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 慌しく窪井が車から出ていった後、高村はハンドルに掛けた手の上に額を乗せ、ふうっと詰めていた息を吐き出した。今頃になって耳の奥からドクドクと脈打つ血の音が聞こえる。
 他人といると小さな緊張が続くのはいつものことで、それにはすっかりとは言えないまでも取り乱さない程度には慣れた。だが、今のようにその存在がこうも近くにいて、一対一だと言う事になると…とてもではないが慣れたなど言えない。まだ今回は飼い犬がいたので良かったが、本当に二人きりだったならば冷静さを保つ事など出来なかっただろう…。
(……だとしても、何を今更焦っているんだ…)
 大きく打つ鼓動と共に駆け巡る纏まりも何もない思考に、高村は苦笑し溜息を吐いた。何とも大胆な事をしたものだと今になって実感し、その事実に驚愕しているなど…なんて自分は馬鹿なのか。
 人見知りが激しい訳ではなく、他の生き物と接するのが苦手なのだ。特に同年代の同性は色々な意味で苦手であり、今夜の行動は自身でも理解出来ないもの。
(…ホント、馬鹿すぎる…)
 小さな体の震えを誤魔化すように、高村はそんな言葉で自分を笑った。だがやはり、上手くは笑えない。  客商売をはじめてからは、内と外の顔を使い分けられるようになった。外では笑顔の仮面を貼り付けるのが当たり前で、それが自身の変化のようにも思えるし、変わっているのだとも信じることが出来る。だが、それで救われる事はなく、内面は更に辛くなる一方だ。
 そう。仮面は仮面でしかないのだと自分自身でわかっている。どう良い人間を演じようと、自分の本質は変わることはないのだと知っている。
 笑顔を向けることが出来てもその相手に恐怖を感じてしまう。それが申し訳なく、更に自信が嫌になる。だが、それでも上手く生きられるように、何とか乗り切れるようにやってきた。そんな恐怖にも少しは慣れた。人と喋ることが出来るし、笑えもするのだ。昔に比べると成長していると言えるだろう。これでいいのだ、そう慰め頑張っている。これが普通なのだ、と。
 確かにそれは悪い事ではない。少なくとも、それで周りの者は救われているのだから。
 だが、高村自身は緊張の連続で、心の安らぐ間がないのも事実。
(…自身でもわからない奴だな…)
 良い人間を演じるにも程があるというものだ。何もここまで親切にしなくとも良かったのではないか。窪井にとった自身の行動に嫌気がさす。
 これだけ他人を苦手としながら、何をイイ人ぶっているのか。他人に感じるのは恐怖だけじゃない、嫌悪も感じている。それは自身で気付いている。そうだというのに、これ以上何を望むというのか。自分は嫌っていながらも、相手には好かれたいとでも言うのか…。
 頭の中で思い浮かんだ考えを笑う声響く。今夜の自分の行動を詰る別の自分がいる。
 高村は、その声を振り切るように、助手席に置いた窪井から渡された名刺に手を伸ばした。声に耳を傾けても、どうにもならない事を知っている…。
 その名刺は、カラフルな直線と曲線を組み合わせた図形のような模様の上に、ローマ字と漢字で先程耳にした名前が記されていた。その上には会社名らしきものがあったが、職種は記されておらず、生憎高村にはそれが何の会社なのかはわからない。だが…。
「…社長さんか…」
 呟きと同時に再び溜息が零れた。
 若いのに店を持っていて凄いなと自分を誉めていたが、その本人が若くして代表取締役という肩書きを持っている。自分はからかわれたのだろうか…、一瞬そんな思いが高村の頭をよぎる。だが、そうではない事は交わした会話から覗えるもの。
(――だが、苦手である事に変わりはなかった、か…)
 こんな所で止まっていても仕方がないと高村はカチカチと鳴るハザードランプを消した。
