/ 1 /

 人間には大切なものが沢山ある。
 あれもこれも大好きで、どれが一番だとは決められない。そう言ったものが沢山ある。
 そして、そんな中でもこれには目がないというか、他のものとは比べる対象ではないというくらい、全く別なものがある。
 それはホント、人それぞれというもので、食べ物だったり、もっと些細なものだったり。
 俺の場合は、それは、生身の人間だったりする。
 鈴木裕司。その他愛ない何処にでもいそうな名前。だが俺はその名前を思い出しただけで、顔がニヤッとしてしまう。彼の姿を目にしたらもうそれこそ心臓をギュウッと鷲掴みにされたように苦しくて嬉しくて、張り裂けそうなほどドキドキとしてしまう。
 俺の名前ではなく「先輩」と単なる名詞で呼ばれても、周りに花が咲いたような感じに喜びが訪れる。これがマンガなら、俺の周りには花だけではなく星まで飛ぶというものだ。
 それくらいに、俺は鈴木が好きだ。
 彼の何処が俺を惹き付けるのか、何て言うのは愚問だ。何処がじゃない、彼のすべてが愛しいのだ。
 それなのにこんな俺に、恋人と言う立場にいる男は嫌な顔をする。それだけならまだしも、折角鈴木と一緒の幸せな時間に割り込んでくる。何たる男か、とんでもない奴だ。恋人ならば、俺が楽しくしている時にはそれに合わせろよと言うもの。同じように好きになれとは言わないが、邪魔をするなよ、全く。

 今日も鈴木と一緒に昼飯を食べようとしていたというのに、「先約だ」と約束なんて何もしていないのに社内食堂へと向かっていたのを忌々しい男に強引に阻止され、俺をそうして無理に連れ出したわりに仏頂面で食事をとって、相手はさっさと仕事に戻っていった。
 俺としては会社から拉致された時は心の底から腹立たしいと思ったが、その後の事は何がなんだかわけがわからず、気付けば一人で店の中で座っていたのだ。一体これは何なんだ…? 相手の行動がわからない。
 だが、その後よく考えれば結果としては最近仕事が忙しく久し振りの余裕をもっての鈴木との食事を壊されたと言うことだけしか残っていなくて…。そう、男の目的は俺が鈴木との食事を喜ぶのを知っていてそれを邪魔することであって、俺への用など全くなかったのだ。だから、不機嫌に食事をし、そして役目は終わったとばかりに帰ったのだ、あいつは。
(何て奴だッ!)
 ここまでするか、おいおいおい!!
 相手の目的に今更ながらに気付き、思わずバンッとテーブルを思い切り叩いても、後の祭り。引きずられていずにさっさと会社にもどれよ、自分! そう嘆いてももう遅い。
(ああ〜、今頃鈴木は一人で食堂にいるのか…? いや、もう食って仕事に戻ったか…)
 怒りと悲しみで百面相までは行かずとも一人あたふたとする俺を、周りの奴らが気味悪そうに見ているのは知っていたが、俺にとってはそんな事どうでもいいというものだった。
 あまりにも非道な屈辱を受けた俺の怒りは当然の如くそんな行動をとった恋人である男へと向かうもので、そして、それは近年稀に見る、怒りのボルテージなどというものは計測不可能になってしまうぐらいのものだった。
 更に、男に拉致された休憩の後で全く鈴木と喋れなかったというのが俺の怒りを大きくした。腹が立って腹が立って、そんな腸が煮えたぎった状態で仕事など上手くいくはずもなく、下の者の小さなミスに声を荒げて怒り、逆に大きなミスをして上の者に怒られ、逆切れで口論にまで発展するという失態をし、「…結城、どうしたんだよ…?」と、いつでも乗りのいい楽しい奴というような俺に脳天気のレッテルを貼った周りの者達でさえ恐れたのだ。
(何たることか! 仕事はどうなろうといいが、この歳で遊び友達を無くしたくはないぞ!)
