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 リビングに戻った俺を待っていたのは、橋本の仏頂面だった。女はおろか男にまで絶賛されるような嫌味のいいようもないほど整った顔に、よくもまあ、これほどまでの不機嫌をのせるものだ。その価値をわかっているのか、勿体無い。
 それに加え、強くはない酒を飲んでいるのに気付き、俺も負けないくらいに顔を顰めた。味もわからない奴が、呑むなよ、勿体無い。それ、高いんだぞ。何だって下戸の男の部屋に酒が置いてあるんだよ。そんな文句を心の中で吐くが、酒好きの自分のせいだろうと自身で突っ込みを入れる。
 顰めた顔を崩し盛大に溜息を落とした俺に、橋本が冷たい視線を浴びせる。男前の奴が睨むと、何故こうも迫力があるのだろうか。たとえヤクザが相手だろうと高層ビルの上に立たされようと、恐怖心が極度に乏しい俺にはどうってことはない。だが、この美男子の睨みは苦手だ。怯みそうになる。
 出来ることなら回れ右をして逃走したい。それが出来ないのなら何とかその視線から外れたい。そう願いもするが、相手が良く知っている奴だからか恐怖よりもまだ闘争心の方が勝っているので、怖気づきそうな心を隠して俺は橋本を睨み返した。
 でも、気分は蛇に睨まれたカエルというやつだ。動けないだけなのかもしれない。それを隠すために強気に出る俺は、俳優並の演技力を発しているなと自身で誉めたくなるほどだ。…いや、やはり単に引けない、無意味なプライドを持っているだけか?
(…どっちでも良いか…)
「…なんだよ」
 埒があかないにらみ合いに先に音をあげたのは俺だった。
「文句があるなら言えよ」
 訊いてやらないこともない、といつもなら鼻で笑ってやるところだが、凝視していた目が痛みそれどころではなく、俺は目頭を揉みながら溜息を吐くだけに止めておいた。…なんだか、マジで疲れている…。
「…お前は俺の事を何だと思っているんだよ」
 ふう、と息を吐きながら再び床に腰を降ろす俺に、男の低い声が落ちる。
 同じ男として、こうも完璧に整った容姿と美声を持ち合わせている人間は、少々どころではないくらいに妬ましいものかもしれないが、それ自分のものだと思うと許せないこともない。だが、この声は嫌いだ。どう贔屓目に見ようと、好きにはなれない。
 冷めた声は、俺を単なる人間としてでしか扱っていないように感じる。普段の無愛想な外面で俺に接する橋本は、一瞬にして俺への想いなど消し去ってしまうのではないかと思うほど、完璧に他人の仮面を被っている。…嫌いだ。そして、不安が俺を襲う。
 だが、それを表に出せるほど、俺は子供ではない。俺は大人の男なのだ、虚勢も張れば、怒りもする。
「何って…。まだ別れていないのなら、恋人かな」
 態度を硬くする男に、怒るのは自分の方だと腹が立ちつつもそれを流し、俺は軽く肩を竦め口元に笑みを乗せた。
 恋人という大して意味のない言葉をどう受け取ったのか、橋本は「ならば…」と質問を続ける。
「…鈴木は何だ?」
「後輩だろう」
「お前が好きなのは、誰だ?」
「鈴木」
「……」
 間髪入れずに言った俺のその返答はわかりきっていたものだというのに、眉を寄せ舌打ちをした。