 バックミラーで後ろを確認すると、窪井が土手に続く階段を上がっていっているのがそこに映っていた。その姿から視線を外し車を発進させ、直ぐにまたミラーを覗くと誰かと並んで立っている姿が見える。街灯が側にあったがそれが何者かまではわからない。だが、背の高さからして女性だろうという事はわかった。
 知り合いがいたと言うのは降りる口実ではなかったようだ。
「…ああ、そう言えば…」
 高村は窪井が降りる前に道を横切った母子連れを思い出す。もしかしたら、彼女がその知り合いなのかもしれない。しかし自分には関係のない事だとそのまま車を進めた。
 だが、方向を変えるにはいい場所がなく、空き地と言えるような個人の駐車場を借りて向きを変え再び同じ道を今度は逆に走ると、当たり前だが、直ぐに先程と同じ人物を目に捕らえることとなる。
 やはり予想したとおり相手は小さな子供を連れた女性で、今はその子供は窪井の腕に抱いていた。女性が手を伸ばし子供の頭をなでるのを横目に、高村はその道を通り過ぎる。右折をする前にちらりとミラーに目をやったが、遠くて誰なのかわからないものでしかなかった。だが、そこには確かに微笑ましい家族の姿があった。
 ふっと小さく息を吐く。
 何てことはない、家族の姿。だが、高村の胸は小さく痛んだ。窪井の左指にあった結婚指輪を思い出す。店で見た時は何とも思わなかったと言うのに、今はいい気分にはなれず、頭の中で小さな輝きがちらつく…。
 そんな主人の心の内に気付いたのか、犬のロンがクンッと小さく鼻を鳴らした。ミラーでちらりと確認すると、じっと自分を見つめている。そんなロンに高村は小さく笑いかける。
「大丈夫だよ、僕は…」
 それは強がりではなく、心からの言葉だ。もう、今更傷つくものでもない。店にも家族連れが沢山くるが、その都度何かを思うわけではないし、あの場では仮面を被っているのでたいていの出来事は流すことが出来る。
 だが、こんな夜はそれが上手くいかない…、ただそれだけのこと。
(そう、それだけさ…)
 フロントガラスに溜まった雨粒をワイパーがなぎ払う。
 真っ暗な空から降り落ちる雫は、とても切ない気がしてならない。それでなくとも夜は寂しいものなのに…。
(いや、寂しいのは僕だけか…)
 髪をかきあげながら、高村は喉で小さく笑った。
 他人が苦手なのに、一人でいることに安心するのに、それでもそれを寂しく感じる矛盾した心。
 窪井を店に招いたのは店主として当然の事。送ったのは、その気持ちもあったが、好感が持てたからというのが大きいだろう。だが、やめておけば良かったと今は思う。早くも後悔している。彼ならもしかして…、そんな期待を持っていたわけではないのだから、そう落胆する事ではない。いつものことだと流せばいい…。なのにそれが出来ない歯痒さが、降り注ぐこの雨のように高村の心に溜まっていく。
 …わかっている。わかっているのだ。
 張り詰めた緊張感に疲れたのではない。目にした光景が、余計に自分を寂しくさせたのだと。
 何て嫌な奴なのか…。自身をそう思わずにはいられない。別に彼が悪いわけではない。そうわかっている。…なのに、この心はひねくれている…。  自分には決して手には入いれられないものを窪井が持っている。そんなどうしようもないことに嫉妬している…。
 優しい光景、家族という何にも変えがたいもの。そこは愛情で満ち溢れていた。腕に抱く小さな子供に笑いかける窪井は店で見せた顔ではなく父親だった。側に寄りそう彼女を何かから守るように堂々としていた。傘を差し掛ける窪井の妻であり子供の母親でもある女性からも同じように力強さを感じた。
 だがそれは何も彼ら若い夫婦にだけ言えることではない。街には色んな者がいる。まだ若い小さな恋、長年寄りそった老夫婦。色んな者が高村の店にもやって来る。それなのに、単純に目にした窪井に嫉妬するのは…、
(…自分の弱さでしかない……)
 同年代で家族を持つ窪井が高村には眩しかった。いや、好感を抱いていたからこそ、その衝撃が大きかったのだろう。自分には決して持てないものを持っている窪井が妬ましくさえあった。だがそれは直ぐに諦めへと変わり、高村の中に落ちていく。
