□ LET'S COOKING!

「…ダメだ。絶対にムリ」
「大丈夫、出来る。ここにこうして、突き入れるだけ…」
「ヒッ!!」
 手の下でビクリと跳ねたその体に、俺の血の気が一気に下がる。
「ほら、出来るだろう?」
「……ムリッ…もう、イヤだって言ってんだよっ! バカ!」
 大きな手で押さえつけられていた自分の手を何とかそこから引き抜き、俺はその場に座り込む。目の前が、真っ赤だ。赤い色しか見えない。…いや、そこで何かが動いている。瞼の裏に広がる赤の中で、何かが――
 魚だ。
 ギョロリとした大きな目が俺を見る。
 掌に、今さっき感じたその冷たさとぬめりと、命が切れる最期の足掻きにも似た力強い動きが蘇る。
「――うぎゃっ…!!」
「…どうした? 気分が悪くなったのか?」
 上から落ちてくる声に、堪らないと、縋りつくようにそちらを見上げる。
 だが、そこにあるのは救いでも何でもなく、冴えない男の顔だ。俺をこんな状況に追い込んだ張本人だ。憎たらしい。
「何泣いているんだよ。そんなに嫌いなのか?」
「泣いてなんかいない。でも…嫌だって、初めから言ってるだろ……」
 尻すぼみになる俺の情けない声に、男は溜息を落とした。
「嫌いでも、大人の男が泣くか、普通。女ならわからなくもないがな」
 頬を膨らませ、シンクに向かい合うように床に座り込んだままの俺を、男は軽く喉を震わせながら適当に相手をする。俺に退く事は要求せず、やりにくいだろうに腕を伸ばして魚を調理する男の顔は、どこか少し楽しそうだ。
「魚は食べるのは好きだが、料理は出来ない触れないだなんて、煙草を吸う男の仕草は大好きだが、実際は煙草の匂いは大嫌い、煙草臭い男は近寄るなって言う最低女と似たようなもんだぞ」
「……全然違う」
 訳のわからない事を言う男の足元から這い出し、なるべくまな板の上を見ないように移動し、オーブンレンジの前に立つ。そこから香りたつ香ばしい匂いに、俺はほっと胸をなでおろした。漸く先程の恐怖から解放される。
 網目模様が入ったガラスを覗き、その向こうでいい感じに焼けているケーキを眺める。男のリクエストで俺が作ったレモンパイ。実験した事はないが、多分眠っていても失敗せずに作れるだろう、俺の得意料理だ。
「どうだ? 食えそうか?」
 自分の足元から逃げ出した俺を内心で笑っているのだろう。男が軽口を吐く。
「当たり前だ、誰に言ってるんだよ。俺は料理人だぞ」
「違うだろう、魚も捌けないくせに。菓子職人ってだけだろう」
「ったく、うるさいなぁ…」
 盛大に溜息を吐く俺を無視し、男はてきぱきと調理を進めていく。ジューッと勢いよく上がる油の音に引かれるようにシンクに近付くと、フライパンの中には綺麗に捌かれた魚が並んでいた。
 切り身になると問題はないが、どうも丸一匹という魚の姿を見るのは好きじゃない。触るのなんて以ての他だし、まして捌くなど、気が狂っても俺には出来ないだろう。血が苦手と言うわけではないが、魚は捌けない。
 別にトラウマがあるわけでもない。ただ嫌いなのだ。何となくカエルの解剖を思い出す。生魚を口にしている時にその原形を思い出だそうものなら、吐き出したくなるほどだ。だが男の言うように、魚自体の味は嫌いではないのだから、単なる我が儘でしかないのだろう。
 しかし。それでも、嫌いなものは嫌いないのだ。
 男が魚の腹を裂きその内臓を掴んで引き千切ったのを想像すると、その男の手に触れるのさえ躊躇ってしまう。大人気ないとわかっているので実際には口にしたことはないが、せめて俺に触るのなら10回は手を良く洗ってからにしろ、と言いたいくらいだ。
 器用に魚を裏返し、ワインで香り付けをしている男から目を離し、台所の隅へとそれを向ける。俺の視線が、青い冷蔵庫の横に置かれた、円柱の黒いごみ箱に定まる。
 魚のゴミは、俺が見ていない間にそこに捨てられたのだろう。明日はゴミの日だ。だが、言い換えれば、明日までは一つ屋根の下と言うことだ。多分動きだしはしないだろうが、臭ってくるんじゃないのだろうか…?