「ったく、それがどうしたんだよ。意味のない質問してんじゃねーよ、酔っ払い」
 俺がそう言うと、「畜生っ! ふざけんなよ!」と声を荒げ、持っていたグラスをテーブルに叩き付ける。
「な、何だ!? 何を怒ってんだよ、おい。
 俺が鈴木を好きなのは今更だろう。それとも、恋人だってのが気に食わないのか? なんだ、お前も別れたいのか?」
「違うだろうっ! 話を混ぜるなっ。
 …そんなに、あいつが好きなのかよ…」
「あ、あぁ。好きだよ、って何度も言ってるだろう。だから、何で今更そう怒るんだよ」
 いや、第一何故そこまで激怒されなければならないのか、俺にはわからない。好き嫌いは俺の自由だろう。何度言えばこの男にわかるのだろうか…。
「お前の事が、好きだからっ!」
「は? 何?」
「俺はお前の事が好きなんだよっ!」
 橋本がそう怒鳴りつけながら俺を睨む。…言っている事と、状況が全く合っていない。
「それもわかっていると言っているだろう。お前と違い、一度で覚える。でも、それは今は全然関係ないだろう。お前の話じゃないって。
 俺が鈴木を好きなのは人間なら誰でもある好みだ。好き嫌い。それをこう怒られても、変えられないものは、変えられないんだよ」
「……」
 同じ会話を繰り返す事がいい加減疲れてきた俺は、相手が口を閉ざしたのをいい事に、立ち上がり指を突きつけながらたたみ掛けた。
「俺は別にお前の好みにとやかく言わないだろう。それが当然ってものだろう?」
 小さい子供ならいざ知らず、もう大人だぞ俺達は。相手の好みを受け入れる歳だろう。自分の好みを押し付ける歳じゃないだろう。
「お前だってサボテンが大事だろう。それと同じだ。俺はお前がサボテン好きなのも、酒が苦手なのも、カエルが嫌いなのも認めている。そんなのは嫌だなんて言ってないだろう。確かに、おかしいなと笑った事はあるが、嫌いに、好きになれと強制はしていないだろう。
 …お前もそうしてくれよ、なあ」
 ホント、こればかりはどうしようもないことなのだ。
 …っていうか、普通こんなことで喧嘩になりはしないものだろう。俺達は自分が絶対の存在だと信じているガキではないのだから。
 そう考えれば、なんとこの男は心が狭いのか…、と俺は軽い溜息を吐いた。正直、だからといって嫌悪や憎しみは感じないが、幻滅に似た思いがほんの少し心に浮かんだ。…疲れているからなのだろうか、これは…。
「…どこが、同じなんだ」
 あまりの疲れに、一時休戦を願おうか、と本気で考えた俺に降って来た声は、またもや俺の嫌いな声だった。
「鈴木は人間だ」
「ああ…?」
「サボテンと同じじゃないだろう!」
「…そりゃ、そう言われたら、そうだなとしか言えないな。あいつは人間で、サボテンは植物だもんな。
 でもそんなことを言ったら、俺が他にも好きなオオサンショウウオは生き物だけど、酒は飲み物だ。…だから、関係ないだろう、種類なんて。そんなんで絡みにくるなよ」
 何を言いたいんだか、全くわからない。
 俺は溜息を吐くと同時に髪をかきあげ、がしがしと頭を掻いた。
 たまたま、俺が一番好きなのが人間の鈴木で、この男が好きなのが植物のサボテン。それがどうしたと言うのだ。俺は好きなものは他にも一杯あるが、残念ながら植物の中で好きなものはない。それを怒りたいのか、んん? 
