「あれ? まだ、一人残っているみたいですよ」
前川がその声に振り返ると、同僚の東が棚から鞄を取りだしカウンターに置いた。その鞄には黄色い番号札がついており、確かにこちらが預かったものである事がわかる。持ち主が勝手に置き忘れたのではないだろう。
「玄関、締めるのは待ってくれ。こっちの戸締りは俺がするから、あっちを頼む」
はい、と気持ち良く返事をした東が、ロビーを挟んだ向こうにある児童書開架室へ行く後ろ姿を数秒眺め、前川はシステムを落として席を立った。ギシッと静かな館内に椅子が軋む音が響く。
重苦しい沈黙だと、いつも思う。開館時は図書館ではあるので煩くはないが静かでもない空間のこの静けさは、圧迫感を伴っている。膨大な書物に込められた思いが、まるで主張しているかのように感じてしまうのは、昼間の人々の熱気を吸い込んでいるからだろうか。誰かが開けた窓を閉めながら小さく息を吐いた前川は、それさえも棚に並ぶ本達に吸い取られているように思えた。
ふと、視界に人影が入る。
嫌いでも苦手でもないが、自分にとっては落ち着く空間でもないこの場で今なお居座り続ける青年を遠くからとらえゆっくりと近付きながら、何とも物好きな奴だと前川は呆れた。館内で眠る者は案外多いが、閉館に気付かずに眠り続ける者などそういない。鞄の持ち主だろう、学生らしい青年を見下ろし声をかける。
「起きて下さい。閉館ですよ」
椅子に凭れこみ眠る青年の肩を揺すると、膝に乗せていた数冊の本が床へと落ちた。前川が屈み込みそれを拾いあげた時、傍で「…あ!」と驚きの声が上がる。漸く起きたのかと振り向くと、青年は何故か思いつめたような表情で自分に視線を向けていた。何だというのだろう。
「閉館時間、とっくに過ぎていますが」
「え? あ。すみません。――あの、先生。俺…」
指摘され漸く気付いたらしいその事実を確認するかのように辺りに目をやり、青年は謝罪を口にしながら椅子から立ち上がった。そして、前川の事を「先生」と呼ぶ。生憎、今の前川の職は図書館職員であり、そう呼ばれる事はない。だが、学生時代は家庭教師や塾講師、教育実習先などでそう呼ばれていたので、思い当たるふしがないわけでもない。
「悪いが、どこかで会った事があるのかな」
「あ、はい。新栄塾です。中二の時、英語を教わりました。俺、梶です」
久し振りに聞いたその塾の名は、あまり良い思い出があるバイト先ではなかった。だが、それも随分と昔の事で、何より当時生徒だったこの青年には関係ない。前川は心持ち目を細め、ゆっくりと頷いた。
「そうか。久し振りだな。今は、大学生か。大きくなったな」
自分も歳を取るはずだと、前川は青年を眺めながら思った。あの頃はまだ子供だった人間が、自分の背を追い越すほどに成長しているというのは、何だか感慨深いものがある。
軽く苦笑する前川に、梶と名乗った青年は、期待を込めた目で問いを放った。その目は、姿ほど内面は成長していないかのような感じを受けるが、今の梶にとってはこの一瞬が子供に戻ったというだけの事なのだろう。
「覚えているんですか?」
「いや、悪いがあまり。あの頃は同じようなバイトばかりしていたからな、一人ひとりまでは流石に」
「やっぱり、そうですよね」
そう答えつつも、困ったような、傷付いたような表情を梶は浮かべる。しかし、今となってはどうしようもなく、「済まないな」と前川は軽く流し辺りを軽く見回した。
「それより。閉館なんだ、帰ってもらえるかな」
「あ、はい。あの、その本は…」
前川の手に持たれたままの本を指し、梶は小さく首を傾げた。
「借りたいの?」
「出来れば」
システムは落としてしまったが、今日は煩い館長は既に帰っており残るのは後輩の東だけだ。もう一度立ち上げても、問題はないだろう。前川はそう判断し、「カード」と片手を出しながら、歩みをはじめた。隣に並んだ梶が、その手にジーンズから取り出したカードを乗せる。
「20分程、表で待っていられる?」
「大丈夫です」
「なら、後で」
一瞬、何か言いたげな表情をした梶だが、「お願いします」と軽く頭を下げ鞄を手にすると開架室を出て行った。それを追う様に、東が玄関に向かう。戸締りを終えカウンターに戻ってきた東は、前川が再びパソコンの前に腰を降ろしているのを見て溜息を吐いた。
「またですか。バレても知りませんよ」
「お前が言わない限りは、大丈夫」
そう答えた前川は、「締めておくから、帰って良いよ。お疲れ様」と後ろでに手を振る。直ぐにあからさまな溜息が聞こえたが、「それじゃ、お疲れ様でした」と声が掛かり、東は帰っていった。
