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「あら。じゃあ結花も連れて行ってよね」
昨夜は遅くまで自室で仕事をしていたというのに、窪井は朝の早い時間に無理やり起こされてしまった。何時だと思い目にした時計は、いつもでも出勤するにはまだまだ早い、そんな時刻だった。折角の休みに何故こんな早起きをしているのかと思いながらも、キッチンのテーブルに大人しく腰を降ろす。
まだ覚醒は出来ていない頭のまま、出かける用意をする実花の話を右から左に流し適当に相槌をうっていた窪井だが、ふと今日の予定を思い出し、自分も出かけようと思うのだが、と実花に伝えた。先日世話になった高村に借りた服と傘を返しに行きたいのだと。
するとそう言った弟に、言われた姉はそれがどうしたのだと言わんばかりの当然といった表情で窪井に、娘もそこに連れて行けばいいと言ったのだった。
問題など何処にもないだろうと言うように。
まだそう高くはない太陽だというのに、その熱はすでに溜息を覚えさせるほど高いものだった。白いレースのカーテン越しに部屋に入り込むそれは、早くも室内の温度をあげる働きをしている。
窪井は掌で顔を擦りながら、何気に床に差し込む光を見ながら欠伸をした。
「いいでしょ、別に。喫茶店なら」
「…わかったよ」
この姉がこう言い出しては何を言っても仕方がないと窪井は肩を竦めて了解をする。自分の休みに合わせて用事を入れたのだから、結花に留守番をさせようものならどんな仕返しをされるのか…。窪井がそれを選ぶ事などするはずもなく、実花の言葉に頷くしかないのである。
そんな弟を知っているのだろうが何も口にはせず、「ちゃんとお礼しなさいよ」とまるで子供に言うようにいいつけながら、実花はリビングの隅から大きな紙袋を持って来た。
「はい、これ。この前の服ね。あと、傘も玄関に出しておくから忘れないように」
「わかってるよ」
「そう言って、よく忘れるでしょう」
パジャマ姿のままがしがしと頭を掻く窪井に、「しっかりしているようで、どこか抜けているのよね、あんたは」と実花は溜息を落とした。
「お前に言われたくないよ」
「それはこっちの科白」
再び欠伸をする窪井の額を指でを弾きながら、
「じゃあ、よろしく。
結花! 行ってきます〜」
と、実花はテレビの前に座りアニメを見ていた娘に声を掛けた。母親の言葉に、窪井が先程声をかけても画面から目を離さなかった結花が弾かれたように振り返る。
花柄のワンピースを着た姪が、不安げに小さく首を傾げるのを見て窪井は口元に笑みをのせた。
「どこいくの…?」
「お仕事なのよ。今日は透哉がお休みだから、ちゃんといい子にしてるのよ」
「とーと、おやすみなの!?」
「ああ。結花、後でお出かけしような」
窪井がそう言うと、きゃっきゃっとはしゃぎ、「いってらっしゃい」と娘は母親に手を振った。
「…現金な子ね」
「可愛い子だろう。結花は俺が大好きだもんなぁ」
少し得意げに、「ほら、来い」と窪井が手を広げると、結花が脱兎の如く走りこみしがみ付いてくる。呆れたように見てくる姉を、姪を腕に抱き上げたまま玄関まで送り、窪井は鍵をおとした。
「どこいくの!」
早くも腕の中でそう問いかけ覗き込んでくる少女の額を指で弾きながら、「まだだよ、後でな」と窪井は笑った。それでなくとも、折角の休みに自分が出かけるからと姉に叩き起こされ、まだ朝食もとっていないのだ。朝早くから元気にはしゃぐ子供と同じ様にはいかないというもの。
「まずは、お腹が空いたから俺は朝飯だ。結花はトロロでも見てろよ」
「とーとも、トロロ!」
一緒に見ようと言う結花に窪井は首を振る。一体今までに何度見ただろうか。同じ話でよく飽きないものだと感心してしまう。
「俺は見ないよ。まだ顔も洗ってないんだぞ。ほら」
小さな手をとり顎を触らせると、「いや〜、チクチクいたい!」と突っぱねられてしまい、降ろせというように体を捩る。
「ったく、嫌はないだろ、嫌は。傷つくぞ」
しおらしく窪井はそう言ったが、「いやっ!」と結花は顔を背ける。頬擦りされてはたまったものではないという抵抗だ。仕方なく下に降ろすと再び捕まらないよう、慌てた様子でバタバタと居間へと掛けていく。
「…さすが親子、似ているな…」
自分が思うままの行動。きっと洗顔を終えてリビングへと戻ると、あの小さな姪の頭の中では、今の事などすっきりと忘れているのだろう。
近い将来には姉だけではなく姪にも尻に敷かれるようになるのだろうかと思い描き、窪井は溜息を吐きながら洗面所への扉を開けた。
「まいごなの?」
少々体を傾けどうにか手を繋いでいるが、決して楽な姿勢とはいえずに体を軋ませている窪井に、結花が呑気な声を掛けた。炎天下の中、麦藁帽子を被った幼い彼女は暑さに負けることなく元気なものである。
「多分、大丈夫だよ」
一方、左肩に大きな袋をかけてそちらの手で傘も持ち、体を傾けた右手では姪の手を引いている窪井の額には汗が滲んでいる。頭上にはさんさんと輝く太陽。自分と姪の身長差はこの熱さに関係があるのだろうかと、ふと馬鹿な考えが浮かぶ。背の高い自分の方が、背の低い姪よりも太陽の熱を多く受けるのではないか…?
