□ 紅い星

「お疲れ様でした。お先に失礼します」
 同僚達に声をかけ、ロッカールームを後にする。裏口から店を出ながら、俺は携帯電話を取り出し電話をかけた。1時間程前に、恋人からの着信が残っていたからだ。いつもならば、職場のスーパーが閉店する時間なのでバタバタとしているのだろうに、なんとも珍しい事だ。
『仕事、終わったのか』
 ツーコールで通話に出た相手は、挨拶もせずにそう訊ねる。何だか、俺からの電話を待ちわびていたように感じられもするが、多分無精をしただけなのだろう。そう言う男だ。
「ああ、終わった。何、どうかしたの?」
『表に来ているんだが、』
「表?」
『そう、店の表。入口の真ん前に』
「はぁ?」
 素っ頓狂な声をあげ、俺は理解した言葉の真意を確かめるために、慌てて裏路地を駆け表通りへと向かった。角を曲がった途端、人気のない歩道で佇んでいる恋人の姿を認める。よう、と言うように片手を挙げられ、脱力した。一体、何を考えているのか。足を止めた俺のもとに、男が自ら近付いてくる。
「…何、やてるんだよ」
「近くまで来たんだ。仕事でな」
 軽く肩を竦める恋人が見慣れぬスーツ姿である事に気付き、俺は一頻り笑った。馬子にも衣装じゃないけれど、普段の仕事着が赤いエプロンであるので、そのギャップが堪らない。だが、内心では、冴えない中年男もこうすればなかなか様になっているなと妙にドギマギもした。絶対、本人には教えてやらないが。
「中に入ってくれば良かったのに。退屈だっただろう」
「そんなことはない。良く見えた」
 そう言いながら店を顎で示し、1時間近くここにいたのだと言う男は低く笑う。
 俺が勤めるケーキ屋の厨房は、表の道からは丸見えの造りになっている。毎日のように歩道には、学校帰りの子供が群がるくらいだ。だが、閉店した後は当然の如くブラインドを下ろす。歩道に立ち見えるのは、中で動いている者のシルエットぐらいだ。今夜のように、パティシエ全員が残っていては、どれが誰かはわかりはしないだろう。
 いい加減な事を、と呆れながら俺がそれを指摘すると、全員を見極める必要はないのだと男は返してきた。
「なら、俺だけを見分けられたって? それは、スゴイな」
 何て暇人なんだと悪態を吐きながら、笑う男と並んで歩きはじめる。
 満天の星空の下、他愛ない会話を交わす。地元ではそれなりに大きなスーパーの店長である男と、結構遠くまで名が知られているケーキ屋の雇われパティシエである俺との間に、大した共通の話題はない。交すのは、本当にくだらない話題ばかりだ。だが、こういう時間が俺はかなり好きだったりする。難しい事は良くわからない俺に合わせての会話は、男にとっては物足りないのかもしれないが。
 俺はこの恋人に甘えているのだろうかと時々思うが、それ以上にこの穏やかさを俺は気に入っているのだろう。優しさだけならば、他の男も沢山くれた。それに満足しなかったのは、多分こうした自然なものを望んでいたからだ。見た目は冴えない男なのに、彼が作り出す空気を俺はとても心地良く思う。
「火星も随分小さくなったな」
 空を見上げたまま、男が不意に呟いた。
「えっ?」
 本人にしてみれば何気ない一言だったのだろうが、俺は勢い良く視線を空へと移す。和やかな空気は、俺の突然の好奇心で吹き飛んでしまった。火星を探して、ぶんぶんと首を振る。
「なに!? どれ? どれが火星? 何だよ、まだ見えるのかよ」
 見えないと思っていたものが、実は見えるのだと教えられたら、見たいと思うのが人間だろう。少なくとも俺はそうだ。
「まだって、まだまだ見えるだろう。太陽の裏側に回りこまれない限りは、大抵見える。地球の隣の星だぞ。見えないと思っていたのか?」
「ああ、そういえばそんなの習った気もするな。明けの明星とか何とかって奴だろう?」
「明星は、金星だ」
「ん、そう? でも、似たようなもんだろう、気にするな。っで、火星はどれ?」
 俺の発言に、「お前はもっと気にしろよ」と呆れながら、男は空を見上げ一点を指差した。
「あそこだ。ほら、紅い星があるだろう。あれだ」
 腕を真っ直ぐと伸ばし、指で示したその先に、確かに紅いと思える星がひとつあった。星にも色がついているのかと、小さな感動を俺は覚える。
「ああ、本当に紅いじゃん。あれが火星か。なんだ、まだ見えるんじゃないか。夏に色々と騒いでいただろう、見逃したら何万年後…だったかな、なにせ一生見る事は出来ないでしょうってさ。だから、俺すっかり忘れて見なかったから、火星はもう拝めないのかとばかり」
「あの距離に近付くのは、だろう」
 ニュースを見ても、きちんと理解しなければ意味がないなと男は笑う。何て失礼な奴なのか。それでは俺が馬鹿みたいではないか。
