□ fragrance

「――わかりました、直ぐ行きます」
 書きかけのカルテを閉じ、葉山は医局を後にした。受けた電話は救命救急からの呼び出しだった。
 静まり返った廊下を一人足早に歩きながら、不謹慎にも葉山の口から零れたのは溜息だった。
 疲れているわけではないが、何となく気分が重い。
 クリスマスの夜に急患を迎えるのは、いつもより何故か心が騒ぐ。信者ではないにしても、この夜を特別に思っていると言う事なのだろうか。
 ふと、後ろから人が駆ける足音が響いてくるのに気付く。
 葉山が振り返ると、神崎が小走りにやって来ていた。
「巽も、救急?」
「ああ」
「僕は行ってくれって言われただけなんだけど、…何かあった?」
 救命救急の者だけで手が足りないとはどうかしたのか、と神崎は葉山と並び廊下を進みながら小さく首を傾げた。
「今さっき、前の道路で事故があったらしい。乗用車同士の正面衝突」
「何人?」
「5人」
「両方、受け入れたのか。向こうにまわせなかったの?」
 近くにある大学病院をさして神崎は肩を竦めた。
「さあ。でも、そう言う事だろう」
 自分も詳しい事は知らない。ただ看護婦からの電話でそのような事を聞いただけに過ぎない。
「クリスマスだというのに、忙しいね」
 チラリと窓の外へと視線を投げかけ、神崎は何の感情もなく、ただそう呟いた。
「年末は、いつもそうだろう」
「そうだけど…。せめてこの日くらい、静かな夜を迎えたいと思わないかい?」
「独身の医者には無理な望みだな」
 葉山の言葉に、「確かに、そうだ」と神崎は喉を鳴らした。


 救命救急に入ると、すでに患者は到着していた。
「葉山医師、こちらお願いします」
「はい」
 返事をしながら患者へと足を向ける葉山の後ろで、神崎も別の看護婦に呼ばれていた。そう広くもない部屋の中は処置をする看護婦や医師の声が飛び交い、夜とは思えない騒々しさだった。しかし、緊迫した空気はその事を意識させる事はない。
 葉山が任されたのは、自分とそう変わらない若い男だった。血に染まったシャツが切られ、看護婦の手により剥ぎ取られていく。現れた右腕は通常ではありえない形に曲がっていた。
 苦痛に息を詰めながらも何か言おうとするように口を動かしている患者だが、それは言葉にはなってはいない。多分痛みを訴えているのだろう。葉山は患者に呼びかける。
「今から治療しますから。何処が痛いですか」
「…あ、あ…」
「大丈夫です、病院ですよ」
「あ、あの、…娘が…っ」
「娘…?
 運ばれているんですか?」
 葉山は患者を挟んで向かい側にいた、医療器具を準備しているベテランの看護婦に問いかけた。一度に大勢の急患が来たからだろう、スタッフが間に合っておらず、伝達が上手くいっていない。
「ええ、今あちらで神崎医師が見ています。
 大丈夫ですよ、品田さん。お嬢さんも今治療していますから」
「あっ…、娘の、意識がなくて…病院に、向かって…いたんです」
「え? 事故前から意識がなかったんですか?」
 葉山の問いかけに、薄く目を開けた男が苦痛に耐えながら小さく頷く。
 神崎にその事を伝えるよう、呼び出されてやって来たばかりの看護婦に頼み、葉山は男の体を診ていく。
「わかりました。大丈夫ですから、落ち着いて下さい。痛いところは何処ですか?」
 患者の口から漏れる声と自らの手の感触で体の状態を確かめていく。右腕の痛みは完全になくなっているようで、神経の損傷が気になるが、後回しにせざるを得ない。
 救命救急の看護婦が様子を窺いに来たので、他の患者の様子を聞く。
「なら、先に行かせてもらおう。レントゲン準備して。両足首と右腕、あと肋骨が折れているが、内臓の損傷はないと思う。
 あとは頼むよ」
 男は幸いにも命に関わるほどの怪我ではなく、明日にでも脳波の検査などをしなくてはならないだろうが、とりあえずは鎮痛剤を処方し様子を見ることとなるだろう。
 看護婦に指示をだし、葉山は別の患者を診る医師をサポートすべく、その場を離れた。


