# 1
山の中に朝日が落ちると、そこはまるで別世界のように輝く。朝焼けは東の空を紅く染めてはいるが、西の空にはまだ闇の名残が存在していた。全く別のものが空を二つに別けているその光景は、確かに目に映っているのにとても曖昧でいて、それとは逆に強い衝撃を与えもする。
星の光は薄れていき、更に強い光がこの世界に訪れるというのに、消えてしまうその輝きを思うと心が淋しさを感じる。沈んでしまった月に思いが馳せる。
そして、そんな空同様山の中もゆっくりと目覚める。
濃い緑色の木々が目を醒ます。光を待っていたかのように、覆い茂った葉が夜明けの冷たい風になびき、サワサワと揺れる。朝露がその葉を濡らす。
何処からか聞こえる鳥の声は、反響し耳の奥でいつまでも鳴り響く。明るくなった空へ飛び立つその姿は、夜の束縛からの解放を喜んでいるように天高くに舞い視界から消えていく。
見上げる空は、驚くべき速さで闇は光に溶けていく。
普段自然とあまり触れ合わない都会で暮らしていると日が昇る事は当たり前で、こんな感傷に浸る事などないというもの。改めて自然と言うかけがえのないものの大きさに心を震わせる。
闇を失う寂しさと、光を授かる喜び。
だが、そんな感動的なこの場面を、余裕を持って味わっている者などどれくらいいるのだろうか…。俺自身、満喫しているとは言いがたい。残念な事に意識の大半は別の方に向けなければならない状況なのだから。
壮大な自然を味わうには自身の未熟な精神では足りないことだらけであり、何よりおかれている立場がそんな余裕など持たせてはくれず、俺は空を見ていた視線を地上に戻した。
「走れなくとも足は止めないで下さい。歩くのでいいですから、ほら」
数歩先で立ち止まっている人物に声をかけながら近付き、軽い駆け足をその場で踏み、脇腹に手を当て立ち止まり荒い呼吸を繰り返していた青年の肩を叩いた。側に立った俺に下げていた顔を上げる。
「小西さん、今日は速いですね。慣れましたか?」
そう問い掛けると、軽く頭を振りながら苦笑交じりに「かなりキツイですよ」と上がった息の合間に返事をした。
「もう、限界ですよ」
「ま、そう言わずに。ゆっくりでいいですから足を動かさないと辿り着きませんよ」
今度は背中を数度励ますように叩き、俺は彼を追い越し先へと向かう。
カーブを曲がる手前で後ろをちらりと振り返ると、歩くのとさほど変わらないほどのペースだが、それでも彼が走っているのが見えた。
(慣れてきたというよりも、心構えがついたというところかな…)
数日の間で変わった青年を微笑ましく思いながら、何を年寄り臭いことを考えているのかと、そんな自分自身に苦笑をする。
だが、彼を含め他の者達もここで大きく変わるように、その変化を見る自分も多少なりとも変わっているのだろう。そう、実際に大きな一歩を踏んでいる彼らと全く同じとはいかないまでも、俺も確かにここでしか得られない経験を積んでいるのだ。直ぐには気付かずとも、それは自分にとって良いものとなっていくはず。
何事でも自分にプラスとなるように持っていけるのは難しい事で人それぞれなのだろうが、それでも彼らには俺と同じようにここでの経験をこれからの人生に活かして行って欲しいと思う。
そう思うからこそ、俺は嫌がりながらもこの仕事を受けるのだろう。人が成長していく姿を見るのも、自分が大きくなったと感じられるのも、日常ではあまり感じる事が出来ない凄い事なのだから。
低い木の枝が走る俺の肩にあたり、葉に乗っていた水滴を撒き散らした。冷たいそれは光を受けて輝く。
自然の中にいると、普段は見えないものが見えてくる。
自分には出来ない事も出来る様な、そんな力が湧いてくる。
何故こんな山の中なんだ、と初めてここに来た時は眉を顰めたが、今ならそれがわかる気がする。ここが一番、人間が自分自身と向き合うのに最適な場所なのだ。
その中で俺が見つけた自身の心は、忘れられない過ちを償いたい。という今まで目を背けてきた自分の醜い部分だった。傷つけたあの人にきちんと謝りたい。逃げてきた自分に決着をつけ、前へと進みたい。