 と、やりすぎだたと気付いたのはどうにか業務が終わりホッと息をついて少し落ち着いた頃だった。だが、これも後の祭り。業務中は遠巻きに眺めるそんな奴らに当り散らしていたのだから。
 散々怒りを発散させたら、次は落ち込むしかないと言うもので…。午後からの自分の行動を思い出すたび、ずんずんずんという感じに俺は底なしの後悔の沼に沈み込んでいった。ああ、今更だが、穴があったら入り込みそこに扉をつけて鍵をかけ、皆の中から今日の自分の姿が忘れ去られる日まで隠れていたい…。なんて馬鹿な事を考えたりもして…。
 だが、いつまでも落ち込んでいるわけにも行かず、今日のところは俺自身忘れて、ぱ〜と飲んで寝るか! と考え、一人で飲みにいこうとしたが…。
 沈みこむのが急降下なら浮き上がるのも急浮上というもののようで、エレベーターに乗り込み何となく点滅していく階表示を眺めていて、元凶である男が仕事をするフロアーでそれが止まると…。
 扉が開いた瞬間、俺は飛び出していた。エレベーターを止めた中年女性が俺の剣幕にたじろいている横を抜け、ずんずんと奥へと進む。
 だが、あいつの姿はそこにはもうすでになく、帰ったよと教えてくれた不細工なオヤジに礼も言わずに逆に睨みつけ踵を返す。後ろから呼びかけられたが振り返ることはなく、俺はそうして会社を後にした。
 苛立ちが収まらない。これって頭痛みたいなものだな…、ふとそんなことを思う。このままこの痛みで死ぬのでは! そう思うくらいの痛みなのにふと和らぎ何事もないような静けさを取り戻す。そしてまた、前触れもなく頭痛が始まる。そんな感じだ。腹立たしい怒り、そして、沈む心。その変動に俺は疲れ、溜息を落とす。
 馬鹿げた事を考え、そもそも原因はと思い出し、また意味のない思いに耽る。
 ずんずんと進み、足を止め、戻りかけてまた、あの男のところへと向かう。
 そんな繰り返しで男のもとについた時の俺の感情は「怒り」であった。


「俺に恨みでもあんのか、あぁ!?」
 ソファに座る男に向かって、俺は開口一番そう叫んだ。
「いっつもいっつもいっつも、邪魔しやがって! 何なんだよ、一体!?」
 俺の剣幕など耳に入っているのか疑わしいぐらいに、男はソファに凭れかかり斜めに俺を見上げる。その態度がふてぶてしく、「何とか言えよっ!」と持っていた鞄を放った。
 何とか言えといっても、合鍵でいきなり部屋に入り姿を見つけて怒りを捲し立てる俺の言葉に、普段から口数が多くないこの男が入り込むのは不可能というもの。
 それをわかっていながら、投げつけた鞄をひょいと受け取り横に置くその仕草に、言えといいながらも引き続き口を挟む隙を俺は与えはしない。
「いつ俺が飯食おうと約束したんだよ。折角鈴木と食えるチャンスだったのに、畜生! あの後あいつとは喋れなかったんだぞ。俺達のところが今忙しいのはお前も知っているだろう。第一、お前も外まで飯食いに出るほど暇じゃないだろうが、何考えてんだよ。しかも、何か知らんが不機嫌にしやがって。怒りたいのはこっちだって言うんだよッ、全く!