それを言うなら、照り返しの熱気を姪は多く受けていることになるのだろう。ならば何故こんなに気力が違うのか。
(これが若さというものか…?)
眩暈を覚えるような暑さに、はあっと大きな息を窪井は吐いた。だが、吸い込む空気が熱く、気分は良くはならない。
普段は日中に出歩くことなど殆どなく、クーラーの効いたオフィスにいるばかり。それでも、暑さには特に弱いという意識はなく、出歩こうと思えば出歩けるものだと思っていた。数年前までは夏の日差しの中で走り回っていたくらいなのだ、どうってことはない。そう思っていたと言うのに、今の自分はなんて情けないものなのだろう。暑くてたまらない…、と窪井は額の汗を手で拭った。
年をとったという程の年齢ではないし、さほど体力が落ちたようにも思わない。だが、この有様は…。日頃からどれだけいい加減に過ごしているかが覗えるというものだ。昔は冷房と暑い外を行き来しても体調がおかしくなる事などなかったが、今はそうもいかないのだろう。
年齢的な面ばかりではなく、近年の気候のおかしさも原因といえるのかもしれない。猛暑が続く各地では、日々最高気温の記録を塗り替えている。都心ではそういうわけでもないが、田舎の街では日中に人の往来が減っているとの事だ。
手を翳し見上げれば、カラリと晴れ渡った青空が見える。この暑さでなければ、東京にしては青いこの空を清々しいと堪能できるのだろうが…。目に入る日の光に目を細めながら、このまま後ろへ倒れこみそうだな、と窪井は再び息を吐き視線を下に向けた。短い自分の影が幼い少女の体に日陰を作っている。
どうでもいい事を色々と考えるのは、思考を止めてしまえばこのまま意識を手放すかもしれないと頭が知っているからなのかもしれない。
「どっち?」
少し先の三差路を指さし、結花が窪井を見上げて笑った。
「えっと、右、だったかな」
「みぎ…?」
「そう、お茶碗を持つ方だ。そっちの手だな」
顎で繋いでいるのとは逆の小さな手を示す。窪井の言葉に「こっち!」と結花は手をぶらぶらと振った。
車で出かけようかと思っていたのだが、「でんしゃ、でんしゃ!」と騒ぐ姪に押し切られてこうして駅からは徒歩になったが、これでは自殺行為だなと窪井は溜息を吐く。結花本人は元気そうにはしゃいでいるが、窪井には彼女の熱気すら熱くて仕方がないくらいだ。
だからだろうか、元々方向音痴の気があるからだろうか、先日来たばかりの店の場所にいまいち自信がなく、どっちだと聞く結花に窪井は頼りない返事を返している。そんな窪井を不安と言うよりもむしろ楽しそうにしてはしゃぐ姪に手を引かれるように窪井は進んでいたが、屈めるように少し折った腰が悲鳴をあげてもいた。
「ちょっと、結花。手を放すぞ、転ぶなよ」
窪井の言葉に一心に前を見て足を進めていた結花は、ちらりと窪井を見、離された自分の手と叔父の手を見比べ、口元を緩めながら顔を前方に戻す。
「あ、おい! こら!」
息をつきながら腰に手を当てた窪井をよそに、結花はとたとたと駆け出した。小さい子供に走られても追いつく事は困難ではないが、この暑いさなかにこれ以上動かさないでくれと言うのが正直なところだ。それに、車が擦れ違うのは困難だといったぐらいの道である、運転手が小さな子供に気付かない可能性もあるのだ、放っては置けない。
「結花、止まりなさい!」
その言葉に、悪戯っこのように走り出した彼女だが、窪井の言う事は聞かなければならないとわかっているのか、ぴたりと止まる。最初から走るなと言えば走っていなかったのだろうが、そこまで彼女の行動を読めるわけではない。
窪井は立ち止まり自分を待つ姪に、「危ないから走るなよ」と言い、ぽんぽんと頭を叩いた。今度は手は繋がずに麦藁帽子を押えるようにそこに手を置き並んで歩く。
「こっちね、こっち」
壁伝いに歩き、右に曲がろうとしながらそう歌うように喋る結花から目を離し、車が来てはいないか左右を確認する。