自然の力を得ているからだろうか、今まで悔やむばかりだったというのに、そんな事が本当に出来るような気になる。
(…俺はもう逃げたくはない――)
見慣れた景色から、すでにもう折り返し地点を過ぎてしまった事がわかる。
まだ、あの人の姿は見えない。他の者達と同様、彼もまたペースが速くなったようだ。
前方からの太陽に目を細めながら、俺は止まることなく走り続ける。それはまるで、あの人に追いつくための歩みのようだな、とあながち冗談だと笑い飛ばせない思いつきに小さく肩を竦めた。
「頑張って下さい。半分は過ぎましたよ」
ゆっくりと走る青年を追い抜き際に声をかけると、「まだまだじゃないですか〜」と声が上がった。喋れる程度には余裕があるようだ、と青年の返答に苦笑しつつ、「お先に、失礼」と俺は片手を上げる。
空はもう完全に闇の色を消していた。
俺が勤める会社は、元々は家庭用のコンピュータ関係を全般的に扱っていた会社で、訪問販売や修理などもやっていたそうだ。だが、今の社長に代わってからはゲームソフトが中心の会社となった。何本かのヒット商品のお陰でそれなりに名前は知られてはいるが、この業界ではまだまだと言える中堅だ。
そんな会社に就職したのは、就職難のこの時代にまともにその活動をしていなかった俺が受かったのがこの会社だけだから、という選ぶ余地なんて全くない奇跡に近い出来事に飛び乗ったのだ。
就職浪人は覚悟をしていたので、何となく気まぐれ半分の駄目元で受けて受かったのはラッキーだと喜んだものの、大学での専攻は美術だったので、極基礎程度のパソコンの知識しかなく、楽天家と言われるさすがの俺でも入社時はかなりの不安があった。だが、そんな心配は杞憂のものだった。確かにパソコンを扱えるようになるまでは少し苦労したのだが、そう言う者が俺一人ではなかったから特に気することはなかったのだ。同期の中には、電源のつけ方すらわからない者もいたぐらいなのだから。
コンピュータ関係の人間ばかりを揃えても面白くはない。価値観も趣向も違う人間がいなければ会社は大きくなっていかないのだ、と言う社長の方針で、うちの会社には色々な分野の人間が集まってきている。その中には、だからといって何故こんな人が? と考えるような者も少なくなかったので、俺が会社に溶け込むのにそう時間は要らなかった。
他にいく所がないのでというのが本音で入った会社だと言うのに、今ではこれ以上のところはないと気に入って仕事をしている。
多くの分野から採用した社員を活かし、部署に関係なく新企画を発案させたり、社内の不満を言わせたり、少々馬鹿げたアンケートを行ったりというような事を頻繁にやっていて話題に事欠かない。本人の希望や人事の関係で部署間で研修移動をさせたり、突然他の部の助っ人として借り出されたりと、何かと色々面白いことをやる会社で飽きることがない。社員たちもそうしたノリが通用する者が多く、正直、会社と言うよりは学校のクラブ活動のようだ。だからだろうか、仕事の効率も意外なことに高い。
そんな少々おかしな我社での一番の変わった催し物は、何と言っても新入社員を対象とした新人研修だろう。
不況のせいで、近頃はこの新人研修自体を行わなくなった会社もあると言うことだが、うちの会社はきちんと例年通りやっている。正直、やめてくれと言うのが新入社員とこれに関わる俺のような研修担当者の本音だろうが、絶対にやめることはないだろう。何にしろ、この研修を受けた、今の会社を支える社員達が研修の継続を願っているのだから。例え不況だろうと、金の無駄だろうと、彼らにすればそんなことよりも新入社員がこの研修を受けないと言う事の方が大事なのだ。
簡単に言えば、自分達が受けたあの地獄を新人達に味わわせなくてどうする、と言うやつだ。
そう、社員達にそう思わせる程に、我社の新人研修は変わっている。
10日間の山ごもり。
