日常

3

 ホテルから病院に向かう途中考えていた事は、このまま静かに逝って欲しいということだ。医者としても人間としても、僕は狂っているのだろう。彼女の死を願ったのだ、僕は。  子供だからと無条件で愛しているわけではない。ただ、弱い彼らが気になる、そんな程度のものだ。それと同時に大人が嫌いであるのも事実…。
 友人は僕をもっと綺麗なものとしてみているようだが、実際は汚い大人と僕はなんらかわらない。この手を汚し、利己的に生きるのみだ。人間なんてそんなものだ。否定しながらもそう認める矛盾した心。でも、それでいい。僕は子供に触れて癒されていると感じていたい、夢見ていたい、ただそれだけなのだから、実際の僕がどうだろうと関係ないのだ。
 そう、僕はこんな人間だ。
 自分を棚に上げ他人を貶すのは当たり前だし、言葉だけならまだしも実際に手を汚すこともする。僕の中には綺麗な部分など存在しない。だが、周りはそう思いたがる。この見目に騙されて。
 他人を生かす立場にいながら死に導いた僕を、友人はどう思うのだろうか。同じ医者として許せないだろうか…。もしそう思ったとしても、彼は僕がそうならざるを得なかった理由があるはずだと考えるのだろう。友人は僕を否定しない。何があっても。
 友人がそう僕を見るのは仕方がないことならば、僕が周りを騙すかのように生きているのも仕方がないことなのかもしれない。なぜなら、どれだけ心を通わせたとしても、人間は他人の心を除くことは出来ないのだから。目の前の現実でしか、ものを量る事が出来ないのだから。例え口にしても、それは形を変えることなく相手に伝わる事など、絶対にない。自分と全く同じ人間など、存在しないから…。
 そう思いながらも、僕は何処かでそんな都合のいい相手を探しているのかもしれない。自分の事が全てわかる相手を…。
 …彼女は、少し僕に似ていた気がする。

 彼女にとってこの世の中は生きていく場所ではなかった。
 それを知っている僕が、助かって欲しいと願っても、彼女の救いの場はここではないのだから、どうしようもない。そう、この世で生きられない者達は確実に存在するのだ。生きなければならないなんて、そんな言葉を言える者達は、この世の中での生を認める者達だ。死を忌み嫌う者達には生を放棄する者がわからないように、死を特別視しない者達は生に対して感情はない。そんなものなのだ。
 はたして幼い彼女がそこまで本当にわかっていたのかは僕にはわからない。僕が生きてきた今までの経験で彼女を量っただけにしかすぎないのだから。全てを理解せず、ただ何かの漫画やドラマに同調して死を見つめただけかもしれない。だけど、確かに彼女の心に生きる思いはなかった。
 僕は勝手にそう判断し、放棄した。いや、死への手助けをした。
 本当に、医者としても人間としても最低な行為なのだろう。だが、僕には生きるということが何なのか未だにわからないので、死が最低なのかどうなのか、正直、わからない。医者が人間を生かすものならば最低な行為なのだろうが、助けるものならば、そうだとは言い切れないのではないか。
 彼女はこれで少しは救われたのではないか。
 そんな風に都合よく考える。それこそが最低だという事なのに。
 僕自身、死ぬということはわからないが、生の終わりとして簡単に受け入れるだろう。そう、僕は彼女の気持ちが少しはわかる人間だった。だからこそ生きろとは言えなかったのかもしれない。僕への憎しみで生きていけるほど彼女の思いが強くないことを知っていた。僕の言葉が彼女を支えられないこともわかっていた。
 そう、これは仕方がないことなのだ。
 なのに…、何故僕はこうも気にするのだろうか…。
(もしかしたら、僕はこの世を捨てた彼女を羨ましがっているのかもしれない…)
 僕は何故生きているのだろうか。
 幼い頃からずっと考えていたこの疑問に今も答えられないでいる。ただ、生に関心がなくてもこうして生きていられるように、死なんて簡単に迎えられるものだと知っているから、彼女のようにこの世を去ることへの願望が、執着がない。
 彼女は救いを求めて生を手放したのだろうが、僕にはそうすることによって助かるものがあるとは思えないし、この苦しみの中で生きることに、僕の生きる理由があるような気がしている。だから、僕は苦しみがある限り死なないだろう。