「ん?」
ふと、見覚えのある物が思っていたところではない場所で見つけ、窪井の頭には一瞬理解されずに視界を通り過ぎた。すでに体は向きを変えており、疑問符を頭に浮かべて後ろを振り返る。そこにはやはり、目的のあの喫茶店があった。
「右じゃなかったな、左だ、結花」
「なあに?」
「ほら、あそこだ」
目的地が見えた遠足気分の子供のように、窪井は元気を取り戻し、結花を腕に抱えあげた。密接する体が暑苦しいからか抱かれるのを嫌がっていた結花も、そこまでの距離ならいいかと妥協したのだろうか、窪井に体を預ける。
「あそこなの?」
「そうだ」
「あったね、よかったね、とーと」
「そりゃあるよ」
自分を信じていなかったような発言をする彼女に笑いながら、傘を持ってくれるように頼み渡す。下がってきた紙袋を肩にかけなおしながら、窪井は店へと足を向けた。
先日と違い、光の中で見る店はなんだか初めて訪れる場所のようでもあり、小さな緊張すら覚える。照りつける太陽のせいで、まるで蜃気楼の中のオアシスであるかのように入ろうとすれば消えてしまうのではないか。そんな考えすら浮かぶ。今は極日常の一部分であって、先日の夕刻の方が幻想的だと言えるのだろうにそう感じてしまうのは、やはりこの暑さに参っているためか。
人と接するのが苦手という事は全くなく、子供の頃から年嵩の者にも物怖じしない性格である窪井が胸を鳴らせるのは珍しい事であった。
(何に対しての緊張なのか…)
それだけこの状況に戸惑っているのか。それともこれから会う青年に対して恐縮しているのか。
そう考えたが、直ぐにそれを否定する。この日常と離れた感覚は面白いと思いこそするが、信じ込み慌てているわけでも夢見ているわけでもない。高村に対しては確かに迷惑を掛けたとは思うが、過ぎた事を悔やみ悩むほどのことでもない。
ならば、何なのだろうか。小さく踊る自身の感情に笑いを落とし、窪井は平常に戻るように大きく息を吐いた。
(…何か大事な事でも忘れているのかもしれないな)
引っ掛かっているという微妙な感覚はないが、仕事が休みというだけでいつもと違う雰囲気に包まれているのは確かなのだ。少しばかりおかしくとも気にすることではない。
もし世話になったのが女性だったなら、オイオイ、情けないね。とドラマのような出会いに胸を高鳴らせる馬鹿な自分を叱咤するのだろうが、残念ながらそんな展開ではない。バカを晒した気恥ずかしさだろう。だが、それも今更の事だ。
「…会社に顔を出すか…」
まだ昼には少し早い時間だ。店でコーヒーでも飲みその後で向かえば昼食時ぐらいに会社に着くだろう、丁度いい。
窪井がそんな事を考えていると、腕の中で結花が身動きした。それと同時に持っていた傘が地面へと落ちる。
「おいおい、しっかり持っていてくれよ」
窪井はそれを拾いあげ、自分の手首にぶら下げた。だが、両手が自由な結花がそれを外し、もう一度同じように小さな手で抱えるように握り締める。
「借り物なんだから、もう落とすなよ」
コクリと頷く姪に笑いかけ、止めていた足を再び動かす。
「そうそう、結花。あの店には犬がいるぞ」
「ワンワン?」
「ああ。結花より大きいぞ」
「…かむの?」
「噛まないよ。でも、舐められるかもな」
「どんなの? ね、どんなの!」
「だから、大きい犬だって」
腕の中できゃっきゃと足を揺らせて騒ぐ結花に、「騒ぐな、落ちるぞ」と注意しながらも窪井は笑った。犬のぬいぐるみが一番お気に入りの彼女だが、はたしてあのシベリアン・ハスキーを気に入るだろうか。泣かれては困るが、それはそれで面白いかもしれない、と悪戯っ子のような事を考える。
だが、二人が会うのを楽しみにしていた犬は、小さな庭にはいなかった。先日見た注意書きの看板が出されてはいるが、当の本人はいない。
「あれ?」
「…いないの?」