「何なんだよ、ったく」
 手をそのまま後へと滑らし首を揉むと、グリグリと筋が動いた。ふと息を吐きながら、俺は睨み上げてくる橋本を見下ろした。
「俺は疲れてんだよ。これ以上訳わかんない事を言うな」
 その言葉に、男が目の色を変えた。 
「…人間は恋愛対象だろう。その好きから愛に変わるだろう!?」
「……はあ?」
「こんな事も出来るっ!」
 そう言うと同時に腕をグイッと引かれる。不意打ちをつれた俺は、ソファに座る男の胸に飛び込む形となり見事に収まった。
 そして、抵抗する間もなく顎を取られ上向けさせられ、唇を重ねられる。
「…んっ、…んんっ…」
 膝立ちするような格好で男の両足に手をつき体を支える中途半端な姿勢の俺は、上向けられて引っ張られる首が痛くてどうにか足で体重を支えようともがいた。その間にも、口内は犯される。
 俺の体勢が不安定だと気付いたのか、それとも単に自分の具合がいいようにだろうか。俺の息が完全に上がった頃に唇を解放した男は、俺の体を足の上に引っ張り上げた。
 酸素だけを求める俺の体はその動きに付いていけず、乗せられた膝の上でぐったり倒れこみ橋本の体に体を預け、ソファの背にコトンと頭を置くことになった。
(…俺を殺すき気か、こいつは)
 見上げた天井をきちんと認識すると同時に浮かんだのは、そんなことだった。だが、それも一瞬にして自分の身に起きようとしていることに気付き吹き飛ぶ。
 酸欠状態でぼんやりしている事を許されるほど、状況は自分に有利なものではない。
「な、なにやって…、…橋本」
 腕に力を入れ、男の肩をつかんで体を起こす。危くその勢いで自分を抱く恋人に頭突きをしそうになったが、突然下肢に差し込まれた冷たい指に俺が喉をそらしたのでそれは回避された。再び崩れそうになった体を何とか持ち堪える。
「あっ…。ちょ、止めろよ…。あ、んっ…」
 細めた目に入って来た自分の姿は、…何とも情けないものだった。男の膝にのせられ、上はそのままでベルトとスラックスの前を開けられ、そこに男の手が入っているなど…、感触で充分予想していたことだが目にすると更に羞恥が募る。
「い、やっだって…、ちょっ…」
 与えられる快感にさらに俯いた俺の目に、男の手の動きが入ってきた。シャツとその大きな手に隠されている自身がどうなっているかなど、考える余裕がなくなってくる。
 早すぎやしないか、俺。…などと頭の何処かで突っ込みを入れているものもいるのだが、これは仕方がないというもの。惚れている相手に触られれば、大した刺激を与えられずとも感じてしまうもの。感情が先走り一人で興奮するのも当然だ、と妙に納得しているものもいる。 
 だが…。
 どうしても漏れてしまう自身の声に更に煽られ、先程までの状況を見失いそうになった俺に、ご丁寧なことに橋本は思い出させてくれた。
 俺の嫌いな声で。
「お前は俺よりもあいつがいいのか?」
「なっ…あ、んっ……な、なに」
「俺よりも、鈴木がいいんだろう」
「そ、そんな…あっ…」
 そんなことない、と言いたかった言葉は濡れた声で俺の中に消えていった。快感を追えばいいのか、橋本の話を聞けばいいのか、わからない。俺に二つの事を同時にやらせるな、求めるな。
 口からは熱い息を落としながら、俺は心の中でそう橋本を詰った。いや、頼むからと懇願しているのか…自分にもわからない。
「そうなんだろう、結城…!」
「だ、だから…あ、ちょっと、ま、まって……」
 この状況で、どうやって言葉を返せというのだ。
 一人だけ煽られている現実が、俺をいつも以上に辱め小さなパニックを起こす。
「…ね、はしもと…あ、んっ…」
 俺は顔をあげ、焦点の定まらない目で間近にあった男の顔を見た。
 そこには、冷たいとも感じられない、暗い瞳があった。
 俺にこんな事をしておきながら、まるで何も映していないような、暗い瞳。
「お前は、あいつともこんな事をしたいんだろう」
 その言葉に、俺は体の存在を忘れ去った。見つめる暗い目に自分の顔が映っていたが、それすらも他人のもののように、俺は一瞬全てを忘れ去った。
 色んな意味で頭をガコンと叩かれたぐらいの衝撃が俺を襲う。それは快楽などどうでもいいと思うものだった。
 そして…。
「…ふ、ふざけんな!」
 俺は渾身の力をこめて橋本の体を突き飛ばし、その腕の中から逃れた。
「あ、あいつをお前なんかと一緒にするな! エロ男がっ!」
 崩れ落ちた床を這うように橋本から数歩離れ、足にズボンと下着を絡ませたまま俺はそう叫んだ。あまりの腹立たしさに床を殴る。
「なっ…!」
 言葉にならないと言った怒りを橋本は顔にのせた。だがそれは俺とて同じ。
「お前、そんな目であいつを見ていたのかよ!? 信じらんねえ奴だな! 畜生!!」
 先程電話で聞いた鈴木の言葉を思い出し、更に悔しくなる。あいつは、この男を尊敬しているというのに…何ていう差だ、畜生!