 そう、それこそ、彼女が僕へ傷をつけたことに満足したように、僕も何か大切な、この心の闇以上のものを得た時には…、…僕は消えてしまうのかもしれない。この世界から――


+++++++


 今日と言う日が昨日と呼び名を変えようとする時刻。それでもホテルのロビーには人影がちらほらとある。小さな子供の手を引く母親が神崎の前を足早に通り過ぎた。視線を向けられているのに気付き、眠いのか目を擦っていた少女が顔に笑顔を載せて小さな手を振ってくる。それに笑顔で手を振り返し、足を組み直す。
 照明が絞られたラウンジのソファに座り、何となく目をむけていた少し先にある明るいフロントから目を外し、天井を見上げ目瞼を閉じる。先程からフロント内にいる男が怪訝そうに、いや、興味深そうに自分を覗っているのに気付いていたが、神崎はそれを無視してだらしなく浅く腰掛け小さく息を吐いた。
 照明を落としているとはいえ、客の目に触れないことはないロビーのラウンジでだらしなくされていたなら客といえども本来なら注意すべき事だろう。それをしないのは、この時間ならば人目が少ないからか、何かをしそうなやばい感じはないからか…。
(それとも、僕には声をかけられない、か…)
 ずるりと体を倒し、肘掛けに腕をつきその上に頭を乗せる。いくらなんでも安いホテルではないのでここで眠ってしまう気はないのだが、そんな神崎の思いなどホテルの従業員には伝わらないだろう。
(さて、どうしようか…)
 部屋を出て降りてきたはいいが外に出る気にはなれずに、神崎はそのままこの場に座り込み暫くの間ぼんやりとしていた。それは一時間ほど前からのことで、いい加減動かなければ何かを言われそうである。
 別に悪いことではないので、ここにいてもいいのだろうが、神崎自身こうして今夜を過ごす気などない。元々外に出て行くつもりだったのが、その行動を起こす気力がなくなっただけで感情は変わっていないのだ。
 今夜を共にする相手が欲しい。だが、誰かを誘いに行くのも面倒。
 このまま大人しく部屋に戻る気はない。なら、このままここで過ごそうか…。そう考え、さすがにそれはと苦笑する。そんな繰り返しで時だけが過ぎる。
 吉井は部屋で熟睡中だ。薬の効果は数時間ほどだが、普段の仕事量を考えると疲れが溜まっているはずの体なので、そのまま本格的に眠ってしまい朝まで目覚めることはないだろう。
 自分に睡眠薬を飲まされた事など気付かない恋人は、明日起こせば笑いかけてくれるのだろう。それを思えば小さな罪悪感が浮かぶが、神崎にとっては溜息一つで流せる程度のものである。なぜなら、逆に今夜自分と一緒に過ごす方が吉井にとっては酷いものだといえるだろうから…。
(…自分でも、言い訳なのか本心なのかわからないな……)
 多分半分は嘘で半分は真実。
 今日は吉井の優しさを受けたくはない気分なのだ。それは自分を甘やかす事も出来るだろうが、それをすれば傷も付く。そして、彼へも傷を与えるだろう。漠然とだがそんな事を思うくらいに神崎の心は冷めていた。
 吉井と共に過ごす時間は好きだが、幸せばかりではないし、そればかりでは自分は耐えられなくなると自身で気付いている。
 吉井とは余りあうことがない。お互い忙しいというのもあるが、会おうとすればもっと会えるだろう。しかし、神崎はそうはせずに他の者との時間を作っている。そのことを初めから言っているので吉井も知っている。自分自身でも最低な人間だと思うが、止められないのだから仕方がない。理由は色々あるが一種の病気だから気にするな、そう吉井に言ったこともある。怪しい事この上ない、そんな言葉通りに本当に気にしていないのか、そういう振りをしているのか…。吉井は自分に未だ愛想を尽かしてはしない。時たま悲しそうに笑うだけで何も言わない。そして、自分自身はそんな恋人の口にはしない思いに気付かない振りをしている。
 表面だけの恋人、そういう言葉が似合いそうだ。
 片方は多数の者と関係を持ち、片方は自分がその一人にすぎずとも文句をいわない。そんな関係など、恋人など呼べはしないだろう。単なるセックスフレンドと言うものだ。
 それは自分だけではなく、元来正常で真面目な吉井も考えている事だろう。自分達の関係はおかしいものだと。大人の関係なんて聞こえはいいが、単にちょっとした損得で付き合っているのだ。体の快感と、そして、現実からの脱線…。少なくとも自分はそうだと、神崎は思う。
