□ go mad

 通勤ラッシュ時の光景は滑稽だ。
 ゴミのように吐き出される者達と、たかが数分早い電車に乗ろうと、必死に争う者達。その勝者は、次にはゴミの一つとなる。
 車内は身動きのとれない空間。息を吸う事も困難な者がいろうとも、席についた者はそんな様子に関心はない。狭い場所で新聞を広げる者もいれば、一心不乱に携帯電話を見つめる者。この狭い空間にこれだけの人間がいて、全く何も秩序がないというのは異様だ。
 これが高等な人間の姿なのだろうか…。
 人いきれに眩暈を覚えながら、新堂幹(シンドウ・モトキ)はそんな事を考えた。そして、そう思う自分もゴミでしかない。直ぐに目的の駅に着き吐き出されるだろう。
 鞄を両手で抱え、ドアに凭れる。車窓を味気無い灰色のビルが流れて行くのを目に入れながらも、頭には入らない。
 次にこのドアが開くのは、新堂が下りる駅でのこと。なので、いつの間にかこうしてドアに凭れこの空間をやり過ごすのが習慣になっていた。女性ならば痴漢が多いドア付近は便利でも遠慮したいのかもしれないが、幸い新堂は女ではないし、痴漢にあったこともない。
 だがそれよりも、もっと厄介な事があるのも事実。
 痴漢行為とそうかわらないものを、新堂は毎日ではないがそれに近い頻度で受けていた。
 自分が階段から最も近いこの車両のこのドア付近に立つことを知っているその者は、なまじどこの誰とも知らない痴漢よりも、素性のわかっている男だから余計に始末が悪い。
 自分も対処しさっさと逃げればいいのだが、本来のプライドか何なのか、新堂はそう出来ずにいる。癪なのだ、簡単に言えば。おかしいのは向こうというものなのに、何故自分が妥協しなければならないのか。
 だが、その相手の行動を押さえきれないのだから、そうも言ってはいられないということに自身が一番気付いている。自分の体を与えてまで、守りたい場所ではないのだから、天秤にかける必要もないというもの。
 しかし、行為を受けだして直ぐに引かなかったからか、引くタイミングを見失っているのも確か。
 止めて下さいと抵抗は出来ても、気持ち悪いんだと声を荒げる事は出来難い相手。しかも、今まで逃げることなく何とか抵抗していたのに、今更避けるなどあからさま過ぎて、被害者である自身が躊躇ってしまうと言うもの。
 悪いのは相手だというのに、そんな気持ちになる自身が嫌だ。上手く対処出来ない自分が情けないなと溜息を吐く。
 要するに、新堂は今の状況をどうする事も出来ないでいたのだ。そして、相手はそんな自分を知っていて楽しんでいる。
(絶対に、そうだ…)
 再び口から深い息が落ちた時、
「朝から溜息かい」
 ゾクリと寒気が走るような声を耳に吹き込まれ、新堂は一瞬身を硬くした。だが、それを気付かせるのは相手を喜ばせることなのだと、短くはない付き合いで学習しているので、努めて平気な振りをする。
「先週は休みが無かったからね、さすがに若くとも疲れが出てくるか」
 軽く笑いながら自然に腰へと伸ばされてきた手をやんわりと押さえ、「…そうですね」と冷たく言い放ち、新堂は落としていた視線をゆっくりと上げた。自分を囲むような形で立ち、いつもふざけた行為を仕掛けてくる会社の上司の目と目が合う。皆下伸也(カイゲ・シンヤ)、34歳。社内だけではなく、やり手であるのとその容貌で有名な男。そんな評価の中に悪い噂など聞いたことはない。だが、実際にこうして自分に奇行をするのは間違いようものなくその人物。
 皆下が合わさった視線にニコリと笑った。まるで悪意など持っていない爽やかな笑顔、とでも表現するのだろうか。だが、その顔は女子社員ならばコロリとなびくのであろうが、新堂には腹立たしい笑みでしかない。
「おはよう、新堂君」
「…おはようございます」
 会話の上では至極まともな挨拶だろうが、それと同時にめげずに再び腰に伸ばされそうになった腕をまたもや払う小さな攻防は、どう見ても異様だ。だが、周りはそんな事は気にしない。いや、気付いていない。