「店の中かな」
首を傾げた結花を真似るように窪井も首を傾げた。
よくは知らないが、名前からして暑さには弱そうなものであるので、この炎天下は忍びなく店の中に入れているのかもしれない。そう考えながら、窪井はドアを押した。チリンと心地良いベルの音が小さく響く。
店内の冷たい風が流れてき、思わず大きく息をつく。陽射しを避けられただけでも十分に嬉しいが、やはり冷房のきく場所は気持ちが良い。流れる汗もさらりとした風に撫でられ、不快感が引いていく。
店に一歩入ったところで立ち止まり中を見渡した窪井は、数組の客しかいないことに気付き、あれっ?と緩んだ顔に疑問を表した。それと同時に、カウンターの中に座り込んでいたのだろう高村が立ち上がって姿を見せた。
「いらっしゃいませ。…窪井さん」
笑顔の後に少しの間をおき、高村は自分の名前を読んだ。この場合、さすが客商売だと言うのではなく、事が事だったということなのだろう。数日で忘れてくれるほどの失態ではなかったということか、と窪井は微笑みではない笑いを喉で鳴らした。
「こんにちは。
高村さん、先日は本当にご迷惑をおかけしました。これ、お借りしていた傘と服です。ありがとうございました」
腕の中から結花を降ろし、その手に持たれた傘を取り、肩にかけていた袋を礼を述べながら差し出す。高村は少し困ったように笑いながら、カウンターから出てきてそれらを受け取った。
「助かりました、ありがとうございます」
「いえ、そんな」
自分が頭を下げたのに対し、自らも同じように頭を下げる高村に窪井は小さく笑った。
「本来なら何かお礼をしなければならないんですが、私は気の利かない者でして。すみません、用意し忘れました。その事に気付いたのがこちらに向かう途中でして、出直すのもなんだしと来てしまいました」
「え? …いや、とんでもない。そんなこと、していただかなくても結構ですよ」
笑顔で馬鹿を曝す窪井の発言に一瞬驚き、高村は首を左右に振って言った。
「あ、でも、傘と服の手入れはきちんとしていますから」
「ええ、それで十分ですよ。そう気を使わないで下さい。
よろしかったら、何かお飲みになりませんか」
「ありがとうございます。では、頂きます。ただし、今日は客ですからね」
「はい」
わかっていますと言うように高村は笑いカウンターへと戻る。
一体何事かと様子を覗っていた客達が視線を戻すのに内心で苦笑しながら、窪井は結花をカウンターの高い椅子に座らせ、自分もその隣に腰を降ろした。
「そう言えば、今日はあの犬はいないんですか?」
店の中にも姿が見えないので訊いてみると、散歩中なのだとメニューを手渡しながら高村が答えた。
「そうなんですか」
「…とーと、ワンワンいないの?」
「そう、お散歩に出かけているんだよ」
帰ってくるまで待っていようか、という窪井の問いに結花は大きく頷いた。その姿に高村が目を細める。
「もう直ぐ帰ってくるからね。でも、大きい犬だから怖くないかな」
「それはそれでいいんですよ」
どうでしょうかねと首を傾げる高村に窪井はそういって笑った。
「母親に似て気の強い子供ですからね。たまには現実の厳しさを見せるのもいい」
「現実の厳しさ、ですか…?」
「そう。大きな犬に怖がるばかりじゃないですが、いつも顎で扱使う私の有難味を時々でも思い出してもらわないと」
口の端を上げにやりと笑いながら、窪井は日頃二人から受ける待遇を大袈裟に嘆き溜息を落とした。
「そうでなきゃ、虚しくてやっていけません」
「そんな事はないでしょう。お子様が可愛くて仕方がないといった様子ですよ」
「可愛い事は可愛いが、疲れるのも事実です」
窪井は肩を竦めながら、「こら、足」とぶらぶらと揺らせている結花の足を抑えた。その行動にまた高村が微笑む。
何となくバツが悪い感じがし、窪井は「私はアイスコーヒーでも貰おうかな」とメニューに視線を落とした。
