恋愛

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 窓の外はすっかり暗くなってしまっているのだろう。だが、ブラインドを下ろした明るい室内では全くその事を覗うことは出来ない。
 昼間の活気は嘘のように静まりかえった社内。しかし、そのひっそりとした寂しさは何故か安心するものだった。暴れまわった子供が大人しく寝たというのか何と言うのか、上手くはいえないが吉井恭平は大きなビルの中に訪れる静寂を気に入っていた。
 だからと言って、何もその雰囲気を得るために社員が帰るのをじっと待っているわけでもなければ、休日に出勤しているわけだはない。態々時間を費やして感じたいものでもなく、あくまでも仕事をしながら一息ついた時にふと感じる静けさが好きなだけである。仕事に打ち込む自分を淋しいとは思わないが時々焦燥感に駆られることがある。そんな時、こうして静かなビルの気配を感じると何故か落ち着く。頑張らなければではなく、頑張ろうと素直に思える。
 自分の手に社員一人一人の人生がかかっている訳ではないが、社長秘書という立場はそれに近いものがある。普段はそんなプレッシャーは感じないが、こうして一人で黙々と仕事をしているとふと思い出したかのように感じる。そして、そのお陰で前に進める。
 仕事が出来るかどうかは自分自身ではわからない。だが、吉井は今の仕事を気に入っていた。自分に合っているかどうかはわからないが、満足していた。少し不真面目な上司を扱うのは苦労の毎日だが、人としても、上に立つ者としても魅力的な青年の力になる仕事は遣り甲斐がある。
 ただ、これだけ満足出来る仕事につきながらもまだ欲を言えるのだとしたなら、もう少しプライベートな時間を欲しいと思う。
 吉井はパソコンのディスプレイから目を離すと、左手首につけた腕時計に視線を落とした。
(八時か…)
 今日中に帰られるだろうか、…なんて馬鹿な考えだなと溜息交じりに苦笑し、数枚の書類を持ち席を立つ。同じ姿勢でいたせいか背中と腰が痛みを訴えている。…歳のせいだろうか。その思いに再び苦笑いが零れる。
 吉井本人はそんな事を思っているが、周りには歳だなんて感じさせることは全くなく、逆に男の色香を振り撒いている。「振り撒く」と言うのは、彼の上司である青年の言葉であって少々言いすぎだと思うところもあるが、それに近いものがあるのは確かだ。
 背は高く体格もいい吉井は、上司に付き合い週に1、2回スポーツクラブで汗を流すお陰で適度に筋肉をつけており、男としては文句なしに綺麗な体躯を持っている。顔も美男子とは言えないが、整った顔に優しい目をした彼は女性社員からは高評価を受けている。なのに、本人は知らない。全くの無自覚。だから余計に女性受けがいいのだろう。
 女性達から密かに慕われているだなんて全く知らない吉井は軽く伸びをし、奥の部屋へと続く扉をノックした。
「失礼します」
 声をかけた後一呼吸の間をおきドアを開ける。中の人物の許しを持っていても無駄に終わる事を知っている吉井は、いつも通り返ってこない返事を気にすることなく足を踏み入れる。
 部屋には吉井よりも少し若い青年が、デスクに腰掛けるように凭れながら電話をしていた。
「…通してくれ。…ああ、じゃあ…」
 吉井の姿に気付き、青年は直ぐに通話を切る。
 青年は整った顔立ちであるのに、それを隠すかのように短く刈った髪を無造作にはねさせていた。仕事場だというのにネクタイを緩め、シャツの釦をいくつか外し、中に着ているTシャツと一緒に裾を外に出した姿は、だらしないと言う他ない。
 こんな姿の青年が大きな会社の社長だという事実を知ったら、まず「嘘だろう」と普通の者なら疑うだろう。どこにでも居る遊びには一生懸命取り組むが学業には全く興味がない、やる気がない学生といった感じの若い男なのだから、それは仕方のないことだ。
 だが、子供の頃から上流社会にいるからなのか、それとも、物怖じしない無意味に強気な青年の性格からかなのか、それなりの場所では見られても恥ずかしくはない程度に振る舞う術を持っているので、周りからは若いなりに大きな会社を上手く経営していることに一目置かれているやり手の社長だ。
 親の七光だとかなんだとか言う中傷も確かにある。だが、何よりも彼自身が人を惹きつける力を持っているので、その魅力に魅せられるものの方が圧倒的に多い。
