日常

2

 人なんてとても脆い生き物だ。
 少女は元々は自殺未遂を繰り返し精神科に入院していたのだが、長いリハビリで回復し退院をした。だが、一ヶ月もしないうちに今度は小児科に入ってきた。病名は肺炎。風邪を拗らせた程度でさほど酷いものではなかったが、本人に治す意志がないからなのか、一向に良くはならなかった。そうこうしている間に、再び自身に傷をつけ始めた。
 自殺と言うほどまではいかないが、普通なら到底出来ることではない傷を自分の体に刻む。躊躇いも何もない、綺麗な切り口から流れる血を僕何度拭っただろうか。
 精神科に移そうかと前担当医と話をしたが、彼女がそれを頑なに拒否した。僕が担当でなければ嫌だと言ったためだ。
 こう言えば、彼女が僕に懐いていたかのようだが、実際はその逆だった。いや、気に入っていたのだろう。周りに全く関心がいかない中、僕だけに感情を表した。暴れる事はなく静かに、一見まともに。だから、僕以外の者達は彼女が回復に向かっているのだと思っていただろう。壊れていっているのを知っていたのは、僕だけだった。
 入院当初は暴力の対象は自分自身ではなく、医師や看護婦達に向かうものだった。いや、暴力とは言えないのかもしれない。診察に行くとその辺の物が飛んできたり、爪を立てたり、噛み付いたり、と言った反抗のようなもの。だが、一歩間違えば大怪我になるようなことであるのも確かだ。
 それが彼女自身に向かうようになったのは、多分、僕のせいなのだろう。
 僕を傷つけるためには、自分が傷つけばいいのだと彼女は気付いたのだ。そしてそれを躊躇うことなく実行した。
 自分が不幸だとは思いたくない。今の自分がなんて惨めなのかと考えると狂いそうになる。こんな自分はこの世の中にいてはいけないのだと思ってしまう。ここにいる理由が欲しい。
『だから、私はセンセイを傷つけたい。私が苦しんでいるのと同じように、センセイも苦しめばいいんだ。
 だって、センセイは医者なんでしょう? なら、私の傷を知らなきゃ。怖くて怖くて仕方がない。それから逃れるためなら、私は何だってする』
 彼女はそう言って自分を傷つけた。そうする事で僕が傷つくのだと信じて。他人を傷つける事で、自分の存在を確かめる。自分を見てくれるものが居るのだと…。
 そう、彼女は僕にそうして縋り付いていたのだろう。どうしようも出来ない心を、僕に救って欲しかったのだ。彼女の言葉を聞いた者ならそう判断するのだろう。
 だが僕はこれは彼女の望みだったように思ってしまう。
 そう、こうしたことによって、僕は一生彼女を忘れるということはないだろうから。そこまで彼女は考えていたのではないだろうか、そう思ってしまう。この世で助かりたかったわけじゃない、彼女の目の前には変わる事のない死があったのだ。そこに辿り付く前に、死を選ぶ前に残したかったのではないか。一人でもいい、自分を覚えていてくれるものを。それが憎しみでも何でも、絶対に自分を忘れない者を。
 衰弱していく体は、年老いた者のように肌はかさかさになり、精気も何もなかった。僕以外の者の前では人形のようだった彼女は、僕にだけ敵意を見せていた。
 直接の死因は睡眠薬の多量摂取によるものだった。眠れないからといって貰っていた睡眠薬を溜め込んでいたらしい。それを知った時、いつだったか彼女が言っていた「人間なんて簡単に死ねるんだよ」と小さく呟く声が耳に響いた。そして、そんな用意をしていた自分に気付かなかった僕に、ざまあみろ、何が医者だ。そう嘲笑っている声も聞こえた。
 僕以外の者達にとっては、落ち着いていた彼女の突然のこの行動は驚くものだったのかもしれない。だが、僕は違う。知っていた。それなのに何も出来なかった。