いや、山ごもりとは言ってもきちんと整備されたセンターを使うので、山の中での合宿と言う方が合っているだろう。昔はキャンプだったと言う噂に比べれば、食事は用意してくれるしベッドもあるのだから、地獄ではなく天国といえるのかもしれない。社費でこんな自然豊かな所で暮らせるのだから、都会育ちの俺などはそれだけで心が洗われるというもの。
だが、今この世の中に生きる若者にとっては、自然と言うものだけでは心の慰めにはならないのだ。美しい緑も空も、一度見れば飽きるとまではいかないまでも、どうでも良くなるというもの。
そう、自然に気持ちを向けるほどの余裕などなくなる合宿なのだ、この研修は。
朝早くからの山道での7キロマラソンとなれば、何故山を走るんだ、山なんかがあるからかと恨めしくなるもの。その後は基礎体力作りとは名ばかりの全身筋肉痛に見舞われるような運動。休憩の間には掃除当番の者はセンター内の掃除で、それから昼食を挟んで夕方まで新人研修らしい会社の勉強会。夕食前には、使った頭を休ませるという名文をもったヨガ。ゆっくりとした動きは見た目以上に体力の要るもので、かなりきつい。
何より、その前にする勉強量が半端ではなく会社全体の事を殆ど全て憶えなければならないのだから、頭の中では無意識に復習を繰り返してしまうので、瞑想によって絶対的な境地に入る前に脳がパンクしてしまうというところだ。
誰がこのプログラムを組んだのかは知らないが、ヨガなどではなく、同じ体力がいるのならばもっと頭を空に出来る激しい運動の方がいいと俺は思うのだが、そうすれば翌朝のマラソンなど誰一人完走しない事になるのだろう。いや、そんな事よりも運動と勉強をここまでハードに組み合わせる事自体が疑問だ。
我社のおかしなところは、10日あるうちの研修で6日目の昼にやっと自分が配属される部署が決まるという点でも覗える。それまで決めないのには、新人の適正を数回の面談や書類だけでなく実際に見定めると言うのもあるが、正直な所この研修での生き残り人数がわかるのが後半になってからだと言うのが一番の理由だ。どれだけの人数が残るかわからないうちに人事を振り分ける事など出来ないというもの。
現に今年も、5日目の今日までで3人の者が山を降りていった。
研修初日に辞めた青年は、研究室から出たことがあるのかと疑いたくなるほどのひょろひょろとした人物だった。教官同士での食事の席で、今年の新人達についてちょうど語っていた時にやって来た彼は、色白の顔を青白く変えていた。
そして、昨日の昼と夜にも女子が一人ずつ辞めていった。一人は気の強そうな今時の女の子で、ムカツクだのうざったいだの言い、「辞めるね、私」とそれだけ言い出ていった。さすがに教官達の間にも溜息が落ち、一気に疲れを覚えたものだ。もう一人は少年のように細い女の子で、とても頑張り屋であった素直で明るい子だった。正直、辞めると言ってきた時は誰もがショックだっただろう。だが、それまでに何度も貧血を起こし倒れており、続ける事は自殺行為と言え仕方がなかった。自分の出来る限りでいいのだからと引き止める俺達に、体力がないのは自分自身の責任できちんとやっている人に申し訳ないのだ、と頭を下げた。そんな彼女を見た時は、俺は思わずこの研修に嫌気がさした。
納得でき共感も出来るところはあるが、こんなどうしようもない時は…やるせなくて仕方がない。厳しいと言うか現代にあっていないというか…。どうしても適応出来ない者もいるのだと言うことをもっと考えなければならないのではないだろうか。少なくとも、色んな分野の人間を集めるのはいいがこの研修に耐えられるかどうかをまず考えるべきではないのかと思う。体育会系野郎でなければなかなか乗り切れない研修なのだから。
そして、俺はこんな研修を元気バリバリで乗り切った一人だったりする。