 そして、その魅せられた者の一人である吉井は、青年の多少のだらしなさは目をつぶることにしている。何故なら、仕事はゲーム感覚でしかない上司に口うるさく言うと、何をされるかわからないからだ。
 そう、外での青年の評価がいいのは、出来る秘書のお陰である。吉井本人はそんなことはないと思っているが、それは青年自ら認める事実だ。
 腕白社長のお気に入りは吉井だという事は誰の目が見ても明らかだった。
 だが、言う事を聞くかどうかはまた別問題である。
 社内で服装の徹底をはかろうとすれば、絶対に大事な席で面倒を起こすだろう事は容易に想像できる。なので、差し引きを考えて吉井は青年の格好を許している。と、言うのが彼の中での正論だが、実は可愛い弟が反抗するかのような上司の態度を微笑ましく思っているだけに過ぎないのかもしれない、と自分自身でも薄々気付いていたりするのだが。
 それに何より、同じ秘書の者が口をすっぱくするほど青年の服装を注意するので、態々自分が言うことでもないと口を挟まないようにしている。
 だが、連日の疲労のせいだろうか。受話器を置いた手で髪をクシャクシャと掻きまわす青年に対して大きな溜息をつきたくなった。しかし、かろうじてどうにかそれを飲み込み、吉井は非礼を詫びた。
「お話中に失礼しました」
 いつもの事だとはいえ、やはり上司の部屋に返答を待たずにはいるのは誉められたことではない。
 軽く頭を下げる吉井に青年は全く気にした様子も見せず、首に手を当て筋をコキリと鳴らしながら「別に構わない、気にするな」と言った。
「それより、吉井」
「はい、なんでしょう」
「今夜はこれで上がるぞ」
 近くのソファに置いていたジャケットを取りながら吉井の上司である青年、久住俊介は何でもない事のようにそう言った。
「え?」
「終わりだ、終わり」
 一人で納得し、首を縦に軽く振りながら久住は上着に腕を通す。
「しかし、社長…」
「その書類はいつまでだ?」
「あ、はい。明日の午後の会議のものです」
「なら、明日で間に合う。今夜することはないだろう」
 吉井が手に持った書類の予定を勝手にそう決めると、久住は部下が戸惑うのを気にもせずに帰り支度をはじめる。
 だが、こんな事は日常茶飯事と言ってもいいぐらいなので吉井も驚いてばかりではない。軽く溜息を履き、はっきりとした口調で上司に声をかける。
「いえ、駄目です。明日には明日して頂かなくてはならないものがあります」
「ならそれは明後日だな」
「社長…」
「怒るなよ。何とかなるだろう? 俺はこれから出掛けるんだ」
 吉井に顔を向け肩を竦めると、久住は自分の机から仕上げた書類を取り上げ差し出した。
「…どちらへです?」
 受け取りはしたが内容は確かめず、久住から視線を逸らさずに吉井は訊く。だが、
「秘密」
「……」
「そんな顔するなよ」
 久住がそうおどけたが、吉井は強い視線を緩めなかった。
 普段は優しい男だと言う印象が強い。三十路を過ぎた男としては擦れていないというか何というか、少々天然なところがある。そんなところが何故か気に入っているので、ついつい自分は彼をからかってしまうのだと久住は思う。だが、抜けている所ばかりではなく、時々こうして一瞬にして捕まってしまいそうな鋭い視線を向ける。自分の立場を自覚していない行動に怒っているというわけでも、呆れているわけでもなく、純粋に強い視線を向けてくる。そのギャップが久住にとっては楽しくて仕方がない。
 自分が社長と言う立場にいられるのも、彼のお陰だという事はわかっている。なので、少なからず感謝はしている。だが、大して魅力のないこの地位にいるのは一重に吉井が側にいるからだ。兄だとか友達だとかそう言った者としては見ていないが、気に入っている。吉井となら興味のない仕事でも「ま、いいか」と思いやっている。
 父親としては放蕩息子を繋ぎとめてくれている吉井に感謝なのだろうが、久住にとっては単に吉井がいるからここにいるだけであって会社自体にはいつまでたっても愛着も何も持てない。そう、もし吉井がいなくなれば、久住は未練も何もなく会社を捨てるだろう。
 それほどまでに、久住は吉井を気に入っていた。その事を隠そうともしないところが子供だと言われるのだろうが、本人はいたって気にしてはいない。我が儘だと言われようと自己中だと言われようとなんだっていい。久住にとっては面白ければそれでいいのだ。  だが、だからと言って吉井に依存しているわけでも何でもない。気に入っているから言う事をきくだなんてことはあり得ない。むしろ久住なら、気に入っているからこそ反抗したい、遊びたいというものだろう。
