへ戻っていくが、オレの震えは治まらない。
青年が怖いのではない。何かが怖いのだとすれば、それは捨てられない欲を持つ自分自身だ。
相次いで亡くした養父母の顔が頭に浮かんだ。だが、それでも頭に思い描いたシナリオは消えない。
「…………」
そろそろ、ここに立って三十分になる。いい加減、動かねば。挙動不審で通報されても意味がない。
仰ぎ見た都会の空に、星はなかった。厚い雲に覆われて、今夜は月もない。
先月から使用不能となっている携帯電話をポケットに仕舞い、オレは変わりにライターを汗ばむ手に握った。道で拾った百円ライターは蓋を開ければ勝手に火が点くタイプなので、震える指先でも使用可能だ。
親指で小さな蓋を押し開けると、店内の明かりに晒されながらも、炎が主張するように火先を揺らした。朱色のそれが一瞬指を掠めたが、小さな痛み程度で熱さまでも感じない。
漸く踏み出した足は、ギプスで固定されているかのように硬く、油不足のロボットのように軋んだ。だが、数歩も動かせば、逆にいつもよりスムーズになっていく。同様に、アドレナリンが大量分泌しているのか、ここ数日の曇り加減が嘘のように頭が冴えていく。
燃えるゴミ専用のゴミ箱に、火を点したままでライターを捨てる。
「……オレなら、出来る」
口内で転がす暗示。コンビニの扉を押し開いた時には、それはオレの身体の中を駆けまわり浸透していた。
この手の店は何処でも同じ配置で、目を瞑っていようとも迷いはしない。数歩で角を曲がり、数歩でまた曲がれる、そんな狭さ。一目すれば何があるのかが分かるのは、便利なのか不便なのか。今まで一度としてそんな事を考えたりしたことはないのに、敢えて今この時に思っている自分が不思議だ。
入口で買い物カゴを取り、オレはレジの前を通って食べ物が並ぶコーナーへと進む。いらっしゃいませと呟いた店員にした会釈は、ただの反射。
自分ではない別の誰かが身体を動かしているような感覚に支配されながら、適当に飲むつもりのない酒を放り込み、カゴが重くなったところでその上に食品を入れる。口内に溜まる唾液に、息が上手く吸えない。
今この瞬間、包装を破りおにぎりに齧りつきたい。だが、数百円の無銭飲食では刑務所までは行き着かない。
すぐさま欲求を満たしたい本能を抑え、オレは欲を出し更なるものを求めてパンをカゴに入れる。ここでの一食で、この先の唯一の救いを捨てるのは惜しいと、オレは思っている。子供の頃と違い算段をつけているのは、大人の狡賢さか。それとも、この空腹にも、まだ余裕があるからか。よくわからない。わからないが、追求する気力はない。
重いカゴをレジへ置くと、店員がボソリと何かを口にした。再度のいらっしゃいませなのか、こんばんはなのか、他の何かなのか。聞こえなかったが、聞き返す必要はない類のそれなのだろう。顔も上げない相手にそう判断し、商品をカゴからカウンターへ移していく店員の手の動きをじっと見つめながら、オレは金を要求した。何を言ったかわからない店員よりもはっきりした声で、明確に、だ。
「えっ……?」
少し視線を上げると、呆けた店員と眼が合った。さっきと違い敵意らしさはないが、この客は今何を言ったんだ?というようなハテナが一杯なのもどうかと思う。金を出せと言われたからとて、強盗だと思えないのか。思って貰えないオレが問題なのか。
「カネ」
「…………あ、ちょっと」
わからないのならば実践でと、カゴの中からメロンパンを取り開封すると注意を受けた。もう一度同じ言葉を口にしながらパンを齧ると、何なんだお前と睨まれた。だが、緊迫した雰囲気がないからか、防犯ブザーを押すような動きはしない。右手はレジ、左手にはプリンだ。きっとどちらかが空けば、オレを殴るに違いない。
「強盗」
たった百円のパンがこんなに美味いものとは知らなかったなと。それでもその味覚さえも他人事のように感じながら租借し、オレは店員の問いに答える。
「泥棒。放火」
もう一人いるはずの店員は、寝ているのか。それとも、モニターではただ喋っているように見えるのか、やって来ない。一人にして欲しい時は居て、必要な時に居ないのが店員というものらしい。
「放火だと?」
「ゴミ箱が、火事」
オレの言葉に、視線を動かした店員がそのまま目を見開いた。嘘だろと口にしながら駆け出そうとするところへ、カウンターから買い物カゴを突き出しその身体にあてる。
「うわっ!」
躓きながらもオイコラッ!と喚く声を背に、オレは食べかけのメロンパンを口に挟み、弁当二折を片手で脇に抱え、ガラス戸を押しやり外へ飛び出した。脅せば直ぐに店内で拘束されてしまうと思っていたので、逃走するなど全く予定していない。視界の端でゴミ箱が煙を吐き出しているのを見止めながら、何処へ行けばいいのかと迷う。走る足を止める事は出来ないが、向かう先もオレにはない。
一日分の食事を得てどうにかなるのならば、オレはこんな事をしてはいない。
「あっ…!」
歩道に出たところで、突然目の前に現れた身体によって弾き飛ばされた。転がるメロンパンを見ながら、オレもまた地面に倒れ込む。
いつだっただろうか子供の頃、同じように転んで食べかけのパンを落としたその記憶が今と重なった。あの時は、直ぐに養父が起こしてくれて、膝や手の汚れを拭いてくれたと意識が飛ぶ。あの後もう一度買って貰ったのも、確かメロンパンだった。それはもっと小さなものだったが、子供のオレの手には大きかった。
「――ッ!」
濁る記憶を蹴り散らすように、思わぬところに衝撃が落ちてくる。痛む脇腹に手を伸ばしながら、コンビニの明かりを遮るように立つ影をオレは見上げた。だが、逆光でわからぬその人影が動くと同時に、再び身体に衝撃が訪れて。
「あ、痛ッ…!」
本能的に頭を腕で被いながら、身体に打ち込まれる痛みに呻き声を漏らすしか出来ない。
何がなんだか、わからない。わかるのは、逃亡が数メートルで終わったことくらいだ。
どこかで、水だの、消火器だのと言っているのが聞こえる。耳は、壊れていない。なのに、傍では何も聞こえない。己の肉体が打たれる音だけだ。無言の襲撃者。
目を瞑り、顔を隠しているので、自業自得なのだけど。見えない相手にオレはそこで漸く、空腹以上の恐怖を覚える。
地上から見上げても、空に星はない。だけど、雲の向こうには、養父が好きだった星はあるのだ。オレからは見えなくとも、雲の隙間から、この地上が見えているのかもしれない。
彼らは、罪を犯すオレを見たのかもしれない。
2008/04/04