 …いや、しなかったのだ。
 必要ないと思ったのだ…。


+++++++


 カウンターの席に腰掛けた神崎に店が始まってから何人かの客が声をかけてきた。そういった店ではないというのに何を考えているのかと呆れはするが、声をかけずにはいられないような顔を自分はしているのかともおかしく思う。誘っているのではなく、愁いてるというのか。多分かまって欲しそうに目立つ所で泣いている子供のようなのものなのだろう。
 神崎が自分をそう分析し小さく笑った時、また一人の女性に声をかられた。隣の席を尋ねられ、先程と同じように断りを入れる。だが、声を掛けた彼女は諦められないのか神崎の肩に手を乗せた。
「それって断る口実?」
「いや、本当に人を待っているんだよ」
「振られたんじゃないの、さっきからずっとこうしているでしょう」
 まだ若いのだろう、妖艶というよりはそう見せようと計算したような色を見せる表情で小さく笑う。そんな彼女に、これ以上のものはないだろうという自然で綺麗な笑みを神崎は浮かべた。
「ずっとって、見ていたのかい?」
「…見られずにはいられないでしょう」
 自分から仕掛けてきたのだが間近での極上の微笑みに逆に頬を染めることになり、彼女は僅かに視線を逸らした。神崎はそんな仕草に喉を軽く鳴らし、肩に乗った彼女の手をさり気なく外す。
「振られたというか、単に僕が待ちたくて待っているだけだから。折角だけど」
「なら、その相手が来るまで、いい?」
 首を傾げる姿は、子供のような感じがする。自分が思うよりもまだ幼いのかもしれないと神崎は考え、再び喉を鳴らした。
「いや、今日は止めておくよ。また機会があったら誘って」
「…この店にはよく来るの?」
「そうだね、たまに、かな。
 そんな偶然には賭けたくなんてないか?」
「…オーケイ、じゃあ、次に会った時は逃がさないから」
 その言葉にクスリと笑う神崎の頬に彼女は唇を落とし、会計を済ませて店を出ていった。どうやら見ていたと言うのは本当のようで、自分を釣って帰ろうとしていたようだ。
「…見られていたとは、かっこいいものではないな」
 そう呟き笑った神崎に、カウンターに戻ってきた芳養が酒を造りながら、「見ていない奴がいるかよ」と小さな声で返した。顔には出さず溜息まで吐く。
「今ので4人目。閉店までいたら両手は行く。
 ったく、人の店で色香を振りまいているな。待っていずに迎えに行けよ」
 芳養の言葉に神崎は肩を揺らせた。
「客だよ、僕は。追い出すんですか?」
「追い出せるものなら追い出したいね。だがそれをやったら裕樹に叱られる。それに、水島にも。人の従業員を手懐けやがって」
「違うでしょう。千尋さんが僕を追い出せないんでしょう?」
「…酔っ払い」
 神崎の前に新しいグラスを置きながら芳養は眉を顰め苦々しげにそう言った。
「酔っていませんよ、…僕はね」
 酔っているのは周りの者達でしょう。そんな言葉を隠した神崎の呟きに、芳養は喉を鳴らした。
「お前が言えば、嫌味にもならない。
 それにしても、本当にフラれたんじゃないだろうな。お前をこんなに待たせるとは、珍しい」
 芳養には何度か吉井を合わせた事があるが、神崎の相手としてはかなりまともだからか、彼本人の穏やかな性格のなせる業なのか、この店主は吉井を気に入っている。さして神崎の前で話をしたりする事はないのだが、それなりに気があっているようだ。
「約束じゃないので、来るのかどうなのかもわかりませんよ。まだ、仕事をしていてもおかしくない時間ですしね」
