君を呼ぶ世界 1


 一晩で世界は変わると言ったのは誰だったか。

 気が付いたら、川の中から広く高い空を眺めていた。
 黒い小さな点のようなものが、水色の中を斜め上から下へと動いている。形は全くわからないが、鳥だろうそれを追いかけゆっくりと下げた視線が、漸く辺りの景色を捉えた。
 幅の広い川の向こうに広がるのは、林だか森だか知らないが、濃い緑の木々だ。クマが出てきても不思議ではない風景に、マイナスイオンたっぷりだと深く息を吸う。
 だが、癒しは訪れない。
 寧ろ、頭がクリアになるに連れ、不安が浮かぶ。
 見覚えもないこんなところに、どうしてオレは居るんだ?
「……オレ、どうしたんだっけ?」
 川縁の岩に凭れかかり、胸から下を流れる水につけたままの自身を見下ろし、水中の手を動かしながら呟く。
 握り締めた拳を上げ、目の前で開き、また閉じる。夢ではなく現実だと思える感触。だけど、現実には思えない現状。
 何故、こんなところで寝ているのか。自分の事であるのに、意味がわからない。
 確かな握力を確認し、頬を抓ってみれば。
「痛てぇ…」
 本気で痛い。マジかよ、ウソだろ。何だよコレ。
 頬をなでながら顔を顰め、頭から霞を振り払い今度は真剣に辺りを見回す。
 岩に手を付き立ち上がれば、後ろにも木が立ち並んでいた。
 昔遊びに行った、田舎の景色だ。だが、それでもそこには車が通れる道があった。
 ここには、人が通るような畦道さえなさそうだ。緑が、深い。深すぎる。
「どこだよ、ここは…」
 わかるのは、覚えのない場所だというだけで。
 まさか、拉致され途中で捨てられたとか? 異国の地なんて事はないよな?と焦る心を押さえつけながら、今より前の記憶を探す。
 身体に張り付く服は、水を含み色が変わっているけれど。間違いなくフォーマルスーツだ。そしてこれは、悪友の結婚式の為に先日購入したばかりのもの。
 オレは流されでもしたのだろうか。それとも、岩に凭れさせられた時についたのか。苔で汚れたスラックスを摘み指で擦るが、茶色のそれは落ちそうにない。見れば、ジャケットの袖に指二本が入るほどの引っかき傷まである。
 一度着ただけでオシャカになるとは、かなりショックだ。そこそこの値段だったのに。
 それでもこのままではどうにもならないので、未練たらたらで服を脱ぎ水を絞る。皺を伸ばすためにシャツを振り回しながら、何度目になるのか辺りを見回し溜息を吐く。
 結婚式の三次会がお開きになったのは真夜中で、終電はもうとっくに終わっていた。友人達と別れてもなお、酔い覚ましにとタクシーを拾わずに徒歩で帰路に着いた。それは、確かだ。覚えている。だが、その後のことはよく覚えていない。
 どこでだったか、橋の欄干に凭れて汚い小さな川を見た記憶はあるが、それがこの広い川へ繋がっているはずもなく、そもそも落ちた記憶もない。泳ごうとした覚えもないし、それが最後の記憶かといえば、そうでもない気がする。
 狭いアパートの一室に辿り着く前に、何かあったのか。それとも、オレは帰り着いた後で災難にあったのか。
 下着一枚で思案にくれながら、首にぶら下がるペンダントを軽く握り締める。
 なんかさ、サツキ。凄い事になっちゃっているよオレ。
 どうしよう?
 てか、どうなるんだろうな?と、いつものように片割れに話し掛けるが、落ち着けない。
 見上げれば、果てしなく広がるブルースカイ。けれどオレの心は全然晴れない。夢でなければならないのに、目も覚めない。
 父さん、母さん。息子が大変だよ。一大事だよ。助けてくれ。
 この歳になって親に助けを求めることになるだなんて、考えてもみなかった。一人前だと鼻を高々と伸ばしていたわけではないが、大人だと勘違いしていたのかもしれない。まるっきり、対応出来ない事態だ。
 ホント、どうしたらいいのかわからない。

 途方に暮れて座り込むしか出来ないオレの前に、背の高い白髪の爺さんが現われたのは、空が赤く染まり始めた頃だった。


2008/07/04
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