恋愛

2

 嵐が過ぎ去ったかのように、部屋の主が出て行くと静けさが吉井と神崎の上に降りてきた。
「…これ、昼までに見てもらわないと駄目なんですよね……」
 吉井は書類に視線を落とし、はあ〜と大きな溜息をついた。若い社長はそれまで出勤しないつもりなのだろうか…。…彼の場合冗談ではないだろう…。
「…もう少し、仕事にやる気を持ってくれればいいのですが…」
 そう零した吉井の言葉に、神崎は軽く笑いながら即答した。
「それは無理だろう」
「やはり、そうですよね…」
「恭平も大変だね。お疲れ様」
 二人は視線を合わせクスリと笑い合った。
「あ。晶さんは、お仕事大丈夫なんですか?
 まさか、久住が無理を言ったのでは…」
 社長室を出ながら、吉井は神崎に尋ねた。恋人も自分と変わらないくらいに忙しい。それなのにこうして此処にいるということは…、やはり久住のせいだろう。彼なら人の迷惑を考えずに無理難題を言ったのだとしても珍しくともなんともない。
 申し訳ないといった顔をする吉井に、神崎は軽く頭を振った。
「そんなことはないよ。ま、確かにいきなりだったけど。
 今日になって突然迎えに来る時は僕も連れて来いと巽に言ってきたんだって。彼らしいね」
「すみません」
「謝らなくていいよ。本当に仕事は大丈夫なんだから」
 元々終了時間なんて当てにならない職場なので、以前から予定していた葉山ならともかく、急にそう言われた神崎には少々難しい注文だった。勤務時間が終わったので、「それではお先に」というわけには普通はいかない。
 だが、ここ数日神崎は詰めている事が多く、周りもそれを知っていたので、「お疲れ様」とあっさり解放してくれた。何より、久住にしては珍しく、気を使ったのか単にその事を思いついたのがその時間だったのかわからないが、午前中に注文をつけてきたので何とかなったのだ。それより遅ければ無理だったかもしれない。
 しかし、そんな事を吉井に話す必要はない。第一、職場に詰めるのは神崎の自己満足みたいなものであって、勤務時間通りにしか仕事をしない者もいないことはないのだ。上司に振り回される吉井とは立場が全く違う。
「僕も勝手に話に乗って悪かった、ごめん」
「いえ、私は、…嬉しいです。久住に礼を言わなくてはなりませんね」
 照れたように笑う恋人を神崎は優しく見つめた。
 吉井が喜ぶように、久し振りの恋人との逢瀬は神崎にとっても嬉しいことだ。少々強引だったが、きっかけを作ってくれた久住には感謝しなくてはならないのだろう。
「うん。僕も嬉しいよ。
 …それで、恭平はどうする? 仕事は?」
「…明日何とかします」
 久住から受け取った書類と先程持って立ち上がったままの書類をクリアケースに入れ、引き出しに片付ける。
 吉井とて恋人がこうしてやって来たというのに、誘いを断り仕事をするほど無粋ではない。明日の事を思えば溜息は出るが、ここで神崎と別れても仕事が手につかないだろうこともわかっている。最善の道はやはり綺麗な恋人の手をとることだろう。
「いいの?」
「ええ。
 それより、夕食はもう摂られました?」
「まだだよ」
「では、食事に行きましょうか」
「オッケイ。
 …でも、まずこっちを食べたいな」
 神崎はゆっくりと吉井の首に腕を絡ませながらそう言った。
 少し驚いた吉井だが、直ぐに神崎の唇に自分のそれを深く重ねた。甘い舌が吉井の口内を動き回る。それを捕らえようとしたがかわされ上顎をなぞられる。鼻からくぐもった音が漏れた。
 長い間重なっていた唇がクチュッと濡れた音をたて離れる。首に回した腕を離し、神崎は指先で吉井の頬を撫で、薄く開いた吉井の唇をゆっくりとなぞった。
 正に食べられるようなキスをされ息が上がってしまった吉井に、神崎は極上の微笑み向けた。
「さあ、行こう」