 壁にかかった極めてシンプルな時計を見ながら、神崎は肩を竦めた。時刻は8時半を回ったころだ。吉井の勤める会社からこの店まで、車でなら30分もかからないだろうが渋滞に巻き込まれればその倍以上かかってもおかしくはない。
 必ず来るだろうと神崎は思っているが、それが何時になるのかは正直全くわからない。普段の帰宅時間を考えるとまだ当分はきそうにない。だが、自分が待っているとわかっているのなら、急いで仕事をするだろう。
(はたしてそれが、成功するかどうかだな…)
 急いでいる部下を知っていて意地悪をする上司がいるからな、とその人物を思い浮かべ神崎は口元を緩めた。もう何杯目かも忘れたグラスにくちづける。
「…恋人と待ち合わせなんですか…?」
 おずおずとしながらも、グラスを拭きながら水島が興味津々に神崎に訊いた。
「まあ、そんなところだね」
 待ち合わせかと問われれば、勝手に待っているのでそれは成立しないように思うし、恋人かと聞かれれば、頷きたい所だが実際他人から見たらどうなのだろうかと首を捻るもの。
 少しふざけた返答を頭で考えながらも、当り障りのない言葉を神崎は返した。
(それで現れたのが男だったら…、驚くだろうか…? それとも、後の二人に丸め込まれるだろうか…?)
 神崎がニコリと笑いかけると、水島は慌てたように止まっていた手を動かし始めた。
「海、これやり直し。指紋がついてる」
 奥の調理場から出てきた田澤が水島の側を通り過ぎなに、一つのグラスを指さしていく。その言葉に言われた本人は軽く眉を寄せ、どこが汚れているのかとグラスを睨みつけた。少々むくれた姿は母親に叱られた少年のよう。
「相変わらず、厳しいね」
「ま、当前の事だからな」
 その言葉に「そうだけど」と神崎は返し、
「でも、意外と難しいよね、グラスを綺麗にするのは」
 と、水島に声を掛けた。
「どうせ、酒を注ぐ時につけちゃうんだし、客もそんなの気にしないだろう。そう思わない?」
「え? いや、その…」
 答えにくそうに口篭る水島に、「僕はそう思っていたんだよ」とニヤリと神崎は口角を上げる。
「なんだってここまで、ってね。客に不快感を与えたらそれで終わり、だからきちんとする。わかってはいるけど、限度があるっていうものだ。
 そんな気持ちだけど、言われたように綺麗に磨いていたんだけど、ある時、「お前の磨き方じゃ、いつまでたっても綺麗にはならない」って言われたんだ。なんだよ、それ。って感じで何を言われているのかさっぱりわからなくてね。もしかして、これって言いがかり、苛めかなのか、なんて思ったりもして」
「…嘘をつけ」
 クスクスとその時の事を思い出し笑いながら話す神崎に、芳養が溜息混じりに口を挟んだ。
「嫌、ホントですよ。だって僕も確かに綺麗に磨いていましたから。
 なのに、ね。水島君。
 それなら貴方が磨いてみてくださいよ、とグラスを渡したらね、ホント全然違うもののように綺麗に磨いたんだよ。何が違うとはいえないくらいなのに、もう、全く違うんだ。その時やっと、何故磨くのかわかったよ。
 僕の磨いたグラスは確かにどうって事はないもので、指紋なんてあっても気にならないようなものなんだけど。本当に綺麗に磨かれたものなら、汚れなんてあってはならないものって感じなんだ。絶対的なもの、そんな感じ」
 神崎の言葉に、いまいちよくわからないといった表情で水島は瞬きを数度繰り返した。
「そんなに、凄いんですか…?」
「そりゃ、もう。でも、海くんは見慣れちゃっているからそう思わないのかな」
「え?」
「千尋さんだよ、僕を打ちのめしたのは」
「なんだ、その言い方は」