 いや、今日だけじゃない。お前いっつも鈴木のこと苛めてるよな。俺が気付いていないと思ってんのか、あぁ? 嫌なら来なきゃいいじゃんかよ、ったく!」
 俺はそう一気に言うと、「水っ!」とキッチンに行き冷蔵庫からペットボトルを持って来た。苛立ちにドスドスと床を踏みしめて歩くそんな俺を見ながら、男は溜息を吐いた。
 それを無視し、フローリングの床に座り込み上着を脱ぎネクタイを緩め、そのままボトルに口をつけ水を飲む。叫んだ喉と体温が上がった体にはそれがとても気持ちよく、単純だが怒りが少し和らぎ、俺はホッと息を吐いた。
「…橋本、ホント、いい加減にしてくれよ…」
 先程までの怒りを消し、俺は溜息交じりにそう口にした。ホント、勘弁して欲しい。そんな心境なのだ。だが、
「……、…いい加減にするのはお前だろう」
 相手は呆れ顔の瞳に強い光を宿してそう言った。
「…何だよ、それ」
「何だよ、じゃない。何が鈴木だ、ふざけるのもいい加減にしろ」
「はあ? 別にふざけてなんかいねーよ。俺はいつでも本気だっつーの」
「本気…?」
「ああ」
 当たり前だ。何で嘘で騒がなきゃならん。本気に決まっているだろう。
 男の顔が不機嫌な色に変わっていくのを見ながら、それでも俺はそんな相手を睨みつけた。ふざけるなと言いたいのは俺の方だ、絶対に。邪魔をしにきているのはこいつだ、何故被害をこうむっている俺が怒られなければならない。
「俺はあいつが可愛いの。好きで好きで仕方がないの。だから、お前が邪魔しにくるのがむかつくんだよ。
 もう一度言う。あいつの事が嫌いなら、お前が来なきゃいいんだ。俺までそれに巻き込むな。お前があいつを嫌いでも、俺は好きなんだ。覚えとけよ!」
「…なるほど。良くわかった…」
「わかったじゃねーよ。前から言ってんだろう、もっと早くにわかれよ」
 そう悪態をつきながらも、これで問題は解決だなと俺は少しホッとした。俺が好きなものを恋人である男が嫌いだというのは少し悲しいことだが、恋人といっても同じ人間である訳ではないのでそれは仕方がないことなのだ。だって、俺もこの男が大事にしているサボテンには全く愛着も興味もないし…。いや、こいつが好きなものと言う点では、あの丸いサボテンにだけは少しは関心はあるが…。
(そう、そうだよな…)
 心底嫌いなものは仕方がないとして、特に興味がないものでも俺はこいつが好きなのであれば少しは好きになる…はず。恋人が気に入っているものとして以上の思いはないだろうけど…。
(…ちょっとまてよ…)
 そう考えて、はっと思いつく。
 って言うことは、逆に考えると…。
(こいつって、それほど鈴木の事が大嫌いってことか…?)
 それとも、この男にとって俺の「好き」など関係ないと言う事なのだろうか。俺の感情など自分には関係ないと…。
(それはそれで、寂しい気がするな〜)
 だが、そんな俺達のことよりも、単純に人に嫌われる要素などどこにもない鈴気が嫌われているという事実が悲しい。
(この男にとはいえ…可愛そうだな、鈴木…)
 などと考えていると、「今日は一緒にお昼食べれますね、先輩」と昼前に呼びかけられた声が耳の奥に蘇った。同時に俺に向けたあの笑顔も…。
「…ホント早く気付いて欲しかったぜ。なら、今日の飯もあんな事には…」
 はあ〜と深い溜息を落とした俺の上に、未だ不機嫌な男の言葉が落ちてきた。
「…お前、自分が嫌われる可能性を考えてないだろう」
「は?」
 言われた事があまりにも突拍子もないことで、…理解出来ない。
(鈴木に嫌われる…?)
 そんな可能性なんてない。俺はいい先輩だぞ。慕われているのは勘違いじゃないのか…? 一体どうやってそんな言葉を引っ張り出したのだ、この男は…。
 …だが、しかし……。
「…あぁ、で、でも…」
 何を言っているんだと思う気持ちの方が強いが、全く心当たりがない訳ではなく…。
「か、可愛いとか言うのは、駄目なのか、やっぱり。男に言われるのは気持ち悪いかな…。で、でも俺は鈴木に言われるのは嬉しいし、鈴木も別に嫌がらないし…」
 そう、可愛いなと言えば同じ言葉を返してくるのだ、嫌がってなどいないはず…。第一、そんな細かい事を気にする奴じゃないし……いや、でも。細かい事といえないほど、俺は日常茶飯事に言っているような…。頭をグリグリしたりしがみ付いたり、少々スキンシップが強いかも…。
 姿を見るたびちょっかいを出しにいっているが…それって、される方には鬱陶しいものでしかない…? …いや、まさか、そんな事は…。
(…ない、とは言い切れない…?)
「それだけじゃなく、他にもあるだろう」
「えっ! ほ、他?」
 他って、一体……。
「……。…お前?」
 ひらめいた訳ではなく自然とその言葉が零れ、そしてその自分の呟きで俺は確信する。
(そうだ、こいつだ! この男だ!!)
 と。
 いつも面白くなさそうにして、時に鈴木を苛めているこの男。そんなこいつといたら、俺は嫌われなかったとしても避けられるんじゃないか!?