 体を起こし、間抜けにもいいようにされていた、乱れた服を直しながら、俺は悔しさに唇を噛む。だが、今は黙っていることなど出来ないというもの。
「…ふざけやがって。お前がそんな最低な奴とは知らなかったぜ!」
「どっちがだ!」
「なにがだよっ! あいつはお前と違って、男とどうこうしようと言うやつじゃねーよ! この変態がっ!」
「なっ! …ならっ! お前はどうなんだっ!?」
 俺の言葉に目を見開いた男は、眉を顰めた後そう叫んだ。
「……おれ?」
 売り言葉に買い言葉。冷静さを失った喧嘩の中では、自分がどんなに酷い事を言っても忘れてしまうというもの。だが、逆に言われた言葉は忘れない。
 俺の罵りに表情を変えた橋本に言い過ぎたかと一瞬気まずさを覚えたが、けれども意味が掴めない橋本の言葉に首を傾けた。
「…鈴木自身のことは、…別にどうだろうとどうでもいいんだよ…」
 剣幕を引っ込め、橋本が溜息交じりに言った。
「俺は、お前が…」
「…何だよ」
 促したがそれでも迷うかのように口を閉じ、そして長い溜息を吐いた後ゆっくりと言った。
「……あいつが好きなんだろう?」
「…ああ」
 何度もされた質問。けれど、それは今までと少し違う思いを含んでいるかのようだった。橋本の声が、揺れている様に感じる。
 だが、それも次に男が言った突拍子もない言葉で、俺の意識へと外に飛んでいった。
「……寝たいんだろう?」
「……はあ?」
 俺はたっぷり間をあけた後、盛大に顔を歪めて橋本を見た。
 どういう意味なのか考えようとし、言葉以上のものは見つからず、結局そんな反応しか返さない俺を相手はどう思ったのか、眉間に皺を寄せる。…だが、これ以外にどんな反応をしろと言うのだ。
「…何だそれ。全然わかんねー」
「……」
「何でそんな発想がでるのか、お前の頭はわからないが……、嫌だね、そんなの」
「…え…?」
「鈴木と寝るなんて、死んでも嫌だね、多分」
「…多分…?」
「死んだ後まで知らないからな。だが、今は絶対に嫌だと断言できる」
 そう言いきった俺を、橋本は覗うように眉間に皺を寄せたまま見つめ、「だが、好きなんだろう?」と問い掛けた。
「ああ、好きだよ。でもなんでそれで寝たいと思うんだよ。ホント、わかんないね。
 お前は好きなら誰とでも寝るのか?」
「普通そうだろう」
 …普通と来るか…。俺の普通は、そうじゃないのだが…。
 自信満々にそう口にする男の姿に力が抜けた。
「なら、サボテンと寝るのか?」
「…ふざけるな」
「ま、確かにセックスは無理だな。じゃあさ、尊敬する浜田部長と寝たいか?」
 俺が相手の口から引き出したい言葉を言わせるのには…、と考えて浮かんだのは、頭の禿げ上がった、橋本の上司である中年オヤジの存在だった。
「…そう言う対象外だ」
 満足のいく言葉を予想通り言わせることに成功し、俺はにやりと口元に笑みを浮かべた。
「ああそうだ。俺もそう、対象外ってな。好きだだけで寝れねーよ、普通は。セックス好きの変態じゃないもん、俺。
 鈴木と寝るだなんて、一度も考えた事はない」
 当たり前の事を何故こう口にしなければならないのか、これが大人同士の会話かと疲れを覚える。
 だが、相手はそんな事は全く気にしていないようだ。言われた事実に驚いているのか、少し間抜けに口を小さく開いている。…って、なんで驚いているのか?
