□ 始まりの場所

 窓からは派手なネオンの光が流れ込み、暗い室内に幾色もの光を落とす。
「なら、これで良しとしましょう」
 初老の紳士が苦笑いを浮かべ頷きながら言った。その言葉を聞き、会談相手である若い男が、満足げに口角を上げる。その笑みは無邪気にも見えるが、暗い室内で輝く目はそんな穏やかなものではなかった。今し方交わした内容が内容だけに、男のそれは恐怖を覚えさせもする。
 しかし、それをあからさまに放つほどその男は優しくはなく、馬鹿でもない。チラリと見せたそれを瞬き一つで消し去り、静かに組んでいた足を解いた。
 男がそのまま腰をあげると、初老の男の後ろにいる数人の強面の男達に緊張が走った。面白いほどに感じる敵意に、再び男は口の端を上げる。
「お前達、いい加減にしないか。荻原さんに失礼だろう」
 背後の者達の感情を背中に感じたのか、しゃがれた声で静かに言う男の声が部屋に響いた。その声には幾分、不安の色がある。
「いえ、気にしていませんよ。むしろ感心します。頼もしい者達をお持ちですね、片瀬さん」
 立ち上がった姿勢から自分に視線を送る者達の顔を一通りじっくりと眺め、荻原はニコリと笑ってそう応えた。この場に居る誰もが信じないだろう、意味のない笑みを落とす。
「皆さん、確りしておられる」
「いや、恥ずかしい。思い込んだらとことんの馬鹿な奴らだ」  思い込んだらというのは、少し御幣があるだろう。そう思わずにはいられないよう、それなりの事を今までに自分がしているのだから、構えるのは仕方がないことなのだ。荻原は苦笑する片瀬を眺め、けれども彼らの方が気持ちがいいと、その不躾な視線を受け入れる。
 そう、片瀬自身、自分の子供ぐらいの年の男に警戒していた。ただ、それを隠すか隠さないかの違いなのだ。自分達の親を心配する者達には隠す術がなく、人生を積んだ初老の男は、ついている者達を不安にさせないよう、そして目の前の若い男に隙を見せないよう虚勢を張る事が出来る。ただ、それだけの事。結局は、どちらも自分を敵視しているのだから、隠せないか隠さないかは別として、強い視線を向けてくる彼らの方が気持ちよいと荻原は思う。正直、それを鬱陶しく感じる時もあるが、あからさまな方が何事もわかりやすいのは事実。
 そんな彼らとは全く違い、荻原はその緊張感を持った男達を本心から楽しみ笑う余裕を持っていた。たからこそ、こんな事を考えるのだろう。だが、彼らのようにそれを相手に見せる事はやはりしない。する義務もない。
 小さく苦笑を落とし、荻原は首を振った。
「そんな事はないですよ、片瀬さん。馬鹿なのはうちの若い奴らだ。中途半端で仕方がない」
 そう言いながらソファを離れ窓際に近づく。閉められた窓ガラスに凭れるように寄りかかり、荻原は視線を外へ向けた。背後の者達への意識を逸らさずに。この空気の中で飄々としている自分を、さらに憎むのか。それとも、怒りを向けるなど馬鹿馬鹿しいと気付くのか。多分男達は前者となるのだろうと思いつつ、後者を選ぶものがないだろうかと期待する。こうした男たちの相手をするのも面倒くさくなってきた頃だ。関係を切るとまではいわないが、もう少しドライに接したいものだ。
 煩わされるのは身内だけで充分だと、吐息のような軽い溜息を落としながら荻原は空に向けていた目線を地上へと落とした。
 視線の先の歩道脇に、見慣れた車が止まっていた。その横に立つ男を見、思わず荻原の眉が寄る。そこに立つ男は、見るからにまともな職業ではないような姿をしており人目を引いていた。