「でも、ホント、それぐらいショックでしたよ。たかがグラスでも、磨く人によって、持つ人によって輝きが違うんですからね。人としての違いを見せ付けられちゃいましたよ」
 当時ホスト以上に神崎が客からちやほやとされているのが面白くなかったのは、同じ店の者ではなく、神崎自身だった。常に笑顔を浮かべてはいたが正直退屈で、そろそろ辞めようかと思っていた時、それまで殆ど話した事がなかった店のナンバーワンである芳養に、自分のやる気のなさを見透かされた。たかが、グラスひとつで。
 正直、それまで他人は自分ではないのだと切った見かたしか出来ないのだと思っていたのに、悔しい、そんな感情が神崎の中に芽生えた。ただ、対抗しようというものではなく、自分も慣れるものならなってみたい、そんな憧れであった。悔しいと妬む気持ちよりも、芳養自身に惹かれるものの方が強かったのだろう。
「なんだか、グラスが磨く者自身のように思えたんだ。綺麗に輝かせられる千尋さん、一見綺麗だが味気ないグラスでしかない僕…なんてね。
 今はもう、怖くて磨けないな。綺麗じゃなかったらショックだからね」
 おどけながら神崎は笑った。だが、実際磨いたらあの頃以上に味気ないものなのだろうとわかっている。自分には綺麗になど磨けはしない。
「なら、俺のはまだまだ汚れているのかな」
「海くんのはもう十分に綺麗だよ。若さが満ちているって感じで元気があって僕は好きだよ。
 ここだけの話…裕樹くんのは少しピリピリとした感じだね」
 本人が聞こえないところにいるのを確認し、なおも声を顰めて神崎が言った言葉に水島が大きく頷いた。
「あ、それ、俺も思います!」
「でしょう。楽しそうに磨いているわりには、神経質って感じがするんだよね」
「なるほど、磨く者の味が出るのか…」
 グラスを光に翳して回しながら、水島が感慨深げに呟いた。そのグラスはオレンジ色の光を受け綺麗に輝く。模様も何もないグラスだが、確かに色を持っている。若い青年の色を。
 それは神崎には微笑ましく、そして眩しいものでもあった。

 先程よりも丁寧に、気持ちをこめてグラスを磨く水島の手元をぼんやりと眺めていた時、何の前触れもなくカランと勢いよく入口の扉が開き、静だった店の雰囲気をガラリと変えた。
「す、すみません、神崎は…」
 声を顰める努力は必要ないのだろう。息をきらせて掠れた声で搾り出すように言った言葉は聞き取れないようなものだった。だが、声はそうでも態度は慌ててやって来たとわかるものなので、店の注目が一気に入口へと向かう。
 そこに神崎は待ち人の姿を見つけ、軽く手を挙げ名前を呼んだ。
「恭平」
「あ、晶さん。良かった」
 慌てて入ってきたのは少し頼りなげな感じに見えるサラリーマンで、客達の視線はその男と、先程から熱い視線を注がれていた神埼との間を行き来する。
 そんな目には気付きもせずに自分の隣の席に腰を下ろした男に、神崎はクスリと微笑んだ。他人の目には良いものも悪いものも鈍感であるところは、この男の欠点ではなく愛すべきところである。自分とは違い、他人を上手く計算し扱えない不器用さは子供のように純粋だ。
「下に車がないので、帰ったのかと思いました…」
「まさか。裏だよ。恭平、車でしょ?」
 夕方に神崎が電話をかけた相手である吉井は、やはり思ったとおり仕事を終え慌てここまでやって来たようだ。下に車が見当たらず不安になり、場所を考えず駆け込むほどに焦ったようで、普段ならば慌てて失態するなどいうことはないのだろうに、そう考えると神崎の口から笑いが漏れる。
「帰るわけがないだろう」