「…嘘だろう?」
「嘘じゃない、ホントだって」
「だって、好きだって…」
 そう呟く男の表情に、今度は俺が眉を寄せた。
 本気で驚いている…?
(…ま、まさかとは思うが……)
「……お前、もしかして…、ずっとそう思っていたのか?」
 そんな馬鹿なことはないよな、と思いつつそう聞くと、「あれだけ執着してたら、誰だってそう思うだろう」と男は居直るように顔を顰めた。
 おいおい、ちょっと待てよっ! …そんな心境だ。
 男に負けないくらいに、俺も顔を顰める。
 正真正銘の馬鹿だろうかこの男は。俺もそうだが、この男ほどではないだろ。外見のよさに騙されていたのだろうか、俺は。…ここまで、馬鹿とは…。
 目の前の事実に、溜息すら出てこない。
「…だったら、何で俺がお前とこんな関係になっているんだよ。それこそおかしいだろう。
 まさか、俺が遊びでこんな事をしていると思っているのか?」
「遊びとまでは思っていない。だが、…強引に関係を結んだのは、俺だ…」
「ああ、そうだったよなっ」
 いや、そうではない。確かにきっかけは男からだったが、別に無理やり強制させられて今の関係にいる訳ではないのだ、強引も何もない。
 だが、卑屈に言う男の態度が癪に障り、俺は否定せずに同意をしてやった。腹が立ってのことで、恨みなど全く無い。…だと言うのに、この男は俺の言葉を素直に受け取った。…ホント、馬鹿だ。
「…だから、俺は。…流されて付き合っているだけなのかと…」
「……お前、本当に初めからそんなこと考えていたのか?」
「……」
 冗談じゃないよ、そう溜息を吐きたかった。
 確かに流され易いし、馬鹿なのでそう思われても仕方がない面があることは自身でも知っている。だが、俺とて大人の人間だ。周りの変化に身をおききって生きているわけじゃない、自分の意思というものがある。それに気付いていないこの男は、一体自分を何だと思っていたのか。
 そう思うと蹴りの一つぐらいは入れたくなった。
 だが、この男のことを俺は結構知っているのだ。
 器用に生きているようでいて、案外不器用な奴だとか、真っ直ぐすぎて他人と交わるのが少し下手だで、感情を伝えるのも苦手なのだとか。
 だから、これも誤解と言うかなんというか。俺の予想を越える考えをこいつがした…と言うだけなのだ。
 そう。問題など実際には殆どないのだ。ちょっとした考えの擦れ違い。
「…橋本。もしかしてさ、嫉妬してる?」
 そう、何てことはない。わかってしまえば簡単な理由だ。
 俺が鈴木をかまうから寂しいんだよ、この男は。ただ、それだけなのだ。
「馬鹿だな、ホント、お前って」
 俺は鈴木が好きだけど、この男への感情とは全然別物なのに。なのに、この男は、俺の好きと言う感情が他の者に向かっている事が嫌なのだ。そして、それを恋愛だと勝手に勘違いして、怒っている。自分への想いよりも、鈴木への想いの方が大きいと思っていた。
(ガキだな、全く…)
 俺がそう心で笑った時、橋本が辛そうな声を出した。
「…そうだな、嫉妬だ、これは。
 お前はあいつの事を可愛がる。お前があいつに笑いかけているのが辛いんだ…。嫉妬して当然だろう! 俺への関心はあいつへの半分もない、そうだろう!?」
「橋本…」
 今ならわかる。
 先程までなら何故怒っているのかと眉を顰めたのだろうが、今ならこの声が不安に揺れているのが俺にはわかった。
「あいつを好きだとお前の口から聞くたび、…狂いそうになる」
「だから、橋本。それは違うって」
 ゆっくりと、諭すのではなくこの気持ちが伝わるように、俺は言葉を紡いだ。
「鈴木の事は好きだけど、恋愛じゃないよ。お前だってそんな好きって感情があるだろう。信じられなくとも、俺はそうしか言えない。
