1

 窪井が店を出る頃には外はすっかり暗くなり夜がやってきていた。
 小雨がまだ降っているせいか、いつものこの時間にしては街中の人影はまばらだった。早々と家に帰ったのか、それとも店で雨宿り中なのか。少し寂しい街を抜け車は郊外へと続く道を走る。
 街の明かりが後ろへと流れ消えると、開けた視界に半月が見えた。これから沈むのだろう南西の空に、薄い雲に覆われ浮かぶ月。さすがに今は見えないが、この雨が上がれば街中から少し離れたこの場所ではそれなりに輝く星が見えるだろう。
 微かに流れるラジオからジャズが流れ出す。
「実は、車が苦手なんですよ」
 時折言葉を交わし心地よい沈黙が落ちた後で、窪井は微かに笑いながらそう言った。
 眠くなりそうな気持ちのいい震動、流れているのかわかりにくい景色。いつまでもついてくる月。小さなエンジン音、道路とタイヤの摩擦音。少し掠れた女性の歌声――。ふわりと浮かぶような、現実味がないような、何とも言い表せられない感覚に窪井は瞼を閉じた。
 結局断りきれずに送ってもらう事になったのは、借りた服を濡らすのも忍びなく、また、迷い込んだ路地裏を更に暗くなった夜道で抜ける芸当を自分が持っているのかもわからず、自分が電話をしている間に用はすんだので後は帰るだけだからという親切な高村に押し切られたというか、犬が乗っていけよというように纏わりついたというか…。要するに、誘いを受ける条件ばかりが窪井の前には揃っていて、自分としてもかなり魅力的なそれに図々しくも頷いてしまったということだった。意志が弱いというかなんというか…。
 しかも、車に弱い自分のこと。近くの駅で降ろしてもらおうと思っていたというのに、他愛ない会話をしているうちにそれも忘れてしまったのだから、もう馬鹿としか言えない。
 それほどまでに、自分が高村の運転に安心していることに気付き、驚きとともに苦笑を交えて窪井は言葉を紡いだ。
「電車はまだ大丈夫なんですがね、車はどうも駄目で。バスも一区間程度しか我慢出来ないんですよ、情けないですが」
 目を開け運転席側に顔を向け、小さく肩を竦める。
「そうだったんですか…。それは、すみません。無理やりお誘いして…」
 驚いた後、本当に申し訳ないといった顔をちらりと向けた高村に窪井は首を振った。
「いえ、今は大丈夫なんですよ。高村さんはとても運転が上手い」
「そうですか? あぁ、そうかもしれませんね」
 ちらりとバックミラーを見ながら納得した高村の頷く仕草に、窪井はクスリと笑いを漏らした。
「彼が乗っているから、自然とそうなる…?」
「ええ、そうですね。本当はケージに入れなくてはいけないんでしょうが、つい怠けてしまうんです。ですから、せめて安全運転はしないと、と気負っているのかもしれません」
 窪井が振り返り後部座席を占領し寝そべる犬を見ると、犬は咥えていたボールを放しじっと見つめ返してきた。尻尾が左右に揺れ、パシパシとシートを叩く。
「騒いだりしないんですか?」
 その姿に笑いを落とし、体を戻しながら聞いた窪井に、「ええ、それはないですね」と高村が答える。
「一度駄目だと怒これば、大抵は覚えていますから」
「そうなんですか、ホント、賢いですね。
 …あ、そこを左にお願いします」
 高村の言葉に感心しながら、ふと窪井の頭に姪の顔が浮かんだ。比べるのは失礼だろうが、そう変わらないものなのかもしれないと妙に納得する。だが、そんな自分が可笑しい。一体どちらに対して失礼だと言うのだろうか。
 住宅街が並ぶ川沿いの道を走る。心地よい震動と、微かなエンジン音に窪井は目的地が近付いてきた事をふと寂しく思った。そんな時。
「あっ…!」
 ライトで照らしだされた前方の道を人影が横切る。先にそれに気付いていた高村がスピードを落としたのだが、何となく見ていた窪井にはその人物が一瞬頭に入ってこなかった。
 声をあげた時には、もう車はスピードをあげていた。
「すみません、止めてください」
 そう声をかけながら人影を追い後ろを振り向く。土手に続く階段を上がっていたのは、間違いなく一緒に暮らす姉と姪の姿だった。
「どうかしましたか?」
 後部に車がいなかったので、高村はそのままハザードランプを点け直ぐに停車した。
「ええ、ちょっと。
 態々送っていただきありがとうございます。もうここで結構です」
「家まで送りますが…?」
「いえ、本当に。…知り合いがいたものですから」
 頭を下げ、ドアを開けると、「どうぞ」と傘を渡される。
「まだ降っていますから」
「ありがとうございます」
 一瞬迷いかけたが断りきる事は出来ないだろうと、重ね重ね済みませんと頭を下げ、窪井は素直に傘を受け取った。
 濡れたスーツが入れられた袋を抱え直し、ふと気付きそこからガサゴソと名刺入れを探し出す。閉めたドアの窓を軽く叩き開けてもらい自分の名刺を渡すと、「お世話をかけました」と礼を述べ、行ってしまうのかと見てくる犬に窪井は笑いかけ手を振った。