 本人はいたっていつでも真面目なのだ。その率直さが可愛くもあるが、笑わずにはいられないというもの。喉を鳴らす神崎に、吉井は困ったように眉を寄せ苦笑した。何故笑われているのか、わかっているのかどうか怪しいものだ。
「ですが、携帯も出ませんし、急に仕事でも入ったのかと…」
「ん? …ああ、そうか、ごめん。恭平に電話した後電池切れになったんだよ、携帯」
「そうだったんですか。
 あ、すみません」
 芳養がミネラルウォーターをグラスに入れて出してくれたのに対し、吉井が軽く頭を下げた。
「それより、まだ9時だよ。仕事、早かったんだね」
 神崎の相手が吉井だった事に、驚きちらちらと視線を向けてくる水島に軽く笑いながら、吉井に話をふる。だが、
「…ええ、まあ」
 と、吉井の苦い表情に、「無理させちゃったのかな…?」と神崎は首を傾げた。
「いえ、そんなことは…」
「仕事、途中だった?」
「その…、…実は溜まりに溜まった有給を使おうとしたのですが、もう5時をすぎていましたので却下されまして。それならと、辞表を出してみたんですよ。なら、今日は帰ってよいと言われまして…」
「大丈夫なの?」
「多分、大丈夫です」
 そう言い、はははと笑い声をもらす。
 吉井はいつもは非常に優秀な社長秘書なのだが、時々切れておかしな事をする。尤も長い労働時間と自分より若い我が儘な社長の面倒を見ているのを考えれば、それも納得出来るものだ。正確に言えば、切れるというよりはおかしい、天然といったものなのだろう。本人はいたって真面目に、稀に奇行をとる。
 普段から辞表を用意している時点でもおかしいと言えるのかもしれないが、それを出す理由が自分と会うためだとは…。だが、そんな吉井の行動には驚くものもあるが、妙に納得する所もある。真面目だからこそ、ボケているのだろう。
「そうか…。ごめん、無理に呼び出して」
「いえ、私も会えるのが嬉しいんですから、謝らないで下さい」
「でも、そんなに慌てずとも良かったのに」
「折角晶さんが誘ってくれたんですから、仕事なんて出来ません」
 そういう吉井だが、今日すべき事はきちんと終えてきたのだろう。慌ててそれをこなしても十分すぎる仕事をしてきたはずだ。途中で放棄する事などできない性格だ、仕事をやり終えたからこそ、早く帰ろうとしたのだろう。しかし…。
「だけど、ホントに平気? 俊介は今頃色々考えてるよ。絶対」
 心配そうに首を傾げた後、神崎は悪戯っ子のようにニヤリと口角を上げた。その笑に、吉井も笑う。
 吉井とて冗談で辞表を出したわけではない。いつも個性が強すぎる自己中心的な社長だが、吉井が辞められて一番困るのも彼なので今日のところは引くしかないのだと納得するだろう。その事がわかっているからこそ、その手段をとった。一方の社長は吉井がそういう計算をしているのだろうとわかっていても条件を飲むしかなく悔しがりながらも頷いた。
 二人の事を知っている神崎にはそんな場面が簡単に想像出来た。多分これは事実とそう変わらないものだろう。二人は社長と秘書というよりは、外から見れば兄と弟といったような関係で、我が儘を言うのもそれに振り回されるのも兄弟のスキンシップのようであり、言い合いも可愛い喧嘩だ。
 だから、多分それまでも若い社長は早く帰りたい吉井に必要以上に仕事を押し付けたりして苛めていたのだろうし、吉井は吉井でそれをそつなくこなしながら、社長に小言でも言っていたのだろう。それを考えれば、吉井は本気であったが社長が辞表を受け取らない事はわかっていたし、社長はこの辺でからかうのは止めるかと考えてもいたという事。