 皆下の後ろでは、女子高生風の数人のグループが周りを気にせず騒いでいる。新堂の前にいるのは、同じようにドアに凭れ必死に新聞を読むサラリーマン。顔は新聞で見えないが、それを持つ指で中年オヤジだろうとわかる。そしてその近くには、揃いも揃って、耳にイヤホンをあてているサラリーマンや、学生。唯一自分達の様子に気付くとすれば、背をむけた座席に座っている者だろうが、本を読む若い女性は気付いたとしても絶対に素知らぬ振りを決め込むだろう。
 そう、自分に救いの手を差し出す者などここには存在しない。いや、自分達の姿に気付いたとしても、聞こえる会話はそう妖しいものではないのだから、気にはとめない。このおかしな空間は、これだけ近くにいても、他人に関心を抱く場ではない。
「今週は今日で終わりだね」
 周りの者達に視線を向けていた隙をつき、押さえられた手とは逆の手で、皆下は新堂の腰に手を滑らせてきた。思わずピクリと体を震わせると、軽く笑う。そして、声を顰め内緒話でもするように、「今晩どうだい? 私に付き合わないか」と耳に囁いた。新堂が、尻へと降りてきた手を掴みあげ押し返すと、逆にチロリと耳を舐められる。
 いくら他人に関心が無いとはいえ、これだけの人間の中でよくもそんな行為が出来るものだとある意味感心する。同じ社員もこの車両に乗っているのだろうに、この男の中には見とめられることへの心配はないのだろうか。
 皆下のことなどどうでもいいと言うのが本音だが、やられた自分の心臓は周りにバレはしないかと思うほど高鳴ってしまうというのに、余裕を漂わせる相手に悔しさもこみ上げる。逃げ道がないからこそ、この男はこんな所で自分に接触するのだ。
 女ではないのだから、尻の一つや二つ撫でられようとも気味が悪いぐらいで我慢出来る。だが胸の鼓動は、痴漢を受けた女はこんな感じなのかも知れないな、と妙に納得してしまうものなのだ。確かに声を出して止めてくれとは言えない状況。こんな空間で、自分がそんな行為を受けたなど知られたくはない、恥ずかしいから、と我慢する女心がわかってしまう。それが余計に腹立たしい。
「疲れている時に酒を飲むと余計に疲れる体質なんです」
 プライドはあるが守るほど社会的地位などない。ここで蹴り倒してやろうか…。そんな考えが頭をよぎり、それを打ち消すのはいつものこと。新堂は小さく息を吐いき、乾いた声でそう答えを返した。
 男の行為は鬱陶しいものだが、熱くなって対応するものでもないのだと、心の中で確認する。
「酒に、とは言ってないんだけどな」
 皆下はそんな新堂の態度に、軽く肩を竦めて笑った。
「だが、それもいいね。酔った君というのも見てみたいものだね」
「…ご冗談を」
 眉を寄せる新堂に、相手はまた笑いを漏らす。
「ま、それは別にして。酒はいいものだよ、ストレスがとれるからね」
(ストレスね…)
 それを自分に与えている男には言われたくないものだと新堂は溜息を吐き、視線を落とした。
 人ごみの中の狭い空間で見えるのは、似たような靴ばかり。少し草臥れた自身の革靴の先に並ぶ皆下の靴は、その中でも色を落とさないほど磨かれている。何事にも長けていて完璧な男だと評されてはいるが、独身男が毎日こんな靴を穿いているなどという事は、今の新堂に言わせればおかしいことでしかないというもの。恋人に磨かせているのか、自身で磨いているのか。どちらにしても怖いことだ。
 完璧な人間などいないのだ。現に、この男も外面はそうであっても、こんな所で本性を見せている。
(…だが、部下に嫌がらせをしているなどと言っても誰も信用しないだろうから…完璧と言えば完璧なのかもしれないな)
 必要以上に会話を交わし発展するつもりはないので、心の中で嫌味を言う。
「君はストレスを溜め込みそうな性格だからね。
 …なんなら、私が発散させてあげようか」
 スルリと臀部を撫でる手に、「止めて下さい」と声を顰めながらも新堂は叱咤した。だが、相手はそんなことでめげるものではない。そうであったなら、とっくにこんな事は終わっていただろう。
「嫌がっているようには見えないけど…」
 どこをどうとれば自分の抵抗をそう解釈できるのだろうか。
「心底嫌です」
 こんな行為を受け気持ちいいという者がいるのなら、自分が思う以上この世の中は腐っているのだろう。
 駅に滑り込み開いたドアから、新堂は一目散にとでも言うように電車を飛び出した。だが、改札を抜ける時には逃げたはずの男がすぐ後ろについてきているも常のこと。