(馬鹿が…)
 自分が仕える者にこう評価されているとは知らないその男、山下は、呑気に腕をあげ伸びをしている。確かに、待っているようにとはいったが、何もそのまま目の前で待つ事もないだろう。何より、車内で大人しく居るのならまだしも、態々人目にその姿を晒すとは。
 馬鹿と言う以外に言葉は無い。小さな子供に接するように事細かに指示を出さなかった自分が悪いのか、躾けを仕切れていない者を車係に選んだ部下が悪いのか。そんな事を考えても遅く、ただ溜息を落とすだけしか荻原に出来ることは無い。
 痛みを訴えそうな頭を軽く窓につけた荻原の目に、歩道をゆっくりと僅かにふらつきながら歩く若い青年の姿が飛び込んできた。その青年は真っ直ぐと山下の方へ向かっている。
(まずいな)
 そう思ったのは、何も彼らが接触することに対してではない。山下の思考能力を考えるとこの後の展開は見えているので、そんな今更な事を態々危惧したのではなく、山下自身に嫌気がさしての悪態だった。
 荻原は山下を嫌ってはいないが、好いてもいない。忠誠心は時として鬱陶しいものでしかない。山下が自分を慕っているのを知ってはいるが、それが役に立つかどうかは別の問題で、はっきり言って、自分の近くで仕事をさすには少々問題がある男だった。
 落ち度というわけではなく、馬鹿なのだ。見た目に反してまだ若い山下は、その年齢よりも更に頭が軽い。単純な者も時には必要だが、厄介である事も否めない。特に山下の場合、能力が極端に低く、鍛えようもないので、使えなさ過ぎるのだ。見目が見目なので根気よく相手をする気にもならない。
 そんな者を自分の近くに置いておくのは、彼にとっても自分にとても危険だと荻原は理解している。それでも、こうして仕方なくとは言え役目を与えるのは、放り出すのが難しいからだ。何故か、こんな山下を気に入っている男がいる。
 だがやはり、もう一度この事について、あの男と話してみなければならないだろう。そんな事を考えている荻原の目に、本物の映像として予想していた光景が入ってくる。
 背は変わらないぐらいだろうが太さは倍ほど違うだろう、山下にぶつかった青年がよろめいた。直ぐに体勢を立て直し、その青年は軽く頭を下げ立ち去ろうとする。だが、案の定、山下はそれを止めた。その辺の粋がっているガキのように。
「どうかしましたか」
 後ろからの声に、荻原は歩道から視線を外し、目だけを動かし鏡のようになった窓で背後を確認した。ガラスの中で、声をかけてきた男と視線がぶつかる。
「待っている者が悪さをしようとしているようです。騒ぎになって迷惑を掛けたくはありませんので、そろそろ失礼しますよ」
 男たちの物言いたげな視線をさらりと流し、荻原は笑いを浮かべてゆっくりと振り返った。
「それは、気をつけた方がいい。最近はこの辺も色々ありますからな」
「そうですね、確かに。
 あなたのところが大陸者のような仕事をやり始めたんですから、何があるかわからない世の中ですよ、本当に」
 何でもない世間話をするかのように、荻原はその言葉を紡いだ。だが、予期もしていなかったそれに、男は白毛交じりの眉を寄せる。
「…なんですと?」
「ん? 片瀬さんはご存じなかったんですか? いや、まさか、ねぇ」
 片眉を器用にあげ、荻原は驚いた表情を作った。だが、誰が見てもうそ臭いそれに、立っている男達の中の誰かが小さな舌打ちをした。
「…何を言っているのか、私にはわかりませんな。何を仰りたい?