 初めて神崎を抱いた時の事は、今思い出しても赤面ものである。
 そもそもその前にベッドを共にする気は全くなかったというのに、彼にそう思わせるような行動を自分はとっていたようで、いざという時になって、そんな気はなかったのだとまるで少女のような言い訳をして拒絶した。何と言っても男とだなんて、その時の吉井には全く考えられなかった。
 神崎を綺麗だと思ったのは事実だし、感動のような心が震える思いも確かにあった。だがそれは恋でも何でもなく、ただ純粋に美しい物に感動し興味を持っただけにすぎない。なので、体の関係なんて吉井には思いも浮かばなかった。
 そんなつもりじゃなかったと言って拒絶する吉井を、神崎は少しからかった後あっさりと納得し、結局話をしてホテルを後にした。何処の誰かも聞かず、二人は別れた。疚しい事も何もないが、それが普通なんだと吉井は思っていた。そう、二度と会うことはないはずだった。
 なのに、どうだ。それからいくらも経たない内に、吉井は神崎と関係を持った。それどころか、一度だけの過ちでも何でもなく、恋人になって欲しいとまで告白したのだ。
 それが受け入れられるとは吉井は全く思っていなかった。
 偶然街で再び見かけた神崎に声をかける事はしなかった。だが、その時彼が連れていた相手に嫉妬をしている自分に気付いた時、どうしても会いたくなった。少々強引で自分勝手な行動をとって神崎に再び会った時、吉井は自分の気持ちを押えることが出来なくなっていた。
 あなたの中に誰がいてもいいから、自分はあなたの傍にいたい。
 吉井は神崎には想い人がいるのだと思い込んでいた。だからこそ、嫉妬心で告白したようなものだった。
 だが、そう言った吉井の言葉の意味を理解した神崎は、彼は友達だとクスリと笑った。少年のような優しい表情で、真剣な吉井の言葉を流すように否定した。
 しかし、今もそれは間違っていないと吉井は思う。確かに神崎と葉山は友達の関係でしかない。だが、彼らは何よりもわかり合えている。神崎の心にはいつも葉山がいる。葉山といる時は自分といる時のように相手に合わせるといった感じは全く見られず、自然体のようなのだ。
 確かに恋人と友人の関係は全く違うものだろう。そうはわかりながらも、吉井は神崎の葉山に対する態度に、自分では得ることも与えることも出来ない何かがあるのだと感じていた。
 あの時も、吉井は葉山に嫉妬をしていた。だが、どこかで彼には敵わないのだと、二人の間には入れないのだとわかっていた。
 それでも神崎を求めずに入られなかった。
 傍にいたいと言った吉井に、神崎は別の事を口にした。
 他の付き合いは止めれないよ、と。
 複数の体の関係を持っていることは出会った時から知っていた。自分もそのうちの一人と何ら変わらなくなるのだろう。まだ、葉山のように友人とはいかなくとも、知り合いの関係を保つ方が長く傍いられるのかもしれない。
 だが、吉井はそれを選ぶ事はできなかった。
 恋を自覚した吉井の想いは止まらなくなったのだ。そんな関係では満足出来ない。まるで駄々をこねる子供のように、得られないものを吉井は望んだ。
 頷く吉井を暫く見つめた後、神崎は彼をからかい「試してみようか」とキスをした。


 ピチャリと湿った音が室内に響く。
 卑猥な音が吉井を更に高める。直接的な刺激よりも、自分はこうした間接的なものの方に感じるのかもしれない。
「…恭平」
 甘い声が恋人の名を呼ぶ。吉井が首を動かし自分の中心に顔を寄せる青年に視線を向けると、長い髪の間から挑発的な目が覗いていた。腕を伸ばし茶色の髪を掻き上げる。細い髪が吉井の指の間からサラサラと滑り落ちる。
 美しい青年は吉井自身を口に入れたままニヤリと笑う。僅かだが敏感な部分に歯を立てられた吉井は熱い息を漏らした。
「晶さん…」
