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# 2


 男にしては少し白すぎる蒼江さんの足に俺は手を伸ばした。ひんやりと冷たい足が逃れようとするのを腫れた部分には触れないようにして掴み上げる。
「…あっ…」
 微かに零れた声を殺すように、唇をかみ締める姿を俺は下から見上げた。

 案の定、蒼江さんを背負って戻ってきた俺に、何かと可愛がってくれる教官の一人でこの研修の責任者でもある梶間さんが「ご苦労さん」と片手を上げてセンターの前で出迎えてくれた。そう、出迎えてくれただけ。迎えに行こうという気にはやはりならなかったらしい。
 そして、「手当てをしてやってよ、こっちはいいから」とそのままセンターに入るのを見送ってくれる。自動ドアではないのだからせめてそれくらい開けてくれよと思ったが、態々口にすることではないので、「はい、わかりました」と真面目な顔で答えておいた。そしてその後にニコリと笑うおまけも忘れずにつけておく。
 自分でも、よくもまあそう愛敬を振り撒く事が出来るものだ、と呆れる時もなくはないが、これが社会で生きる術なのだ。八方美人とまではいかずとも、そういう愛嬌の一つも無ければやっていけないのは事実。何事も人間関係だ。だがそう理屈をこねる反面、元々少々脳天気な性格でもあるので、要するに半分は素だ。
 心で悪態を付くか、相手が後ろを向いている時に舌を出しておくかをすれば大抵の事はやり過ごせる。それでも駄目なほど腹が立つ時は、…ま、それなりの事をする。餓鬼くさいと言えばそれまでなのだが、自分の心のバランスを保つためには時には必要なことだ。
 梶間さんの「松岡はいつでも元気だな」という後ろからの呟きに、「若いだけですよ」と謙遜と少しの嫌味を返し、「じゃあ、失礼します」と俺は建物の中に逃げ込んだ。若いのなら動け、と逆に言い返されるのをわかっていての悪態であるが、今はそれに捕まるわけにはいかなかった。

「痛かったですか? すみません」
 俺の膝に乗せた自分の足をじっと見ながら、「…いえ。大丈夫です」と蒼江さんは呟いた。俺は視線を戻し、ピリピリと湿布についたセロハンをはずすとそれを彼の腫れた足に張った。そして、包帯をゆっくり巻く。
 研修中は食堂として使われている多目的ホールには、南向きの壁がガラス張りになっているので眩しいほどの朝日が差し込む。隣の調理場からは人が忙しなく動いているのであろう音が聞こえはするが、気にしなければ耳に入らないほど微かなものでしかない。その音よりも外のグラウンドからの笛の音の方が良く聞こえるくらいだ。
 穏やかな朝。だが、50人は入るのであろう椅子と机が並ぶこの部屋の一角で、俺と蒼江さんはその雰囲気に溶け込めないでいた。俺達の周りだけ、小さな緊張が漂う重い空間。
「…少し浮かせますよ」
 アキレス腱のところから土踏まずへと包帯を巻きつける。角度を考え、大方固定した所で彼の足を膝からはずし床に下ろした。これで大丈夫かと問うとこくりと頷く。
 包帯の端を結び、俺は蒼江さんを見上げ笑顔を向けた。先程上司に向けたそれと違い、自分でも強張っていることに気付きながらも無理にでも笑う。
「これでは靴下も靴もはけないですよね」
 少々太く巻きつけてしまった包帯に苦笑する俺とは対照的に、思わず合ってしまった視線をあからさまに逸らして、蒼江さんは眉間に皺を寄せた。
 その顔は困惑以上に拒絶の冷たさを一面に出していおり、思わず胸の痛みに顔を背けたくなるが、目は外せられなかった。
 たった2年。小学生の子供が中学になる成長が激しい時期の2年ではなく、もうその課程は終わった頃の2年などそう変われる年月ではないというのに…。この状況をどうするかということで頭がいっぱいで必死だった俺は、今やっと彼の横顔に過ぎた年月を感じた。
 元々顔の作りが綺麗な人だとはわかってはいたが、間近で見たそれは2年前より増していた。自分たちよりも落ち着いてはいたが、同じ年頃の男同様馬鹿騒ぎし声を上げて笑う彼の姿ばかりを覚えていて、こうして眉を寄せる姿は新鮮でもあり、切なさも募る。
 蒼江さんと俺の間には、埋める事は決して出来ない月日が確かに流れたのだ…。
「…後でスリッパ持ってきますね。他の所も消毒しましょうか。腕だけですか、擦ったのは」
 硬くなりかける声を気付かれぬよう、事務的に言葉を繋ぐ。
 確かに本の数年前までは、仲の良い先輩と後輩であったのに…今はそれ以上に遠い…。
「…大丈夫です、こんなのは…」
「いえ、そう言わずに。薬もありますしね。あぁ、先に洗った方がいいですよね」
 ほら、手当てをしましょう。
 平気な顔を作り、平然と彼の腕を取り立ち上がらせる。そんな自分が憎らしい。
 すぐ側の水道まで肩を貸して歩き、勢いよく出した真水で傷口を洗うよう彼に行動を促した。ここまできたら抵抗はせずさっさと処置を済ませようと考えたのだろう。だが俺のその予想は全てではなかったようで、何を思っているのか、蒼江さんはゴシゴシとこびりついた血以上に皮まで削るかのように傷口を手で擦った。