幾つかの商品名が並ぶそこに、『上記以外の飲み物を希望の方はどうぞお気軽に声をかけてください』との注意書きがあるのを見つけ、「これは?」と首を傾げる。
「うちは一応、コーヒーや紅茶がメインなんですが、そう詳しく載せても名前だけではわからないでしょうし、種類もきりがないですからね。お好みのものを探して頂くのもいいですが、希望があれば仰って下さいと。そのご希望に添えるとは限らないのですが」
「へー、そうなんですか…」
インスタントコーヒーで十分だと言う味覚の持ち主の窪井にとっては、何処の産地だブランドだ、それらの配合だ割合だ何だのは全くわからないことである。普段喫茶店で飲むものも特にどうだこうだと思いもせず、ただ出されたものを飲んでいるに過ぎない。
そんな自分には、確かに色々とメニューで書かれてもチンプンカンプンだ。現に手にしたそれにはアイスコーヒーだけでも数種類も記されていたのだが…。
「俺にはここに載っているのもわからないですよ。
それじゃあ、お勧めのアイスコーヒーと、こいつにはアイスティーを下さい。
今日は特に暑いですね。冷たいものばかりでは駄目だとわかっていても、この暑さではやはりそれに手が伸びてしまいます」
「では、甘いものにしましょうか。大丈夫ですよね?」
「ええ」
窪井の返事に頷きながら高村は用意に取り掛かった。
くるりと店内を見渡すと、数人の客はそれぞれ自分達の世界を作っており、そう大きな声でなければ話をしていても邪魔にはならないだろう、折角カウンターに座ったのだから、と窪井は会話を続けた。
「ちなみに、先日頂いたのは何て紅茶ですか?」
「あれは、ティージュのダージリンですよ」
「ティージュ?」
「ブランドの名前ですよ」
そう言い、高村は棚から銀色の四角の缶を取り出し窪井の前に置いた。その缶には黒っぽい文字で先程口にした名前だろう『TEEJ』の文字がある。だが、紅茶の事など全く知らない窪井にはそれがどんなものなのかわからない。知っているのは、若い女子社員が飲んでいるリプトンという会社ぐらいだ。
「同じ産地でもブランドによって沢山の種類がありますから、お気に入りを見つけるのは結構大変です。ですが、このダージリンは一口で惚れてしまいました。
どうでした、お口に合いましたか?」
「とても美味しかったです。日本で買えるものですか?」
「ええ、買えますよ。店で扱っているのは全て国内で手に入れられるものです」
話し掛けられても気が散る事はないのか、縦長の少し大きめのポットに花模様の青い缶から茶葉を入れお湯を注ぎながら高村は言葉を返す。その彼の後ろの棚には見えるだけでも色とりどりの缶が並べられていた。全てが紅茶の缶だとは限らないが、大半はそうなのだと缶に記された文字から読み取れる。
「日本でもそんなに紅茶が買えるんですか」
棚に目を向けたまま言ったその言葉に、「これはごく一部です、もっとありますよ」と高村が微笑んだ。
「ここに置いているのはリーフティーばかりですから」
「へえ、そうなんですか。いや、知識がなくてお恥ずかしい」
「普通はそうですよ。それに、覚えるのは自分のお気に入りだけで十分ですからね」
今度は小さなポットに砂糖を入れ、高村はまた別の丸型の白い缶を取り出した。それはさすがの窪井でも聞いた事があるブランドのコーヒーだった。
高村はネルフィルターの中にその粉を入れ、円を描く様にお湯を注いだ。
「今日はお仕事はお休みなんですか?」
高村の手元に見惚れていた窪井に、少しの沈黙を置いてそう訊ねてくる。
「ええ。適当な会社ですから、休みも出勤もいい加減なんです。っと言っても仕事を蔑ろにしているわけではないですよ。その逆です。楽しくやっていて、仕事と言うよりも遊び感覚、趣味ですね。だから休日でも会社に顔を出す者が殆どです」