 所詮、自分は何も得られはしない者なのだ。誰にも何も与えられはしない者なのだ。それが当然の事で、辛いとは思わない。だが、悲しくなる、寂しくなる。そうでしか生きられないとわかっているのに、そんな自分が哀れにも思う。
 普通の幸せなど、手に入るわけがないと知りながら…。
 人と違うという事は気にしても仕方がないのだ。そう何度も言い聞かせてきた。だが、求めてしまう心はいつになっても消えない。そのための行動すら起こす勇気も何もないのに、願ってしまっている。そんな自分自身に嫌悪が募る。
 信号が黄色から赤へと変わる。サイドブレーキを引き、高村はシートベルトを外しながら座席に凭れかかった。肩を回すと、こっているのか音が上がる。
 雨だということで少ないながらも、それでもいつもより早く家路に着く者達だろうか、横断歩道の上を足早に通り過ぎる人々。一つの傘に寄りそい合う者達、雨に濡れている者、こんな時でも携帯を眺めながら歩く者。赤に変わった信号を突っ切る者。
 たった数メートルの距離。薄いガラス一枚隔てた光景。なのに、それはスクリーンの中のようであった。
 いや、そうではない。自分が異端者なのだ。自分だけがこの世界に溶け込めていないのだ。
 高村にはそう思えてならなかった。


 マンションに帰り着き、犬の足を拭き上がらせた後で、高村も靴を脱ぎそれに続く。
 運動が出来なかったからか、犬は部屋の中をとことこと動き回る。だが、高村がソファに体を沈ませ息を吐くと、大人しくしなければ怒られると思ったのか気を使ったのか、足元に来て座りこんだ。その頭に手を置きぽんぽんと無意識に叩きながら目を閉じる。そうすると、一気に疲れが落ちてくる。
 肉体よりも精神の方が大きい疲れは、眠っただけでは全てを綺麗に元に戻す事は出来ない。消費よりも生産の方が勝っている、毎日毎日、少しずつ蓄積していく疲れ。こうしてソファでまどろみながら、高村は時々、ずっとこのままでいられたらいいのにと願った。
 回復することなく、体は重いまま、心は何も受け入れられない許容量一杯のままでいられたらいいのに。ならば、起き上がる事は出来ない、何かを考える事も出来ないのに…。
 犬の頭を触っていた手が力を失う。ソファから垂れた手を、犬が鼻先で触れたが高村はそれに反応を返さなかった。
 静かな部屋。微かに冷蔵庫の動く音と、外からの雨音が聞こえる。後は犬の息遣い。自分の音さえ聞こえない…。
 …こんな日は、決まったようにあの男が来る…。
 高村がそう思った時、電話のベルが静かな部屋に鳴り響いた。
 だるい体を起こし通話に出る。
「もしもし、高村です」
 店にいる時のような、気だるげな様子など全く見せない自分の声。それに苦笑することもないほど当たり前な対応。染み込んだ演技。
「…ああ、父さん」
 電話は父親からのものであった。月に一度、実家からかかってくる電話。それは、親としての義務から仕方なくなのか、それとも独り立ちした息子を大人として扱ってのことなのか、高村にはわからない。だが、今以上に電話の回数が増えるのは嬉しくないのでその理由を訊ねはしない。第一、答えなどどうでもいいことだ。
 元気かと問う声に頷き、そちらはと訊き返す。店はどうだ、何とかやっているよ。大丈夫か、うん、平気。たまには帰って来い、そうだね、考えておくよ。
 いつも同じ言葉を繰り返す。聞かれる事も同じ、返す言葉も同じ。そんな言葉に意味はないと互いに気付いている。だが、こうでしかコミュニケーションを取れないのだ。暗黙のルールで、別の言葉は…大事な言葉は口にはしない。
「じゃあ、また…」
 終わりの言葉もいつも一緒。だが、今回は少しだけ違った。
「…望…」
「…何…?」
「…いや、なんでもない。じゃあ、暑いから気をつけろよ…」
「うん、じゃあ…」
 受話器を置き一息吐くと、高村はそのまま浴室へと向かった。小さな胸の痛みは、もはや気にとめることではないものだった。