「ちょっ、蒼江さんっ!」
 慌てて手を伸ばしたせいで蛇口に近付きすぎ、周りに水が飛び散った。
「…冷たっ…」
 反射的に俺は「スミマセン…」と謝罪を口に乗せてしまったが、そんなことではないと軽く首を振る。
「冷たいじゃないですよっ!」
 顔に飛んだ水を拭う彼の腕を取り、タオルで傷口を押えるように拭きながら、俺は声を荒げた。
「ほら、また血が出てきたじゃないですか! 一体何を考えているんですか。そんなに擦っては駄目に決まっているじゃないですか!」
「……」
 血が滲む傷に衛生的とはいえないがタオルの面を変え押しつける。だが、俺が掴んだその腕を蒼江さんはグイッと引いた。その行動に俺は自分が怒ってしまったことに気付く。
「…あ、すみません…。…でも、自分も痛いでしょう? 気をつけた方がいいですよ…」
「……」
 黙ってしまった蒼江さんは、俺に視線も向けない。
 先程座っていた場所に戻り、止血剤になった化膿止めのスプレーを傷口に吹きつけ、俺は救急箱を片付けに立った。


「訊いてもいいですか…?」
 ホールの出入り口付近の棚に使い終わった救急箱をしまい、俺はそのままここを立ち去りたい衝動を抑えて大きく息をついた後、蒼江さんの側に腰を下ろしながらそう声を掛けた。隣に座るほどの勇気はなく、通路としてとられた少しのスペースを挟んだ隣のブロックの席を選んだのは…弱さと言うよりも逃げ道の確保のようで…。自身のその行動に僅かに眉を顰める。
 先程まで感じた体温は感じられないが、姿は直ぐそこにある。微妙なその距離はまさに今の俺達の様。テーブルに片肘をつき横を向いて座る俺の前にいる蒼江さんは、テーブルに背中を預ける格好で座る。俯いた横顔は長めの髪が隠しており、目をあけているのかどうなのかわからないが、その向きでは俺の足すら視界に入っていないだろう。
 言いたい事は沢山あるし、言わなければならない事もある。それなのに俺の心は空回りするばかりで、彼がNOと言わないのをいい事にした質問は馬鹿げたものだった。答えなどわかりきっているものだというのに…。
「どうして…、大学を辞めたんですか」
「……」
「…蒼江さん」
「……君には…、関係のないことです」
 硬い声でそう言った蒼江さんは、膝の上で握り締めた手に更に力を入れた。
 関係ないと言うのは、俺が原因ではないという意味ではなく、そんな話しをする間柄ではないと言いたいのだろう。今更気にするな、もう遅い、…そういうことだ…。
「確かに、今更、何を言っても仕方がないのかもしれませんが…」
 だけど、俺は…。そう続けようとした俺の言葉を低い声で吐き出すように切り捨てる。
「……心配しなくとも、別に僕は君に何かをするつもりない、…ですよ」
 ゆっくりと俯いていた顔を上げ、髪をかきあげる。
「男に迫られたことがあるんだなんていいふらしはしないし、関わりも最低限の仕事のことだけにすると約束します」
 怒ったようなその口調は、けれどもどこか泣き出しそうな雰囲気もあった。少し掠れた声が、耳に残る。
 そう、あまりにも大きな怒りのせいで涙がこみ上げてきたとしてもなんら不思議ではないだろう。過去に自分を否定した男が、今こうして隣にいる。しかも、その話を蒸し返そうとしているのだ。それは屈辱を伴うものなのだろう…。
 蒼江さんの怒りは尤もである。だが、納得はできない…。そこまで彼を怒らせてしまったのは自分だというのに、彼の拒絶の態度に心が痛む。しかし、ここで納得すれば、俺はまた後悔をするはめになる…。
「…厄介な奴が来たと思っているんでしょう」
 少し顔を向けちらりと寄越した視線は、あの頃には見なかった色を持っていた。
「そんなことは…」
「思わない方が、可笑しい」
 当然の事のようにそう言った彼に、俺は慌てて首を振る。
「違います。俺は、会えて良かったと思っています」
「嘘が上手かったんですね」
 知りませんでしたよ、と口元に笑みを乗せた蒼江さんから、今度は俺が視線を外した。あの頃のようにからかうのではなく、含んだ敵意を隠したような…嫌な笑い…。
「…確かに、戸惑っています。だが、…ずっとあなたに謝りたかった」
 そう、それはどうしたらいいのかわからない自分の心の中で一番大きな、確かな事実。
 俺は顔を上げ、真っ直ぐと蒼江さんを見た。
「俺はあの時のことを謝りたい。後悔していたんです、ずっと…」
 その言葉に彼は目を大きく見開き、あまりにも信じられない言葉であるかのような驚きを示す。だが、直ぐに俯き、小さく息をついた。
「俺はあなたを否定したわけではないんです。あなたの思いを受け入れる事はできなかったけれど…拒絶したかったわけでは……」
「もういい…。謝る必要はないでしょう。…君は、当然のことをしたんですから、そんな言い訳は必要ないんです」
「言い訳なんかじゃない!」
 思わず声を強めた俺に、蒼江さんも口調を変えた。
「男に迫られたんだ、拒絶しない方が可笑しいだろうっ! 逃げるのが当たり前、気味悪がるのが当たり前なんだ!
