□ ヒミツ

「こっちに来るのなら、何故前もって言わない」
 そんな言葉で僕を部屋に迎え入れた筑波直純は、明らかに不機嫌な顔をしていた。何をそう怒っているのかと呆れる僕に、「連絡が出来ないわけでもなかったのだろう」と眉間に皺を増やす。
「俺が仕事で居なければ、どうするつもりだ。それとも何か、驚かそうとでも思っていたのか?」
 ならば、充分に驚いたさと、あからさまな溜息を落としてみせる。
 何故ここまで苛立っているのか、僕には全くわからず、目を細める男に肩を竦めておいた。何か面白くない事があり、八つ当たりをされているのだろうか、僕は。そう考えてみるが、やはり理解不能なものだ。
「それで。何なんだ?」
 ドサリとソファに腰を降ろし、緩めていたネクタイを首から引き抜きながら、筑波直純は顎をしゃくった。促されるそれに従い、僕も隣のソファに座る。だが、一体何を訊かれているのかまではイマイチ掴めずに、僕はもう一度肩を竦めた。それにより深く皺が刻まれた男の眉間に、疲れさえ覚える。
 真夜中と呼べるこの時間にこうしてやって来た僕に対して、よくもここまで機嫌が悪く出来るものだ。
 何が何だかわからないが、大した者だと呆れ返る僕に、「おい、応えろよ。突然どうしたんだ、何かあったのか」と更にたたみ掛けてくる。重大な用事がなければ来てはならないのかと、僕は漸くそこで、男同様眉を寄せてみた。
 何故、僕がこんな言われ方をしなくてはならないのか。面白くない。
 確かに、この部屋に来る連絡はしなかった。だが、それがこうも怒られる事だろうか。そんな訳がない。
 その僕の考えを読んだかのように、「別に、怒っているわけじゃない」と筑波直純はわざとらしい言葉を繋いだ。
「ちょっとした悪戯か、本気で必要ないと考えたのか、俺の邪魔をしないでおこうと思ったのか知らないがな、保志。擦れ違う事になっていたのかもしれないんだぞ。先に連絡していれば無駄になる事はないのだから、こっちに来る時は一言伝えろよ。
 俺はお前と過ごせる時間を大事にしたいんだ。お前も、そう出来るように考えてくれ。ここまで来てくれたのに、偉そうな事を言うようで悪いがな。子供じゃないんだ、思いつくままで動くなよ」
 今度からはここに来る時は、もっと早く教えろ。数日前には言えよ。そうでなければ、無駄にしてしまう。
 そんな事を真面目な顔で言う筑波直純に、僕はますます眉間を寄せる。全く、意味がわからない。何の話をしているのか。
 どう言うつもりでこの男はこんな説教臭い事を僕に向けているのだろうかと、僕は目の前の男に、来たのは駄目だったのかと問いを放つ。今夜僕が突然顔をだしては何か拙い事でもあったのだろうかと、疑問を投げる。
 そうだと、男が頷いたのなら、この態度も納得が出来るというものだろう。しかし、彼はきっぱりと否定した。
「そんな事はない。だが、こんな時間にいきなりやって来たのだから、驚くのは当然だろう。だから、こちらがどうしたのかと訊いている。それなのに、お前は答えない」
 何なんだ、一体。
 そう、ぼやきながら肩を竦める筑波直純を前に、僕はアルコール臭い息を盛大に吐いた。何なのかと訊きたいのは、こちらの方だ。
 今夜僕がやってくるとは思っていなかったと言うのは、それはそれで微妙だが、納得出来ない事もない。僕とて、ここに来れるかどうかわからなかったのだから、他人の事は言えはしない。
 だが、ここまで面白くない顔をされるとは、思っても見なかった事だ。
 この男なら、喜んでくれるだろうとさえ思っていたというのに。何て違いだろうか。
 現実とは、所詮、こう言うものなのか。

 僕が勤めるレストランバーの社員旅行は、店長の趣味で、野球観戦となっている。普段は商売をしているので地元球場にしか行けないからと、この機会に遠出をするのだが、去年に続き今年もその行き先が東京になった。東京ドームで2日間ナイターを見るのがメインの、2泊3日の旅行とは言えそうにもないそれは、全員参加が義務付けられている。
 そうして、僕は今日、東京の地を久し振りに踏んだ。