 吉井も珍しいものへの興味や体の相性の良さといったものもあるだろう。自分を愛してくれている、それを嘘だとは思わない。本当に、こんな自分に何故くっついてくるのかは謎であるが、疑ってはいない。分不相応だと恐縮するばかりだが、嬉しいと思える。
 だが、相手の自分は確かに見た目はいいだろうが、中身は最低な者なのだ。さっさと手を引かなければならない相手。特に人のいい吉井がつかまる事などあってはならないもの。
(そう、僕が捕まえて良い者じゃないんだよ……)
 神崎は倒していた体を起こし、今度は膝に肘をつき片手で額を支えた。
 単純な面もあるが、社長秘書をこなしているのだ、そればかりではない出来た男だ。そんな彼が何故自分を気に入ったのだろうか。そして、自分は何故、彼を好きになったのだろうか。
 もっと遊びで付き合える者だったのなら、自分も軽く付き合えただろう。もっと嫌な奴だったら、こちらも罪悪感など何処にもなく嫌な奴になれただろう。何故、あんなにも純粋なものに惹かれたのだろうか…。自分が恋をしてもいい対象ではないのに…。
 神崎の口からは自然に溜息が落ちる。
 これでも努力はしているつもりだ。
 欲望のままに走りそうになる感情を吉井には向けないようにし、線を引いているつもりだ。それでも我慢できず、会ったり、体を合わせたり、甘えてみたり、からかったり…。普通の恋人同士のような事をしてしまう。それは相手も喜ぶし、自分も嬉しい。だが、そんな事をしていると、ふとこのまま走っていきそうになる。目の前の獲物を捕らえる獣のように…。
 吉井とは会わずに他の者と時間を過ごすのは、吉井がこんな自分に捕まらないようにするためでもあり、自身の醜い本心を吉井に気付かせないためでもあるのだと、神崎自身わかっている。認めたくはないが、そうなのだ。そんな計算をしている卑怯な者なのだ。
 だが、そうせずにはいられない。いつかは終わりが来る関係で、何故態々それを速めなければならない、自分の醜さを教えなければならない。
(…餓鬼だな、全く…)
 相手が知らない自分を知られるのが怖い。そんな感情があってはどうにもならないものだというのに、子供のようにそう思っているのだ…。
(…笑えもしないな…)
 再び落ちた溜息に、神崎は顔を上げ髪をかきあげた。
 落ち込んでいるわけでもなく、これがもう全てなのだと受け入れている。自分はこんな奴なのだと。何て嫌な奴だと眉を顰めたとしても、それを止める気など何処にもないのだ。結局は居直って、いつもぐるぐると回る考えは終わるのだ。
 こうでなければ生きてこられなかった。そんな言い訳は言わない。これは自分が選んできた道なのだ。後悔はないし、これからもこうして生きていくだろう。

「ここ、いいかな?」
 神崎があげていた手を下ろした時、その声と共に視界に男の靴が入り込んだ。
 よくこんな時間こんな場所に座る自分に声を掛けるものだ。そう感心しながらも顔には出さずに男を見上げる。ブランドスーツを着こなした男が微かに笑みを浮かべて立っていた。紳士然とした感じで、その辺りの俳優よりも端整な顔をしている。その表情から歳は50前後のようだろうが、雰囲気はもう少し若々しい。
「今までお仕事ですか?」
 どうぞ、と隣の席を差しながら神崎も顔に笑みを乗せた。どんな感情であっても、意識せずに微笑みを浮かべる事が出来る。それは幼い頃からの生きる知恵であり、いつの間にか染み付いてしまったもの。感情を伴わない笑いでも相手は気付くことなく騙される。それすらも、嫌悪感も何もなく当然のように受け入れるようになったのはいつの頃からだったろうか。
 自分の問いに頷いた男に、「ご苦労様ですね、こんな時間まで」と笑みを崩さずに神崎は言った。
「なら、こんな時間に君はここで何をしているんだい?」
「別に、何も」
「何も?」
「ええ。出かけようかと思って降りてきたんですが、何故かここまで来たら行く気がなくなってしまいまして」
「じゃあ、部屋に戻れば…?」
「そうですね。でも、それじゃあ面白くないでしょう」
 口角を上げてにやりと神崎が笑うと、男も同じように笑いくっと喉を鳴らした。ポケットから煙草を出し火を点ける。
「面白くない、か…」
「あなたはそう思いませんか? 夜を寝るだけで過ごして楽しい?