 ……君もそうだったんだろう…?」
 声を荒げた後そうしてポツリと漏らした言葉は、何の感情も入っていないようなものだった。いや、それ以外には信じないという強いもの…。
「……確かに、あの時俺はそう思われる態度をとりました。だけど、決してあなたを嫌がったわけではない。それは事実です…」
「…それを僕に信じろと?」
「……」
 そう、信じられるわけがないだろう。自分自身、あの時彼を避ける形となってしまった行動のわけを直ぐには気付かなかったのだから。あまりのことで戸惑った。そんな理由で人を傷つける事が認められるのなら、誰も他人と関わり合いにならないだろう、関係など築くことは出来ないだろう。けれど、俺は…。
「…信じてほしい、そう思っています」
「悪いが、はい、そうですか。なんて簡単にはいかない。信じられない…」
「…俺は、どうしたらいいのかわからなかったんです…」
 拒絶されてもなお、女々しく言葉を繋ぐ。
 わからなかったのだ、本当に。そんな言い訳など通用しないことはわかっている。だが、実際に俺はそうだったのだ、わからなかったのだ。自分の慌てる気持ち以上に、彼を傷つけているということを…。
「嫌いじゃなかった。だけど、突然のことで、自分には考えられないことで…焦るばかりで何も出来なかった。それがあなたを傷つけるのだと言う事にも気付かないくらいに、俺は…」
 声が震え、俺は口元を抑えて俯いた。
 こんな事を言いたかったわけではない。こんな過去を混ぜ返すだけの事を聞いて欲しかったわけではない。だが、あの頃と同じように、何に急かされているかもわからず焦るばかりで、上手く言葉が見つからない…。
 大きく息をついた俺の耳に、同じように蒼江さんの溜息が入ってきた。
「だから、もういいよ。…別に僕は君の態度を怒っているわけじゃない。
 もう、昔のことだよ。あの時はどうだったにしろ、…今は変わらない。君が言ったように、今更だよ」
 そう言い蒼江さんは軽く乾いた笑いを漏らした。
(今更か…)
 確かに全てがそうだろう。こうして向き合うのは遅すぎたのかもしれない。もう、何も変えられない場所に来てしまっているのかもしれない。だが、しかし…。
「…あなたが俺なんかと顔を合わせたくないのは、わかっています。だけど、俺はそれでも、…あの頃に様になれないかと思ってしまうんです」
 それが素直な思いだ。いや、分不相応の願いか…。
「…あの頃…」
「…ええ、…先輩と後輩のように、付き合えませんか…?」
 コクリと喉を鳴らし、緊張を飲み込みながらの俺のその言葉に、蒼江さんは再び溜息を落とした。
「君は、残酷だね」
「……そうなのかもしれません」
 かも、ではなくそうなのだと言ったそばから自覚する。酷い男だというのは自身で十分にわかっていることだ。自分の感情を優先させる最低な人間だ。無邪気な子供ではなく、それをわかっていてやっているのだ。
 優しい彼にどれだけの負担になるのかをわかっていて、何処かで計算している…。
「あの事はもう、僕が言うのもなんだが、本当に気にしなくていいんだよ。忘れてくれ」
 先程まで頑なに拒絶していた姿勢の欠片を全て隠し、蒼江さんは俺に困ったような笑顔を向けた。
「…蒼江さん…?」
「後悔していると言ったよね。だが、そんなことはしなくていいんだよ。君は当然の行動をとったんだ、僕に悪いと思うことはない。そう、気にかけなくていい。だって、わからなかったというのは本当のことなんだろう。なら、あれで良かったんだよ」
 口元に笑みを乗せ喉で軽く笑うその姿は、あの頃と同じであった。
 そう、彼はいつもこう笑っていた。確かに笑っているのにどこか寂しさも感じさせる、静かな笑い方をしていた。穏やかに見えるそれは、諦めでもあるかのようで…。
「たかが恋じゃないか。な、そうだろう。そんな一時の病を相手にそう頭を悩ませることはないんだよ。
 確かに、あんな別れ方をした奴が目の前に現れたんだ、君も困るだろう。だが、こればかりは、本当にどうしようもないんだと諦めてくれ。心配せずとも、君の負担にはならないようにするから…」
「……何を言ってるんですか…?」