 これから何年繰り返されようとも、きっと自分も何も口にはしないのだから、感情など不必要なものなのだ。この痛みを気にしていては、今かろうじて繋がる関係も崩れてしまうだろう。
 薄情な息子で彼らが不憫だと思いもするが、高村には他の関係を築くことは出来ない。そして、それは彼らも同じなのだろう。都合のいい考えでしかないのかもしれないが、現に今の状態がベストであるのは確かだった。

 ぼんやりと長い間湯に浸かっていたので、出てくると指がふやけて皺になっていた。火照った体にミネラルウォーターを流し込み居間に戻ると、犬が尻尾を振っていた。高村がソファにではなく床に座ると、ちょこんと投げ出した足に頭を乗せてくる。
 強面の顔だが、ハスキーは非常に人懐っこい性格を持っている。この犬も番犬としてはイマイチだが、店の看板犬としては大人気だった。頭を撫でると気持ちよさそうに目を瞑るその様子は、犬というよりも猫のよう。
 そうして犬の体を撫でていると、今度は訪問者を継げるチャイムが鳴った。時を確認するため壁を見上げる高村の動きに合わせるかのように、犬も頭を上げる。時間はそろそろ明日になろうとしていた。こんな時刻に訪れる者など思い浮かぶのは一人しかいない。
 何とも騒がしい夜だ、などと呆れる余裕は高村にはなかった。緊張が沸き起こる。
 バスローブ姿のまま玄関に行き、大きく息を吐いた後、扉の鍵を外した。その音は深夜の静かなマンションに大きく響く。
 予想通り開いた扉の前には男が立っていた。どのようにやって来たのだろうか、緑のシャツも濃い灰色のスラックスも濡れた形跡はないというのに、傘すら持っていない。
 だが、それについて尋ねる気はさらさらない。そんな関係ではない。
 自分のやり切れない感情を感知し男はやってくるのだろうか。それとも、男が来る気配を何処かで察知し、自分が感傷的になるのだろうか…。こんな日は必ずといっていいほど、この男は現れる。
 先程自分が思い描いたとおりにやって来た男から視線を外し、言葉も交わさずに、高村は部屋へと男を招きいれた。
 他人が側にいるという緊張ばかりではない、冷たいものが心に広がり、そしてそれは足を一歩進めるごとに固まっていく。
「…ロン」
 居間に入り犬に向こうに行くように指を差す。犬は慣れた様子でトコトコと玄関に向かった。途中男の側を通る時少し立ち止まったが、かまってくれないと知っているからだろうか直ぐに過ぎ去る。玄関近くのマットの上で蹲ったのを確認し、高村は廊下へ続く居間の扉を閉めた。
「…どうぞ」
 冷蔵庫から取り出してきた缶ビールをテーブルに置き高村がソファに座ると、窓際に立っていた男もその横に腰を下ろした。プシュっと音をたて開けたビールを喉に流し込みながら、一体自分は何をしているのか、といつもの問を心で繰り返す。だが、自身の中にその答えはない。
 缶から口を外し、コトリと小さなガラスのテーブルにそれを置く。
 隣に座ったまま動かない男の気配に、部屋の中の空気は緊張感を増していく。
 …どうして、このまま息がつまることはないのだろうか…。そんな馬鹿な考えがいつも浮かぶ。極度の緊張で上手く吸えない息。それでもどうにか呼吸を繰り返す自分は何て滑稽なのか。そのままそれをとめれば楽になれるかもしれないのに。
(なんて馬鹿で不器用なのか…)
 そう、このまま狂うことが出来たら、もっと楽になれるのかもしれない。あと一本、理性という今の自分を保つ一本の糸が切れたら、この何の未練もない世界を捨てられるのに…。
 ぼんやりと考え込んでいた高村は、そっと頬を撫であげられ、その男の手の感触にビクリと震えた。だが、振り払う事はせず、横を向き男を目に捕らえ、そしてゆっくりと瞼を閉ざす。
 狂うためには、それなりの道を歩かなければならない。そう、ならば自分はまだ狂うほどの苦しみを味わっていないと言うことだろう。…それなら、どうすればいいのだろうか?