 久住という者は、ある意味単純な思考の持ち主だが、そればかりではないので扱いに困る男だ。そんな久住に振り回されることが多いとはいえ、一応きちんと仕事に向かわせられる事の出来る吉井は、社員にとってはなくてはならない存在だ。吉井以上に久住を扱えるものはいないと誰もが思っている。
 だが、実際は扱っているではなく、扱われているのだと吉井は自覚している。仕事に取り組むのも、気まぐれでしかないのだ。本来なら青年の態度は見捨てても仕方ないだろうというものなのに、それをせずこうして面倒見ているのは、やはりこの男の魅力のせいだろう。
(いいように使われているな…)
 そうわかりつつ嫌だとは思わないのだから重症もいいところだと吉井は内心で苦笑する。
「ったく、お前は俺の母親か? いちいち干渉するなよ」
「母親ではありません。ですが、あなたの秘書であると自負していましたが…、それも違ったのでしょうか」
「違わないな〜。秘書殿」
 軽く鼻で笑い、ニヤリと口角を上げる久住。
 吉井とて馬鹿ではないので、年下の上司が自分で遊んでいるということはわかってはいるが、…自分ではどうすることも出来ないのが事実なのだから仕方がない。
(今晩もこのまま逃げられるのか。…徹夜になるだろうか……)
 上司の代わりにしなければならなくなるだろう仕事を考えながら、それでも吉井は無抵抗に見送ることも出来ないので諦めながら言葉を出す。
「…私は出掛ける予定など聞いていません」
「当たり前だ。言っていない」
「何故言わないんですか」
「先に言ったら行けなくなるだろう」
 当然だといった表情で久住はそう言った。
「それともなにか? 先に言えば反対しないのか?」
「…それはわかりません。だが、だからと言われましても、突然言われた方が困るのはわかるでしょう」
「そうか? なら以後は気を付けるよ」
「……以前も同じ言葉を聞いた気がしますが」
 吉井の言葉に、「そうだったか?」と白々しく久住は首を傾げた。その姿に思わず吉井は大きな溜息を落とす。
「ま、そう嘆くなよ。お前にもたまには休みが必要だろう?」
「社長が出掛ければその分私が仕事をしなければなりません」
「だから、今日は終わりにしろって」
「そんな事をしたら、ますます仕事が溜まるだけです」
「…お前普段はボケてるのに、ホント時々異様に頭固いよな〜」
「経験をつんだだけですよ」
 上司の言葉に従っていては会社など経営していられないという事だ。
 吉井の皮肉に心当たりがありすぎるので反抗はせず、代わりに久住は盛大な溜息をついた。
「ったく、面白くないね〜。
 ま、今夜はそんなお前に俺からプレゼントを用意してやったから、楽しい夜でも過ごして、その石頭を直して来い」
「……何を言っているんですか…」
 見えない会話に吉井が溜息をついた時、扉がノックされる音が部屋に響いた。
 夜と言ってもまだ早い時間だが、殆どの者が帰ったこんな時に誰がこんなところにくるというか。首を傾げながらも扉に向かおうとした吉井よりも早くそのドアは開く。
 入ってきた二人の青年を見とめた吉井は驚きに動きを止めた。

「巽、遅いぞ」
 先に入ってきた、黒縁眼鏡で端正な顔を隠した背の高い青年に久住が声を掛けた。長身をダークスーツで固めた青年の姿は目をひく。だが、その見目ばかりではなく、どこか久住と似たような雰囲気を持っていた。
 性格は全く違う二人だが、似たような環境で育ったため、そんな印象を与えるのかもしれない。
 吉井より更に高い長身の青年、久住の幼馴染みである葉山巽は出迎えの言葉に軽く眉を寄せ、小さな溜息をついた。
「お前が無茶を言うからだ」
 幼馴染みの我が儘は今に始まったことではなく、また相手にとっても溜息をつきながらもたいていの事を聞いてくれることを知っているので、詫びれた様子など全く見せない。
「仕方ないだろう。吉井を仕事から離すには彼が必要なんだからな。
 って、吉井。おい!」
 自分に背を向けたまま、葉山に続いて同じように部屋に入ってきた青年を見つめたまま動かない秘書の肩を久住は叩いた。だが、それにも気付かないのか吉井は全く動かない。