 掠れた吉井の声に顔を上げ体を起こすと、神崎は仰向けに寝転がっている吉井の上に跨った。
「ねえ、恭平。昨日はどれくらい寝た?」
 掌で吉井の胸をゆっくりと撫でながら神崎は訊いた。彼の体温が低いのかどうなのか、その掌は少し冷たかった。だが、それが余計に吉井に軽い刺激を与える。
「…3時間くらいでしょうか…」
「その前は?」
「……同じくらいです。でも、先一昨日は5時間ほど寝ましたよ」
 行為には相応しくないような質問に疑問も持たず、吉井は神崎の質問に素直に答える。
「仕事、忙しいの?」
「そうですね…。でも、これ以上のものはないと思っていますから、大変ですが、自分は満足しています」
「そう言うの、仕事馬鹿って言うんだよ」
「そうですか?」
 視線で疑問を現す恋人にクスリと笑い、神崎は吉井自身に指を絡ませた。
「そうだよ。ま、俊介のお守りじゃ、確かに大変だろうけどね」
「そうですね。あれがなくなればもっと楽になるのかもしれませんね」
「でも、そうなったらなったで。恭平は寂しいんだよね」
「そんなことは…」
「無いとは言い切れない、よね?」
 そう訊いてくる神崎に、吉井は苦笑しか返せなかった。神崎の言うとおり、やはり自分は腕白な弟のように久住の事を思っているのは事実だ。手がかからなくなったらそれはそれでいいことだろうが、恋人の言うとおり寂しく思うだろう。
 自分の甘さを見透かされた気もするが、気にすることでも隠すことでもない。
「あまり、からかわないで下さいよ」
 苦笑しながらそう言った吉井に、「楽しいんだよ」と神崎は笑った。
「私より晶さんの方が忙しいのではないですか?」
「ん? そんなことはないよ。僕は真面目な医者じゃないからね」
 そう言いながら、神崎は吉井を受け入れるためゆっくりと腰を進めた。
 少し眉を寄せ目を瞑りながらの神崎のその行為は、何度見ても吉井の心を掴む。
 普段は清楚な感じだというのに、体を合わせる時の恋人はとても色っぽい。いや、怖いくらいに艶を増す。誰もがこんな彼の姿を見たら虜になるだろう。何気ない姿も魅了的ではあるが、こうして抱き合う時はそれが一段と強くなる。
 こうして今、自分の手の中にいることに安心する。そして、それと同時に彼は自分だけのものではないのだと、苦しくなる。
 吉井を全て受け入れて体を倒してくる神崎を腕に抱き締めながら、自分の心の痛みに目を瞑ろうと吉井は努力をする。今は神崎のことだけを考えたい。二人だけの時間を過ごしたい。
「…恭平…」
 唇を合わせると、自分のものだろう青苦い味が少しした。舌を絡ませきつく吸うと、自分を包み込む部分がそれに応えるように蠢く。
 神崎が体を起こすのにあわせて、吉井も同じように体を起こす。
 キスを顔中に落とすと、くすぐったいと子供のような笑い声を神崎は上げた。
 神崎の全てに反応する。些細な言葉にも、表情にも、そして熱にも。
 くちづけを交わしながら、吉井はこのまま一つになれたらと願った。
 
 好きな人が自分以外の者と体を合わせているなど、耐えられるものではない。それこそ、誰にも関心が行かないよう、興味を向けられないように閉じ込めてしまいたくなる。恋をしている者なら冗談混じりにでも考えたことがあるだろう。
 吉井もそうだった。神崎に対してはいつもそんな独占欲を持っていた。
 今まではそう言った思いは殆どなく、吉井は自分は淡泊なのだと思っていた。穏やかな恋、それに疑問をもたずにいた。だが、神崎と出会って自分の中の強い想いに、そして凶暴な心にも気付いた。
 神崎を求める自分は、普段の自分ではなかった。激情なんてものでは言い表せないくらいの狂った欲望だと吉井はそう思う。
 神崎に自分だけを見て欲しい。他の者と関係を持たないで欲しい。自分に全てを見せて欲しい。