特に自分はそうだと窪井は苦笑した。元々遊び感覚ではじめた仕事で、今もその延長でしかない。家でも苦にすることなく仕事をしているし、休みであっても大抵会社に出かけて何らかの事をしている。友人などから言わせれば、好きな事をして金にして羨ましい限りだということで、それには窪井も否定は出来ずに笑うだけである。
「失礼ですが、どんなお仕事をしているんですか?」
「えっ?」
高村の問いに思わず窪井は声をあげた。それは単なる疑問であって、別に不快に思ったわけではない。だが、言われた本人は申し訳なさそうに軽く頭を下げた。
「頂いた名刺には社名だけだったので…。すみません、世間知らずなものでお名前を聞いてもわからないんです」
「…えっ!?」
今度は純粋な驚きを窪井は表す。
「もしかして、あの時渡した名刺には書いていませんでした…?」
「え? ええ」
「すみません。ミスプリです、それ。
慌てていたので確認せずに渡してしまいましたからね。いや、申し訳ない」
窪井はポケットから名刺入れを取り出し、今度は失礼のないようにそれをきちんと確認してカウンターの上に置いた。
「時々あるんですよ。酷い時は名刺だと言うのに名前がなかったりします」
そう言い肩を竦めると高村は小さく笑った。出された名刺を取り上げ眺める。
「…HP作成会社ですか」
「ええ。以前までは企業ばかりだったんですが、最近は個人向けにもやっています。
高村さんはインターネットは?」
「いえ。パソコンは少しだけ店の管理に使っていますが、それだけです。他の事はできません。機械ものは苦手でして。
…この前頂いた名刺とまた図柄が違いますね」
窪井に見えるように名刺を向け、高村は言った。
「ご自分で作られているんですか?」
「ええ。その都度デザインを変えて遊んでいます。それはこの子が描いた落書きですよ」
クレヨンで描かれた花のような単なる模様のようなそれは、描いた本人いわく魚だそうだ。赤や黄色が魚で緑が海藻、水色の線が海を表しているらしい。だが頑張っても窪井には花と空にしか見えないのだが。
「そうなんですか。
上手だね」
店を見回し楽しんでいた結花に高村が笑いかける。
「ほら、ご挨拶」
自分と高村を交互に見る結花に窪井はそう言い、頭に手を置き高村の方を向かせて固定した。
「くぼいゆかです」
元気に言う姪に合わせて頭を押しお辞儀をさせる。
「こんにちは、高村望です。ユカちゃんはお幾つですか?」
「さんしゃいっ!」
開いた手を突き出し、親指と人差し指を折りニカリと笑う。その結花の姿に高村は笑みを落としたが、窪井は眉を顰めた。
「駄目だぞ、こら。曲げるのは親指と小指。それだといいよ、わかったよってオッケイの合図だぞ」
結花の手を取り、こうするんだと窪井は教えたが、子供の指ではそれは難しくなかなか上手くはいかない。
「イヤ! こうなの!」
「駄目だ、こうだ」
「でも、ママは…」
「ママがそう言っても駄目なものは駄目。おかしいんだよ、結花」
「イヤッ! とーとのバカッ!」
イーッと顔を顰め歯を見せる姪に、「なんて事をいうんだよ。バカなんて言葉使うなよ、バカ」と窪井も顔を顰める。
そんな二人のやり取りに高村は笑いを漏らした。さすがに恥しく窪井は謝る。
「失礼、見苦しい所を」
窪井のその言葉に軽く首を振り、高村は大きめのグラスを結花の前に置いた。
「はい、どうぞ」
グラスの中は下半分弱にミルクティーが入っており、上半分は牛乳だけなのだろうか真っ白だった。その上にホワイトチョコの屑のようなものが載っている。窪井に注意をされた結花だが、目の前に出されたものに心を奪われ全く気にしていないようだった。
「こら、わかっているのか?」
「とーと、食べていいの?」
何事も無かったのかのように、結花は窪井の許可を求めた。
「ったく、これだ…。いいよ。溢さずに食べろよ」