 ああ、そうだな、とっても可愛い愛犬って感じ? それか、親友ってものか。ちょっと違うけど。鈴木はそんな存在なんだよ。お前だってゲイだからと男全員好きなわけじゃないだろう。友達もいるだろう、なあ?」
「……」
「上手くいえないけどさ、ホントそんなんじゃないって。そう拘るなよ」
 ゆっくりと近付きソファに腰を降ろし、俺は橋本の握り締めた手の上に手を重ねた。横から顔を覗き見ると、目が少し潤み赤くなっていた。それは酒のせいばかりではないのだろう。
「…自信が…、自信がないんだよ、俺は…」
「…何の?」
「お前がいつまで傍に居てくれるのか、いつか捨てられるんじゃないかと……」
 俺の手の中で、橋本の手が更に強張る。
「俺の気持ちが嘘だと思っている、ってことか?」
「……」
「お前、頑固だからな。俺が何言っても聞いてないんだろう。信じてないんだろう。
 初めての男だからそのまま懐いただけだ。体の関係だけで繋がっているんだ。そんな風に思ってんだろう、お前は」
「違うっ…。…俺だって、思いたくない…。だけど…実際はそうだろう!
 何だかんだいっても、お前は俺よりも、鈴木が好きなんだろう…?」
 搾り出す様な声は、苛立ちや悲しみ、苦しみや切なさなど色んな思いが混ざっていて、どれが一番強いのかわからないくらいだった。
(鈴木が好き、か…)
 この男の捻くれもここまでくれば大したものだと、俺は思わず感心してしまう。さて、このむくれたガキはどうすれば機嫌を直すだろうか…。
 それを考えている自分に気付き、俺はふと心の中で笑った。
 確かに、どちらが好きかと言う天秤に掛けられたら…、やはり俺は鈴木を好きだと言うだろう。この男が嘘でもそれを言わないで欲しいと望んでいると知っていても、事実は事実なのだ。
 そう、俺は鈴木のことが大好きなのだ、本当に。もう何をされても許してしまうほどに、何もかもが好きなのだ。可愛くて仕方がない。
 だがこの男、橋本はそうではない。
 今のように一人で勘違いを発展させて怒り出すし、頼りない所もあるのに周囲には尊敬されているところなんてむかつくし、頭がいいはずなのに時々言葉が通じなくなるし、俺の事は全然わかっていないし。文句なら尽きる事がないほどある。
 だが、だからこそ恋しているのだ、俺は。
 腹が立ったり、愛しくなったり、辛くなったり、穏やかになったり、いいものばかりではない色んな感情がある。その少し騒がしい、ワクワクしたりドキドキしたりする感情は、好きという簡単に口に出来るものとは違う。鈴木への思いとは全くの別もの。
 鈴木ならばもういてくれるだけで幸せなのだが、この男の場合はそれだけで俺は満足出来ない。可愛いなと撫でているだけでは面白くない。軽口を叩きあったり、喧嘩をしたり、一緒に仕事をしたり、馬鹿騒ぎをしたり。そう、キスもしたいし、セックスだってしたい。それはこの男だからこそのもの。愛でるだけではなく、互いにそうでありたいのだ。可愛がった分、自分にもそれを返して欲しい。返されなければ悔しくなる。
 愛している分だけ愛してもらいたい。
 無条件に好きな鈴木とは別次元のところにこの男はいるのだ。
 だけど、こんな事は恋人なら当たり前じゃないのか。態々口にしなくとも通じるものじゃないのだろうか。
 橋本の中で俺はそんな特別な所にいないのだろうか。だからわからないのだろうか…。そんな事を考えると、俺の中にも闇は落ちる。そうではなく、この男が一人で墓穴を掘っただけだとわかってもいるのに…。
「…俺だって、不安になる」
 そう、そうなのだ。いつもは怖くて見えない振りをしているが、俺もそれを抱えている。だが、誰だってそうだろう…?