「毎日つれないね。もう少し愛想良くしたらどうだい」
 言葉とは裏腹に気にした様子もないくせに、横に並びそんなことを言う皆下の言葉を新堂は無視する。上司という立場にいる者だとわかっているので、これでも愛想よくとはいかないまでも自分としては努力している方だ。訴えられないだけでも良しとしろ。そんな腹立たしさが駆け巡るが口にはせず、黙々と歩く。
 時たま同僚に声をかけられ、手を挙げてそれに応える痴漢相手と不本意ではあるが一緒に会社に向かうこの数分は、新堂をなんともやるせない気分にさせる。
 向上心などなく、決められているからと仕事をこなすだけの自分の生き方に満足している。会社は場所でしかないのだから、そう未練もなく辞めることも出来るだろう。ただの生活の糧を得る場だ。
 その考えは多分この先も変わらないだろう。だが、横に並ぶ皆下から社会人としての大きさを見せ付けられると、僻みでしかないのかもしれないが小さな怒りも覚える。挨拶を交わす会社の役員達はこの男の本性など知りはしないだろう。優秀な人材なのかもしれないが、一個人としては最低だ。…そんな言掛かりのような感情が沸き起こる。
 決して自分はこの男を否定できるほどの出来た人間ではないというのに…。そしてそんな理不尽さを抱えどうする事も出来ずに自分はこの状況の下でグルグルと回るだけなのだ。


「新堂君、どこへ行くの?」
 エレベーターの前で止まった皆下をそのままに、新堂は奥へと足を進めた。
 いつもなら避けた相手は返らない返事に躊躇うことなく声をかけるだけで、周りの者に捕まるままエレベーターへと乗り込み朝の不快な出勤劇は一応それで幕を閉ざすのだが、今日は違った。
 ビルの奥の非常階段まで進み、一息吐いてから新堂は階段を上り始める。だが、すぐにその後ろから同じように階段を上る足音が聞こえだし、眉を寄せながら振り返る。
「……何をしているんですか」
「何って、君を追いかけて来たに決まっているだろう。
 そうか、どこに行くのかと思っていたが階段とはね」
 現れた皆下の言葉が終わらないうちに、姿を見ただけで充分だと新堂は視線を外して止めてしまった足の動きを再開した。
「やはり、若い人は違うね」
「…たった7階です」
「普通そんな体力はそうないよ」
「なら、エレベーターで行けばいいでしょう」
 少し足を速く進めながらそう言った新堂に、言葉とは違い全く疲れる様子もなく同じように足を進める皆下が笑いを漏らした。
「…なんですか」
 いつもなら無視をするところだが、聞き流せない笑い方で思わずそう問う。
「いや、何でもない」
 馬鹿な返事をするかと思えば、新堂の予想に反して皆下は小さく首を振った。そして、「ああ、そう言えば」と少し技とらしく話題を変えた。
「前から思っていたんだけれど、二人きりの時は敬語を止めてくれないかな」
「……」
「君の場合、とても冷たく聞こえてね、辛いんだ」
 グサッとくるんだよね、と皆下はポンと自分の胸を軽く叩き笑う。
「…そういう訳にはいきません。上司ですから」
「いいから、いいから。直属じゃないんだし、気にしない、ね」
「自分は良くはないです」
「そう言わずにさ」
「年上の者に軽口で話す教育は受けていません」
「そのわりには、毒舌家だね」
「それは自分の性格の問題です」
「ああ言えば、こう言う、だな。
 でも、ホント、その話し方は堅すぎてね、寂しいよ」
 そんな事自分は知った事ではない、と口に出しかけ新堂はそれを飲み込んだ。こうしていたらいつまで経っても話は終わらないだろう。ならば、解決ではなく打ち切りで終わらせるしかないのだ。
 そのために新堂は別の話題を探し、以前からの疑問を素直に口に乗せる。
「……前から思っていたんですが、何故俺にかまうんです」
 いい加減にして下さい、その言葉に相手が小さく首を傾げた。
「ん…? 何故って…好きだからに決まっているだろう。言っていなかったかな?」
「……聞いていません。って言うか、冗談ではなく俺は真面目に訊いているんです。何が気に入らないんですか、こんな嫌がらせをするのは何故です」
「いや、冗談じゃなく、本気なんだけど。嫌がらせじゃないよ、傷つくな。
 私はね、君を愛しているんだよ」