研修教官は大抵入社数年目の若手と、中堅オヤジで構成されている。それは教官もまたこんな過酷と言えるのかもしれない研修に耐えなければならないからだ。つまり、若手の教官は指導員とは名ばかりの同じ研修生と言ってもいいぐらいの扱いだ。新人達と同じようにカリキュラムをこなすのだから。
教官に選ばれるのは今年で2度目。入社3年目で2度目なのだから…、俺は会社に入ってから毎年この研修に参加しているというわけだ。
去年もそうだったが、今年も教官の中で一番若い俺はかなりの扱いを受けている。そのうちの一つ、このマラソンもそうだ。こうして新入社員と同じように走る担当が毎日俺の名前になっているのを見た時は、予想はしていたがガックリと肩を落としたものだ。せめて各日ぐらいにして欲しい、だなんて口が裂けても言えず、「頑張ります」の一言で結局は乗り切る羽目になるのだが…やはり、辛いものがある。学生時代と違い、日頃から運動らしきものをしなくなった今は、かなりきついのだ、これは。
思わず弱音を吐きそうになるのを堪えたのは、他の教官達もそれなりに大変だとわかっているからだ。過酷な研修では新人達に色々気を使わなければならない事も多く、少しピリピリした緊張感を常に持っている。それを新人達に気付かせてはならないと言うことも必要で、余計に教官は神経を使うのだ。
実際、自転車でマラソンの最後尾を付いてきているだろう中年のオヤジ社員はかなり疲れ気味で、今朝顔をあわせたがその顔色は良いと言えるものではなかった。それでも、自転車での山道もかなり疲れるというのに頑張っているのだ。
新入社員から言わせれば、ふざけるなよと言う研修で俺も新人の時は同期の奴らと文句ばかり言っていた。だが、こうして教官となってからは、確かに時には納得したくない場面もあるが、会社を担う人間を育てる場としては悪いものではないし、必要なものでもあると思う。そして、自分達もまた成長させられている。
(…自分の親父とそう変わらない年の上司が頑張っているのだ。若い俺がやらなくてどうするよ…)
走ったことによる息とは別に、俺の口から深い息が自然と落ちる。だが重いものではなく、喉からは掠れた笑いが落ちた。
そういえば、俺は新人の頃にも同じ事を思ったのだ。次々と指示をだす教官に、あんた達より若いんだからやってやろうじゃないかと疲れていても平気な振りをしてはしゃいだのだ、俺は。今にして思えば、あの時は餓鬼であった自分は一枚も二枚も上手である教官にいいように乗せられたということなのだが…。
「…成長してないな、俺は」
俺の呟きに、数歩前を走っていた者が振り返る。何でもないとその背を叩き、俺は少しリズムをあげた。
声を掛けながら走っていると、前方で立ち止まっている数人の塊を見つけた。近付く俺に最初に気付き顔を上げたのは、短い髪を茶色に染めた貝谷だった。
うちの社は髪型や服装にあまり重点を置いておらず、少々奇抜な格好をしようと大抵が許される。スーツの着用率は極僅かで、茶色の毛も珍しくはない。だが、貝谷の場合は別の所に問題があるなと教官達の間で話題になった。
その原因、胸の刺青を見せ付けるようにジャージの前を半分空けている貝谷の格好を見て俺は溜息を落とす。走って暑いのならわかるが何故下に何も着ていないのか、何て言うのは彼の場合愚問だ。そう、刺青自体は個人のことだと流せるが、どうもまだ幼さの残る彼はそれを周りに見せびらかせたいらしい。専門学校を出たまだ二十歳の男なのでそれもわかるが、テレビのアイドルではないのだからもう少し慎むことを覚えろよと言うものだ。
「貝谷さん、暑いからって風邪ひきますよ」
小言など言いたくはないが、誰かが注意しなければならないことだと俺は一応そう口にした。別に男の露出狂などどうでもいいので、女子からの文句がない間はどうしていてもいいと俺個人としては興味はなく放っておくものだが、年嵩の者にはそうもいかず、よって俺もそういう態度をとらねばならない。