システム内の時間を少し操作し開館時の貸し出しとなるよう細工して、前川は梶への貸し出し手続きを手早く済ませた。そして、記録されている個人情報を画面に呼び出し、参考程度にそれを眺める。本の種類からしてそうだろうと思っていたが、やはり経済学部の学生だった。カードを作ったのはこの春らしいが、前川の半年間の記憶に彼の姿はない。梶拓也、その名を目にした覚えもないが、ただ忘れているだけか。それとも、あまり利用していないのだろうか。
どちらにしても自分には関係はないかと、パソコンの電源を落とし、数冊の専門書を手に前川は席を立った。ロッカールームで帰り支度をし従業員用裏口から外へ出ると、秋らしい涼しい風が身体に吹きつけた。
表に回ると、きちんと言い付け通りに梶はそこで待っていた。向こうがまだ自分に気付いていないのをいい事に、先程とは違いじっくりとその姿を観察しながら前川は近付く。空を見上げる横顔は、会話時の表情よりも大人に見えた。
覚えていないと言ったのは、半分は嘘だ。馬鹿げた理由でクビになるまでの期間は半年にも満たなかったので、恨んでいるわけでも気にしているわけでもないが、忘れられない記憶でもある。
あの、教え子と呼ぶには短すぎる生徒と、今こうして出会うとは。皮肉と言うのか何と言うのか、良くはわからないが面白いものではない事は確かだ。
「あ、先生」
自分に気付いた梶が小走りに近寄って来るのを見、前川は足を止めた。
「待たせたね。はい、これ」
「ありがとうございます。お手数かけてスミマセン」
左手に抱えていた本を渡し、「カードは本に挟んでいるから」と伝え、今歩いてきたばかりの道を戻り始める。少しすると、梶が隣に並んできた。ちらりとその姿に目をやり、前川は利用する駅の名前を告げる。
「俺も、一緒です」
「そう」
暫く並んで歩いていると、「あの、先生」と遠慮気味な声が掛かった。
「それ、止めてくれないかな。恥ずかしい」
「あ、すみません。じゃあ、前川さん…?」
「ああ、何?」
「俺は…あなたは教職についているとばかり思っていました」
「何故?」
「塾生とは楽しそうに話していたし、何より似合っていたし…」
真剣な梶には悪いと思ったが、前川はその言葉に軽く笑った。確かに、子供の相手をするのは好きだったし、勉強を教えるのも楽しかった。だが、教育学部を出たからといって教師になる者などそう多くはない。憧れた事がないわけではないが、真剣に考えた事もなかった。あの頃はただ遊びのような感じで子供と接し、自分の経験や知識を色々と話しただけに過ぎない。梶の塾でも、休憩の変わりに教育実習の馬鹿話をした事もあっただろうが、何を話したか今はもう思い出せないものだ。
「だから、図書館で見かけた時は、とても驚きました」
「在学中に司書の資格を取ったのがきっかけでね」
そう応えながら、どこかそれが言い訳じみた響きを持っているのに気付き、前川は舌打ちしたくなった。しかし、それ以上に厄介な事が目の前に迫っている予感がし、努めて平常な振りをする。
「教師よりも、自分にはあっていると思っているんだが。おかしいかい?」
「俺は、ずっと気になっていました、あなたの事が」
前川の問を無視する形で、梶は前を向いたままそんな言葉を一気に口にした。確かに前触れはあった。だが、出来れば口にして欲しくないものだった。不意打ち以上の疲れを前川は覚え、返答にもならない短い言葉を返す。
「そう」
「あの時の事、怒っていますか?」
「いや」
「…辞めさせられたんでしょう?」
何の事かと訊ねる必要はない。あの塾での事でしかない。
確かにクビになったが、表向きは自主退職だったと思う。しかし、後で態々確認したわけではないので知りはしない。自分が去った後、色々な噂話が出たのだろう事はその時も予想できたが、どうでも良かった。そして、それは今も同じで、事実などどうでもいい。
「別に。何とも思っていないよ」
「何故、否定しなかったんです?」
会話を終わらせたいことを悟っているのだろうに、子供のように真っ直ぐと聞いてくる梶に、前川は溜息を落とし応える。
「事実だから」
その言葉に、梶は顔を顰めて視線を逸らした。
「…ホモなんですか?」
「そういう事になるんだろうね。っで、君は?」
「え?」
「俺にそんな事を訊く君は、どうなんだ?」
興味などないと言うのが本心だ。だがそれ以上に、まわりくどく接してくる青年を、少しやり込めてやりたくなった。苛めたいという確固たる思いではなく、それは単なる気紛れでしかない。だが、前川の言葉を梶は真面目に受け止め、その言葉を口に乗せた。
「……わかりません。でも、あなたの事は好きだと思う」
短い沈黙後の、突然の告白。けれども前川に驚きはない。それは、半ば予想出来うるものであったし、どうでも良かった。自分には、あまり関係ない。ただ、それをそのままに出来れば良いと思うだけで、それ以上でも以下でもない。