「……」
「こんな言葉、普通冗談では言えないだろう? 私は本気だよ」
「…あなたは普通の部類に入りませんよ。嘘でも何でも簡単に言えるでしょう」
 その言葉に、男は軽く目を見開き、その後「アハハ、酷いな、ホントに」と笑い声を上げた。その声に新堂は眉を寄せる。
 本当に掴み所のない人間だ。
 無邪気に子供のように笑ったかと思えば、自分の魅力を理解し武器にする。社内でも、怖い感じだと評する者もいるが、アイドル並に騒がれている。整った容姿だけではなく仕事も出来るので、周りから尊敬されてもいるし、そんな事を本人は気にする者ではないので周りと学生のように馴れ合ってもいる。
 そう、確かに出来た人間なのだ。周りから好かれているし、それ以上に力がある。同じサラリーマンでも、同じとはいえない。カリスマ性も持っているようでいて、その実素朴。
 非の付けどころなどないというのがこの男への一般的な評価だ。なのに、自分には普段は紳士面に隠されているおかしな面を見せる。
 そのギャップが新堂には腹立たしかった。何もこの男の正体が実は部下をいたぶる嫌な奴なのだ、と回りに訴えたいわけではない。外面に騙されている他の者達が馬鹿なので、どうでもいいと思う。それなのに、苛立ちが起こるのは、自身がこんな扱いを受けながらも、それでも何処かでこの男を尊敬していた事にだ。そう、周りのものと同様に他人に関心が薄い自分でも一目置かずに入られない人物だった。
 だから、ただからかっているだけだ、きっと何か気に触るような事があり嫌がらせをしているのだろう。そう理由は深くは考えていなかったが、そんなものだと流していた。男も人間なのだ、嫌な面も持っているさと。
 なのに、それがどうだ。自分をかまう理由を男はあっさりと、好きだから、なんて言葉で誤魔化す。一体誰がそんな事を信じるというのか。馬鹿な女でもあっさりと有頂天にはなりはしない。まずは、まさか、と思うもの。
 それになにより、自分は男だ。理解出来ない、でしかない。同性云々もそうだが、この男だ、信じる事など出来ない。恋愛感情にすれば自分が戸惑い更にからかえると思ったのだろうか。そう考え、実際にそうならば何て軽く扱われているのかと悔しさがこみ上げる。
 これならまだ、理由はないが気にいらない、そんな言掛かりの方が良かった。納得できた。好意を抱いているからなどという言葉を受け入れるほど馬鹿でも子供でもない、自分は大人なのだ。それを知っての発言が意味をするのは、自分を人間としてみていないということだろう。
 皆下の言葉は侮辱でしかなかった。
「好きだから、こうも追いかけているんだがね」
「まだそんな事を…。…嫌がらせにしては、性質が悪すぎます」
 たかだか気に入らない部下への嫌がらせ。だが、それにしては馬鹿すぎるものだと思う面もある。何かが気に障っていたのだとしても、態々こんな回りくどい事をしなくともこの男なら自分を会社から追い出すことも可能だろう。百歩譲って、自分のつれない態度が楽しいということであったとしても、いい加減飽きる頃。
 一体何を考えての行為なのか、新堂にはわからない。
 だが、だからと言って相手の言葉も信じられないのだが。
「だから、嫌がらせじゃないよ。本気なんだ。日本語理解出来るんだろう」
「日本語はわかっても、あなたはわかりません。理解不能ですからね」
「そうかな。自分ではわかりやすいと思うけどね。
 男に好きだ何て言われたくない?」
「それが普通だと思いますけど」
「普通とかじゃなく、君の意見を聞いているんだけどね」
「……」
 なんと答えればいいのか、新堂にはわからなかった。
 今までも同性から告白まがいのものを受けた事はある。だがいつも、考える間もなく却下していた。うざったい、気持ち悪い、そんなものでしかなく、考える余地もなかった。そうそれは言い換えれば、どうでもいい事だったのだ。
 相手が自身に対して好意を持っていようと、他人の声が聞こえるわけでも、相手の感情を知ったからといって応えるわけでもない自分には、それがどうしたというものだ。自分の知った事ではない。それこそ、その人物の個性程度でしかない。
 それなのに、今はどうだ。
 考えてしまっている、相手が本気なのかどうなのか。そこにどんな理由があるのか…。