 俺は橋本の手をぽんぽんと叩きながら言葉を紡いだ。
「俺はこんな性格だ。馬鹿なのもそれなりに自覚しているが、直そうとかなんて思わない。お前だってそんな俺をわかっているだろう? そう、確かに流される事も多い。
 だけどな、いくらなんでも恋までそうじゃない。俺は自分で選んでここにいる。流されただけで、男に抱かれるかよ。お前だから一緒にいるんだ。それをわかっているのか、お前は?」
 いや、言いたいのはそんなことではなく…。…お前が不安になるように俺も不安になるのだ…。
(…俺がそう言ったら、信じるか? なあ…)
「…俺はお前みたいにかっこよくないし、仕事もそう出来ないし、人に威張れるものなんて何ももっていない。だから、何でお前がこんな俺を好きなのか良くわからない。何処がいいのか、はっきり言ってお前の趣味を疑うよ。
 本当に俺でいいのかよ。気の迷いだったと後悔するんじゃないか。出来た人間の単なる暇つぶしじゃないのか。…そんな事を思わないこともないよ、俺は卑屈になるのは得意だからな」
「…結城…」
 口を開きかけた男の唇に指を当て黙らせる。橋本は驚きながらもどんな顔をすればいいのかすらわからないような、妙な表情を浮かべていた。
「だけどさ、そう疑っていてもきりがないじゃん。他人の心なんてわかんないだろう?
 俺は今までお前を見てきて、お前という奴を俺なりに知って、それでお前の言葉を信じようと、信じたいと思った。だから、俺はここにいる」
 俺は、そんな不安も覆い隠せるほど力で、この男を求めている。信じるなんて言葉は少し嘘臭いが、その力は今の俺をこうして作っているものだというのは確かな事実なのだ。
 俺は手を動かし、指先を男の唇から頬へと移動した。見つめてくる目を見返し、少し口元を曲げて笑いを送る。
「だが、結局は俺の自己中なものでしかなかったんだな、それは。お前を不安にさせている事も知らずにいたんだから。…わかったつもりを気取っていただけだ。
 それなのに、お前に俺をわかってくれだなんて、都合よすぎか…」
「結城…」
 橋本が目を伏せながら俺の名前を読んだ。
「すまない、俺は…」
 微かに震える声。
「…俺の方こそ、自分のことばかりしか考えていなかったんだな…」
 心から反省しているのだろう、目を合わせようとしない。
 そんな男を前に、俺の中には微笑ましさもあるがそれ以上に優越感が沸き起こっていた。
 勝った、な。俺の勝ち。
 自分が負けるというのはどんなことであろうと楽しいものではない。だが、この男が相手の場合なら、仕方がないかと思わないこともない。負けてやるよと。しかし、今回は俺の勝ちなのだ。
(笑わずにはいられないというものだ)
 だが、顔にのせるほど馬鹿ではないので、内心でほくそ笑むのだ、俺は。実際に笑っても視線を逸らす橋本には気付かれないだろうが。
 多分、普段ならもう少し食い下がるのだろう。だが、酒を飲み怒ったせいでよいが回りだした男に正常な判断は出来ないというもの。一度自分も悪かったのだと思えば、それ以上考えない。
 もちろん俺も真剣で嘘を言ったわけではないが…、ガキじゃないのだ、計算はする。それに気付いていない男は…、
(…最高に楽しいな)
 完璧とまで評されるような男が、自分にこんな扱いを受けている。そのじ事実が楽しくて仕方がない。
 だが、さすがに少し可愛そうだなと、どんどん落ち込んでいっているよな橋本の姿に、俺は軽く肩を竦め、男の頬から手を放した。その手を、ゆっくりと首に巻きつける。
「…なあ、橋本。ホントに俺でいいのかよ?」