 …僕にも一本くれますか」
 煙草を指さすと、男がケースから一本を半分程出した状態で神崎に差し出した。手では取らずに口でそれを抜き取り、喉を鳴らす。その行為に片眉を上げながらライターを出そうとした男の手を押さえ、男が口に咥える煙草から火を貰う。
 普段は全くと言って良いほど口にはしない煙草を神崎はふかせた。
「…いつもは吸わないんですが、極たまに吸いたくなるんです」
「どんな時に…?」
「…さあ、どんな時にでしょうかね。…気になるのなら、調べてみますか?」
「どうやって…」
「お好きなように」
 紫煙を吐き出しながら呟いた神崎に、男はソファに凭れ込み天井を仰いだ。
「…誘われているのかい、私は」
「僕は逆のように思いましたけど。あなたが先に誘ってきたんでしょう」
 しれっとした態度で男の問いに返事を返し、神崎は煙の行方を目で追いながら喉で数度咳をした。絡みつくと言うよりもふわりと滑る煙が少しこそばゆい。
「…ひとつ訊いていいかな」
 電気が落とされたラウンジにはロビーやフロントの明かりが充分にとどいてはいるが、それでも外を見る事が出来た。水銀灯の光にいくつもの虫が集まってきている姿を目に捉える。  そこから視線を外さずに、けれども興味のないような色は見せずに「なんですか?」と神崎は男に言葉を促した。
「誘いは嬉しいのだが、なにぶん年を取ると疑い深くなってね。
 君のように若い子からすれば、私など相手にしたくはないオヤジだろう? 私は騙されようとしているのかな?」
 男を振り返ると、煙草を灰皿に押し付けながら視線を真っ直ぐと向けてきていた。その目は笑いを含んでいる。
 神崎は軽く片眉を上げ、口元だけで笑った。
「騙される、そんな要素はどこにもないと思うけど。お金を要求するつもりも、強請るつもりもないけが、そう危惧するのなら止めておけばいいだけのこと。
 以外に、慎重なんですね」
「普段はそれほどでもないが。
 綺麗な子には誠意を持ちたくなるんだよ。年を取ると幼くなるんだよ」
「少年のように…? 純粋ですね」
 意味のない会話だ。そう思いながらも笑顔を零す。
「この歳で、恋愛で痛い目は見たくないからね。少々怯えているのは事実。君のように綺麗な子の誘いなら、まさかと思って疑うものだよ。
 自分の程度は私自身が一番知っているからね」
「ならば、交渉成立と言うことでしょう。あなたは勝ち目がないと踏んでいて誘いをかけはしないでしょう…?」
「さて、どうだろう。
 …私でいいのなら、お願いしたいのは確かだが」
「それはこっちの科白かもしれません。
 きっとあなたが思うほど、僕は若くはありませんよ。いいんですかね、それでも」
「…若くない、っていっても、私の半分ほどだろう。いくつだい?」
 首を傾げた男に、「年を言って断られては立ち直れないので、秘密にしておきます。年齢が気になる年なんですよ」と神崎は笑いかけた。その言葉に肩を竦め、男が「じゃあ」と立ち上がる。
「行こうか」
 神崎が立ち上がるのを確認し、男は歩きはじめた。カツンとロビーの床に靴音が響く。その後を足音を立てずについて行く神崎に、フロントの中の従業員が視線を向けてきた。おかしな客が去った事への安堵か、それとも男との交渉を察しての奇異の視線か、はたまた嫉妬か熱を帯びた眼差しか。
 視線を受けながらもそれが何であるのか見返すことはせず、数歩前を行く男の足元を見ながら前へと進む。
 おかしなことなのか、当たり前のことなのか、神崎の頭の中には誰の顔も浮かばない。


 エレベーターに乗り込み、時間的に他の客に邪魔される事はないだろうと、抱きしめ合いくちづけを交わした。先程の煙草の味が消えるほど舌を絡め弄りあい、息が上がりどちらからともなく唇を離したのは、エレベーターが目的の階につき扉を開けた後のことであった。
 男に腰を抱かれたまま廊下を進み、鞄から出したルームキーを神崎は横から奪い男の変わりに差し込み部屋の鍵を開ける。中に入ったところで、男の服を引っ張り再びキスを交わした。手から落ちたカードキーが自分の靴にあたり、神崎は喉で軽く笑う。すると、男がきつく神崎の舌を吸った。何に笑ったのか知らない男の神崎に対する抗議なのだろう。
 だが、逆に舌を抜き取り追いかけてきた男のそれを軽く噛み逃げ惑い焦らしていく。
「…シャワーは…?」
 ようやく入口から寝室へと移動し、顔に唇を落としながらシャツの裾から手を進めてきた男に神崎は訊いた。