 だが、あの社長、久住俊介が素直にそれだけで終わるとは思えない。初めは遊んでいたとしても、ついつい本気になる男だ。意地になってきた所に最終兵器を出されてなす術もなくなった悔しさを、そう忘れられる性格ではない。他人のことなら都合よく忘れるが、自分の事なら執念深く覚えている性質だ。
 今頃はどうやって吉井に今日の仕返しをしようかと考えているのだろう久住を神崎は思い浮かべる。その原因になった自分になど興味はなく、吉井への嫌がらせだけを考えているのだろう。共通の知人がいるのでそれなりに付き合ってはいるが、そう深い関係ではないのだから、吉井の約束の相手など範疇外なのだ。
「…そう言われると、先が思いやられるといった感じですね、本当に。幸い、大事な取引は近くにありませんし、そう仕返しもされないでしょうが…」
 吉井も神崎以上に久住を知っているのだ、社長が何かを企むことなどお見通しというもの。
「何せ相手はあの久住ですからね」
そう笑う吉井に、「大変だね」と神崎は返す。
「心配しなくても、私は慣れていますから」
「慣れているというよりも、それが楽しい?」
「う〜ん、…悔しいですが、そうかもしれません」
 少し考え、親ばかのような表情で吉井は笑う。
「そうか。……なんだか妬いちゃうね。俊介が羨ましいかも」
 そんな神崎の発言に、吉井が目を丸め、そして嬉しげに微笑んだ。
「僕もかまって欲しいな」
 組んでいた足で、同じように足を組んだ吉井の靴の裏をこんこんと軽く蹴る。神崎のその行為に吉井が軽く喉を鳴らす。
「…いちゃつくなら店を変えろよ…」
 二人の様子に呆れた芳養が、いい加減にしろよというように口を挟んだ。だが、神崎はそれを無視し、吉井の前に置かれたグラスにグラスを当てる。カチンと涼しい音を響かせた後、それが合図だったかのように店の中の時間が止また。
 見つめ合ったまま、どちらからともなく引き寄せられるように合わせた唇。
 芳養がもう勝手にしろよとでも言うように肩をそびやかしたのに気付いたのは神崎だけだろう。他は誰一人として動かない。本当に時が止まってしまったかのように…。
 店中から視線を浴びる事など気にもせず、雰囲気に飲まれて抵抗しない吉井の唇を神崎味わう。
「…恭平」
 まだ唇が触れたままで小さく名前を呟く。その微妙な感触がこそばゆいのか吉井が睫を振るわせた。
「千尋さんに追い出される前に出ようか…」
 人を言い訳に使うなよと口には出さずに目で訴える芳養に笑いかけ、神崎は吉井の手をとり席を立った。



 大きなバスタブだが、人並み以上に大きい男二人が入ると狭い。だが、そのせいで密着する体の感触が気持ちいい。
 後ろから抱きしめられる体勢で湯船に浸かり、神崎は吉井の肩に頭を乗せて目を閉じていた。一方の吉井は、腕の中に収めた神崎の首に掛かる細い鎖を撫でていた。腕の同じ鎖にも触れて指を絡める。嬉しそうにそれをする吉井に神崎は体を預け、微妙な指の感触を追う。
 神崎が身に付けた二つの鎖は、先日の誕生日に吉井から貰ったものであった。お互い忙しい中でのことで30分も一緒にいられず、あれから今まで一度も会っていなかったので、神崎がそれをつけているのを初めて見た吉井は嬉しくて仕方がないらしい。そんな吉井の首にも同じ鎖があり、神崎の頬に触れている。
 吉井が同じものを自身にも買っていたのを今日はじめて知った。
 シャツを脱いだ吉井の首に思わず手を伸ばし笑った神崎に、「すみません」と彼は真っ先に謝った。何故謝るのかと聞くと、「…いいんですか?」と逆に問う。
「いい歳の男が、少女趣味みたいでしょう」
 恥しそうに笑う吉井に、「そうかもね」と神崎は返した。
「でも、僕は嬉しいよ。少女趣味でも何でも、こういうのは、いいよね、うん」