 予定通り野球観戦をし、ホテルのラウンジで酒に付き合い、店長に解放された時にはもう12時を過ぎていた。終電間際の電車に飛び乗ったのは、単純に、ただ会いたかったからだ。別に態々、男が言うように驚かせる為に疲れた体に鞭を撃ったわけではない。このまま会いにいくのが悪戯になるのだとは、思いつきもしなかった。
 連絡を入れなかったのは、確かに、仕事の邪魔をしたくはなかったからだ。ギリギリまで向かえるかどうかもわからず、またそれが可能になった時にはもう夜も吹けきっており、たった一通のメールだが戸惑ってしまい送信が出来なかった。確かにそれは、僕の判断ミスだろう。だが、怒られる事でもないと思う。
 仕事で忙しければ会えないのは当然だと、僕は納得している。何より、男自身が仕事を優先させる癖にそれを気に病みもするのだから、うっかりと適当な事は出来はしないと言うものだ。ただでさえ時間のない男を待たせた挙句に行けなかったなど、洒落にもならないだろう。だからこそ、僕は運に任せるような感じで部屋を訪ねた。そして筑波直純はそこにいた。
 ならば。ラッキーだと、ついていたなと、それで終わりなのではないだろうか。彼にしても、抜け出して来れたのかと、それを認めるだけでいいのではないか。
 東京に来ているのだから、直ぐそこにいるのだから、少しは会えるかもしれないと考えているのが普通だろう。それを、全く思ってもいなかったと言うように、ただ突然やって来た僕に溜息を吐くのはどうなのか。もし、これが逆の立場なら。絶対に僕は、折角会いに来たのに愛想がない奴だな、と言われるのだろう。僕は別に、手放しで喜べと男に言うわけではないが、それでもやはり、この態度はどうかと思う。
 どうやら虫の居所が悪すぎるらしい筑波直純を前に、僕は再び溜息を吐いた。これでは、ツイていたのかどうなのか、わからない。
「溜息を吐きたいのは、俺だろう。ったく、お前は。漸く会えたんだから、俺だってこんな事は言いたくないんだぞ」
 ならば、言わなければいいだろう。
【何が気にいらない。迷惑なら帰る】
「今から、大阪までか。無茶を言うなよ。別に気に入らないわけじゃない、少し呆れているだけだ。お前、今こっちに着いたわけじゃないんだろう。飲んでいるな? 会いたいと焦がれている俺を後回しにして、誰かと会っていたんだろう。それを悪いとは言わないがな、それでもやはり、一言でも連絡を入れるものだろう。普通はそうだろう。違うか?」
 馬鹿みたいじゃないか、俺は。
 そう言った男は、間違いなく馬鹿だろう。「みたい」という曖昧な可能性ではなく、既にそうだ。馬鹿だ。
【何を言っているんですか】
「難しい事は言っていないだろう。一般的な常識だ」
 常識ならば、一般的なのが当たり前だろう。態々要らない言葉をつけてまで強調したそれに、僕は軽く眉を寄せる。それでは、僕が非常識みたいではないか。
 妙な発言をする男が、絶対におかしいのだ。僕は、そんな言葉を口にする筑波直純が理解出来ないと言っているのだ。その日本語が難しいと首を傾げている訳ではないのだ。
 何が常識だ。間違いなく非常識だろう、と僕は紙の上にペンを滑らせる。
【社員旅行なのだから、あなたの事が後回しになるのは当然だろう。そんな事で怒られても、僕は納得いかない。酒を飲むのも、付き合いだから仕方がないだろう。抜けて来いとでも言うのか。冗談じゃない。メインはあくまでも旅行だ。それこそ、きちんとそれに付き合うのが常識だろう】
 小言を聞きたくはないので、そういう態度をとるのであればホテルに戻ると、僕は筑波直純に言葉を突きつけた。要するに、子供のように不貞腐れているというわけなのだろう。僕の行動が気に入らないと言う事なのだろう。
 本当に冗談じゃないぞと睨む僕に、けれども男は「ちょっと待ってくれ…」と、役者のように両の掌を見せながら頭を傾けた。
「社員旅行など、聞いていないぞ。休みで戻って来たわけではなく、旅行だと言うのか?」
 先程とは違う表情で眉を寄せる男が何を言っているのか、あまりの事で、僕は直ぐには理解出来ない。
 ……聞いて、いない?