 わかってくれたのか。彼の態度の変化にそう思ったが、蒼江さんが紡いだ言葉は全く違っていた。悪かったと言っているのは本心からではなく建前だろう、そう言っているのだ。だから、迷惑をかけないなどと言うのだ。関わり合わないでおこうと…。
「俺は、そんな、罪の意識だとかそんな感情で言ってるんじゃないです。ただ、以前のような仲に戻りたいと、純粋にそう思って…」
「……そう。そうか…。
 だが、それは、出来ないよ」
「何故ですか?」
「過去は、忘れられたとしてもなくなりはしない。そして、僕はあの時のことを忘れられない」
 静に笑い、蒼江さんははっきりとそう言った。
 それはわかっていた答え。だが、それは俺が考えていたものよりもはるかに現実だった。夢のような、それこそ無垢な子供のようなことを俺は望んでいたのだということを実感する。蒼江さんにとっては忘れられない記憶なのだ。都合よくなかったことになど出来ない。それほどまでに傷ついた心…。
 それなのに、彼は俺のことを気遣ってくれている。罵ればもっと楽になれるのだろうに、自分を貶める様な言い方をして、俺の行動が当然なのだと。
「…俺は、迷惑でしかないんですね」
「……そんなことは、言っていない。それは、君の方だろう。僕が来たことで、君を苦しめている」
「自業自得ですよ、これは」
 ククッと喉がなった。涙が溢れそうになった。
 俺は席を立ち、無言でその場を離れた。
 何かを言わなければこのままこれで終わるのではないか。そんな予感があったが、何も言葉には出来なかった。
 出来る言葉がなかった。



 研修ももう明日で終わりだ。
 最後の睡眠を得るために俺はベッドに横たわった。
 あれから俺は蒼江さんとは個人的には口を聞いていない。
 朝は相変わらず体力作りをしているが、その間俺は新人達より忙しいし、怪我をした彼は参加せず別の教官の下で手伝いをしている。昼からは6日目に決まった部署ごとでの研修で、俺は自分が属する営業部の新人の指導と、よく顔を出す部署の指導もしなければならないのでおかしなほどに忙しかった。広報部に配属された蒼江さんもそうだ。新入社員達も覚えなければならない事が山積みで皆バタバタしている。
 自由時間になっても教官は何かとする事があり、休むのは寝る時ぐらいだ。ふと空いた時間に彼の姿を見つけたとしても、怪我をしているからか人柄か、蒼江さんの側にはいつでも誰かがいた。何度か目があった事もあったが直ぐに逸らされるので声を掛けづらいし、気まずくてこちらから逸らしてしまう時もある。
 そして、気付けばもう研修は終わりに差し掛かっていた。
 このチャンスを逃せばもう次はないだろう。そう思ってはいたが、なかなか俺は行動を起こせないでいた。
 自分がこんなにも馬鹿な餓鬼だとは、思っていなかった。もう少しは上手くやれると思っていた。
 確かにずっと引き摺って迷っていたが、あの時、彼と話をしようと決意した時は、上手くいく。いや、上手くいかせて見せると何処かで強気な部分があった。蒼江さんなら自分の提案を受け入れてくれるのではないかと都合よく考えていた。
 だが、実際には俺は本当に我が儘を言っているだけにしか過ぎなかった。彼の感情をまたしても無視するような、否定するような、行動をとったのだ。
 さすがの俺でも今回は心底自分が嫌になった。
 なんて奴なのか。
 そう思うと、もう一度彼と向き合おうと思っていても、実際に踏み出す事が出来ない。また同じ事を繰り返すだけではないのかと、恐れている…。
 俺はただ、以前のようになりたかっただけ。だが、それは彼が言ったように本当に残酷なものだったのだ。
 もう2年経つのだから。そんな思いがあった。自分は気にしていないと。だが、それは逆に彼をも否定することなのだ。彼のこの2年間を全く無視した事なのだ。
 拒絶している相手にこんな態度をとられては、腹立たしい以外の何でもないだろう。自分が嫌がっているのすら、相手は見ていない。結局関心を持っていない、そういうことだと考えるのが普通。
 どうでもいい、そんな風には決して思っていないが、俺はそうとられる態度を示した。浅はか過ぎた。