「お、お前のせいだな!」
「俺だけかよ」
「だって、俺は別に鈴木に嫌われるようなことはしていない…と思う。そりゃ、ちょっと構いすぎかもしれないけれど、嫌がっていないし…。第一、お前みたいに苛めてないっ!」
 俺のその言葉に暫し考え、
「…お前、俺と付き合っている自覚あるのか?」
 と橋本は少し目を細めた。正直、美形のその睨みには怯みかけたが、グッと我慢する。怖じける理由など俺にはないッ。
「何だよ、それ。あるから困ってんじゃん。
 鈴木もいい奴だって言っても人間だ、苛められたらお前の事嫌いになるよな、普通。そんなお前と一緒にいたら…、鈴木はお前を嫌っているからと俺の所にも来なくなるかもしれない…。お前いつも俺んとこくるからな、ったく。何だよ、こんな落とし穴があったのかよ…」
 畜生、そうだよ、何故思いつかなかった、俺。迂闊だぜ、間抜けすぎる…。直接嫌われはせずとも避けられる事もありえるんじゃないか。
「…会社の話じゃないんだが」
「ん?」
「付き合うの意味、違うように取ってないか? 仲の良い同僚なだけじゃないだろう。
 …お前には俺という男の恋人がいるんだぞ」
「……え!? あ…! そ、そ、そういうことか!?」
 初めからわかりやすいように言え! とはさすがに今回は思わなかった。あまりにも現れた事柄がショックなことで…。…出来れば考えたくなどないことだ。
(男と付き合っているとばれたら…、間違いなく、軽蔑される…?)
 その考えにさっと血の気を失うのが自分でもわかった。ぞわりと鳥肌がたつ。
 恐る恐る撃ち落された事実から救い出してくれはしないかと縋りつくような目で男を見たが、恋人の目は俺の考えついたものに満足しているようなものだった。そうだ、そういうことなんだよ、と冷めた瞳が語っている。
(――い、嫌だ…!)
 その目を見た瞬間頭を占めたのはそんな恐怖にも似た感情だった。コントでなら大きな盥が二つも三つもふってきては頭にガ〜ンとあたっただろう。いや、この男の部屋の中でもそれが降って来たのではないかと思うほど、俺の頭はグワングワンと鳴り響いている。
 これで思考回路が壊れたのなら現実逃避も出来るのだろうが、生憎と頭は平衡感覚を失いぐるぐると回りながらも働いているといった感じだ。嫌われるなんて、そんな事があってはならないと、どこかにそれを避ける道はないかと必死に探している。
 男の恋人がいるだけでも大変なことなのだ。いくら脳天気な俺でも、それがどれほどのリスクをこうむるのかはわかっている。この社会では認められないものだ。
 しかも、俺のそんな相手がこいつとなれば……鈴木には絶対に嫌われるだろう。自分を苛める男など、いくら優しい鈴木だと言っても好きなはずがない。その男を恋人に持つ俺を、理解するわけなどない。認めるわけがない…。
「ば、ばれたら…俺は…」
「間違いなく鈴木とはおさらば、だな」
 そう言った男の声は俺の耳を右から左に流れただけだった。
 ばれたらおしまい。
 その言葉が頭をぐるぐると回る。どうする…、どうすればいいんだよ、俺は…!?
 この場合、問題は鈴木だ。他の奴にばれて軽蔑されようとどうなろうとどうでもいい。だから、鈴木がもし、この事実を知っても俺を嫌いにならないでいてくれるのなら――なんて都合の良すぎる事を考えても無意味だ…。
「は、橋本…。お、俺…」
「ん?」
 極度のパニック状態の中で導き出した答え…。
「…俺達、別れよう」
「……」
「そうだよ。ばれたら終わりなんだから、ばれるまえにこの関係を変えればいいんだよ。付き合っているから悪いんだよ。ああ、そうだ、恋人同士じゃなきゃいいんだよ」
 そう方法はこれしかない。俺の頭で助かる道はこのひとつだけだった。
 善は急げというからなと、バタバタと帰り支度をはじめた俺の足に、橋本は自分の長い足をひっかけ派手に転ばせてくれた。危く床にキスしそうになるのを、どうにか腕で体を支え間逃れる。もし後少しそれが遅ければ、俺はそう高くない鼻を更に低くしていただろう。
 一瞬毛穴がグッと引き締まり、間一髪危機を脱した安堵に開いたそこから汗が噴出す。
「な、なにすんだよ!」
 軽く腕を擦り、腋の下を流れる冷や汗をシャツに吸わせながら、俺は橋本を睨みつけた。
「それはこっちの科白だ。なに考えているんだ、お前はっ!?」
「はあ、何だよ。なんかおかしいかよッ」
 おかしいのはお前だろう! 下手したら流血沙汰だぞ、おいっ! 俺を鼻血まみれにさせたいのか!?