 そう言った神崎に、吉井は何も言わずに微笑み、甘いキスを落とした。
 誓いを立てた二人が指輪を交わすように、それを真似ての行為を今までに何度も断ってきた神崎にとって、正直、こう言ったものは足枷のようであまり好きではない。だが、吉井の場合、それを素直に受け取る事が出来た。嬉しいというほど感慨深いものではないが、悪くないなとも思う。相手がそれにどれだけの思いを持っているのかを考えれば怖くもあり、また、自分の中でこの存在がこれから大きくなっていくのかもしれない予兆に逃げ出したくもなる。それでも、今はこの細い銀の鎖が愛しくさえ思える。
 神崎はだらりと投げ出していた腕を上げ、自分の首元を撫でる吉井の手に手を重ねた。指先に触れる吉井の手首の鎖を引き、指を絡める。
「恭平…」
「はい」
 その返事に神崎は瞼を上げ、直ぐ目の前にある吉井の顎にキスを落とす。直ぐに吉井が首を曲げ、唇同士が重なり合う。軽く舌を絡ませながら、神崎は体の向きを変え、吉井の胸に胸を合わせ肩に手を掛けた。バランスが安定したからか、吉井が深いキスを仕掛けてくる。
「…ね、恭平」
 唇を離し吉井の首に腕を絡め抱きつきながら、濡れた髪に指を差し込み、神崎は吉井の耳に囁きかけた。
「我慢出来ない…」
 舌で耳朶を噛み、そのまま頬をつたい顎へと唇を動かす。吉井が喉を鳴らし神崎の背中を撫でた。
「晶さん…」
「ここでしたら、脳震盪にでもなりそうだけどね、…もう待てない」
 再び唇を合わせながら、神崎は吉井の体に手を滑らせた。
 
 熱気がこもったバスルーム以上に、体が熱い。ドクリと耳に血の流れる音がする。キーンと耳鳴りがしたかと思うと、それは一切の機能を果たさなくなり、神崎の中から音が消える。自分の鼓動さえ、全て。
 ふと、不安が襲う。だが、それはあまりにも慣れた感覚。
 顰めた眉のまま薄く瞼を開くと、目の前には愛しい男が同じように熱をもった目で見返している。動かした唇からは声は出ず、それでも自分の名を呼ばれたのだと気付いた男は名前を呼び返してくる。
 掠れた声が、自分の名前を呟く。その音が耳に入ると、一気に感覚が戻る。
 ピチャピチャと湯船の中で起こる波が、体に纏わりつく。それは温かいはずなのに、熱くなった体には少し冷たく感じるもの。この体の熱を冷まそうとするかのように張り付くお湯が、ぞわぞわと身震いをも起こす。クラクラと頭が揺れる感覚とその感触のアンバランスさが、平常心を捨て去る。わからない不安に叫べば良いのか、浮遊感に身を任せれば良いのか…。
 神崎にはどちらも選ぶ事は出来ず、ただひたすら波が過ぎ去るのを待つだけ。
 はっきりとわかるのは、自分の名前を呼ぶのが、この男である、ただそれだけだった。


 薄明るい部屋から外の闇を見るために、神崎はガラスにペタリと額を押し付けた。火照った体にそれは気持ちよく、目的も忘れて暫し目を閉じる。
 ゆっくりと瞼を開けたその先には、小さな光が沢山連なっているのが見えた。まだそう遅い時間ではないので高速道路には沢山の車が走っていた。赤い光が闇の中を一本線に流れていき、黄色い光が流れてくる。
 そこから少し視線をずらすと、晧晧と街の光が輝いているのを見る事が出来た。眼下に広がる光にふっと息を吐くと、ガラスが白く曇り直ぐにそれは消えていく。額を外すと、そこに出来た同じ曇りもゆっくりと消えさった。
 神崎は先に頼んでおき届けられていたワインを開け、トポトポと少し乱暴に大きなグラスに半分ぐらいまで紅い液体を注いだ。それを一口飲んでテーブルに置き、口に広がる少し重みのある味に、コクリと唾を飲み込み小さく息を吐く。正直、味などあまりわからない。