「オヤジ臭いってかい?」
「あはは、何それ。違うよ、訊いただけ。仕事で疲れているんじゃないの?」
「君は? 一緒に入るかい」
「いや、僕はもうさっき浴びたから」
「なら、私も止めておこう。風呂より君のほうがいい。…いや、君が嫌なら汗を流すが…?」
「いいよ、僕はこのままでも」
 神崎はそう言いながら男のシャツのボタンを全て外し、アンダーシャツの上から胸にキスを落とした。軽く噛み付くと男が喉を鳴らす。
「恋人は?」
 親子近く年下の神崎に高められるのは嫌なのだろうか、男は神崎の体を押さえ込みながら意識を逸らせるように言葉を紡いだ。無駄口に付き合えないほど興奮する事もなく、小さな笑いを落としてそれに答える。
「いるよ、下の部屋で眠っている」
 男の足に足を絡ませ、少し起こした頭で自分の肩にくちづける男の耳を食みながら、神崎は素っ気無く答えた。だが、あまりにも予想外の事であったのか、男は動きを止めてまじまじと顔を覗き込んでくる。
「…下って、このホテルにいるのかい?」
「ええ」
「…恋人を放って、こんな事を…」
 信じられないなといった目で見てくる男に神崎は首を傾げた。
「駄目ですか?」
 今夜の自分達の関係に、恋人がいるかどうかなど関係がないというものだ。恋愛をしようとしているのではないのだから。それを言うのなら、この男にも妻子はいるのかもしれないし、何よりも男同士の関係を持とうとしている中でモラルなど存在しないのではないか。
 自分の言わんとしている事など男にもわかるだろう、なのであえて口にはしない。ただ、静に顔に笑みを乗せる。
「…ふられてやけになっている、とかじゃないよね?」
 説教が来たら面倒だなと思ったが、男の口から笑みと共に出たのはそんなものであった。
「まさか、向こうが寝てしまっただけ。言ったでしょう、僕は寝て過ごす夜なんて退屈なんだと」
「……。…怖い子だね」
 少し考えるように眉を寄せた後、男は喉で笑いながらそう口にした。
「嫌になった?」
 神崎の質問に、男は行動を示して答える。
 顔にかかった髪をかきあげられ、近付く顔に目を閉ざす。直ぐに頬に落ちてきた唇は、震え出しそうな恐怖をよぶほどの興奮を覚えさせるものでもあり、何も感じはしない無機質なもののようでもある。
 男の愛撫に応えながら、ふと何もかもが溶けてなくなりそうな根拠のない不安に駆られた。それはいつものことだが慣れることはなく、無意識に神崎は男の体を抱きしめる。
 しがみ付き首筋に顔を埋めた神崎が大きく息を吸い込むと、慣れ親しんだ、それでいて全く知らない、自分とは違う生き物の匂いがした。今日一日この街を泳いでいたのだろう男からは、汗と自分よりも長い人生の匂いがする。
 軽く歯を立て甘噛みをすると、少し塩辛い味がする。強く吸い付くと、意外と焼けている肌に鬱血が出来上がる。
 至近距離で目を合わせると、年を取っていると笑った男は、そんな欠片も見えないほど獰猛な獣のような色をそこに持っていた。
 きっと、自分もそうなのだろう。いや、この男よりも、もっと卑しい獣なのだ。
 神崎は心の冷めた部分でそんな事を思いながらも、ただ目の前にある熱に身を委ねた。


 帰るのかと訊く男に、「恋人が目覚めないのなら朝までいても良いんだけどね」と笑い、神崎は部屋を後にした。数回分のエレベーターは直ぐに目的地へとこの身を運ぶ。そんな短い間では、男の匂いは消えはしない。
 部屋に戻るとすぐにシャワーを浴びた。シャカシャカと歯を磨きながら、鏡に映る自分を何となく眺める。無愛想というよりも、無表情な顔。口角を上げると、嫌な笑いを浮かべた表情になる。とてもじゃないが、無垢な笑みになど見えはしない。
 自分の顔が昔から嫌いだった。世間一般的にこの造りを綺麗だと表現するのは知っているが、だからと言ってなんなのか。人間の顔でしかないのに、騒いだり執着したりする者達の感情は神崎には理解出来ない。特に自身に対してのそれは、多くの場合意を脱しているのだから、余計にだ。
 口をすすぎ、軽く息を吐く。煙草の味はしないが、喉があの感触を覚えてしまっているようで何となく歯痒い。数度喉を鳴らし、今度は大きな溜息を付きながら扉を潜る。
 出て行く時と同じように、ベッドの上では吉井が穏やかな寝息を立てていた。空いている方のベッドに腰掛け、ぽたぽたと水滴が落ちる髪をそのままに、暗闇の中で恋人の姿を眺める。