研修中は特に決まりではないのだが教官達は皆敬語を使う。理不尽と言えるかもしれないこの研修で気が立っている新人への配慮だ。それなりの態度を示せばそれなりの態度を返すぐらいには彼らは大人だ。だがこの研修が終わったら、…もしかしたら、あの茶髪の頭を叩いて教え込む時が来るかもしれない。職場でも同じような格好をしそうだと思うのは俺の考えすぎではないだろう。
そんなことを思う俺に、張本人は「何言ってんですか、松岡さん」と呆れたように口を開いた。
「そんなことより。蒼江さんが足挫いたんですよ」
「え!?」
その人物の名前にドキリとしながら、俺はその場へと急いだ。
貝谷の言うように、周りに立つ者達でその姿が隠れていた名前が上がった人物が地面に座っているのを直ぐに確認する。サラサラの髪の毛を片手でかきあげ眉を寄せていた彼は俺の姿に気付くと手を降ろし俯いた。下りた髪が朝日に透け金色に輝く。
「挫いたって…、大丈夫ですか?」
傍に近寄り座り込むと、蒼江さんは足首を手で押えながら「…大丈夫です」と呟いた。だが、直ぐに周りから「大丈夫なわけないじゃないか」と声が入る。
「その足でこの山道は、歩くのも無理ですよ」
不謹慎にも、こんなところでこの研修が始まって以来散々逃げられ続けたこの人を捕まえられるとは、と苦笑した俺だが、事態はもっと深刻らしい。
「そんなに酷いんですか…。ちょっと、すみません」
そう言い、彼が押える足首に手を伸ばしたが、すっと手で遮られる。
「…大丈夫ですから…」
拒絶された手を苦笑しながら仕方なく戻し、俺は小さな溜息を付いた。
(触られるのも嫌だと言う訳か…)
わかっていたことだが、実際にその場面になると心は思いのほかダメージを受ける。だが、俺はそれから逃げてはならない…。
腕につけた時計と場所を確認する。
研修も5日目になると、内容に慣れて力を発揮させていく者達と、疲れをためていく者達の二つに分かれる。特にこのマラソンのような体力作りはそうだ。ここにいる者達は前者と言え、少しずつだがタイムも上がっているのだろう。そして後者である者達は逆に伸びはあまり見られず、二極間の差は開くばかりだ。
それを考えると、このまま最後尾の教官を待つよりも先にセンターに帰る方が早く手当てが出来るだろう事が予想できる。第一、顔色の悪かったあの教官が自転車でくるのを待ってもどうにも出来ないかもしれない。
「…ここからだと、センターまで1キロ程ですね。皆さんは後残り少しですから、このままマラソンを続けて下さい」
「でも、どうするんですか?」
蒼江さんの横に屈んだまま、心配げな顔を向けてきたのは難波さんだった。毎回トップとそう変わらないタイムの彼女がここにいることに俺は驚く。そう遅いわけではないが、いつもならもうゴールに着ついている頃のはずだ。
「難波さん、今日はどうしたんですか?」
「え? ああ。体調が良くないのでゆっくり走っていたんです」
彼女の答えに大丈夫かと問う俺の後ろで、「俺は必死だっていうのに、これでゆっくりかよ〜」と貝谷の嘆き声が上がった。
「貝谷さんもペース上がっていますね。残りも頑張って走って下さい」
「は〜い。っで、蒼江さんは?」
「もちろん、放ってなんか行けませんからね。俺が運びますよ。後ろの教官を待つより早いでしょう」
「運ぶって…担ぐんですか? 松岡さん、すげ〜」
「無事辿り着くかどうかわかりませんよ。なので、すみませんが先に着いた方はどの教官でもいいのでこの事を言っておいて下さい。お願いします」
怪我しない程度に頑張って下さい、と付け足すと立ち止まっていた者達は苦笑しながら走って行った。
運がよければこの事を知った教官の誰かが迎えに来てくれるかもしれないが、あまり当てになりそうにない。気が利かないと言うよりもそれぞれが忙しく、何より俺なら大丈夫だろうとそれで終わりそうだ。信頼されていると言うか何というか。何故か周りの者達の俺への評価は少しおかしい。別に器用でも何でもないのに、出来ないことでも何とかする奴、と思われている。一体彼らの中ではどんな人間なのだ、俺は…。