 なのに、そんな俺を彼は詰る事もせず、ただ静かに耐えていた。自分は忘れられないが、俺には忘れていいだなんて…。一体どんな思いでそれを口にしたというのか。全て同じように共感は出来ないが、もし自分が逆の立場だったなら…、そう考えると悔しさで狂いそうになる。
 どの面をさげて、昔のように戻りたいと言ったのか、俺は…。
 考えても考えても、もういい方向には向かない。
 俺のとった行動。彼の気持ち。二年という短くはない歳月…。俺と彼はもう、あの時から決して重なり合わない道を歩いてきているのかもしれない。そう、今更何があっても、二度と並ぶ事はない道を。
 真っ暗な部屋の中、隣で眠る先輩教官の寝息を聞きながら、俺は喉を振るわせた。目から涙が溢れる。もしこの場に一人でいたのなら、その辺のものを放り投げ暴れたかもしれない。だが、一人ではないのだからと声を殺し、シーツをぎゅっと握り締める。しかしそんなことでは心の嵐は消えない。
 何故泣くのか、わからない。悔しいのか悲しいのか辛いのか…。自分自身に腹が立っている、こんな自分が許せない。そんな思いも確かにあるが、涙が溢れる理由はわからない。全ての感情がどろどろと溶け合っており、言葉では言い表せない。
 彼を傷つけた俺が泣く権利などありはしないのだろう。そう思うのに、どうしても我慢出来ない。これほどまでに泣いた事がかつてあったのだろうかと思うほど、涙が溢れる、面白いくらいに。
 ゴシゴシと目元を擦り、そのまま腕を顔にのせて小さく笑う。
 小さい頃、父と母が離婚した。その時の俺は聞き分けのいい子供を演じ、頷きひとつで全てを受け入れた。だが、父も母も知らなかっただろう。俺は部屋で一人泣いていた。そう今と同じように声を殺して泣いたのだ。
 本当は「別れないでほしい」と言いたかった。いや、それに気付いたのは泣いている時だ。一度でいいから言っておけばよかった、と。そんな事をしても変わりはしなかっただろうが、伝えるべきだったのだと。
 …あの頃の自分と今の自分は何か変わっただろうか…。同じように泣いている。
 父が義母と再婚した時、よかったなと祝福した。だが、言葉とは裏腹に泣きはしなかったが、心に小さな嵐が吹き荒れた。確かに恋愛を知らない子供ではなかったので、父の思いを尊重するべきだと考えた。だが、文句ではないが一言詰ってやりたかったのも事実。
 いや、今でもその思いはあるだろう。あの時父が自分に言った言葉。それは子供を苦しめるのには充分なものなのだった。何も言い返さず受け入れたのは、それに気付かない父への諦めか、反抗か…。そんな父に溜息を吐きながら、俺は大人になってもまだ何も言えない。そう、ぶり返すのが嫌なのだ。あの頃の感情を思い出したくはないと蓋をする。
 …人はそう変われないということか…。
 やるせない感情が、自分へと牙をむく。
 どうして俺はこうなのだろう。いつも肝心な事を後で気付き後悔している気がする。
 もしあの時、蒼江さんに告白された時、もっと自分の気持ちを素直に言っていたのなら…。彼の気持ちに応えは出来なかったとしても、こんな関係にはならなかっただろう。都合のいい考えかもしれないが、断ったとしても、彼はそんな俺を受け入れてくれた気がする。
 だから、この関係を作ったのは俺でしかないのだ。
 …それが、堪らなく辛い……。
 失った彼という存在。それが再び目の前に現れ単純にやり直せると夢を見た。だが…。俺はまた、彼を失うのだ。そして、もう二度と関わりはもたないのだ……。


 一頻り涙を流すと、俺はそっと部屋を抜け出した。
 もやもやとした感情も、子供のように泣いた事により一緒に外に出てしまったようで、気分的に少し楽になった。前向き思考というよりも、単純である性格が役に立つのはこんな時だろう。後悔する事の方が多く、この性格によって打ちのめされるのも確かなのだが、それでも俺は沈んだ分浮上するように出来ているらしい。
 洗面所の鏡で見た自分の顔に苦笑を漏らす。目が腫れ、鼻が赤くなっていた。
 顔を洗い、また笑う。タオルなど持ってきていない。
 子供のように着ていたTシャツで顔を拭き、そこを後にする。静かな廊下。部屋の前を通り過ぎ、自動販売機が置いてある談話スペースに俺は向かった。