 高村に借りた傘を開き、母子の後を追いかける。
「実花、結花!」
 階段を上がった所にいた二人は直ぐに窪井に気付き、呑気に手を振った。
「お帰り。ほら、結花も」
「…お帰りなさい」
 あっけらかんと言う実花に比べ、先程外にでないと約束した結花の方は気まずさがあるのか、小さく呟き母親の後ろに隠れた。
(ったく…)
 電話を切った後しょげている娘に、自分には内緒だとでも言って連れ出したのだろう。何事も呑気に考える性格である姉は、母親としては少しいい加減で深く考えず娘のいう事を聞いている。それは甘やかしているわけではなく価値観の問題であるので、自分がこうだと思った時には娘が泣き喚こうが頷かない。
 そんな実花に昔から言いように扱われている自分は何なのだろろうかと、窪井は時に腹立たしく思うが憎む事は絶対に出来ない。何故か、この姉はこういう人間なのだ、とそれだけで納得してしまえるのだ。
 軽く溜息を吐き、無言で手に持っていた鞄と袋をそんな姉に渡すと、窪井は姪の前にしゃがみ込んだ。
「何、あんた。濡れて着替えたの?」
 子供みたいねと笑う姉を無視し、「結花、似合っているな、可愛いぞ」と、ピンクのレインコートのフードの上から姪の頭を窪井はぽんぽんと軽く叩いた。
「…とーと」
 甘えた仕草で手を伸ばす結花をやんわりと押さえ、「駄目だよ」と苦笑する。
「このままじゃ、俺がべたべたに濡れてしまうだろう」
「ほら、結花、もう脱ぎなさいよ」
「いやッ…」
「あらそう、なら、抱っこしてくれないわよ」
 母の言葉に暫し考え、今度は脱がせてくれと手を伸ばす。笑いながらレインコートを脱がせ、それを実花に渡し、窪井は腕に結花を抱き上げ立ち上がった。
「さて、帰るか」
 くるりと向きを変え階段を降りかけた時、下の道路を高村の車が走っていった。何処かでユーターンでもしてきたのだろう。その場では方向転換をし難い場所で降ろしてもらったのだと、今更ながらに窪井は気付き申し訳なく思った。
(情けないことばかりしているな…)
 どちらかと言えば年の割にはしっかりしているといわれているのに、これでは我が儘をいう子供とそう変わらないなと心で苦笑する。
 しがみ付いてくる姪を腕に抱きながら片手で傘を持っていると、実花が自分が差していた傘をたたみ窪井のものをとった。手があいたので両腕で抱くと、結花は安定し安心したのか、しがみ付くのを止める。
「夕食は食べたの?」
「いや、まだ。
 結花、晩御飯は何を食べたんだ?」
「ぐりゃたん!」
 言葉も違えば発音も可笑しい。窪井は笑いながら、コツンと結花の額に自分の額をくっつけた。
「誰かの名前みたいだな。グラタンだぞ、おい。グラタン」
「ぐりゃたん…?」
「無駄よ無駄、絶対言わないから」
 隣で姉が肩を竦めてそう言うのに、窪井は呆れて小さく息を吐いた。
「母親がそれでどうするよ」
「そのうち言えるようになるわよ、ね、結花」
 そのうちではなく今直させようと思わないのかと言いかけ、人が歩いてくるのに気付き口を閉じる。
「今晩は」
 近所の顔見知りの主婦に実花が声をかけるのに続き、窪井と結花も挨拶をする。
「あらあら、いつも仲良しさんね」
 少々体格の良い彼女は、冷かすように笑いながらそう言うと自宅へと入っていった。
「…どういう意味でいっているのかしら…?」
「…さあな」
 そう答えはしたが、結花にではなく自分達二人に向けられた言葉だと自覚している。この歳になっても姉弟の仲がいい事をからかっているのか、それとも下世話なことでも考えているのか。何にしろ、ちょっと変わった近所の住人である自分達は、お喋り好きなおばさん達にとっては楽しいネタなのだろう。
 窪井が溜息を吐くと、それがうつったのか実花も同じように溜息を落とした。そんな二人をよそに、結花は傘の外に手を伸ばし小さな掌に雨を受けはしゃいでいる。
 雨が降ったおかげでいつもより涼しい夜。だが、夏の熱気は消えたわけではない。幼い少女を抱える窪井の腕や体が汗ばんでくる。
「結花、お前重くなったな」
「ん?」
「レディにそんな事を言うなんて、駄目な男ね」
「煩い。
 もっと一杯食って、大きくなれよ」
 小さいけれど確かな重みは、その命を教えてくれる。窪井にとって腕に抱くその温かさは、少し切なくなりそうな時には自分を励ましてくれる存在だった。
「うん!」
 何を言われているのかわかっていないのだろうが、自分の言葉に嬉しそうに頷く結花に窪井は笑いかけた。
 ポツポツと傘にあたる雨の音が耳に心地良かった。

2002/08/26
Novel  Title  Next