それは可愛がられていると言えるのだろうが、それはそれで苦労が耐えない。いいように使われているのだと思うこともしばしばだ。
直ぐにキレはしないが、俺も怒りもすれば失敗もする。何をやっても上手くいかない時もあれば、駄目だと逃げる事もある。好青年だなんて言われても、実際は今時の若者なのだ。
そう、後悔する事も、自分を最低だと思い込む程に落ち込んだ事もある。人を傷つけた事もある…。
「…蒼江さん…」
俺は胸に痛みを感じながらも、許されることは決してない傷をつけてしまった人の名を呼んだ。
俺との視線を避けるため地面を見つめる拒絶の姿に、心が挫けそうになるのを吹き飛ばすように明るく言葉を紡ぐ。
「転んだんですか? 他に怪我はありませんか?」
白々しい。
無言の彼の抗議がそう告げていた。無理して笑うなよ。緊張している心をそう見透かされている気がする。
「…あぁ、ここも怪我していますね」
けれども俺は、他の者達と変わらないように接しようと努力する。二人きりと言う状況は望んでいた事なのに、…少し怖い。
足元を押える蒼江さんの手が擦り剥けており血がこびりついていた。それに手を伸ばすと、先程と同じように触れる前に引かれる。
「血は止まっているようなので大丈夫ですね。
すみませんが、足、見せて下さい」
手を退けた左足首に手を伸ばすと、さすがに嫌がってはいられないのか今度は大人しく従った。靴と靴下を脱ぐのに合わせジャージの裾を少し捲る。
足は紫色に腫れ上がっていた。俺は思わず眉間に皺を寄せる。
「これは…痛いでしょう」
酷く腫れ上がった足首。まだ直ぐには処置を出来ないので悪化するのだろうと思うと、怪我をしたのは自分ではないというのに痛みを覚えてしまう。よくこれで俺への拒絶からとは言え、大丈夫だなどと言えたものだ。
「……あまり役にはたたないかもしれませんが、…失礼」
持っていたスポーツタオルで、不恰好ながらにも足に撒きつけ固定する。包帯ではないので上手くは出来ないが、しないよりはマシだろう。その間蒼江さんは痛いからか下唇を少し噛み返事をすることはなくただ黙っていた。膝に置いた手に力が入るのを視界の隅に捕らえる。
「きつすぎますか?」
「…いえ。大丈夫です…」
小さいながらにもはっきりと言葉が返された事に俺は安堵した。正直、このまま喋ってくれないのではないかと思ったほどだったので、たかがそんなことかもしれないが嬉しくなる。それと同時に、自分の顔がいつの間にか強張っていた事に気付き、俺は汗を拭う振りをして頬を擦った。
緊張感に飲まれては駄目だ。
後ろを走る新人達が何事かと歩みを止めるのを制し先へと進ませながら、俺は軽く伸びをして彼に背を向けた。片膝を付き体を安定させる。
「じゃあ行きましょうか。乗って下さい」
「……」
「蒼江さん」
「……」
「それとも、横抱きの方がいいですか?」
動こうとしない彼に小さく笑いかけ、体を起こし俺は蒼江さんの肩と膝に手を伸ばそうとした。だが、直ぐにその意図に気付いた彼に「…嫌だ…」と体を捻られる。
「なら、背中に乗って下さい」
それがどれほど彼にとって屈辱的なことなのか、俺には簡単に想像が出来る。今ここでこうして怪我をしているところを見られているだけでも、プライドの高い彼の心は傷ついているのだろう。
「そんなこと、…出来ません」
予想通りの言葉が返される。だが、だからと言って今は予想以上に酷い足の怪我を手当てする事の方が先決であるのだ。死ぬほど嫌だとしても、我慢してもらわなければならない。
「出来なくとも…、お願いします」
「……」
もしここに居るのが俺ではなく別の教官であったならば、彼は頑なに拒否はしなかっただろう。自分が嫌でもそういっていられない状況ならいくらでも我慢する人だ。そう、だからこの全ての原因は俺にあるのだ。それは充分にわかっている。だが…。
「捻挫といっても酷いものです。相当に痛いでしょう? ここでこうしている間はないですよ。
今はまず怪我のことを考えてください、蒼江さん」