「なんだよ、ったく。わかりやすく言わない方が悪い」
「ま、確かに、今回のあれは騒ぎすぎだな」
「夏にはさ、そんなに大きく見えたわけ? 月ぐらい?」
「そこまで見えて堪るか。考えてものを言え。まあ、そうだな。肉眼だと今よりはっきりと見えるかな、って程度のものだ」
 何だ、そんなものなのかと俺は眉をあげる。
「微妙だな」
「そんなものだ」
「でも、凄く近付いたんだろう?」
「まあな。だが、10年後にはまた同じように接近する。確かに今回より距離は遠いが、こうしてみる限り違いなんてそうわかりはしないだろう」
「そうなのか? 何だよ、それなのにあんなに騒いでいたのかよ」
「今回騒いだのは、マスコミが関心を持って沢山取り上げたからだ。同じく10年前に接近した時は、日本のマスコミは興味を示さなかったからあまり知られていない。だが、どこかの国では火星ブームが起きていたらしい」
 アメリカだったか、ヨーロッパだったかと呟きながら、「彗星もブームものだろう、あんな感じだ」と俺にはいまいちわからない喩えを示した。
「ま、何にしろ、いい加減なものなんだな」
 適当だと俺が言うと、そんなものだと先程と同じ応えを男は返してくる。その恋人の横顔を眺め、俺は気付かれない程度に小さく笑った。
 回り続ける星のように、俺達も常に動いているのだろう。それでも、10年後もこうしていたいと、この男と肩を並べて歩いていたいと、ふと強くそう思った。
 だが、そんな思いは恥ずかし過ぎて口には出来ず、別の言葉に形を変える。けれども、込める思いは同じだから、相手に伝われば良いなと都合よく願いもする。
「今度近付く時はさ、教えてくれよ。もっと明るいんだろう、見てみたい。じゃないと、一生見れそうにないよ、俺は」
「何でも忘れるのが得意だからな、お前は」
「ウルサイ。嫌ならいい」
「嫌じゃないさ。俺がお前に見せてやるよ、楽しみにしておけ」
「偉そうだな、別にあんたが火星を引き寄せるわけでもないのに。ああ、でもさ。10年後って言ったら、あんたもう45になってるじゃん。ボケて忘れているのかもよ」
 軽口を叩いた俺に、45でボケて堪るかと一瞬眉を顰め、その後ニヤリと男は口角を上げて笑った。
「その時は、お前が俺に見せてくれるだろう?」
 お前はそういう奴だよ。
 目を細めて男が笑う。
「…何を言ってんだか」
 軽く肩を竦めて、嬉しいのか恥ずかしいのか微妙なところであるその言葉を流そうとしたが上手く出来ず、「何か、面白くないゾ」と言いながら、俺は男の胸からネクタイを掴み取り強く引っ張ってやった。下りてきた少し薄い唇を、自分のそれで受け止める。
 なんとも言い表せないこの感情は、自分達はきちんと恋をしているのだと俺に教える。だが、嬉し恥ずかしいこの想いを男に見せるのはなんだか癪で、いつも何かで俺は誤魔化すのだが、年上の男にはそれ自体を見破られているのかもしれない。何より、夜とはいえ、こんな場所でのキスはマズイだろう。
 誰かに目撃されるかどうかではなく、家まで我慢出来るかどうかが問題なのだ。
「あんた、寒いんじゃないのか?」
 重ねた唇が冷たいと文句を言うようにあからさまに顔を顰めながら、俺は小さな動揺を隠す。見栄を張りたい年頃なのだ、いいだろう。
「ああ、少し寒いかな」
 訳知り顔で気に入らない笑いを浮かべる男に、「なら、早く帰ろうぜ」と歩みを促す。俺を待っていたのが原因で風邪をひいただなんて、洒落にならない。それだと、単なる馬鹿だ。
「ああ、コウ」
「何だよ」
 角を曲がり、紅い星に背を向けた俺を男が呼び止める。恋人は今並んで歩いて来た道を振り返り、指を刺した。何だろうかと数歩戻り、その方向に目を向ける。
 そこには、見たいと思った星ではないが、紅く輝く星があった。
「…紅い月、ね」
 顔を出したばかりの月は欠けているが、随分と大きく見える。それは黄金という方が近いのかもしれないが、確かに紅い星だ。洒落た事をと喉で笑う俺に、男は帰路を促しながら同じように笑う。
「あれってさ、空気が汚れているからなんだろう。月が赤く見えるのはさ」
「おいおい。折角の綺麗なイメージを壊すなよ」
 何だってそんな事は知っているのかと、神秘的だと思っておけよと、ここぞとばかりに知識をひけらかした俺の発言に男が苦笑した。
 そんな馬鹿な俺達を、紅い星ばかりではなく、無数の星が見下ろしている。
 それが嬉しいと、幸せだと思えるのは、やはりこの男が傍にいてからこそのものなのだろうかと、俺は満天の星に問い掛けた。
 その応えはいつ、知る事が出来るのだろうか。
 隣の男の横顔に訊いてみたが、既に応えを貰っているような気にもなり、俺は満足してまた空を眺める。
 星達は変わらず、そこにいる。


END
2003/Autumn