 このまま進むか戻るか、ふたつにひとつ。
 戻っても楽にはなれない事を知っている。では、選ぶのはこのまま先に進む事だけ…。
 静かな部屋。高村の耳に聞こえるのは自分の心臓の音だけだった。


 瞼越しに届く光がチラチラと揺れる。
 高村がゆっくりと目をあけると、目の前には犬の顔があった。ベッドの傍に立ち尻尾を振っていた犬は自分が目覚めた事に気付きぺろりと手を舐める。その尻尾が忙しなく動いているのを窓から入りこむ朝日に目を細めながら眺め、ようやく朝なのだと気付く。だが、頭はまだ覚醒には程遠い。
 男の姿はもう何処にもいない。いや、居た形跡すらない。
 ぼんやりと視線を動かし低い天井で止め、再び瞼を閉じる。
 男が去った事すら気付かずに眠りこけるほどの無に落ちていた。そう、よく見る夢も何も見ない。真っ暗なのか真っ白なのか、それすらもわからない何もない世界。
 男に抱かれた後はいつも死んだように眠る。本当に死んでいるのかもしれないと思うほどに。だが、それが自分を支えているのだろうと高村は漠然とだがわかっていた。余り認めたくはない事だが、日常の営みに疲れ切ったドロドロとした感覚を、男が全て取り払うのだ。それは癒しではなく、自分という人間全てを無にするような、この世界と離れていっているような、自分が消えていっているようなそんな微妙な感覚。だが、それは何だかんだと言っても結局は生きる糧になっているのだ。自分を殺すことによって生き続ける…。
 何度も自分を殺す男は、何度も自分を生かす。
 そして、自分は全てを否定しながらも肯定する矛盾にも流され、やはり生きている。自身を傷つける事で救いを見出し、それに甘んじて生きている。そんな自分を最低だと理解しているのに、自ら望んで受け入れる。だが、そんな行為とは別に、そんな自分は絶対に赦す事は出来ないという面もある。
 矛盾していると気付いているからこそ、止められないし、赦す事も出来ない。だからこそ、余計に自分を傷つける。…いや、これは自分が傷ついているのだという言い訳を用意しているだけにしか過ぎない。誰かへの、自分自身への言い訳を。
 何も感じていない。自分は何も感じていないのだ、それは自身が一番良く知っている。そう、だからこそ、赦せない…。
 自分自身の全てを否定し、それでも何処かで妥協を許してのうのうと生きている。
 いや、はたしてそれが何だと言うのだろうか…。騒ぐ心の反面、自身の現状に高村は何の感情も持てなくなる時もある。色々と考えるのは建前で、結局は全てが蚊帳の外のような、一歩引いた場所で冷めた目で見つめている自分の方が多い。そう、どうでもいいのだと、全てを投げ打っている自分が本当の自分なのだと高村にはわかっていた。最低な醜い生き物である自分が悩む事など、滑稽でしかないのだと。
 昨夜は苦しみに死を願い、今朝は癒された感覚に自分を甘やかす。それは、自分という生き物が沢山いて状況に応じてコロコロと入れ替わっていっているような、そんな気がする。
 自分を否定する役割を持った者、自分を馬鹿にして見ている者、自分を哀れに同情している者、自分をこの世から消したい者…。そんな数え上げられないくらいの自分が自身の中に存在するのだ。ならば、こんな事を考えている今の自分も一部の人格でしかないのだと高村は小さく笑った。
(――だというのなら、どんなに悩もうと答えなど出ない…)
 ゆっくりとベッドをおり、浴室へと向かう。洗面台の鏡に映された自分の無表情の顔を見て、一度目を閉じ、今度は口元を上げて笑う。
 そこには店にいる時と変わらない笑顔を浮かべた高村望がいた。美青年などとはいかないがそれなりの部類には入るだろう整った顔立ちで、二重の目を僅かに細め、少し小さめの口にも笑みを乗せたその表情は優しい青年と言ったところ。好みの問題もあるだろうが、嫌悪を抱かれる事はそうはないというもの。
 だが、自身で見れば嘘臭い嫌なものでしかない、と高村はスッと笑顔を消した。鏡には再び、冷めた表情の男の顔が浮かぶ。
 元々笑う事など簡単な事なのか。それとも、自分の行為が笑えなくなるほどの大層なものではないのだろうか。それこそ、どちらであるかなどどうでもいい事。笑えなかったあの頃はもう遠い過去で、今への影響などないということなのだ。そして、素直に笑えたあの頃は、もっと遠い昔の事でしかないのだ。
 そう思っているのは事実なのに、時々こうして笑っていることがとても不思議で仕方がない。自分は何故笑えるのかと…。笑っている自分は気味が悪い…、そんな恐怖にも似たものも感じる。