 夜の闇の中に販売機の光がテカテカと輝いているのだろうと思っていった場所は、そんな味気ないものではなかった。
 大きくとられた窓からは晧晧と輝く月の光が落ちており、昼間には負けるがとても明るい幻想的な雰囲気を作り出していた。
 都会育ちの俺は小さい頃、夜は真っ暗闇なのだと思っていた。微かに見える星も月もとても遠くにあるので、光など地上には届かないのだと信じていた。明るいのは電気のお陰なのだと。
 なので、田舎で満天の星空の下で夜を迎えた時のあの興奮は今でも忘れられない。予想もしていなかったほどの明るさに、俺は浮かれた。白い光が包む空間がとてつもない感動を呼び起こした。隣に立つ父と母の顔が見て取れる。周りの景色がわかる。黒一色だと思っていた夜空は、沢山の色をもっていた。夜だというのに空に浮かぶ雲の形までわかるのだ。
 あの時の感情が蘇る。
 引き寄せられるように窓に近付き空を見る。
 弓張り月が空に浮かんでいた。
 淡い輝きが降り注ぐ。
 春とはいえ、こんな山の中の夜はまだまだ冷えており、Tシャツ1枚では直ぐに風邪を引きそうなほど寒い。だが、それが逆に気持ち良かった。
 ガラスに手を添え、ゆっくりと額をそこに押しつける。館内よりも一段と寒い外の空気を、薄いガラス一枚で感じ取る。じんと冷たくなる額。
 クスリと笑い頭を起こし、俺は何か温かいものでも飲んで寝ようかと自動販売機の方に振り返った。そして…。
「……蒼江さん…」
 いつからいたのだろうか、振り向いた先に彼の姿があった。
 白い光を受けて立つその姿は、何故か儚げに感じられるものだった。
「…眠れないんですか…?」
 突然の登場に少しドキドキしながらも、表面には出さずに軽く笑ってそう訊いた。だが、顔をまともに見る事は出来ない。
 ポケットから小銭を出し、自動販売機に入れる。
 背を向けながらも、意識は彼に集中してしまう。そんな自分に気付き苦笑を漏らす。
「…君も、眠れないの…?」
「…え? ……あ、…飲みませんか…?」
 間抜けにも、返事を返してもらえるとは思わなかったので驚き振り向いたはいいが、真っ直ぐと見つめてくる彼の視線を受け止める事はできずに、手に持った今買ったばかりのお茶を差し出してしまった。
「…あ、いや。酒のほうがイイですよね…」
「…教官がそんな事言っていいのかい?」
 一応飲酒は禁止されてはいるが、皆部屋で飲んでいる。教官も見て見ぬ振りというか、自分達もそうなので何も言わない。要領良くやっていれば、特に問題ではないということなのだが。
「…それも、そうですね」
 あはは、と口からは乾いた笑いが漏れる。俺は一体何を馬鹿丸出しにしているのか。先程部屋で泣いてなんかいたからだろう、ここまで動揺するのは。
 そう気付き、はっとその名残を知られはしないかと焦る。だが目が赤い事など、明るいとはいえ夜であるのだから気付かれることはないだろう。
「…いいのなら、頂きます」
「え?」
「貰っていいの?」
「あ、はい。どうぞ」
 手の中の缶を渡すと、蒼江さんは両手で握り側のソファに腰を下ろした。
「…温かい…」
 そう呟く声を聞きながら、俺はもう一本お茶を買う。
「…座っても、いいですか…?」
「…どうぞ」
 返事を聞いてもなお少し躊躇いながら、俺は一人半分のスペースを開けて同じソファに腰を降ろした。プルタブに手をかけると、同じように彼もまた封を切る。パキンというなんともいえない音が異様に響く。

「…考えてみたんだ…」
 缶の中身のお茶がぬるく感じはじめる頃、蒼江さんが話を切り出した。
「この前、君に言われた事を色々と」
 その言葉に、俺の胸が小さく痛む。
「……すみません。俺、自分のことしか考えていなくて…」
「謝らないで欲しいな。僕はあれから色々考えたというのに、そこで謝られたら全てが無意味になるじゃないか」
 小さな声でクスクス笑う彼の声は少し掠れていた。
「…僕は、後悔していないよ。あの時君に思いを告げた事を。
 確かに、上手くはいかなかった。でも、それは恋なら仕方がないことだ。一方的な思いで恋愛が成立していたらキリがない。そうだろう?