 うちはヤクには手を出さない、それは先代から受け継ぎ徹底している。知っているでしょう。妙な言いがかりは…」
「いや、そんなことは言っていませんよ。怒らないで下さい。口が過ぎたのなら、詫びます。失礼しました」
 わざとらしく軽く下げた頭をあげた荻原は、ソファに座る男に視線を合わせにやりと笑い再び口を開く。
「しかし、ヤクの方がマシですね。それはあなたもわかっているのでしょうが」
 再び体の向きを買え、窓の外に顔を向ける。
 山下が青年に噛み付いているようだ。何人かの通行人が足を止めている。
 それに気をとられつつ、荻原はそんな感情を微塵も見せずに、再び世間話のように口から言葉をつむぎ出した。
「最近は大陸からの者が多くなってきた。奴らは、そう、俺達とは全く違う生き物だ。考え方が違えば、やり方が違う。奴らにとっては俺達日本人は単なるカモに過ぎない。利用し要らなくなったら捨てる。奴らは自分たちに益をもたらす場合は忠実に働く。だからその点では使いやすい。だが、それも少しの間だけだ。本心は取って代わろうと、狙っている。馬鹿な日本人はそれに気付かず、仕事が成功すれば彼らを仲間かのように思ってしまう。彼らにとっては金が全てなのに。たったの数万円を目的に人を殺す奴らですよ、仲間意識なんてあるわけがない。
 何て言うのは、あながち偏見ばかりではないでしょう? 実際に留学生として入ってきた奴らの目的は金で、年々その犯罪が増えているのは、サツは当然ながら、一般人も知っていることなんですからね」
 背後の男達は誰も口を挟まない。その事に心で軽い苦笑を漏らす。
「失礼を承知で言いますが。掛井さんも、そのうち殺られるでしょう。
 今は色々美味しい汁を吸っているようだが、それも長くは続かない。掛井さんの下の男、何ていったか…早坂、早川? 最近見かけないことに気付いているんですかね、彼は。いや、気付いてももう遅いか。彼はもう、目も耳も鼻も落とされ、誰かもわからなくなってどこかに捨てられているでしょうから。さて、それはどこでしょう。その体の中には何が残っているんでしょうね」
 荻原の声はいつもと変わらないものだったが、話の内容に背後の男達は直ぐに反応出来ないようだ。だが、荻原にすればそんな事は関係ない。今の目的は、ただ片瀬にそれを教えれば良いだけの事。下の者の動きを把握しきれない事をあからさまに笑う必要はない。態々口にせずとも、歳を重ねた男ならわかる事であり、口にしない方が屈辱だろう。
 視線の先では山下が肩を怒らせ青年に掴みかかっていた。その青年の顔からサングラスが落ちるのを見ながら、本当に戻った方がよさそうだと、荻原は溜息をついた。しかし、その落とした息を直ぐに飲み込む事となる。
 遠目ながらも、山下に襟首を掴まれた青年が整った顔立ちをしているということがわかった。掴んだ本人の山下でさえ驚いているようで、握った拳が彷徨っている。
(ったく、あいつは何をやっているんだ…)
 醜男ならともかく、あんな目立つ青年を人目の多いところで相手にするなど、通報してくれといっているようなものだ。
「ああ、片瀬さん。俺はこれで失礼しますよ。長くいすぎたみたいだ。表の奴が馬鹿なことをはじめた」
 そう言い、窓から離れ扉に向かう荻原の靴の音が、薄暗い部屋の中で異様に響いた。
「…待ってくれ」
「何です?」
「…今言った事は、本当なのか? 掛井は本当にむこうの者達と――」
 そう言いかけ、男は口を噤む。
 そんな男の心中を思い、荻原はニヤリと笑う。だが、表には出さず、それは心の中だけで。
「あぁ、すみません、やはり口が過ぎましたね。事実とは言えでしゃばり過ぎた様だ。俺が態々言うことでもないというのに」
「……」
「片瀬さん、また、今度ゆっくり食事でもしましょう。それまであなたは色々せねばならないことがあるでしょう。これからすぐに忙しくなりますからね、落ち着いたら、必ず」
 荻原はそう言い、自ら扉を開けその部屋を後にした。