 笑うと言う事は、そのおかげで生きているのだとしても、高村にすれば赦されない行為であるかのように感じられてならないのだ。自分はたとえ偽りでも笑っていられるような生き方をする者ではない、そう思っているのかもしれない。

 チリチリと痛いくらいの熱いシャワーを頭から浴びる。それに体が慣れると、今度は水を浴びた。朝だと言うのに気温はすでに暑いくらいに高く、このままでいても風邪を引く事などないだろう。
 座り込み小さな子供のように膝を抱え俯く。髪が耳の上に被さり、音が反響し水音と自分の鼓動しか聞こえなくなる。その中で、高村は涙を零した。
 何が悲しいというわけではない。生理的なものだ、これは。汗をかくのと同じ、勝手に体が分泌するものだ。なぜなら、自分の心は何も思っていないから。何も感じていないから…。
 それは確かに真実であり、けれども自分を騙しているに過ぎない。それを自身でわかっている、自分は弱い生き物だと。弱くて醜くて、生きている事すら間違っているのだと。なのに、それに目を瞑り、未だにこの世にしがみ付いている…。
 …いや、全てがわかった気でいて、結局は何もわかっていない…。
 男はこんな自分を何故抱くのだろうか。こんな自身ですら訳のわからない存在を。
 そう思いながらも、そんな事はどうでもいい、と高村は立ち上がりシャワーを止めた。まるで、男の事を考える時間はあってはならないとでもいうように。そう、男の感情など、関係ない。考えれば、何にしろ今より苦しくなるだろう。だから、…知りたくはないのだ。
 ならば、自分は何故抱かれるのだろうか…。
 間違っても自分は男を愛してなどいないし、それは男とて同じ。だが…。
(…修司……)
 心の中で呟く名前は返事を返さない。もう何度こうして彼の名を呼んだだろうか。この名を授かった者は、もうこの世にはいないというのに…。
(修司、君は僕を軽蔑しているんだろう…)
 こうして生きている事も、男に抱かれる事も、自身を甘やかしているに過ぎないのだろう。そんな建前を武器に、自分は最大の裏切りを犯している。臆病で卑怯な自分…。そんな自分を誰が認めるというのか。自身すらわからない自分を誰がわかってくれるというのか…。
 少なくとも、友人だった彼には理解出来ないことだ。男はあの悪夢の出来事の一因なのだから…。あの悪夢のせいで、片方は死を選んだ。そして片方は未だに生きている…、その男に抱かれて…。
 ――お前も、死ねばいい。
 友人の言葉ではない。自分の中の別の自分が言う。だが、慣れたその声はもう、自分に何の影響も与えない。右から左へと心を騒がせずに聞き流せるもの。
 友人は決して現れない。夢の中でも、頭の中にも、何処にもいない。自分を見る事すら不快だとでも言うように。
(…修司…)
 それでも呼び続けるのは、自己満足か。
 彼に縋る為か。戒めか。
 何もかもが、高村にはわからなかった。ただ、壊れないように、その場にあった自分を守る術を身に付けていくだけ。否定するだけでは生きられないから時には自分を許し、そんな自分に耐えられずに自身を傷つける。何も考えずに過ごし、狂気の中に身を置く。男に進んで抱かれ、その実嫌悪を抱く。他人に好意を持ち、それは嫉妬へ変わる。
 どちらか一方に偏っては精神のバランスが取れないとでも言うように、肯定と否定を繰り返す。自身にだけではなく、他人へも。
 高村にとって、全てが恐怖の対象だった。好意も悪意もそれにはさほど違いはなく、何らかの感情を感じるという事自体が畏怖するべきものだった。動く感情は自分が生きている事を一番教えさせるものなのだ。
 いつの間にかそんな感情に慣れてしまい表面的には落ち着いたが、一人で居ると狂ったように深みに沈み込む時もある。あの頃と何ら変わっていない自分を確認する。変われないのなら、何故自分は生きているのだろうか…。
 くるくると回るだけで、決して別の道に逸れる事はない思い。堂堂巡りはただ深くなる一方で答えなど見せない。いや、そうではない、元から答えは決まっているのだ。自分が生きている限りこうなのだと。
 常に一人にならないように犬を飼った。他人が苦手なのに、接客業をはじめた。男が恐ろしくて仕方がないのに、体を差し出す。そして…。友人が応えることはないのに、いつでも呼びかけている…。
(修司……)
 瞼にすら浮かばない友人に、自分は何を求めているのか。高村にはそれすらわかなかった。ただ、このまま消えてなくなりたい。いつもそう思っていた。存在していた事すら、全て消し去りたいと。
 だが、それすら、もしかしたら自分の思い過ごしなのかもしれない。
 誰よりもこの世界で生きる事を望んでいるのは、自分自身なのだ…。