自分自身でも酷いと思う。こう言えば、もうこれ以上彼が拒否出来ないことをわかっていて俺はそう口にするのだから。
俺なんかよりも周りに気を配ることが出来る人だ。こんなところで押し問答などしていられないとはじめからわかっているはずだ。だが、それでも心は納得出来ないのだろう。俺に助けられるなど死んでも嫌なのだろう。
しかし、実際問題としては俺の力を借りるしか道はなく、結局はその抵抗も直ぐに受け入れなければならなくなる。それはどんなに辛いことなのだろうか。
背中に掛かった重みを確認し、立ち上がり前に進みながら、俺は彼の心の痛みを思い苦しくなった。
俺はまたこんなところで彼に傷をつけているのだろうか…。
逃げたくはない。そう思いこの関係をどうにかしようというのは、もう俺の我が儘でしかないのかもしれない。彼にすれば、俺なんかとは関わり合いたくないはずだ。関係を持たないことが蒼江さんにとっては一番のことで、俺はそうするべきなのだ。
だが、…俺はそんな事、出来そうにない。
最低な人間だなと、頭で誰かが俺を詰る。
そんな事はわかっている。でも、今のままではいられないのだ。新たな傷を、俺は彼につけようとしているのだ。それを理解したうえで、止められない…。
背中から伝わるのは温もりだけではなく、彼の緊張感が俺にも流れ込んでくる。それを受け入れながら、俺は黙々と足を進めた。
時折抜かして行く新人に声をかけながらも、俺は別のことを思い出していた。
背中に乗る彼が昔見せた、優しい笑顔を。
青江さんとは同じ大学だった。
学部は同じだが専攻は違うので、俺の友人が彼と同じゼミに入らなければ学年も違ったのだから付き合うことはなかっただろう。
彼が選択していた物理学は他の専攻と違い何故だかゼミ生全員には余る個人用の机が用意されていた。なので、専攻としてはあまり人気がないのだが、溜まり場としては大人気だった。教官も気さくな性格で別の専攻生が来ても文句は言わず、逆に生徒に交じって遊ぶほどの人だったので、俺達はゼミ生の友人がいない時でも良く遊びに行っていた。
蒼江さんは一留しいている一年上の先輩だったので、年齢で言えば二歳違う。だがそんなことを気にかけることもなく、人当たりのいい彼とは誰もが直ぐに打ち解けた。俺も例外ではなく、先輩というよりも友達のように接していた。
そして…。
院に進んだ蒼江さんよりも、一足先に俺は卒業を迎えた。
卒業式の当日は自身のゼミでの飲み会だからと、友達同士で先にやった飲み会に彼が来たのも当然の事。それはあのゼミ室に顔を出していた者達の集まりだった。
卒論を終えた解放感と卒業するのだという寂しさとが入り混じり、全員がいつもより騒いでおり、俺も例外ではなく注がれるままに酒を飲んでいた。
会がおひらきになったのは深夜近くだっただろう。店を出た頃はまだ街の喧騒でワイワイやっていた連中も、終電に乗る頃には大人しくなっていた。祭りの後の寂しさというのだろうか。それでも、俺はその感覚が心地よくて、同じように電車に乗った蒼江さんを捕まえて他愛無い話をしていた。
だから、「話があるんだ」と彼が呟いた時も、特に考えもせずに何ですかと訊き返した。だが、「…うん」と頷いた後も直ぐには彼の言葉は続かなかった。
何だろう。そう思いながらも、いつものように駅から出て同じ方向の彼と静まった住宅街を並んで歩く俺は、酔いのせいでとても気分が良くて、彼が口を開かないことに少し首を傾げはしてもあまり気にしていなかった。
頭の上にある冬の清んだ夜空に浮かぶ星。そして、白い月。
卒業制作を死ぬ思いで仕上げてまだ一ヶ月も経たないというのに、早くも筆を握りたくなる光景だった。あの時の俺はこの星空を描きたいとそれだけを思っていた。
そんな時、俺は彼に想いを打ち明けられた。
自分のことが好きなのだと。
どう返事をしたのかさえ憶えていないくらいに驚いた。正直に言って、最高の気分に浸っていた時に冷や水を浴びせられたという感じだった。そう、何が起こったのか思考がついていかない。頭の中が真っ白になるというのはあの時の事を言うのだろう。