窪井が呆れたように言いながらもストローをグラスにさしてやると、結花は嬉しそうに少しかき混ぜ口をつけた。言葉にならないのかなんなのか、窪井を見てにんまり笑うと再び飲み始める。
「おいしいかな?」
高村の問いに「うん!」と勢いよく頷き、同じように唇を引き上げて笑った。可愛いのかどうなのか、微妙な笑みだ。
「凄いものが出てきましたね」
自分の前にもグラスを出す高村に、隣で幸せそうに姪が飲むものを見ながら窪井は苦笑した。
「アイスココナッツミルクティーです。混ざらないよう比重を重くした紅茶の上にミルクとホイップクリームを載せているんです。上のはココナッツスライスです。
こちらは、ブラン・エ・ノワールです。どうぞ」
「いただきます」
コーヒーの上に薄い白い膜がのったそれは、ほんのりと甘くとても美味しかった。
視線を上げ高村にそれを伝えようとし、その彼が自分の後ろを見て小さく微笑んでいる事に窪井は気付いた。なんだろうかと振り返るより早くに、扉が開く音がする。
「ただいまです〜」
ボリュームは控えているのだろうが、よく通る元気な声が店に響く。
窪井が振り返ると、Tシャツにハーフパンツ姿の青年が首からかけたタオルで顔に伝う汗を拭きながら近付いてきていた。青年の右手がパタパタと顔に向かって風を送るが、あまり効果はないようで、「熱くて死にそうですよ〜」と顔を顰め、直ぐににやりと笑う。
よく日に焼けた青年のその姿は、静かな喫茶店には少し似合わない。だが、自分より綺麗に筋肉がつきバランスのとれた体形は、実際の火照った体よりも清爽感が漂っていた。
「ご苦労様。途中で倒れなくて良かったよ」
高村が笑いながら青年に向かって白いボウルを渡す。側に立った青年が受け取ったそれを窪井は何気に眺めた。中には沢山の氷が入っていた。
「倒れたらロンに引きずられて帰ることになりますからね。さすがにそれは遠慮したいですよ」
青年は笑い、自分を見ている窪井に小さく会釈し、再び外へと出ていった。
「アルバイトの前田くんです。犬の散歩に行ってもらっていたんですよ」
「今の氷は?」
「散歩から返ったらやるんですよ。バリバリと食べるのが好きなんです、あの犬は」
「へぇ〜」
直ぐに中へと戻ってきた青年に、「急がなくても、まだゆっくりしていていいよ」と高村が声を掛ける。
「まだ、ランチには時間があるからね」
「はい。じゃあ、お言葉に甘えて。
ごゆっくりどうぞ」
後の言葉は視線を向ける窪井に言い、青年は先日窪井も入った奥への扉をくぐっていった。
「学生さん?」
「ええ、体育大学生です」
「へえ。便利ですね」
「え…?」
何気にそう言った窪井だが、高村が自分の発言に驚きを表したことに驚き、少し首を傾げ言葉を付け加えた。
「体大のバイトくんなら犬の散歩も行ってくれるからいいな、と思ったんですが…。
…何か変な事を言ってしまいましたか?」
「いえ、いえ。そうですよ、その通りです」
高村は首を振り、苦笑いを顔にのせた。
「ただ、今まで窪井さんのように言われるお客様はいなかったので。はじめは大抵、「散歩に行かせているの、酷いね」と笑われるんですよ」
「そうですか?」
「ええ。軽口でしょうが、そう言われますよ」
確かにあの青年が店で働く姿を先に見ていたのなら、犬の散歩までするのか、大変だな、そう思ったのかもしれないが…。
「そんなものなのかな…。…高村さん?」
指先に視線を落とし、何故かぼんやりとした表情をつくた高村に窪井は声を掛けた。会話の途中でのその表情に、突然どうしたのかと疑問が頭をよぎる。
「……えっ? あ、さあ…どうなんでしょうね…」
少し気のない返事というか、何を言われたのかよくわかっていないような返事をし、高村は小さな笑みを浮かべ止めていた手を動かし始めた。
棚に紅茶の缶を戻すために高村が背を向ける。先程までと変わらないようでいて、彼のまとう雰囲気はどこか違うようにも感じた。
自分は何か悪い事を言ったのだろうか……?