 そんな俺の剣幕を、ふてぶてしい事に足を組替えながら冷めた視線でひと蹴りする。
「何もかもがおかしすぎる」
「お前に言われたかねーよっ!」
「あいつにばれるのが嫌だから別れよう? 納得できるか、そんなの」
「だって当然だろう。納得しろよ。別れようがどうなろうが良いじゃんかよ別にッ」
 俺のその言葉に、スッと橋本の目から感情というか色が消え去った。
「……本気か?」
 落とされた声もとても低くて硬い。
 だが、そんな風に睨まれても、俺だって引けない時があるというもの。普段なら、しゃーねーな、と溜息はいて大人の余裕を見せられない事もないが、今は絶対に譲れない。
「ああ、俺はいつでも本気だ。
 …だってこのままだと、俺は…嫌われるかもしんないんだぞ…」
 それを考えると、涙が浮かんできた。鈴木の笑顔が浮かび、そして直ぐに頭は真っ暗になる。
 涙が次から次へと零れる。大の大人が泣く事かと思う面もあるが仕方がない。そう、鈴木の事だけじゃなく、酒がもう飲めなくなったり、オオサンショウウオが絶滅したりしたら、俺は今と同じように泣くぞ、絶対。誰でも好きなものがもう自分の手には入らないのだと思うと悲しくなるというものだ。この男だって、好きなものをなくしたら辛いに決まっている。
(…なのに…。何でそれがわかんないんだよっ)
「…お前、あいつを苛めてばかりじゃないか。絶対お前は嫌われているよ。俺はそうはなりたくないんだよ。嫌われたくないんだよ。
 何で仲良くしないんだよ、畜生っ!」
「…出来るかよ」
「なんでっ!」
「…俺は、お前が好きなんだぞ。わかってんのか?」
「わかってるっ!」
 知らないわけがない。俺はこいつの事なら誰よりも知っているのだから。気取っているように見えるが実際は他人が少し苦手なだけで、誰もが目を惹く外見を裏切るような素朴な奴だ。そんな奴が冗談で俺を好きだというわけがない。だから、態々言われなくとも、そんな事は十分にわかっている。
(だが、今は関係ないだろう!)
 俺は今鈴木に嫌われたくないと話しているのに、何故こいつの感情が関係あるんだ! 状況をわかっているのか?
「だが、それがどうした。話に合っていないことを持ち出すなよ」
「合ってなくはない、それが重要な事だろう。…好きな奴が他の奴に夢中なんだぞ。一緒に仲良く出来るかよ、餓鬼じゃあるまいし」
「…なるほど。だから、苛めるってか」
 俺が鈴木の事が好きだから、それが気に食わないからあいつを苛めるって…?
(…馬鹿馬鹿しい)
 それこそ、ガキじゃないか!
「なら、何か? お前は俺の好きなものは嫌いだって言うのかよ。
 お前のその理論じゃあ、恋人がいる奴は他に好きなものを作っちゃ駄目ってことか? 何も好きになるなって? …恋愛はそこまで相手を縛れるものなのか?」
「…縛る気はない…。だが、普通はそうだろう…?」
「普通って何だよ。何言ってんだよっ。お前だって、サボテンに夢中じゃんか」
「それとこれとは別だ。関係ない」
「なくはない、同じだ! お前はよくて俺は駄目だと言うのかよ、ふざけんな! 馬鹿野郎ッ!!」
 何も好きになるな。それは俺という人間を否定していると言うことだ。
 正直、この男がこんな腐った考えを持つとは思わなかった。一昔や二昔の話じゃない、何世紀も前の古臭い考え方だ。女は男の所有物だと思っていた権力者みたいなことを言いやがってっ!