 出会って半年程になるが、その間にこうして会った回数など極僅かなものだ。それなのに、一緒にいる時でさえ他人と関係を持つ自分は何て奴なのだろうか。
 今更の事だというのに、神崎は自嘲気味に肩を揺らせた。
(馬鹿馬鹿しい、とんだ茶番だ…)
 日頃から自分の行動を口には出さないが嫌がっている恋人が今夜の事を知ったら、何故だと問うだろう。もしそうなったとしても、それに答えるだけの言葉は神崎にはなく、自分はこう言う者なのだとそれで終わりにするのだろう。
 自分の行動に、どんな意味があるのか。神崎自身上手く言葉になど出来ない。いや、わかっていない。今夜の引き金は確かに少女の死だったのかもしれない。普段から他人と体を合しはするが、恋人が同伴の時にそれをするほど最低な者ではないつもりだった。それなのに、それをしてしまったという事は、それだけ自分が焦っていたと言う事だろうか…。
 神崎はゆっくりと立ち上がり、吉井の眠るベッドに腰を降ろした。
 自身で気付かないほどの焦りとは、一体なんなのだろうか…。その答えはもうすでに見付けてしまっている気がするが、それを認めたくはなく、神崎は軽く頭を振った。
 死に頻繁に関わっているうちに、自分の中で人間が死ぬ事など当たり前の事になった。騒ぐ心も流せられるほどに。
 いや、正確に言えば、昔から別に死に怯えていたわけではない。自らの死など、それこそ漠然的にだが常に目の前にあった。ただ、他人が、今まで自分に関わってきたものが死ぬという事が、神崎には受け入れたくはないものであったのだ。一人また一人と消えていくたびに、自分の存在自体がこの世から薄れていっているように感じてならなかった。
 だから、それに負けないよう、沢山の者と関わりをもった。心底打ち解けあう者は少ないが、付き合いだけならば数え切れないほどの知り合いがいる。学生のころも、社会人になってからも、交友関係は広がるばかり。
 それで安心を得られていったというわけではないが、沢山の者と関わるうちに心が麻痺していった。別れなど当たり前のことなのだと。
 だが、時たま、心が騒ぐ事がある。そしてそれに身を委ねてしまいそうになる時がある。
 そんな時、神崎が思い出すのは、決まって昔の事だ。数年前のことであったり、幼い頃のことであったりとその時によって違うが、決まって、今の自分が昔の自分を見るのだ。そして、自分は何も変わっていないなと思い知らされる。
 どうしようもないほどに、自分の存在が受け入れがたいものでしかなくなるのだ。最低だ、卑しい奴だと詰る言葉など出てこず、何も出来ないほどにただ自分の存在が邪魔でしかなくなる。
 その感情を押さえ込める力は自身にはなく、他人に手助けを望む。そう、今夜もそうしただけにすぎないのだ。
 だが、それだけではない。
 他人の熱だけを求めるのなら、吉井でも良かったのかもしれない。だが、吉井は神崎の不安を膨らせるばかりなのだ。
 それを自身で気付いていたからこそ、この部屋から出ていった。
 こうして神崎が恋愛として付き合っているのは吉井だけだ。関係は沢山あるが、相手は同であれ、神崎にとっては体だけでそれは恋ではない。愛という執着はあるのかもしれないが、自分は相手を求めてはいない。ただ、人の温もりを求めるのであって、極端な事を言えば人格などは関係ない。
 神崎がしているのはそんな付き合いばかりだ。いつでも切ることが出来るもの。たとえ突然切り捨てられても縋り付きなどはしない。
 その中で、吉井だけが違うのだ。神崎にとっては彼の全てが大切で、大事すぎて逆に自分は何も出来ないほどに。
 一見周りに呆れられるような熱い関係であるが、実際には一線を引いての付き合いだ。体を合わせる時ですら、冷静に制御する自分が必ずいる。
 自身のマイナスの感情を神崎は吉井につきつける事が出来ないのだ。あまりにも大切すぎて、今自分に捕まっている、それだけで吉井にとっては不幸であるのに、更に何かをすることは出来ない。
 馬鹿な建前を言えば、吉井を思っての事だと言えるのかもしれないが、実際には自分は怯えているだけなのだとも神崎は気付いている。醜い自分をさらしたくはない。吉井に嫌われると言うのもあるが、それをした自分が自身で赦す事が出来ないだろうから…。
(恭平、僕はどうしたらいいんだろうか…)
 神崎は体を横たえ、そっと吉井の胸に頭を乗せた。
 本当にわからないのだ。自分がどうしたいのか、何を望んで知るのかが。
 だから、今はこの関係を壊したくない。そう思っているのは確かだ。今のままが一番良いのだと。