俺は彼の想いを拒絶した。
まだまだ青くさい単なるガキでしかなかった俺は、彼がどれだけの想いでそれを言ったのか考える余裕がなく、驚愕するばかりだったのだ。嫌っていたわけではなく、恋愛として考えたことはないが好意を持っていたのは確かだ。だが、それを忘れてしまうくらいに、どうすればいいのかがわからなかった。
愛だ恋だと言われても、俺には応える事が出来ない。ただそれだけが確かなものだった。そう、それだけしか考えつくものがなかった。
それから俺は彼を避けるようになった。意図的に嫌だからと避けているのではなく、ただ、本当にわからなくて、会う勇気がなかった。答えられる返事がなかった。
その時、何故素直に心のうちを言わなかったのだろうかと、ずいぶん後になって後悔した。恋愛ではないが、嫌いなのではなかったのに…。
新入社員の中に蒼江さんの姿を見た時は、心底驚いた。
そして、更に知った事実は俺を悩ませるものだった。2年前の出来事をこれまで以上に後悔せずにはいられないものだった。
理科教育に力を入れていた蒼江さんは、在学中から色々な町での子供向けの科学イベントに参加していた。元々教官の趣味のようなもので、ゼミ生全員がいつも借り出されていただけなのだが、彼は進んで色んなことをやっていた。院に残ったのもそうしたことをしたかったからだろう。
なのに、それなのに…。
彼の履歴書には、俺が卒業した春に僅か一ヶ月で大学院を中退し、その後約2年近くアメリカに留学していたことを記していた。
自惚れているわけではない。だが、考えてしまう。あのことが原因だったのかもしれないと。…俺が彼に傷をつけたのは事実なのだから…。
だから、俺には余計に混乱するばかりなのだ。
会社が物理専攻の彼を採用したというのは特におかしいことではない。だが、留学までした彼がこの会社に入るというのはおかしい。はっきり言って、蒼江さんならばもっといい会社に入ることが出来ただろう。それに、ここには俺がいるのだ…。例えどんなことがあったとしても、俺がいるこの会社には入らないはずだと、今こうして新入社員として接していてなおも俺はそう思ってしまう。俺の顔など見たくないはずなのだと。
入社式で見かけた時は、本当に夢だと思った。正直、あの時と同じように戸惑った。
だが、俺も少しは社会に出て成長している。戸惑うばかりではない。突然降ってきたような状況でも、それを掴もうとする努力が出来るぐらいには力もつけている。馬鹿な餓鬼なだけではない…。
だから、無駄だと思いつつ望みを持ってしまった。希望は無くとも、それを叶えようと頭を使う。…それこそ、餓鬼のように自分の望みで目の前が覆われた。
お久し振りです。研修初日にそう声をかけた俺に彼は視線を伏せ同じ言葉を返しただけだった。覚悟していた以上に、彼は俺を嫌っているのだとその乾いた言葉が物語っていた。
あの時から、俺はいつも彼の姿を目で追っていた。どうしても、話をしたいと。
避けられているのはわかっているし、嫌っているので話などしたくないと思っているのもわかっている。だが、俺は彼のそんな気持ちを認めて大人しくしていられるほど、大人でも、出来た人間でもなかった。
自分の我が儘を通そうとする子供のような自身に気付いても、苦笑するしかない。
俺は、絶対に譲れないのだ。
自分が過去にした残酷な仕打ちも棚に上げ何を考えているのかと、別の自分が言っているのが聞こえる。人に言えば、俺は最低な人間なのだろう。
でも。それでも、諦められない。
そして、その原因となる彼が、俺の目の前にいるのだ。
このチャンスを、逃す事は出来ない。
背中の温もりを感じるのに、今はもうそれはとても遠い存在。
少し灰色がかった目が優しく細められるのが好きだった。
あの目を再び俺に向けて欲しい。
(俺は、この関係を変えたいんです…。蒼江さん)
2002/09/18