 それがこの社員旅行の事なのだとわかり、そんな事は絶対にないと、僕は顔を顰める。僕は確かに、その連絡を入れたはずだ。
「言い忘れたな、お前」
 …何故、そうなる。
 あなたが忘れたのだろうと、僕は顔に不満を表しながら、携帯を取り出す。
 何だそうかと、漸くここに僕がいるわけを納得したのか、一人ウケる筑波直純に、送信履歴に残ったメールを見せる為に僕は携帯を突き出した。探し出したそれは、僕が確かに男宛に連絡をしていた事を証明している。
「…記憶にないな」
 確かに送っているようだが、自分は知らないと首を振った男は、自分の携帯を取り出し操作する。そして、直ぐに、「やはり届いていないな」とそう呟いた筑波直純は、けれども、数十秒の時間をかけて顔を顰めきった後、一人の男の名前を呟いた。
「……クロかもしれないな。あいつなら、やりそうだ」
 何とも情けないと言えそうな表情を向けてくる男に、僕は呆れるしかない。
 一体、何をして遊んでいるのか。いい歳をした、この男達は。
 勿論、他人の携帯を勝手に操作した四谷クロウが一番おかしいのだろうが、それを知らない間にされているこの男も問題だろう。
【何とも仲がいいことで、よかったですね。僕としても、誤解が解けたようで何よりだ】
 呆れたからこその僕の発言に、「嫌味か? 嫉妬か?」と、先程までの不機嫌さを綺麗さっぱりと消しさり、筑波直純は笑った。
「あいつが勝手にした事だ。別に、メールを見せ合う仲じゃない」
 当たり前だ。誰が、そんな邪推をするか。勘弁してくれ。
「単なる悪戯だ。妬くなよ」
 妬くわけがないだろう。だが、性質の悪いそれを、単なる悪戯だと捕らえるこの男には、やはり、心底呆れる外ない。
 大阪から思い付きで僕がやって来たように誤解していた事など、すっきりと水に流したかのような微笑みで、「酒でも飲むか?」と筑波直純が立ち上がった。気まずさからか、それともこの誤解を照れているのか、少々逃げるようにキッチンに向かう男を僕は手を叩いて呼び止め、酒はいらないと首を振る。
【もう、充分に飲んでいる】
「酔っているか?」
 結構の量を飲んではいるが、かなり酒には強いので、それ程でもないともう一度首を振る。そんな僕を数瞬眺め、男は悪戯を思いついた子供のようにニヤリと笑うと、僕に向かって手を差し出してきた。
「なら、風呂に入ろう。俺も、帰ってきたばかりだ」
 何だかんだと考えず、僕にも水に流せと、そういう事なのか…?
 誘いというには少々強引な男の手にソファから引き起こされながら、僕はただ短い溜息を落とした。
 今夜は流されるしか、僕の道はないようだ。



 瞼の向こうの明るさに目を開けると、すっかりと陽は高くなっていた。まだ眠っている筑波直純を気にしつつ、その隣から抜け出しシャワーを浴びに向かう。再び寝室に戻ってきた時にも、まだ男は起きていなかった。珍しい事もあるものだと、僕は静かに足を運ぶ。
 忘れないよう、外していたお守り代わりの鍵を首にかけ、適当に服を拝借する。シャツに腕を通しながら時刻を確認すると、9時を過ぎたところだった。
 確か、10時に迎えが来ると男は言っていた。それを考えれば、起こさねばならない時刻なのかもしれない。
 シャツのボタンをひとつ留めたところでそれを中断し、僕は眠る男の剥き出しの肩に手を延ばした。軽く揺すってみるが、眠りは深いようで起きそうにない。
 必要な睡眠時間は短いが深い眠りをする僕とは違い、その仕事柄故なのだろうが、いつも男の眠りはとても浅い。だが、そうだと言うのに、今朝は無防備なくらいに沈み込んでいる。本当に、珍しい事だ。
 それ程までに疲れているのだろうと僕は考えながら、眠る男の顔を間近で数瞬眺め、額の傷痕に目を止める。一年以上前の傷は、他の部分が日に焼けたからこそ目立ち、僕の視線を奪った。身体に刻まれた傷痕の方が遥かに生々しいが、やはり、端整な顔にこの傷は似合わないなと忌々しく思う。本人は気にしていないようだが、当然だろう。鏡を見なければ見えないのだから。だが、僕は違う。