 これ以上、吉井を必要としたくはない、好きになるのが怖い。だから、今の場所から自分は絶対に動かない。それと同じように、吉井にもその場所を動かせない。彼が動くのを自分は止める。
 それは傲慢と言う以外の何物でもないのだろう。自分に都合の言いように全てを弄ぶ。吉井の心も、自身の心も知っていながら。
(だが、他に方法はないんだ…)
 トクントクンと規則正しく打つ胸の音に、神崎は目を閉じた。広がるのは闇ばかり。だが、確かな温もりとその心音が傍にあるだけで、光のない闇でも幸せを感じる事が出来る。
 穏やかな闇。自分はまだこの中にいたい、この安らぎを手放したくはない。
 なくす事への恐れや、傍にいる事によって生じる不安はあるが、今はまだ失いたくないのだ。
 それが我が儘だというのだ、と子供のような自分に嫌気がさすがどうしようもない。心も体も願っているのだから。
 全てが欲しいとまでは言わない。ただ、今のように、錯覚であっても甘い関係を続けていきたいのだ。その事によって、吉井が傷つこうとも。彼から止めようと言われるまでは…。
 どうしてこんなにも好きになったのだろうか。その疑問に答えなど出ることはない。気付けば存在したこの感情。本気で他人を愛す事はないと思っていたというのに…、その現実に陥りやっと神崎は気付いた。本気で他人を好きになってはならないのだと言う事に。好きであればあるほど、それを求めるのは罪なのだということに。
(…このまま、終わりを待つしかないのだろうか…)  それは神崎にとっては、今まで生きてきたように流されればいいだけのことで、とても楽な方法であるが、はたしてそんな事が可能なのかどうかもわからない。今までは周りが動いてくれた。だが、吉井との関係は、自分が思う以上に体が心が勝手に動くのだ。押さえ切れない自身で、どんな結果が得られるというのだろう…。
 本当にどうしたらいいのかわからない。
 何度も何度も考えても見出せない結論は、今夜もまた形を変えずにそこに立ちはだかるだけなのだ。
 クツクツと体の中で何かが燻る。その中で神崎は一心に吉井の心音に耳を傾け闇へと身を沈めた。
 朝日が顔を覗かせるまでは、このままで……。



「…すみません、少し失礼します」
 震える携帯を手に持ち、困ったように眉を寄せた吉井は、神崎にそう断りを入れてレストランを出ていった。その後ろ姿を眺め、微かな笑をもらす。この時間に電話をかけてくる者を想像するのはそう難しい事ではない。
 ホテルの2階にあるレストランで朝食を取ろうと提案したのは吉井の方で、神崎自身は食欲などあまりなく、吉井が食事をする姿を眺めながら軽くコーヒーに口をつけていた程度なので、その吉井が去ってしまっては手持ち無沙汰だ。軽い溜息と共に視線を落とす。
 電話の相手は彼の上司だろう、直ぐに話が終わる確率は低い。
 そんな事を思いながら視線をずらし、窓の外に目を向ける。もっと上の階に行けば朝日に包まれるビル群を見る事が出来るのだろうが、この高さで見えるのはホテルの敷地内のものばかりで少し味気ない。だが、日本的な特徴の貧相である噴水が、それでも生まれたばかりの光を受けて煌く姿は綺麗であった。
 ぼんやりと外を眺める神崎は靴音がこちらへ近付いてくるのを耳にとらえた。それは側で止まり、人の気配に少しいぶかしみながらも振り返る。
 そこには昨夜の男が立っていた。神崎が顔を向けると口元に笑を乗せる。
「おはようございます。座りますか?」
 視線で吉井が立った席を示す神崎に、男は喉で笑いながら首を振った。
「いや、遠慮しておくよ。直ぐに戻ってくるんだろう」
 その答えは先程から自分達を見ていたという事実を匂わせていた。吉井が席を外したからやって来たのだろうか。
「…本当に恋人と一緒とはね」
「嘘だと思っていたんですか?」
 神崎の問いに笑いを漏らすが答えはしない。
「君とタイプは違うが、彼も可愛いね」
「お貸しする事は出来ませんよ」
「そうか、残念だな。…いや、冗談だよ。
 それより。私はこの週末までここにいるから、良かったらまた会ってくれないだろうか」
 男の言葉に今度は神崎がクスリと笑いを漏らした。
「気が向いたなら、来て欲しい…。…彼には悪いがね」
 男がちらりと視線を向けた先に、吉井の姿があった。見られたことに気付いたのか顔を上げ、足を一瞬止める。自分の側に男がいるから戸惑ったのだろう。だが、直ぐに歩みを再開する。真っ直ぐと視線を向けて進んでくる…。