 濡れた髪から落ちる雫も気にせずに居間に入ると、犬が足元に纏わりつく。その体を水滴の残る腕で抱きしめ、高村はそこに顔を埋めた。
「…臭いな、お前」
 顔を上げ眉を顰めながら、犬の頬を掴みグリグリと頭を揺らす。
「今からは無理だな…、今晩洗ってやろうか」
 抵抗することなく頭を回される犬に笑いかけながらも、高村の目から再び涙が落ちた。それは髪からの水滴に混じり、誰かが見ていたとしてもわからなかっただろう。たった一滴の涙。
(……ああ、そうだ…。ここにもわからないものがあった…)
 この犬の名前は、あの時友人が言っていた名前だ…。
 今まで忘れていた記憶が、何の前触れもなく高村の頭に浮かんだ。
「…ロン…」
 高村の呟きに、犬が嬉しそうに尻尾を振った。だが、その姿は彼の目には入っていなかった。



「ありがとうございました」
 高村の言葉に、「ご馳走様」と主婦グループから口々に声が上がった。それに、「またお越しください」と笑顔を向ける。少々騒がしくらいにお喋りに花を咲かせていた女性陣が帰ると、店の中は一気に静かになった。今まで存在が薄かった数人の客達の話し声が聞こえるほどに。
 週に一度は来る先程の主婦達は、家族を送り出した後家の片付けをしてからなのだろうか、おやつの時間帯にやって来てランチが始まる前に帰っていく。滞在時間は一時間もないのだが、そのパワフルさからかもっと長くいて頻繁にきているように感じる。
 いや、それは彼女達と断定するのではなく、彼女達のようなグループが多く来るからというだけだろう。顔の違いはわかっていても客としての違いはそうないので、よくきているように思ってしまうのだ。ランチが終わってからくるグループ、夕方前に来るグループ、毎日何組かの元気な主婦達がやって来る。だが、個々のグループが重なるという事はあまりない。それはまるで申し合わせているかのようだ。だから余計に、彼女達の賑やかさが目立つのだろう。途切れる事はなく、毎日時間帯は違えどあの豪快といえるような笑いが店に響く。
 そのひと時も高村は嫌いではないが、彼女達が去った、普段を取り戻したかのような静かさが戻る瞬間の方が好きだった。
 会計で止めていた洗い物を再開すると、静かな店に食器が触れ合う音響く。声を落として話す若いカップルの会話が、同じように店の空気に溶け込む。
 もう少しすればランチタイムに入り忙しくなる。その前のこの静けさは何とも言えず落ち着くもの。狭い空間を数人の人間が共有してはいるが、皆個々のテリトリーを作っている。それが高村にとっては心地よいものだった。
 先程の客が使っていた席の片付けをし、シンクに新たな洗い物を置く。泡立った洗剤がガラスのコップを滑り落ちていき、下に重ねた皿に溜まっていく。何てことは無いものに目をとめ、高村はフッと息を吐いた。
 些細な事が日常を教える。そこで生き抜く術を見せる。そう、自分はこうして生きていくのだ。昨日も今日も、そして明日も、ここに立つ。
 何の変化もない日々に人は嫌気がさすもの。平凡な毎日に退屈し何かを求める。明日は変われるのだと、もっと面白い未来が待っているのだと何処かで願っている。それは夢でも空想でもなく、人間の生きる糧。だが、高村はその変化を望んでいない。生きるのならばこのままで。それ以上も以下も苦でしかない。
 客の注文に笑顔で答える自分、それを冷めた目で見る自分、全てを否定する自分。そして、何もかもを手放したように生きる自分。どれもが自身であり、その全てが許せない。
 そんな矛盾を抱えて笑う自分を何故維持しようとするのか、それすら高村にはわからない。変化に恐れているのも事実であり、これ以上はないという大きな変化を望んでいるのも確かなもの。
 勢いよく水を出し、泡まみれの手を洗う。だが、直ぐにガクリと膝が落ちカウンターの中でしゃがみ込んだ。飛んだ水が床に数滴落ちているのを見、ゆっくりと目を瞑る。だが、瞼の裏で水滴はアメーバーのように広がり動いていき、やがて無色透明から真っ赤な色へと変わっていく。そう、それは血の雫…。
 カランと音がし、はっと目をあけると、目を閉じる前と同じ水滴が床にあった。自分の妄想と現実を一瞬見失いそうになり鳥肌が立つが、それでも高鳴る心臓とは逆に心は冷めており、いつものことだと流して高村は立ち上がる。
「いらっしゃいませ」
 顔を上げ入口に視線をむけると、数日前に出会った男が立っていた。
「…窪井さん」
 彼の腕の中にはあの夜と同じように小さな女の子が抱かれており、その少女の手には大きな傘が握られていた。

2002/09/07
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