ふと、窪井は優先順位が違うのだろうかと思いつく。自分は犬と高村との関係の方を知っているので、つい便利だと思ってしまったのだが、高村にとって犬よりも前田との関係が深いものだったら…。
比べるのはおかしいだろうが、人間と犬とでは普通人間を主に考えるものだ。そう、だからこそ、窪井も知っている高村を主に考え発言をした。前田の事は考えずに。
だがそれは、訊き方によれば前田をいいように使っているような含みを持たないだろうか? もしそう誤解したのなら、雇い主の高村としては自分の発言を不快に思うのでは…。
「あの元気な犬は看板犬だ。なら、散歩もバイトくんの仕事であってもおかしくはない。むしろ当然の業務でしょう。…なんて思っていませんよ、私は」
少し茶化すように固い言葉を作り、けれども真面目に窪井はそう言った。
「ただ、単純に便利だなと思ってだけです。いや、便利と言うか…何て言うんだろう。私は犬を飼った事はありませんが、毎日の散歩は大変なものでしょう。それを代わりにしてくれる者がいるなんて、いい事じゃないですかなと。ただそれだけです。彼の事を軽く見たわけでは…。」
気を悪くしたのかもしれないと、窪井は言い訳のような言葉を繋ぎ、また何を言っているんだか、とそんな自分の発言の不甲斐なさに眉を落とす。…なんだか、上手くいかない…。
だが、窪井の発言に少し驚いたが直ぐにその意図に気付いた高村は、「違いますよ」と手と首を同時に振った。
「別に前田くんをどうだなんて思っていませんよ。窪井さんの言う事は、僕も同感ですから。
私では体力が続かずそう走る事もできませんし、あの犬は前田くんとの散歩も楽しんでいます。彼の迷惑も考えずに私が便利に使っているのは事実ですが、彼もまたあの仕事は楽しいと言ってくれていますから。
ですが、それを「そうなんですよ」と認めるのはどうだろうなのだろうか、…そう考えただけですよ。気にしないで下さい。喫茶店ですからね、犬がいるだけで不快に思われる方もいますから」
そう言って高村は笑った。だが、やはり先程までとは少し違う笑いのように窪井には思えた。何処が違うのかはわからないのだが。
そんな風に客の話題になっていることなど知るよしもない犬は、今窪井の目の前で盛んに尻尾を振っていた。強面の犬がこうも人懐っこく尾を振るのはなんだかおかしいものがある。
利発そうな顔をしているが、この犬は先日自分に会った事を覚えているような性格でもないよな、と窪井は犬を眺めながらぼんやりとしていた。犬の方は「まだ駄目なの、じっとしていないと駄目なの?」とでも言うような目で見つめてくる。その犬の前では、結花が店を出てからずっとはしゃいでいた。
はじめはその大きな姿に怖がった彼女だが、窪井が手を翳し犬が動けないようにすると、直ぐに大きなぬいぐるみだという様に慣れてしまった。先程からポンポンと犬の鼻の辺りを叩いている。本人は撫でているつもりなのだろうが叩いているとしか言いようがない。時折犬がむず痒さからくしゃみをすると、ますます喜んで叩いている。
まるで彼女が今朝見ていたアニメのワンシーンのようだ、と窪井は少し笑い、それ以上に呆れた。この年頃の子供にとっては全てが玩具なのだろうか。もう少し大きな犬に怖がってもいいものを。
「結花、もういいだろう」
ぬいぐるみと化している犬を気に入った姪は一向に動く気配を見せない。仕方なしにそれに付き合っていたが、右半身に当たる太陽の光にそろそろ限界を感じ始め、窪井は片腕で有無を言わさず結花の体を抱き上げた。
いつの間にかランチ時になり、店先に立つ自分の後ろを何人もが通り店へと入っていく。自分達の姿を気にしない者が大半だが、クスクスと笑い声も上がるのだ、さすがにその者達が食事を終え再び顔をあわせるのは勘弁願いたい。
「もう終わりだ」
「いや! ワンワン!」
制していた腕を伸ばし、窪井は犬の頭を撫でた。その腕を小さな手が掴み抗議を示す。
「また来ればいいだろう。今日はもうバイバイだ」
そう言い聞かせ、窪井は陽射しが降り注ぐ道へと足を踏みだした。犬を振り返る姪の頬を指で突っつく。
「ほら。機嫌直せよ。今から会社に行くんだから、可愛く笑え」
「…カイシャ?」
「そう、会社。カンちゃんがいるぞ。結花、カンちゃん好きだろう?」
「うん!」
会社で飼う猫の名前を上げると、現金な姪は犬のことなど忘れたかのように笑った。あの猫が姪の玩具になるのは少々気の毒な気もするが、愛想のない猫だ、たまにはそうされるのもいいだろう。何より、このお嬢様な姪の機嫌をとれるのならばそんな事を気にしてもいられないのだ。
「さて。今から行けば…まずは飯かな」
何食べようか。そう聞いた窪井に、結花は大きな声で「プリンッ!」と答えた。
なんとも安上がりなお嬢様だ、と窪井は肩を揺らせる。
だが…。
(…それにしても。俺は何かまずい事でも言ったのだろうか…)
窪井は先ほどまで会っていた青年の事を考えた。
にこやかに話していた高村。その笑みは最後まで消える事はなかったが…。
(…何なんだろうか…)
窪井の中に生まれた小さな違和感も、何故か消えはしなかった。
2002/11/22