 そういぶかしむ俺の頭に、先程喉を一突きした魚の顔が思い浮かぶ。
 俺の頭の中の魚の口が、パクパクと動く。そして――
「おい、コウ」
「ひっ!」
 突然の声に驚き、俺の腋から一滴の汗が腕を伝い流れ落ちた。嫌な感じだ。
「何驚いてんだ。そんなことしてずに、冷蔵庫に入れているサラダ出してくれ」
「…ああ、うん」
 いつの間にかごみ箱を睨みつけ脅えていた俺は、男の頼みに頷きながらも、直ぐには動けない。…滅多に俺の名前なんて呼ばないのに、何故こんな時に限ってタイミングよく呼ぶのか。そんな男が恨めしい。
「ほら、早くしろよ」
 焼きあがったのだろう、魚のムニエルとアスパラと名前の知らない物体を皿に載せながら、男は俺を促した。
「わかってるよ」
 仕方がないと諦め、ごみ箱を覗き込まないように注意をしながら、冷蔵庫からボウルに入れられた香草のサラダを取り出し男に渡した。男はボリュームのあるそれを、無造作に沢山皿の上にのせる。だが、それは考えて置かれたかのように、センスよく料理を表現している。
 だが、はっきり言って冴えないスーパーの店長がする盛り付けとしては、異常だ。似合わなさ過ぎる。緑の香草に白いカッテージチーズの取り合わせは、何となく可愛らしさがあるので、余計に中年男には似合わない。
 しかし、味はピカイチなのだ。オリーブオイルの薫りが俺の食欲をそそり、クルルと俺の腹の虫が小さく鳴いた。
「さ、食おうぜ」
 ワイングラスをテーブルに置きながら男はニヤリと笑い、俺のために椅子を引いた。



「前から聞こうと思ってたんだけどさ。何で、料理が上手いの?」
 シャワーを浴びたせいで少し湿った俺の胸を、男がゆっくりと撫でる。その感触に少し喉を震わせながらの俺の質問に、微妙にズレた答えを男は返した。
「そりゃ、経験が豊富だからだろう。ま、何より素材がいいってな。――ほら、最高だろう?」
 胸の突起を摘まれ、反射的に甘い声をあげた俺を、男は喉で笑いながら同意を求める。
「バカ、違う。セックスのことじゃない。…って。素材って、俺?」
 オヤジ思考の発言だと男の言葉に呆れながら、俺っていつもこいつに料理されて食われているわけなのか、と今更だが気付き、俺は少し照れながら訊き返した。
「他に誰がいるんだ。上質なもので、俺には勿体無いぐらいだな。だから、いつも丁寧に味わっているだろう」
「…背筋が凍るような事を言うなよ、寒すぎる」
「酷い言い方だな」
 思わず頬を引き攣らせた俺を男は軽く笑い、強張った顔に唇を軽く落としてきた。こめかみにキスをしながら、手の甲で俺の頬を撫でる。
「ま、それはいいとして。っで、何なんだ?」
「俺が言いたいのは本物の料理の事だよ。何で、魚まで捌けるんだ? 他の事は不器用なくせに」
 髪に差し込まれた手は無視し、執拗に胸を弄くる方の手を軽く押しのけながら、俺は以前から気になっていた問いをもう一度した。料理が得意だとは知っていたが、まさか魚まで捌けるほどだとは知らなかった。
「別に、不器用って事もないだろう」
 押しのけたのが気に障ったのか、少し低い声でそう言い、不意に深いキスを仕掛けてきた。だが、直ぐに滑り込んできた舌は出て行き、男は喉を鳴らしながら言う。
「俺も、お前があそこまで魚嫌いだとは知らなかった」
「……。…何だよ、答える気がないのかよ」
 溜息を吐く俺に、男は軽く肩を竦め、「大した理由じゃないんだが」と言葉を繋いだ。
「伯父が小さな洋食屋をやっていてな。子供の頃からそこの調理場が俺の遊び場だったから覚えた。っていうか、無理やり教えられた、かな」
「洋食屋?」
 初耳だ。ならば、プロに教わったと言う事か。
「ふ〜ん。なら、何でスーパーの店長なんてやってんの?」
「なんて、て言うなよ。傷付くぞ」
「付かないくせに言うなよ」
「ったく。…やる気はないのか?」