 だから、君は本当に気にする必要はないんだよ。何も悪い事はしていないんだから」
 ゆっくりと静に言葉を紡ぎ、数拍の間を置き再び口を開く。
「僕も悪い事をしたとは思わない。君を困らせたとしても、後悔はしていない」
「俺は…。本当にあなたの事が嫌いだったわけじゃないんです。ただ……」
「うん…、わかっている。嫌いじゃないから、ああなってしまったんだよね。そう思っても、いいよね。少しは僕の事を意識して、それでどうにも出来なかったんだと。
 都合のよすぎる考えだ…。だけど、違っていても…今は言わないでくれよ」
 さすがに応えるからね、と苦笑する蒼江さんに俺は頭を振った。堪らない…。
「…なんで、なんでそんなに…。俺の事、どうして詰らないんですか…?」
「何故詰らなければいけないんだよ」
「だって俺は…。…本当はわかっているんです…。どうすればいいかわからなかったからといってあんな態度をとるだなんて、…良い訳がない。きちんと向き合うべきことだったのに、俺は逃げたんです。……あなたは怒っていいんです! こんな俺なんか気にせず、怒れば…」
「だから。そう言われたら僕の立場がまたなくなるよ。もう、いいんだよ、本当に」
「…もう、いい?」
 その言葉に何故か胸が痛んだ。思わず握り締めた缶が圧力に耐えられずペコリと凹む。
「うん。もう、あれから2年経つんだよ。思い出でしかないんだよ。だから、いいんだ。
 それに、君を詰る理由は僕にはないよ。それこそ、君はどうして僕を怒らない? と逆に言いたくなる。今頃目の前に現れて迷惑だろう。いや、ぶり返すようで悪いけど、行き成り男に告白されて嫌だっただろうに。
 …君が不安になるのはわかるよ。同性愛者なんて気味が悪いよね、確かに」
「そ、そんな事…! 言わないでください!」
 今ここが何処だとか何時なのだとかを忘れ、俺は声を荒げた。全く気にしていないといったら嘘だろうが、俺は彼の性癖に偏見は持っていないつもりだ。彼を避けた自分が言っても何ら説得力はないのだろうが…。
「松岡…?」
「…気味が悪いだなんて思っていません。
 俺は、本当にあなたが好きだった。恋愛感情ではなかったが、本当に好きだったんです。あの部屋に行くのが楽しかった。あなたに構ってもらえるのが嬉しかった。馬鹿どもと一緒につるんで遊んでいる横で笑っているあなたの存在が心地よかった。
 俺だけじゃない、他の奴らもそうでした」
 なのに、そんな人を俺は傷つけたのだ…。
 彼は笑っていても何処かで自分のその性癖に負い目を感じていたのだろう。そう、今も。その原因の一因は俺にもあるはずだ。俺がつけた傷が、彼を少なからずともそういう考えを持つようにしているのだろう。自分の性癖はおかしいのだと…。
 その傾向はあの頃もあった。強気と言うか高飛車な面も見せる彼だが、どちらかと言えばそれはノリのようなものであって、実際は何故そんな後ろ向きな事を考えるのかと思うような発言をする事があった。しかし、零れ落ちたそれを彼は笑顔で隠す。だから、俺は漠然とそう感じていただけに過ぎなかった。だが、それは確かなものだったのだ。
「今でも、その思いは変わっていません。だから、そんな自分をさげずむ様なこと、言わないで下さい」
「…松岡…」
「俺では、ダメなんですね…。あなたにとって俺は不安になる材料なんですね…」
 たかが恋愛じゃないか。そう思ってしまう。恋愛なんてあやふやな感情に狂わされたことが悔しい。
 蒼江さんの思いを否定するわけではない。俺が同じように思えなかった事を後悔するわけではない。ただ、俺には恋愛といった感情が正直言ってわからない。邪魔なものでしかないのだ。
 今まで確かに恋をした事はあった。この女性と未来を築くのかもしれないと思う相手もいた。だが、それは感情よりも現実としてみていたように思う。まだ急ぐ歳ではないが、付き合った彼女の家族と顔を合わせたり相手に結婚を匂わされたり、そんな中でそれを意識し、こういうものだと漠然とながらにも思っていた。だが、些細な喧嘩で別れればそれまでの事。
 家庭環境のせいだけではないだろうが、俺は恋愛に夢など見られない。恋人や結婚は互いに打算のやり取りで成り立っているようなものだと思っている。だから、友情やそう言った今のままで満足する関係の中に、一時の気の迷いのような感情が入ってくるのは正直嫌なのだ。いや、怖いのだ。