 どうでもいい事だと言えるほど、自分はこの男を気にしていないわけではないのだ。
(…だが、何故……)
 気付けば新堂は自分自身にそんな問いかけをしていた。
 確かに皆下のことを尊敬していた。だが、正体を知って飽き飽きしていたのも事実。理想像を求めていたわけではないので、拍子抜けしたというか何というか、そんな程度のもの。仕事面では今なおその腕を尊敬していると言えるのかもしれない。だが、その他のところでは鬱陶しい存在でしかない。
 しかし、そんなことを考えてしまうほど関心を持っているという事自体おかしいのではないか……。
「――うわっ…!」
 考え込んでいたせいで階段に躓く。幸いにも、ないはずの階段に気付かず踊り場で空を踏んでしまったのであって、後ろにではなく前に倒れこんだのだが…。
「…っと、危ないね」
 支えられた皆下の腕に、新堂は顔を染めた。
 一体誰のせいだと思っているのだ、腹の立つ…。心でそう悪態を吐きながらも、「済みません」と口に乗せる。
「…あの、放してください」
 体勢を立て直した自分の体に手を伸ばしたままの皆下に言う。だが、相手は新堂の言葉など聞かず、更に逆の手を伸ばしてきた。
「ちょ、ちょっと…、止めてください。
 これじゃ、抱きしめているみたいじゃないですか!」
「…抱きしめているんだよ。そしてね、キスしたい」
「はあ?」
 その言葉に反射的に新堂は皆下を振り仰ぐ。だが、その顔が近付いてくるのを目にし、
「な、何を…っ!」
 腕を挙げようとしたが、しっかりと押さえられていた。
 首を捻り少しでも逃れようと抵抗する。だが、視線が捕らえたのは白い壁と階段だけ。
「人が…」
 そう呟いた新堂の頬に柔らかい唇が落ちる。
「来ないよ、誰も。
 朝から元気に階段を使うのは君くらいだ」
「そ、それは…」
 悪かったですね、誰のせいですか。
 その言葉は自分を拘束する男の口に飲み込まれた。
 一瞬呆けかけた新堂だが、何をされているのか理解し、次の瞬間にはさっと全身に鳥肌が立つ。軽く啄むように唇が離れても、情けないことにあまりの事で固まって動けない。
「…からかっているんじゃない。私は本気だ」
 真面目な声、真面目な顔。
 いつものふざけるような男ではなく、それは仕事中の、誰もが尊敬する男の顔…。
 口を開きかけ言葉を飲み込むように閉じ、皆下はポンと新堂の頭を軽く叩いて笑うと、「考えてくれ」と言い残し階段を上がっていった。
「…ふ、ふざけんなよ……」
 男の足音も聞こえなくなってから、ようやく新堂の口からそんな言葉が零れる。
 少し震える指で唇に触れると先程の感触が思い出され、新堂はゴシゴシと手の甲で拭った。
(気持ち悪い…)
 今頃になって、嫌悪から吐き気が込み上げる。ムカッと胸が焼け、口を抑え思わず新堂はその場にしゃがみ込んだ。息を吐くのも苦しくて、肩が大きく動く。
(…畜生)
 餓鬼ではないのだからキスの一つや二つ思い出になる事でもないが、ただとてつもなく情けなかった。大の大人の男である自分があんな風に扱われ、こうも動揺している事が。そして、相手があの皆下であるという事が。
 それでも震える体を強く抱きしめ、そして力を抜き大きく深呼吸をする。
 気分の悪さで生理的に浮かんだ涙を手で拭い、心の中で掛け声をかけながら立ち上がる。
 気持ちを切り替えろ。
 忘れろ、今の事は。
 現実逃避なのだとわかっている。今なお腸が煮えくり返ると言った言葉がピッタリなほどの怒りが渦巻いている。だが、そんなものは仕方がないのだと、持っていても足を引っ張るものでしかないのだと自分に言い聞かせる他ない。そう、臭いものには蓋だ、考えるな。
 これほどまでの嫌がらせを受けるいわれは自分にはないだろうし、泣き寝入りするほど軟でもない。だが、自分の時間をあの男のせいで消費したくはない。
 考えてくれ、そう言われたからと言って考えなければいけない義理も何もないのだ。
(理解不能な者など放っておけ…)
 そう、自分が皆下の事を理解するなど何が起ころうと不可能なのだから、考えるだけ無駄と言うもの。
 パシリと頬を叩き、新堂は立ち上がり階段を駆け上がった。


END
2002/10/02