 一人の大人同士であるというのに、何を子供のようなことを思うのだろう。出会ってまだ半年も経たない。それまでに彼は自分の知らない長い時を過ごして来た。それと同じく自分も、彼を知らずに生きてきた。なのに、全てを求めるだなんて、それまでの人生を否定することになるのかもしれない。彼には彼の付き合いも考えもあり、彼は自分の物ではないのだ。
 わかっている…なのに、求めずにはいられない。
 だが、そんな強い想いと同時に、吉井の中には現実を見つめる目もある。
 三十を過ぎた男だ。世の中や人間のことは少しずつでも経験をつみわかってくる。求める心は子供でも、判断はそうではない。夢をみていても、願っていてもどうにもならないことがあるのだ。
 神崎を求める一方で、どんなことをしても自分にはこの美しい青年を手に入れることは出来ないのだとわかっていた。
 こうして二人きりでいると、吉井はどうしていいのかわからなくなる。不安は募るばかりだった。
 心のままに彼を求めれば、結果は目に見えている。今の関係以上は望んでも仕方がない。いや、望んではいけないのだ。執着心を見せ、彼を得ようとすれば…恋人はごめんと呟き去るだろう。
 だからといって割り切って付き合えるほど自分は器用な人間ではない。しかし、知り合いではなくこうした恋人としての立場を望んだのは自分だ。苦しむとわかっていても、そうせずにはいられなかったのだ。
 全く心に余裕がない。
 求める心と、今を守ろうとする自分。
 どうしていいのかわからない。
 第三者がいる前では、恋人の姿を見るだけで満足する。幸せになれる。このまま彼の傍にいたいと素直に願える。
 自分達の存在を認める者の前では。…だが、二人でいると不安になるのだ。
 その心を抑えようとしてもどうしても考えてしまう。
 体を重ねれば、次が本当にあるのだろうか。約束をすれば、少し見えた未来に安心しながらも、本当にその日が来るのだろうかと考える。尽きることのない不安。
 腕にその体を抱き安心しながらも、ふと消えてしまうのではないかという思いが襲う。誰かと一緒にいるところを見れば、自分以上の存在なのかと相手に嫉妬する。
 この辛さは彼と一緒にいるからだ。
 だが、それでもいたい。傍にいたい。
 そう思うからこそ、吉井は今の関係を維持しようと努力する。
 単なる堂堂巡りで何も変わらず、不安が募るばかりなのに…。動けば別れがやってくるのではないかと、怖くて行動を起こせない。
(なのに、願うことも止められない…)
 なんて、自分は我が儘なのだろうか…。
「…晶さん」
 恋人の頬に手を置き、吉井は掠れた声で呟いた。
「…ん?」
「もっと、あなたと会いたい…」
「うん…」
「もっとこうして、過ごしたい…」
「そうだね」
 神崎がゆっくりと手を外し、腕を回して吉井を抱き締める。そして、マーキングをする猫のように頬擦りをした。柔らかな髪が吉井の顔を撫でる。まるで親に抱きつく小さな子供のような仕草だ。
「…忙しいのは事実ですが、なるべく時間を作ります。だから…」
 会って欲しい。もっと自分と過ごして欲しい。
 我が儘だとわかりながらもそう願わずにいられない。
 だが、吉井ははっきりとその言葉を言えなかった。口にして拒絶されたら怖い。彼を困らせたくはない。強い執着心を見せて逃げられたくはない。
 色んな思いが吉井の中に沸き起こる。だが、一番の理由は、あっさりと了解する神崎を見たくなかったからなのかもしれない。それを聞けばその優しさと残酷さにまた自分は傷つくだろう。そして、彼の存在が今以上に大きくなるだろう。だから、言わなかった。言えなかった。それなのに…。
「僕ももっと会いたいよ。恭平の事をもっと知りたい。もっと一緒にいたい」
 甘く囁くような声が耳を掠める。
 単なる睦言にすぎないのだと吉井は思い込みたかった。そうしなければ自分が傷つく…。