「自分に都合のいいロボットみたいな相手がいいのかよ、お前はっ! 生憎だが、俺はそんな人間じゃねーよっ!」
 俺はバシンっと床を殴りつけた。腹が立って腹が立って、怒りで目が熱くなる。潤みだした視界で、ぶるぶると自分の手が震えているのが見えた。だが、経験した事がないほどの怒りで、それは自身の体のことではないような感じもする。
 握り締めた拳は関節が白く浮き出ていた。このまま力を加えれば、ぽきりと骨が折れてしまうのではないだろうかと思うほどに。

 その時、突然部屋にサンダーバードのテーマ曲が鳴り響いた。もしここに第三者がいたなら、緊迫した空気の中に流れ出した軽快な曲に笑っただろう。
「――す、鈴木ッ!?」
 その音楽で自分の携帯電話が鈴木からの着信を伝えていることに気付き、俺は慌てて放っていた上着から携帯を取り出し、今までの剣幕を捨て、嬉々として電話に出た。
「済みません、先輩。鈴木です。お休みでしたか?」
「いや、全然かわまないよ。どうした?」
 まだまだ今日と言える時間だ。いくらなんでもこんな時間に寝ることはない。なのに、夜の電話だということで謝罪を口にする丁寧なその態度に、俺の胸はキュンとなる。姿が見えずとも、軽く頭を下げる様子が手に取るようにわかる。俺の顔は見えないのをいいことに垂れ下がる一方だ。
 仕事の話をいくつかして終わろうとした時、ふと仏頂面で足を組みソファに座る橋本と目があった。
 何を思ったのか、スッと右手をさしだし、ちょいちょいと動かす。…電話を換われと言うことか…?
 俺は思わずその行動に首を横に振り、一歩後ろへと下がった。
「――嫌だ…」
 呟いた言葉に、「え?」と鈴木が反応を示す。
「どうかしましたか、先輩」
 その言葉に何でもないと答えながら、俺はリビングを出た。
 長くはない廊下の終わり、掃除をしているのかどうなのか疑わしい玄関に座り込む。
「誰かと一緒なんですか? それは、済みませんでした」
「ち、違うよ。一人だよ、一人。お前は?」
「俺も一人ですよ。でないと仕事のことなんて思い出しませんよ」
 あははと笑う鈴木に、淋しい奴だなと言うと、「先輩もでしょう」と言葉が返ってきた。それに喉で笑いながら、自分の心がしんみりと小さな寂しさを覚えたのを感じる。
 男らしい声なのに、何故か可愛くて微笑ましくなる。笑い声を聞くと、こちらも嬉しくなる。…なのに、今はそんな鈴木の声を聞くのが、少し切ない。
「なあ、鈴木…」
「はい」
 俺の呼びかけに返事をする声は、いつも通りのものなのに…。
(俺はこれを失う日が来るのだろうか…)
 そう思うととてつもなく悲しくて、手の中の携帯を更に強く握り締めた。なくしたくはない、絶対に…。
「どうかしましたか、先輩?」
「いや…。…ああ、あのさ。橋本のことなんだけど…」
「橋本さん? どうかしたんですか、橋本さん」
 咄嗟に出してしまった名前。聞き返され、何も考えてなかった俺は焦るはめになった。
「あ、いや、どうもしてない。って、そうじゃなくて、その…」
「どうしたんですか?」
 どもる俺の言葉に笑いながらも、心配げに訊いてくる。きっと今は眉を寄せ首を傾げていることだろう。そんな姿を思い浮かべ、俺はふと息を吐き力を抜いた。
「えっと、ほら。話していてもいつも機嫌悪いじゃん、なんかあいつって。お前を苛めている所もあるしさ…。
 っでさ、お前が嫌な気するんなら、いい加減にしろと一言言っておこうかなと…」
 壁に頭をコツコツと打ちつけながら、俺は言葉を繋いだ。だが…。
「え!? そんなの駄目ですよ、先輩!」
 意外なことに、鈴木は慌てた様子でそう言った。
「ん…?」
「俺のことなら、気にしないで下さいよ。別に嫌だなんて思っていませんから」
「ホント?」
「ええ。逆に世話になっているくらいですよ」
「世話?」
「橋本さんってすごいんですよ、若いのにバリバリ仕事が出来て。それをひけらかさないですし」