 肌を重ねるだけで動かない俺の腰に手を滑らせながら、男は拗ねた子供のよう訊いてきた。
「あるさ、もちろん。でも、話もしたい」
 男の脚に脚を絡めながら、それでも俺は無邪気にニコリと笑ってみせる。触れ合った俺達の熱が、まだ会話が楽しめる程度には余裕がある事を確認する。
 そんな俺に再び軽く息を落とし、仕方がないと観念したのか、髪や顔にゆっくりとキスを落としながら男は話し始めた。
「別に、俺にとっては料理はそれ以上でも以下でもないんだよ。…確かに伯父貴は俺をその道に行かせたかったみたいだが、俺には全くその気がなかった。ただそれだけだ」
 まともに菓子以外の料理が出来ない俺が言うのもなんだが、男の料理は金をとっても不思議ではないくらいに美味い。趣味以上の味だ。その伯父さんの気持ちもわかる。
「勿体無いな」
 そう零した俺の呟きに、「そうでもないさ」と男は苦笑する。
「お前は、何でパティシエになった?」
「俺?」
「客が喜ぶのは嬉しいか?」
「ああ、もちろんだ。きっかけは、食べるのが好きで、自分でも作れるようになりたいって単純なものだけどさ。やっていくうちに、思っていた以上に奥が深くて見事にはまったんだよ。でも、それだけじゃ仕事にまでしなかったかな、多分。あんたの言うように、客が俺の作ったものを金を出してまで食べて、っで喜んでまた買ってくれる。それがあるから、続けていけるんだろうな。良いものを作ろうってさ」
 俺のその答えを、まるで子供を見守り続ける親のような顔で聞き、男は「その違いなんだよ」と眉を上げた。
「俺には、それがない」
「ん?」
「どこの誰かもわからない奴に美味しかったと喜ばれても、あっそう、って感じなんだ。嬉しくともなんともない。ちなみに俺は、一人なら毎日カップ麺でも全然問題ないっていう感覚の持ち主だ。自分で自分に凝った料理なんてした事はない」
「…嘘だろう?」
「ホント。嘘をついても一円にもならないだろう」
 俺の髪をかきあげ、生え際に軽く音を立てて男はキスをした。どこか照れているようだ。
「ならさ。何で?」
 何故俺といる時は作るわけ? 俺にデザートを作れとねだるの?
 そう首を傾げる俺に、「簡単な事だ」と男は笑う。
「どこの誰かはどうでもいいが、好きな奴には違うって事だ。単純だろう? お前が旨いと喜ぶから、色々作って食べさせたくなる。お前が俺に作ってくれるのが嬉しいから、お前の菓子を食べたくなる。…言っていなかったがな、俺は実は甘いものは苦手なんだ。だが、お前のなら不思議な事に大丈夫なんだよ、ちゃんと美味しいと感じる」
「……それってさ。味自体はどうでも良いって事じゃないのか? うわ、ひでーな」
 意外な告白に驚いてしまい、俺は照れ隠しにそんな悪態を吐く。
「バカ、そうじゃない。でも、ま、愛って事にはかわりはないか」
 そんな俺をさらにユデダコにでもしたいのか、欲情に掠れたような声で、男は俺の耳に甘く囁いた。
「コウ」
「ん…」
「料理とはな、奥が深いんだ。食べるだけじゃない、味を楽しむだけじゃない。他にも色々と何かがあるんだよ」
「何かって、何だよ」
「それは、自分で確かめろ」
 調理されればわかるかもしれないぞ。
 喉で笑いながら男はそう言い、カプリと俺の肩に歯を立てた。
 結局これかよと呆れながらも、俺も我慢できなくなってきていたので、肩から胸へと唇を滑らせる男の髪に手を差し込む。だが、しかし。
 調理。
 その単語に、俺の腹の中に収まった魚が反応し飛び跳ねた気がした。ゴミ箱に埋められた顔がパクパクと口を動かした気がした。…最悪だ。
 少し憂鬱になったので、俺は男を強く抱きしめる。その力の意味などわかっていないのだろうに、男は軽く喉を鳴らした。
 俺はその男の勘違いに、おめでたい奴だと満足し、男の料理を堪能するべく男の顔を引き寄せる。

 とりあえずは。
 とても甘いキスをひとくち――


END
2003/05/16