 あまりの驚きに、思考回路がショートしてしまったのか…。
 久住がそんな吉井の頭を軽く叩いた。その様子に青年がクスリと笑い、葉山が呆れた目で見た。
「駄目だよ、俊介。叩かないでよ。
 大丈夫、恭平?」
 クスクス笑いながら久住にそう言い、青年は吉井の顔を覗った。そこでやっと吉井が反応を示す。
「…あ、晶さん!?」
 今更何を言っているのかと三人が呆れるのも気にせず、吉井は突然現れた恋人の姿に驚きの声を上げた。
 久住も葉山も、そして吉井も、タイプは違うが女性にもてる顔立ちをしている。だが、その三人よりも、にこりと吉井を見て笑う青年の方が魅力的であった。
 男にしか見えないが、女よりも綺麗な顔立ちは、生きているのが奇跡だというほど神秘的なものであると詩人じゃなくとも実感し、そう口にするだろう。
 茶色の革のジャケットの下は何の飾りもない黒のTシャツ。スラリと細い長い足は洗いざらしのジーンズで包まれている。無味頓着過ぎるのではないかというほどシンプルすぎる服装。だが、それがかえって青年の魅力を高めていた。
 状況の掴めない吉井だが、恋人である神崎晶の微笑みにつられ同じように笑みを返す。
「今晩は、恭平」
「あ、はい。今晩は」
「久し振り、だね」
「えぇ。そうですね」
「元気だった?」
「はい。晶さんは?」
「うん、元気だよ」
 二人の世界にのめり込んでいる吉井の上に冷たい溜息が落ちた。
「……お前らバカかよ…。」
 わざと聞こえるように盛大に落ちた溜息。馬鹿な秘書の姿に嘆きながら久住は軽く頭を振る。
「…吉井、他に何か言うことはないのかよ」
「え? あ、…どうしてここに?」
「だから、言っただろう。プレゼントだって」
「…?」
「今日はもう終わり。その書類を置いてさっさと帰れ」
 呆れながら言う久住の言葉に、
「だって。どうするの、恭平?」
 と、神崎が吉井に向かって首を傾けた。
「…どうすると言われましても…、私には何がなんだか…」
 恋人が何故ここにいるのかということも未だにわからなければ、社長が仕事は終わりだということも理解できない。いや、言葉としては理解できるが、理由が今ひとつ飲み込めない。なにせ、いつも何だかんだと理由をつけて仕事をサボろうとする久住なので、彼の発言の全てを鵜呑みにし真面目に耳を傾けるというのは無謀な行為なのだから、そんな先入観を持つ吉井に話が見えないのは仕方がないことだろう。だが、
「お前、ホント、ボケボケだな」
 首を傾げている吉井に、久住が肩を竦める。問題を起こす張本人に言われるのは釈然としないのだが、それこそ気にしているときではない。
「自分が飲みに行くには吉井さんを仕事から離さなければならない。だから、それが出来るだろう神崎に協力を頼んだんですよ」
 からかわれる吉井を哀れに思ったのか、久住の扱いに慣れているのか、葉山が説明をする。そんな彼の言葉に、久住は、
「俺は純粋に有意義なプライベートタイムを提供してやるんだよ」
「なら、お前は仕事をするか? 無理して行くことはないぞ」
 葉山には勝てないと思うのか、それには返事を返さず久住は話を別のものに変えた。
「真中は来ないのか?」
「あいつは、今四国だ」
「いいね〜、俺も遊びに行きたいね〜」
「仕事だぞ」
「どうせ人の尻追いかけてうろついてるんだろう。何が仕事だ。
 俺みたいにこんな部屋にこもっているよりよっぽど健康的だよな〜」
「……俊介…」
 久住の言葉に対し葉山は口を開いたが、何も言わずに溜息だけを吐き言葉を飲み込んだ。いつものことだ。いちいち幼馴染みの言葉に反応していては会話は終わらない。
 そんな葉山の姿に肩を竦める久住に向かって、本来の職務を思い出したのか吉井が言葉をかけた。
「…あの、社長は何処へ行かれるんですか?」
「イジメ」
「…はぁ?」
 到底質問に対する答えだとは思えない返答に、吉井は思わず素っ頓狂な声を上げた。吉井の視界に神崎の笑い顔が入り、思わず顔を赤らめる。
「近々結婚する友人がいるんです。それで、そいつを肴に仲間内で飲むんですよ」
「そう、ひやかしに行くわけだ」
 そう茶化すように口を挟む上司を無視し、「御友人ですか?」と吉井は葉山に尋ねる。
「えぇ。中高の連れです」
「結婚されるのなら何かしませんと。…って、式はいつですか? 今から都合がつく日だといいのですが…」
「いや、式はしないので心配要りません。ま、籍を入れた頃にまたこうして飲むかもしれませんがね」