 だが、全てとはいかずとも恋人の優しさを知っている吉井には、それがこの場だけの甘い戯言ではない事を知っている。本心なのだ。綺麗なこの恋人は、まるで聖母のように自分の心を包み込むのだ。
「…大好きだよ、恭平。愛してる」
「晶さん…」
「ごめんね、恭平。何もしてあげられなくて…」
 髪に手を入れ額同士を合わせて覗き込んでくる神崎の目は、吸い込まれそうなほどの漆黒の闇だった。その瞳は体の熱のせいなのか、それとも心の痛みのせいなのか、微かに濡れているように見えた。
 吉井は優しく恋人の目にキスを落とす。
 自分の行動のせいで人に与える痛みを知っていながらも、それを止められない彼も傷つかないはずがない。心を痛めていないはずがない。
 なぜなら彼は誰よりも純粋だから…。
 こんな姿を素直に見せないで欲しい。もっと冷たくあしらってくれたのなら、体だけの関係なのだと心を見せないでいてくれたのなら…。…自分はこんなにまで彼を好きになりはしなかったのに…。
 何て酷い人なのだろうか…。
 吉井の胸が熱くなる。いつもそうだ。神崎といると決まって苦しくなる。切なくなる。
 自分には何も出来ないのだと思い知らされる。
(それでも、傍にいたいと願うのは、…やはり我が儘なのだろうか――)
 神崎は吉井の首に腕を絡ませたままゆっくりと体を倒し、恋人を促した。
「…恭平。名前を、呼んで…」
 自分の下で目元を紅く染め鳴く恋人の願いに、吉井は何度も名前を呼んだ。それに応えるように神崎も掠れた声で恋人の名を呼ぶ。
 神崎は体を合わせる時にはいつもそう強請った。人に合わすというか、自分をあまり主張しない彼にしては珍しく、そのことだけは強く求めた。
 何かが欲しいというわけではない、ただ単に名前を呼べと。
 今自分を抱くのは誰なのか確認したいからだと、冗談交じりに恋人は言い笑ったが、それだけが本心ではないだろう。
 神崎は他の者との関係は全く口にしない。そして吉井も訊かないようにしている。それが暗黙のルールであるかのように。それなのに、名前を強請る理由を尋ねた時、多くの関係を持っている事を隠さないような発言をした。他にいくらでも言い訳は出来るだろうに、そう言った。
 それがどうしてなのか吉井にはわからない。
 その心を知っているのは一体誰なのだろうか…。
 自分の名を呼ぶ恋人に、それを問い詰める事は出来なかった。もしかすれば、恋人の友人は何か知っているのかもしれない。そう思うと、心が痛かった。


 短い呻き声と同時に吉井が精を放った。
 その熱を受け止め、神崎も同じように欲望を吐き出す。だが、まだ足りない。体の中に入った熱は更なる熱を求める。
 体を起こし自分の中から出ようとした吉井を、逆に神崎は押し倒した。その動きに、敏感な部分が反応を示す。
 一瞬驚いた表情を見せたが、吉井は直ぐに優しく笑った。
 体を起こししっかりと抱き締め合う。互いの胸を脈打つ鼓動が混ざり合い、どちらのものかわからなくなる。だが、全く別物の体は繋がっていても一つにはならない。自分とは違うもの。だからこそ求めるのだ。異質だから、こんなにまで愛しいのだ。
 神崎はゆっくりと腰を動かし始める。
 クチュリと濡れた音が二人の間に響いた。
 先程の熱が立てる卑猥な音に吉井は感じるのか、彼自身が力を取り戻すのを神崎は敏感に感じ取る。その反応に合わせるように腰の動きを大きくしながら、くちづけを強請る。
 逃げ惑う舌を捕らえられ、反対にきつく吸いあげる。まるで戯れあうように絡めあい、互いの口内を行き来する。飲み込めなかった唾液を追い掛け唇を外すころには、二人の息は上がっていた。
 神崎は吉井の口元を舌で舐め上げた。もうどちらのものかもわからなくなったそれを口に運び、見せ付けるようにゆっくりと唇を舐める。
 二人は目を合わせ微笑みあった。