 蒼江さんばかりではなく他にもそんな経験はしてきたが、後味の悪い結果をもたらす事の方が多い。何故恋などに夢が見られるのか俺には理解出来ない。
 だから、そんな感情に振り回されてしまった事が悔しい。どちらが悪いではなく、ただ、目に見えないものに対して憤りを感じる。そう、自分の思う通りには上手くいかないことに腹を立てる子供のように。
「俺は、恋がどういうものなのか正直わからないんです。今まで付き合った者もいたし、それなりに恋愛はしてきています。だけど、必死になった記憶はない。
 だから、あの時もあなたの気持ちがよくわかっていなかった」
「……もうやめよう。これじゃいつまで経っても堂堂巡りをするだけになるよ」
「ええ、わかってます。でも、これだけは…。
 俺は傷つける行動だとも気付かず、どうしたらいいのかとばかり思って慌てるばかりだった。正直に伝えればよかったのに出来なかった。……怖かったんです」
「…怖かった? 君が?」
 驚く蒼江さんの視線を避けるように少し俯く。
「えぇ。あなたの思いが本当に恋愛感情だったら、俺がそれを受け入れなければ関係は終わってしまうんじゃないかと…。餓鬼だったんです。本当にそんな事を思っていた。
 だけど、俺は嘘をつくことは出来ない。あなたの事は好きだが、恋愛じゃなかった。なら、これで終わるしかないのか、その思いに捕らわれた。
 ……なかったことに出来ないか、そう思っていました。以前のように戻れるようにと…」  口にした自分の感情は、相変わらずもなんとも餓鬼臭いものだった。
 口を閉ざした蒼江さんは暫く考え込み、「…そうか」と呟いた。
「僕も恋がどういうものかなんてわからない。でも、あの時は何も考えられないくらい君が好きだったよ。言わなければ、自分の中でどろどろに腐って、狂ってしまうと思うほどに」
 思わず顔を上げた先には、真剣な表情の彼がいた。だが、直ぐにそれを崩し、苦笑を浮かべる。
「僕もね、自分のことだけしか考える余裕がなかった。そうだよね、恋愛感なんて人それぞれなんだから、ただ思いを伝えてもどうにもならない。
 話し合うだけの勇気がなかったんだよ、僕は。ゲイではない君に嫌いでも一度でいいから抱いて欲しい何て言えはしないし、あの頃の僕はそんなこと思いつきもしなかったし…。結局僕も子供だったんだよ。自分の感情だけでぐるぐる回っていた」
「…蒼江さん…」
「なあ、松岡。
 やり直そう、だなんていうのは可笑しいし、過去は消えないけど…」
「…もう一度、はじめましょう。蒼江さん」
「…先輩と後輩…?」
 蒼江さんはクスリと笑い、俺に指を指し、次に自分を指した。
「宜しくお願いしますね、先輩」
「え!? ちょ、待ってくださいよ」
「後輩に敬語なんて使わないでくださいよ、先輩」
「蒼江さん!」
 俺の声に、彼は肩を震わせ押えた笑いを上げる。
「声、大きいですよ。誰か起きちゃいますよ、先輩」
「ま、まだ言いますか。ったく…」
「あはは。後悔した?」
「何をです…?」
 少し呆れたように眉を寄せたままの顔を彼に向けると、ニヤリといった笑いを向けてくる。
「こんな僕と以前のように戻りたいと思ったことを」
「…いえ。…あなたはそういう人だということは知っていますよ」
 負け惜しみのようにそう言い、少しむくれる。そう、彼の無邪気な笑顔でする悪戯に何度引っ掛かったことだろうか…。
「そうか…。それは、残念」
 それはどういう意味ですか。そう問う俺に「さあ、どうだろうね」と彼は綺麗に微笑んだ。
「蒼江さん、ひとつ、いいですか?」
「ん…?」
「そう自分を下げないでください。あなたは充分に素晴らしい人間です」
「…よくそんな恥しい事が言えるね。煽てても何も出ないよ」
 呆れたように呟いたが、背けた顔は照れていた。
「俺も恥しいんですから、茶化さないで下さいよ」
「…そうだね。…ありがとう、松岡」
 夢を見ているようだ。先程辛くて泣いていた自分が今はその彼と笑っているのだ、現実と思えなくとも仕方がない。だが、これは紛れもない事実。
 色々と互いに悩み苦しんだ答えは、こんなところにあった。皆が寝静まった夜に、二人で肩をゆらせ笑い合う。
 ふと夜空に向けた俺の視線を追い、彼も空を眺める。
 夜空に浮かぶ月。
 俺達はあの時と同じように、綺麗な月を二人で眺めた。


END

2002/10/11