 鈴木のその言葉に、俺は少し不貞腐れる。…なんとも複雑な心境だ…。
「…どうせ俺は仕事できねーよ。それに、ひけらかさないんじゃなく、単に愛想がない人間なんだよ、あいつは」
「そんな言い方駄目ですよ。別に俺、先輩が仕事出来ないなんて言っていませんって」
「どうだかな」
 笑いながらそう言うと「からかわないで下さいよ」と鈴木も笑う。
「橋本さんってかっこいいから凄く人気があるんですよ」
(…知ってるよ、そんなこと。入社時から凄いよ、あいつは)
「そんな彼と話す機会を狙っている奴は会社にはゴロゴロいますよ。俺もその一人です。先輩の友達でよかったです」
「なにお前、あいつを狙ってるのか?」
「え? あはは、変な意味じゃないですよ。ま、周りの女子社員は目の色を変えてますけどね」
(でも、それは無駄なんだよな…)
「俺、何度顔繋いでくれと言われたことか」
「ああ、お前以上に俺も言われてるよ。イヤな連れだよ、全く」
「確かに、同じ男としてはちょっと羨ましすぎですね。でも、いい人です」
「んん?」
「いつでも先輩のこと気にしていますよ、橋本さんは。
 いい友達で羨ましいです」
 鈴木の柔らかい言葉が体の奥底に落ちていく。それはとても温かくて、荒れた感情を癒す力を持っているように感じた。
(…鈴木…)
「いい友達か…」
「ええ。そうでしょう?」
「なら、お前もそうだろう。なあ、いい加減「先輩」じゃなくてさ、名前で呼べよ」
 ニヤリと口角を上げながら、俺はそう言った。今までにも何度かそう言った事があるのだが、未だに鈴木は俺の事を名前で呼んだことがない。
「先輩は先輩ですよ」
 いつものように笑う鈴木に、
「橋本は名前で呼ぶじゃんか」
 と、食らいつく。
「な、呼べよ。いいじゃんか」
「――結城さん…? …って、うわ〜、やっぱなんか変ですよ!」
 電話の向こうで鈴木が照れたように笑った。だが、俺はそれをからかう余裕もない。「結城さん」、鈴木に呼ばれた名前が頭でリピートする。なんだか何処かで鐘の音が鳴ってきそうだ。結婚式で鳴るような、リゴーンという大きな鐘の音が。
(かなり、幸せかもしれない…)
 でも、呼ばれるたび頭の中に蝶を飛ばせていてはどうにもならない。
「…ま、いいや。俺も慣れないや……」
 呼んで欲しいのはやまやまなのだが、そう言って辞退しておいた。…かなり後ろ髪を引かれる思いもあるのだが…。
 それを隠してそう言った俺に、「やっぱ、そうでしょう。先輩は先輩ですよ」と鈴木が笑った。とても心地よいその声は、俺に安心を与えた。
 もしもいつか、この温もりを失うとしたら、それはとても悲しい事ではあるけれど、俺が鈴木を好きである事には変わらないから…。その感情を忘れるわけではないから…。
(…だから、きっと大丈夫)
 態々嫌われるとわかっていて自分の口から橋本との関係を言うことはないだろうが、もしばれた時には、俺は嫌われたくないから、その笑顔を向けて欲しいから…。今と同じように俺は好きで居続ける、ただそれだけなのだ。
 他人の感情を左右することなど出来ないから、俺は俺の思いを持っていくだけ…。
(だけど、やっぱ嫌われたくはないからな…。
 なあ、鈴木。俺をもっと好きになってくれよ)
 などというのは図々しいと言うものなのだろうか。どさくさに紛れて、何を欲張りになっているのか、俺は。
 電話を終えた後も暫く携帯を握り、その場で俺は座り込んでいた。
 俺は鈴木が好きだ。その事実は変えようもないことなのに…。
(なんで、あいつはそれを否定するんだよ…)
 鈴木はあの男の事を良い人だといった。理解していた。だというのに…。
(畜生!)
 ガンッと壁に打ち付けた頭が予想以上に痛くて、視界がぼやける。だが、こうしていてもどうにもならない、と痛む頭ではなく痺れた尻を擦りながら、俺はゆっくりと立ち上がった。


2002/08/31