 だが、神崎にも吉井にも余裕はない。もっと欲しいのだと相手を求め、再び顔を近づける。
 顔中を舐め合い、首筋に印をつけ、耳を齧りあう。相手の性感帯を探そうと指を這わす。
 吉井が腰に手を添え自分の動きに合わせ突き上げてくる。その痺れに神崎は喉を逸らせて甘い声を上げた。
 背中に回した手に力がこもる。思わず爪を立てそうになったことに神崎は気付き、指を離し掌に握りこむ。
 勢いを増す吉井の動きに、神崎は体に力を入れた。そうしなければ壊れてしまう。
 長めの爪が掌に突き刺さるかのようだ。だが、熱の塊と化した体にその痛みは甘い刺激にしかならない。その握り拳を肩に置き、神崎は吉井を覗き込んだ。
 眉間に皺を寄せ軽く目を閉じている。快感に耐えているかのような吉井のこの表情が神崎は気に入っていた。
 好きだと思う。そう、これは恋といえるものだろう。他の体を合わす者達とは違うものだときちんと自覚している。
 彼の全てが愛しい。何もかもを愛している。
 なのに、自分はそれを口には出来ない。態度にもする気はない。
 吉井が誤解していることを神崎は知っていた。自分を他の者達と変わらない、体で繋がっている相手でしかないのだと。それで傷ついているのだということを知っていた。しかし、その誤りを神崎は解こうとは思わない。むしろ自分はそれを利用しているのかもしれない…。
「恭平…」
 神崎が名前を呼ぶと、吉井は薄く目を開き彼を見つめ微笑んだ。
 恋人はいつでも自分にとても優しい。いや、他のものに対してもそうだろう、自分だけが特別ではない。だが、こうして体を重ねるのは自分だけなのだ。それが嬉しくもあり、辛くもある。
 吉井に快感を与えるため、神崎は腰を動かし甘く切ない声を上げた。
 恋人の欲情に濡れた瞳に自分の淫らな姿が映る。
「…晶さん……」
 濡れた声が自分の名を呼ぶ。恋人の熱が一段と熱くなる。
 吉井のそんな反応に、神崎の体も熱くなっていく。
 自分にはこれくらいしか彼に与えられない。神崎はそうわかりながらも、それを少し悲しく思った。
 吉井は今は物珍しい自分に執着を見せるが、いつまでもそれは続かないだろう。まともな思考の持ち主である彼は、いずれ自分には付いて来れなくなる。狂った自分に付き合いきれなくなる。
 だが、その時までは…。彼が限界を感じるまでは離れたくない。このまま傍にいたい。
 神崎はそう思いながらも、自分の心に戸惑っていた。そう願う資格は自分にないのだと誰よりもわかっているはずなのに…。
 自分のことばかり考える大人が嫌いだった。なのに、今の自分はそんな醜い大人でしかない。
 神崎は高い声を上げ熱を吐き出す自分を、どこかで別の自分が冷静に見て嘲り笑っているように感じてならなかった。いつかその者に頼る日が来るのかもしれない…。



「おはよう」
「……おはようございます」
 朝六時。カーテンのない窓から零れる朝日が部屋に満ちる。
 その光に目を細めながら、目の前にいる恋人の姿に驚き思考を巡らす吉井の姿に、神崎はクスリと笑った。
「寝ぼけてる?」
「…いえ…大丈夫です」
 本当かと疑いたくなるところだが、追求しても意味がないので神崎は軽く笑いながら一糸纏わぬ姿のままベッドを降りる。
 裸足の足はフローリングに吸い付くだろうに、まるで柔らかい絨毯の上を歩くかのように足音を立てずに扉へと向かう恋人を、吉井は見つめた。
「シャワー、借りるね」
「…あ、はい」
「……何見てるの」
「あ、いえ、その――スミマセン」
 思わず誤り、吉井は神崎から視線を逸らした。
「朝から可愛いことしてると…、襲っちゃうよ、恭平」
 開けた扉をそのままに、神崎は吉井のところまで戻ってきてそう言った。
「…え!?」
「俊介に昼まで引き止めろと頼まれたことだし…、…しようか?」
「え!? …あ、いえ…」