「…別に僕は彼の所有物じゃないですよ」
 吉井を見たままそう答えた神崎に笑いを落とし、「じゃあ、次がある事を願っているよ」と男は言葉を残し、自分に視線を注ぐ主へと向かって歩いていった。
 神崎の視線の先で、男と吉井が擦れ違う。その一瞬、二人は足を止め、そして直ぐに男は歩き去っていった。吉井はその男の後ろ姿を首だけで振り返り見送る。その視線が自分に向き直った時、神崎は軽く手を挙げ微笑んだ。
「電話、俊介だったの?」
 席につく吉井に、神崎は笑みを漏らしながら尋ねる。
「…ええ」
「朝早くから大変だね」
「…晶さん」
「何?」
 コーヒーカップを手に取りながら、硬い表情の吉井に神崎は首を傾げた。訊かれる事などわかっている。
「今の人は、…誰ですか?」
 訊いてはならないのだろうが訊かずにはいられない。そんな躊躇いを含ませたまま、吉井は少し苦しげに眉を寄せ、神崎から視線を逸らした。
「…いえ、言いたくないのであれば…」
「別に、訊きたいのなら教えるよ。恭平には関係ない人だろうけど。
 前に務めていた病院で世話になった外科医。今は三重で病院を経営している人だよ。学会でこっちに来たんだって」
「そう、ですか…」
「うん、そうなの。僕を引き抜こうとした少し変わった人だけど、いい人だよ。
 何か言われたの、恭平?」
「いえ…。……素敵な恋人がいて羨ましい、と…」
「あはは、からかわれたのか」
 声に出して笑いながら、困惑を顔に載せたままの吉井に微笑みかけた。言い訳にしか聞こえないありきたりの嘘。だが、それを信じろと言う様に、更なる問いかけを出来ないように神崎は言葉を繋ぐ。
「こんな時間にこんな所にいるんだから、多少なりとも僕の事を知っている人だったら、恭平と僕がどんな関係なのかわかるものだよ。だから、ちょっとからかっただけなんだよ。
 そう気にしないで。彼は別に知っているからと何かしてくる人じゃないよ。第一、恭平が何処の誰かなんて知らないはずだし、大丈夫。心配しないで」
「いえ、そんな心配は…」
「そんな、って…、それを心配しなきゃ、何を心配するの。
 …男同士の恋愛はそうリスクの低いものじゃないよ」  口にせずとも吉井にはそんなことはわかっているだろう。真意をはぐらかすために持って来た会話は、けれども吉井を苦しめる材料でしかない。
 男同士云々と言う前に、自分達は本当に恋人とよべるものなのだろうかと不安を抱える吉井にすれば、茶番もいいところなのだろう。そう思いながらも、神崎は笑いながら話を濁し、これで終わりだというように席を立った。
「行こうか」

 無言でだが反対はせず、自分に従いレストランを出たところで、吉井が声をかけてくる。
「晶さん」
「何?」
「…怒りましたか…?」
「何が?」
「いえ…、…すみません…」
 横に並び歩きながらそう呟いた吉井に神崎は喉を鳴らした。
「怒ってないよ。何に怒るの。謝ってもらうようなことはないんだけど」
「……」
「そうだね。なら、いまいちわからないんだけど、恭平にそんな事をさせてしまう態度を僕が取っていたという事だから、謝るのは僕の方か。
 ごめん、不安にさせてしまったんだね」
「晶さん…」
 こんな言葉に、何の意味があるのだろうか。
 自分の口から出た瞬間、それは全ての色を失い、何も持たないものとなっているような気がして嫌になる。だが、そんなものでも、他人には通用するのだ。
 口先ばかりの何ものでもないとばれていたとしても。
 言葉は思いを相手に伝える手段であるはずなのに、自分の場合、それを隠す術なのだろう。嘘で塗り固めていった時、一体何が自分の中にあるのだろうか。
 車へと向かう足を止め、少し先を行く恋人の後ろ姿を眺める。
 このまま、彼と自分との間に壁が出来たとしても、彼自身が消え去ったとしても、自分は再び彼に手を伸ばす努力をするだろうか…?
 その答えは神崎にはわかりきっていた。
 ふと振り返った吉井と自分との距離が、少しずつ長くなっていっているような気がする。だが、まだ今は縮められる距離――
 軽く肩を竦め、足を進める。カツンとなる自分の足音が、神崎にはタイムリミットを刻む時限装置の音のように思えた。
 終わりを迎えるまで、後どれくらいあるのだろうか…。

日常 END

2002/08/18
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