 教える必要はないのだと他の者達は言うだろう。確かに、それもそうだと荻原も思う。
 だが、彼としては周りでの馬鹿な争いも先に消せるものなら消しておきたいのだ。逆にたきつける事もあるが、今回は相手が悪い。昔からの顔なじみの片瀬がつぶれるのは思うものがないこともないが、そうなったとしても問題はなく、どうでもいい。だが、よそ者が上がってくるのはこちらとしても困る。奴らは影にいればいいのだ。影だから見逃せる。だが、表に出てきた時には…。
 わかりきっている、自分の周りは敵ばかりなのだと。馬鹿な日本のヤクザは彼らに騙され、いや、協力し、何かをし始めるかもしれない。そうそうなったら、自分がターゲットになる可能性も大きい。だからこそ、そうならないためにも、出そうな釘は取り除いてしまわなければならない、徹底的に。
 周りの情報を見、先に手を打つ。それは、一種の脅えなのかもしれないと、荻原は時々そんな風に自分を思う。
(なんて聞こえはいいが、所詮俺は今の生活を壊したくはないってとこだろう)
 苦労はさほどしていないが、時間も労力もかけてここまで来たのだ。今更騒ぎになんて巻き込まれたくはない。
 今の自分に、今までの自分の人生に不満はない。自分にはこの世界が合っている。そう納得している。だが、時々無性に思ってしまう。あの時、組を解体した時、何もかも捨てていたのなら、自分はまともになっていただろうかと。普通と錯覚するような人生を歩めていたのかもしれないと…。それを望んでいるわけではないのに、そんなことを考える。
 不満はないし、仕事は楽しい。
 だが、時々淋しく感じてしまうのだ。その気持ちに気付かないだけで、俺は本当は違う生き方に憧れていたのではないかと。
(何を甘いことを言っているんだ、俺は)
 クククといつものように笑い、その思いを消す。
 そう、後悔はない。今こうしているのは俺が望んだことだから。
 外に出ると山下が騒ぎを起こしているだろう。そのことを考えると一気に疲れが押し寄せるが、馬鹿な者でも俺についてきてくれる一人なのだ。慣れてしまって忘れてしまいそうになるが、こんな俺についてくる者が沢山いるのだ。
 そう、それだけでもこうしてやっていく理由となる。
 他人の為にではない、自分の為に。そう、この道を歩いているのは自分なのだから、今はここを歩ききることだけを考えればいい。最後まで、この道を。
 外に出た荻原は、自分の姿に気付かずに、青年に向かい手を伸ばす山下に声をかけた。
「何をしているんだ?」
 それは聞かずともすでに知っているが、それを彼に教える事はない。脅えでも気まずさでもなんでもいい。頭から怒鳴り散らすのでは学習などしない。まずい事をしたと自ら少しでも気付ければ、それにこした事は無い。
「悪いな、待たせて」
 驚く山下に、自分も相当の捻くれ者だなと、軽く心で笑いながら、荻原は思ってもいない言葉を口にのせる。本来なら、大人しく待っていられないのかと説教のひとつも吐きたいところだが、ここは我慢するべきだろう。何より、他の目もある。
 無意味に頭を下げた山下を荻原は無視し、サングラスを拾いそのまま立ち去る青年に、声をかけた。
「彼が何か迷惑をかけてしまいましたか?」
 山下の非礼の代わりと言うわけではないが、馬鹿丁寧にそう言葉をかけた荻原は、振り返った青年を見て思わず驚き、そして反射的に笑みを浮かべた。想像以上の美青年だ。
 その反応が気に触ったのか、青年は訝しげににらみ返してきた。
 その強い視線は、清んでいながらも何も映さない、ガラスのようであって、裏に何かを隠す鏡のようでもあった。何も見ない目のようなのに、瞬時にして心を見透かされるような錯覚に陥り、一気に引き込まれる。
(こんな目をする奴がいるとは)
 一瞬にして青年に引き寄せられてしまった自分を自覚し、荻原は小さく苦笑をもらした。
 楽しくなりそうだ。そう思った。
 自分の笑みに眉を寄せる青年に対し、荻原は再び心からの笑いを浮かべた。


END
不明