 上半身を軽く起こしたまま寝転がっていた吉井の上に神崎は四つん這いになって跨った。思わず吉井はベッドに倒れこむ。
「ねぇ、…恭平」
 見下ろされる体勢で額同士を合わせられ、恋人に甘く囁かれたら……男ならやはり反応してしまうだろう。
 だが、吉井は軽く恋人を押しやり体勢を起こしながら熱を押さえ込む。
「…折角ですが…」
「イヤなの?」
「いえ、そう言うわけでは…。…だが、しかし…」
「…仕事人間」
 言いよどむ吉井の額に神崎は軽く唇を落とした。
「ま、そこがいいんだけどね」
「晶さん…」
 ほっと息をつきながらも少し残念に思ってしまう。
 だが、今日はいつも以上に忙しくなるのは目に見えている。予定していた常務に加え、昨夜終えるはずだったものもやらなければならない。
 葉山と一緒に飲んだのであれば居場所を掴むことは出来るだろうが、久住が定時にきちんとくるわけがないので、その対応もしなければならない。
 今日の事を思い溜息をつきかけた吉井だが、それを我慢し飲み込む。
 そんな恋人に神崎は、
「シャワーぐらいは一緒に浴びられるのかな?」
「はい」
 その返事に、吉井の首に細い腕が巻きつく。
 身長の割には軽い神崎を抱え上げ、吉井は浴室に向かう。
 手の塞がった吉井とは違い、抱き上げられているので両手が自由な神崎は、恋人の頬を挟みゆっくりと唇を重ねた。
 朝のキスにしては執拗なくちづけに、吉井は恋人を落とさないよう努力しなければならなかった。


 ネクタイを結ぶ神崎の手は、男にしては細い。だが、骨ぼったいと言うわけではない。細い綺麗な指である。その指が自分の襟元を正す。ただそれだけのことなのに、吉井には媚薬のように思えてしまった。一緒にシャワーを浴びたのが原因なのか、それとも深いくちづけのせいか。
 何にせよ、神崎自身が甘い媚薬であるので仕方がないことなのだろう。
 会社に車を置いたままなので、神崎に送ってもらった。駅まででいいといったが、「夕方まで暇だから」と会社まで送ってもらった吉井は、まだ出勤時刻には早い時間にビルの前に降り立った。
 次はいつ会えるのだろうか。
 窓を開け顔を覗かす恋人を見ながら、ふと吉井は思い出した。
「もうすぐ誕生日ですよね」
「何? いきなり」
「あ、いえ」
「変なの」
「誕生日には、何が何でも仕事は定時に切り上げます。だから…」
 その夜は一緒にいて下さい。
 その言葉を思わず吉井は飲み込んだ。そんな約束を簡単に出来るはずがない…。
 だが神崎は、
「祝ってくれるの? そんな歳じゃないんだけど」
 と肩を竦めたが、「楽しみにしているよ」と微笑んだ。
「ま、定時は無理そうだけどね」
「…頑張ります」
「俊介に苛められるよ」
「…がんばります…」
 顔を顰めた吉井に、神崎は声を上げて笑った。吉井も苦笑する。
 幸せだと思う。
 愛する人が自分の目の前にいる。笑っている。自分を見ている。
 このまま一緒にいたい。出来るならずっと一緒に歩んでいきたい。
 吉井も神崎も心からそう願っていた。だが、互いにどこかでは必ず訪れる終わりを意識している。
 その日まではと願う二人の心の中を通り抜けるように、強い春の風が吹く。
 風は彼らの迷いや不安を飛ばそうとしたのか。それとも、変えられない時の流れを確認させたかったのだろうか。
 ビルの中を流れるように、今日も人々は汚れた街を泳いでいく。
(僕達は何処へ流れていくのだろうか…)
 車を発進させた神崎は、ルームミラーで自分を見送る吉井の姿を見ながら、ふとそんな事を思った。
 少なくとも自分と吉井が同じ流れにこのまま乗り続ける事はない。行き着く先が同じであってはならない…。
 当たり前のことすぎて、神崎はそれを悲しいとも辛いとも思わなかった。

恋愛 END

2002/02/10
Novel  Title  Back  Next