「そうですか」
「おい、巽。悠長に喋っているなよ。行くぞ。
 じゃ、晶。吉井をヨロシク」
 支度を終えた久住はそう言いスタスタと部屋を出て行く。そんな彼の後ろ姿に、三人が三様、肩を竦め、溜息を漏らし、クスリと笑った。
「では、久住をお願いします」
 秘書としての顔を葉山に向けると、吉井は軽く頭を下げた。その時、
「晶、お前明日の仕事何時から?」
 出て行った時と同じように何の前触れもなく久住が戻ってきて神崎に声をかけた。
「夕方からだけど?」
「よし! なら、昼過ぎまでそいつを捕まえておいてくれ。頼んだぞ。
 ほら、巽。行くぞ」
 自分勝手に動く幼馴染みに再び肩を竦め、葉山は久住の後に続き部屋を出た。


 節電のため明かりを絞られた薄暗い廊下を葉山と久住は並んで歩く。静かな社内では、面白いほど足音が響いた。エレベーターの前で歩みを止めると、一瞬全ての音が消える。だが、直ぐに微かな機械音が鳴りはじめた。
「……なぁ…」
 珍しく久住が真面目な声を出す。
「あいつら、大丈夫なのか?」
 やってきたエレベーターに乗り込み葉山がボタンを押す。ゆっくりと閉まる扉を久住は見ていた。いや、彼はここからは見えない今出てきた部屋を見ているのだろう…。
(…らしくないな)
 葉山は久住に対しても自分に対してもそう思いながら口を開いた。
「吉井さんが心配か?」
「ん? …そうじゃないけど…。ま、一応俺の秘書殿だしな…」
 口の端を少し上げ自嘲するかのように久住は軽く笑った。
「大丈夫だろうよ」
「どうしてそう思う?」
「相手が神崎だからだ」
「俺は…それが余計に怖いね、心配だ。
 晶はああしていれば普通だが…お前には悪いが、やはり……」
 深く付き合うタイプじゃない。
 その言葉を口にする事はさすがに久住にも出来ず、言葉を濁す。
「……大丈夫だ、心配するな」
 自分の言いたい事はわかっているのだろう幼馴染みは、同じ言葉をもう一度繰り返した。
 多くを語らず、必要な言葉すら伝えないことがある葉山だが、それが彼なりの優しさや、自分を思っての厳しさだと長い付き合いからわかっている久住は、それ以上は追求せずに溜息と共に笑い声を漏らした。
「…ったく。知り合い同士が付き合いだすだなんて、全く面倒なことだな。周りのことも考えろっていうんだよ」
 自分の気を紛らわせるために悪態をつく久住に「そうだな」と答え、葉山は話を今夜のことに変えた。
 外に出た久住は一瞬ビルを見上げたが、直ぐに足を前に進めた。そんな彼に苦笑しつつ、葉山も高いビルを見上げる。雲がかかっているので朧気にしか月は確認出来ないが、それでも星の見えない空でのその明かりは優しかった。
 ビルにはポツポツと幾つかの明かりが燈っていた。何人かの社員がまだこの中で働いているのだろう。今夜神崎を連れてこなければ、この明かりの中の一つは明日の朝まで消えることはなかったのかもしれない。
(心配ない、か…)
 葉山は先程幼馴染みに向かって言った言葉を心で呟いた。
 心配ない。そう言ったのは嘘ではない。神崎の事は久住よりもわかっている。
 だからこそ、相手の吉井は大丈夫だと葉山には確信が持てた。
 苦しんだり、辛かったりする時もあるだろう。直ぐにでも終わりがくる恋なのかもしれない。吉井が傷つくことは確かにあるかもしれない。だが、久住が心配するような、神崎が吉井の未来を奪うようなことは絶対に起こらない。起こるはずがない、相手が神崎なら…。
(むしろ、心配なのはあいつの方だ…)
 友人なら自分が壊れようとも、吉井を助けようとするだろう。人の傷には敏感だが、自分の傷は見えていても気にしない奴なのだ。
 久住には言えないが、そんな未来が直ぐに来そうで、葉山は心配でならなかった。
(心のままに動けよ。そうすれば、お前はきっと得られるさ…)
 届かないと知りながら葉山はそう心で神崎に語りかけた。
 雲が流れ顔を覗かせた月は鋭い三日月だった。まるでその異名のように剣そのものだ。
 右に振り返り三日月を見れば幸せがくるという。逆に左に振り返れば不幸が訪れる。
 友人はどうやってこの月を見るのだろうか。
 迷信と知りつつ、彼に幸せがくる事を葉山は祈った。

2002/02/08
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