「もちろん、恋愛感情で、という意味です」
「言い切れるのかい」
「自分の気持ちですから」
きっぱりと言い切った言葉は、けれども前川には簡単に頷けるものではなかった。自分の気持以上に、この世に難しいものなどないだろう。理解出来ない他人は切り捨てる事が出来ても、自分自身を捨てる事など出来はしないのだから。
「気持ちねぇ。梶くん、女は?」
「女性と関係を持った事はありますが、恋人という意味で付き合った事はないです」
こうもはっきりと口にすると言う事は、それが一人や二人ではないと言うことだろう。それを当然のように受け入れる程度には、女と付き合っているということだ。なのにあえて、真面目に男に告白をしているのか。正直、若さの分を差し引いても、前川には理解出来ない。
「大人の関係か。見目の良い君なら、それに不自由したことはないんだろう。羨ましいね、男なら一度そう言う言葉を言ってみたいものだな」
「…茶化さないで下さい。俺は、本気です。
あの時、俺は…。先生があの人とキスしているのを見た時、裏切られたと思った。だから、友達が言いふらすのも、止めなかった」
「……」
前川が塾をクビになったのは、同じように講師をしていた男友達との軽いキスが原因だ。それを生徒に見られ保護者からの非難が来たからという、馬鹿げたものだった。そう、本当に馬鹿過ぎて、偏見だの差別だの立ち向かう気も何も起こらず、言われるがままにさっさと辞めた。その後の事など、気にもしなかった。
「それが、普通の反応だろう。男と男がキスをしていたら、嫌悪するのが当前だ」
「違います。俺は、相手が男だとか言うのは関係なく…。ただ、教室では見たことのない、俺の知らないあなたがいることに耐えられなかった。手の届かない場所にいるその事実が辛くて、あなたを憎んだ」
でも、憎みきれなかった。
梶は息を吐くように、その言葉を口から落とした。
前川はその神妙な顔に溜息を落とし、梶の腕を摘み暗い路地に引き込んだ。汚れた壁に背中を押し付け、驚くその顔に顔を近づける。
口腔に入る事はしないが、重ねるだけでもないくちづけを落とす。
微かに触れ合う程度に唇を離し、前川は「気持ち悪いか?」と問い掛けた。
「いえ…」
「なら、気持ちいい?」
その問いに、梶はそんな事を感じる余裕も何もなかったと、少し掠れた声で囁く。何とも真面目な答えに笑い、前川はもう一度唇を重ね、今度は舌を差し込み戸惑い気味の梶を誘った。
前川が梶の胸に手を置くと、掌の下で勢いよく鼓動が脈打っていた。
静かにやってきた青年の恋は、遠い昔に忘れてしまった青い匂いを持っており、妙に照れてしまう。真っ直ぐな想いは微笑ましく、けれども自分の手には余るもの。だが、悪いものではないのかもしれない。
向けられる感情と同じものは返せない。梶の感情をそうかと理解する事は出来るが、だからどうだというものだ。好きになられたからといって、好きにはなれない。多分、この先付き合ううちに愛情は持てるのかもしれないが、恋に成るかどうかは疑問だ。
「前川さん」
体を離し、何事もなかったかのように先に歩道へと戻った前川を、梶は少し固い声で呼び止めた。
「今のは…」
何故キスをしたのか。自分の思いを試したのか、それとも受け入れると言う事か。梶が真っ直ぐと強い視線を投げかけてくる。
年齢の違いだろうか。それとも、ただの性格の違いなのか。
前川はその瞳に、目を細めた。純朴と言うわけでもなさそうな今時の若者だというのに、自分には怖いくらいに一直線で、自らとの差をありありと教えられる。
梶のように、憧れるだの想いを寄せるなど、そう言った精神的な恋は自分には似合わないし、出来もしないだろう。
だが、そう思いながらも、前川は隣に立つ梶の鞄を指して言った。
「本。返却に来た時は、声をかけてくれ」
「何故…?」
「好きだと言うのなら、それを示し続けてみればいい」
梶の中では、既にはじまっている恋だろうが、自分の中ではまだそうではない。しかし、スイッチが入らないと決まったわけでもない。
実際のところ、こんな応えを返している時点で、前川は自分の恋がはじまっているのかもしれないとも思ったが、今それを梶に教える気はなかった。自分に対しての恋だとしても、手を貸す必要は全くない。
「この世の中、思っているだけでは何もはじまらない」
行動しなければ何も変わらないと、前川は梶の先を歩き零れる笑いを隠しながら、挑発するかのように言った。
ただの気まぐれなのだろう、これは。そん自分を相手にしようとする梶を少し馬鹿だと思いながら、空を見上げる。星は見えないが、そこには欠けた月が浮かんでいた。
月が消える頃には、何かが変わっているのかもしれない。
END
2003/Autumn