 食べ物に対して好き嫌いがないと言えば、普通嫌いな物がないという事になるのだろうが、神崎の場合そのままの言葉で、好みがない、というものだった。嫌いなものもないが特にこれが好きと言うものもないのだ。
 味がわからないわけではないので、食事をするのは別に嫌いではない。美味いとは思わずに煙草を吸う子供のようだなと自身で面白く思うが、特におかしいとも思わない。体が欲するから食べるのと、他人とのスキンシップ。神崎にとって食事はそんなもので、美味しいものを食べる感動というものはついてはこない。職場で看護婦達などが実に嬉しそうに甘いものを食べている時などは、単なる食事でそう幸せを感じられるのかと心底不思議になる時もあるが、自分もそれを感じてみたい、そう思ってしまったりもする。
 だが、実際のところ、そう短くはない時間を生きてきているがそんな感動は皆無だ。
 脱いでいた服のポケットから小さな包みを取り出し、神崎はその中身を空のグラスに入れた。サラサラと零れ出るそれは、室内の光に照らされ輝く。
 カチャリと浴室の扉が開いたのを耳に捕らえながら、白い粉の上に今度は少しゆっくりとワインを注ぐ。
「美味しいですか?」
 部屋に入って来た吉井は、神崎の手元を見ながらそう口にした。
「うん、まあまあかな」
 自分のものより少し多めに注いだグラスを持ち、吉井に手渡す。カチンと無言で互いのグラスを合わせ口に運ぶ。
「美味しいんだけど、今はワインよりもビールを一気に飲みたい気分」
 クスリと笑いながら言う神崎に、半分ほど飲んだ吉井が「確かに」と頷いた。
「喉が渇いているので、味わいもせずに飲んでしまいますね」
 先程までの互いの様子に笑い合いながら、ベッドに腰をおろす。
 減った吉井のグラスに新たにワインを注ぎながら、「なんだか餓鬼みたいだね」と神崎は肩を竦めた。
「私がですか?」
「いや、僕が。がっついているみたいだった」
 神崎のさす言葉の意味に気付き、吉井は小さく肩を揺らせた。
「なら、喰われたんですね、私は」
「そうだね、うん。ご馳走様」
 クスクスと笑いながら、少し中身が残ったままのグラスをサイドテーブルに置き、神崎はばたりとベッドに倒れこむ。
「美味しかったという事ですか?」
「もちろん。恭平は?」
 空になっていたグラスを吉井の手から奪い、それを床に転がしながら、神崎は逆の手で吉井の腕を引いた。自分の横に寝転がった吉井の胸に頭を乗せる。
「私も同じですよ。意識を手放さなかったのが不思議なくらいです」
「あはは。二人一緒にのぼせたら大変だね。もし、僕が先に気が付いても、恭平を引っ張りあげるなんて出来ないな」
「…いいですよ。そんな甲斐性なしは、是非とも放っておいて下さい」
「そうだね、そうなったら頭から水をかけようかな。起きるし、熱も下がるし一石二鳥だね」
 吉井の首にかかる鎖を指で弄りながら、神崎は悪戯っ子のようにニヤリと笑った。吉井が、「それも仕方ないですね」と小さく喉を鳴らす。
「もし風邪を引いたら、看病してくださいね」
「いいね、それ。入院するなら是非僕のところへきてよ」
「…小児科ですか? それは、ちょっと無理ですね」
「大丈夫。何とかなるから」
「何とかって…、…どうなるんですか、それは」
 呆れる吉井の腕の中でクスクスと神崎は体を揺らせた。その響きに共鳴するように、吉井も穏やかな笑を漏らす。
 揺れる胸の震動に、神崎はゆっくりと瞼を落とした。

2002/08/09
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