 少し甘えるような俺のこの声を相手が好きである事を承知して作り出す。
「…それは、こっちの科白だ」
 俺の計算に気付いているのかいないのか。微妙な答えは、未だに迷いの中にいるということだろうか。
「俺はお前がいいんだ。……お前は…?」
「今はここにいたいよ」
 額同士をくっ付け至近距離で見つめあう。さすがに橋本は視線を逸らさなかった。変わりに、軽く眉を寄せる。
「今は、か…?」
「だって未来なんてわかんないだろう」
「……」
「俺はこの先一生鈴木の事を可愛がる」
「…それは断定するのかよ」
 不貞腐れた声に、俺は喉を鳴らした。
「当たり前じゃん。お前だって、自分が今好きなものを嫌いになる可能性なんて考えないだろう。
 …なあ、駄目か?」
 駄目だと言われてもどうしようもないのだが、俺は上目遣いに伺いを立てる。
 何だかんだと文句を言っても、結局はこの男は俺の言う事を聞き入れてしまうのだと、俺は知っている。多分、そんな自分に気付いていてどうにも出来ない悔しさが橋本にはあるのだろう。だからこうまで絡んだのかもしれない、とふと思いつく。
「……恋心じゃない?」
「ああ。もちろん」
「なら、……我慢する」
 言葉とは裏腹に顔を顰める男は、親に怒られた子供のような、必死に泣くのを我慢している表情を浮かばせた。
 綺麗な顔にはかっこいいとしか言いようがないのだが、その表情は、ホント子供で、俺は可愛くて仕方がない。
(だから、こうして苛めたくなるのかもしれないな…)
 そんな自分を棚に挙げ、俺は更に要求する。
「あいつの事、苛めない?」
「…努力する」
「仲良くしてくれる? いい奴だから」
「……出来る限り、頑張るよ」
 出来る限りではなく、絶対にして欲しいのだが…今はそこまで求めるのはやめておく。
「なら、代わりに俺もお前の大事なサボテンにも水をやってやるよ」
 ご機嫌な声でをそう言った俺の言葉に、橋本は眉を寄せる。
「…それは、やめてくれ。お前がやると根腐れしそうだ」
 一呼吸の沈黙の後、目を合わせ、二人で笑った。
「…橋本、よく聞けよ」
 抱きついた腕に少し力を入れて引き寄せ、俺は橋本の耳に囁く。
 多分酔っている恋人は今の会話を明日には忘れているかもしれない。それでは困るので、今夜の事を忘れないよう釘を刺しておくことにした。
 もう一度見つめあい、相手が一番欲しがっていた言葉を俺は口にする。
「愛している」
 初めて口にしたその言葉は、何とも胸を躍らせるものであった。
 大きく目を見開いた橋本に笑いかけ、同じ言葉を口にする。
「愛してるよ。忘れるなよ」
 驚きの表情を幸せのものに変えた顔は、悔しいくらいに男前で、俺の満足する笑顔だった。鼻の下を伸ばした男前だなんてむかつくものでしかないのだが、…あばたもエクボ、というやつか。
 この言葉だけを覚えて他のやり取りを忘れられては困るのだが、それでもこの顔を見られただけでも満足かもしれない、と俺は同じように笑い返す。
「俺も愛しているよ、結城」
「知ってるよ、何度も聞いた」
「なあ、もう一度」
「愛してるよ、橋本」
 喉で笑いながら、いい加減にしろよと言うと、「まだまだ足りない」と口元を緩める。
 他人が見ればバカップルでしかないのだが、意外とこの言葉は俺を楽しませるもので…。
(今度鈴木にも言ってみようかな…)
 そう思ったのは顔には出さず、「もう一度」と強請る男の口を俺は自分のそれで塞いだ。
 交わしたキスはとても優しくて、なんだか少し恥ずかしかった。


/ END /

2002/11/08