 運ばれた急患の手術を終え葉山が医局に戻ると、神崎がソファに寝転がっていた。側のテーブルにはマグカップが置かれている。
「お疲れ」
「いつから居るんだ?」
 自分に笑みを向けてくる友人に葉山がそう問いかけると、「ちゃんと居場所は言っているから、ご心配なく」と起き上がり肩を竦めた。
 いつになるかわからない自分を待っていた友人に、葉山はそれ以上何も言う事は出来ない。いや、必要ない。自分が注意せずとも、全てこの友人はわかっている。わかっていての行動だからこそ、人一倍気を使っている。
「お前が診た子は? どうだったんだ?」
 葉山は自分のカップにコーヒーを淹れながら、神崎に問いかけた。
「ああ、一酸化中毒だったみたい。事故によるものは特に無し。
 そっちは?」
「オペは成功。その子の父親の方は、明日こっちに移ってくるだろうから、それからだな、予定を決めるのは」
 肋の骨折は固定していればくっつくだろうが、他は手術となる。果たして年内中に出来るだろうか…。
 葉山は頭の中で今ある予定を浮かべながら、熱いコーヒーを一口啜った。
「そう。後の二人も無事みたいだし、良かったね」
「ああ」
「…飲酒運転だってさ、片方は。
 あの父親も慌てていたこともあったんだろうけど、警察の話じゃ酔っていた方が無理な運転をしたとのことだよ。ま、事情を聞かないと正確にはわかんないんだろうけどね」
「そうか…」
「うん、そう」
 神崎は小さく微笑み頷くと、立ち上がり窓に額をつけ暗い外を眺めた。夜鏡となり窓に映るその友人の表情は、何とも言えない無のものだった。
 多分自分もそんな顔をしているのだろう、と葉山は椅子に座り目を閉じた。
 この仕事をしていれば、生死に関わるのは当然の事で、そしてそれに関係する人間関係にも触れる事にもなる。綺麗な人間ばかりではなく、まして自分もそういった人間であるわけでもなく、やりきれない思いをする事は沢山あるのだ。
 今夜の事も、全員が助かったのでほっとする反面、同じ患者でも娘の容態に慌てて必至になったものと、モラルを欠いたものとでは感情が違ってくる。否定するわけではないが、やるせない。自分のせいでは決してないのに、何故かそんな気分になる。
 そして、それが余計に疲れを覚えさせる。
 医者は命を助けるだけのものではなく、同じ人間を救う立場にいる。
 時にそれは果たして自分のすることなのか、自分が出来ることなのか、という疑問と不安を沸き起こす。
 答えなどないのだろう、自身で割り切るなり、夢を見るなりして納得させるしかない。
 そう、普段はそうして乗り切っている。だが、ふと思い出したように、迷いに捕まる時がある。
 今夜のように…。
「ね、巽」
「…何だ」
 先程までの騒ぎが嘘のように、葉山と神崎を包む医局の空気はとても静かだった。そして、少し寂しい…。
「メリークリスマス」
「どうした、突然」
「ほら。もうとっくに12時が過ぎているな、と思ってさ。
 今日はクリスマスだよ、巽」
 壁にかかる時計を指さしながら、神崎がクスクスと笑った。
「って、別に25日に言う言葉じゃないんだろうけど。何となく、言ってなかったなって」
「昼間、聞いたぞ」
 小児科病棟でのクリスマス会でサンタの格好をし、安売りのようにその言葉を云い回っている友人を葉山は見ている。
「でも、巽には言ってないだろう。
 あと、ほら」
 神崎は葉山の側にやって来ると、机に掌に隠しこめるほどの小さな包みを置いた。
「クリスマスプレゼント」
「俺は用意していないぞ」
「いらないよ、別に。他から沢山貰ったから」
「……」
「何考えているんだよ。子供達にだよ」
 笑顔は最高のプレゼント、ってね。
 喉で笑いながらそう言う神崎に、葉山は軽い溜息を付いた。
「っで、何だ、これは?」
「ったく、手間を省くな。開けてみろよ」
 神崎の言葉に、葉山は綺麗にラッピングされた小さな包みを開ける。
 中には水色の香水が入っていた。
「…また、おかしなものを」
「巽に似合うよ」
「…そうか。なら、ありがたく」
 何を考えているんだかと思いながらも、問い質しても意味がないことだと、葉山は素直に礼を言った。
「うん、そう。だから、いつかつけてよね」
 必要ない事はわかっているが、持っていて。そんな思いを向けられたように感じ、葉山は軽く喉を鳴らした。
 友人の贈り物には、そのもの以上に何らかの意味を持っている。そして、それを決して自分には伝えない。ただ、自分は憶測するしかない。
 けれども、そこにはいつも小さな寂しさがある。いや、子供のような願いとでもいうのだろうか。友人は何よりも、ただ自分が受け取る事に満足している。
「いつか、何て言っていたら、腐るかもな」
「あはは。それは、それで面白い。
 さて。そろそろ、僕は戻るよ」
 葉山の言葉に笑った神崎は、腕の時計に視線を落とし、一息ついて凭れていた体を机から離した。
「神崎、メリークリスマス」
 扉に手を掛けた友人に、葉山はそう声を掛けた。
 後ろ手に手を上げただけで振り返ることはなく、神崎は部屋を後にした。
 葉山は小さく息を吐き、友人からの贈り物を手の中で遊ばせる。
 揺れ動く透き通る水色の液体は、どこか切なかった。


END
2002.12.25.