 ヤクザ臭いとは言わないが、少々ふてぶてしさが漂っているなと考えた時にはもう、僕の手は勝手に動き、男の額を叩いていた。無意識のそれは決して彼を起こそうとしたものではなかったが、丁度いいのではないかと気付き、もう一度同じように叩いてやる。ペチリと響く軽い音が、何とも耳に心地良かった。
 ギリギリまで寝かせておいてやりたいなと、何処かで考えかけていたそれも、はっきりと浮かばせる事なく僕の頭の中から消えてゆく。
「…ん、ああ……、おはよう」
 眉間に皺を寄せながら目を開けた筑波直純は、僕の姿を確認するのに数秒、声を出すのにまた数秒という時間をかけ、何を考えているのかおもむろに僕の胸にある鍵を掴み引っ張った。当然の事で、首から下げたそれが引かれた事により顔を近づけた僕を、けれども気にする事はなく、少々寝ぼけ眼と言った視線で手の中の鍵を眺める。
「…これ、やめる気はないのか? せめて指輪にでもしろよ、色気がない」
 買ってやる。いや、揃いの指輪をしよう。
 寝ぼけているのかと疑いたくなるような、起き抜け早々馬鹿な発言をする男の額をもう一度叩いてやり、その手から鍵を離させ僕は体を元に戻す。メモ用紙に文字を書きつけ、「鍵っ子みたいだな。しかし、もう使えない鍵だぞこれは」と今更のように僕のお守りに文句をつけ始めた男の顔の上に、それを置いてやる。
「何だ…?」
 紙を持ちあげ文字を追った筑波直純は、「…朝から笑えない事を言わないでくれ」と長い溜息を吐き、その紙を握り潰した。
 別に、笑えなくもないだろう。思う存分、笑えばいい。
 発信機を持つ趣味はない、と記した紙を男の手からとりゴミ箱に投げ、僕は、冗談だと肩を竦めておく。男にそれが伝わるのかどうか、少々怪しいものだが、あえて説明する気にはなれない。笑えない事を言ったのは、男の方が先なのだから。
 何が楽しくて、態々恋人関係にある相手に色気を示さねばならない。そんなもの、必要ないだろう。それとも、なんらかの物で興奮しなければ、僕に関心を向けられないとでもいうのか。馬鹿馬鹿しい。
 指輪に色気を感じ、紙に書いた言葉に興ざめする。そんな男の趣味を問いはしないが、付き合う気はあまりない。何らかの支障をきたすものではないので、贈られれば指輪のひとつぐらい身につけるのであろうが、それに興奮しているかと考えると、僕とて複雑な気持ちになるのかもしれない。実際にしてみれば、どうでもよくなる可能性も無きにしも非ず、なのだが。
 けれども、それはそれ、これはこれで。
 筑波直純の願望はともかく、僕にとっては何であろうとこれがお守りなのだと、ボタンをかけシャツの下に大事なそれを隠す。
「…何だ、もうこんな時間か」
 漸く時計を見たのか男がそうぼやき、寝起きだというのに疲労を載せた顔を軽く擦りながらベッドから起き上がった。そして、「あまり叩くなよ、馬鹿になったらどうする」と笑いながら僕に額を軽く指先で叩きにきた。
 起こしてやったのだから感謝こそされ、根にもたれる筋合いはないのだが。
 だが、それ以上馬鹿になってしまい今以上におかしな事をされても困るので、それは失礼しましたと僕は素直に肩を竦めておく。この物分りのよさに効果があるのかどうなのか、その保障はどこにもないのだが。
「悪いが、コーヒーを頼む。シャワーを浴びてくる」
 欠伸をした為、鼻から抜けた声でそう言うと、筑波直純はリビングから出て行った。その姿を見送り、僕は煙草を咥えて火を点け、キッチンへと向かい朝食の用意をする。パンとコーヒーを摂るぐらいの時間しかないので、用意と言っても簡単なものだ。
 コーヒーメーカーの作動音に耳を傾けながら、僕はのんびりと煙草を吹かす。

 筑波直純と再会した後、大阪へと戻る僕は、『行かせたくはないな』と向けられた言葉に対し、『こちらに帰って来ようか』という返事を返した。だが、それに対し、男はあまりいい顔をしなかった。駄目だと怒ったわけではないが、苦笑するばかりで、喜びもしなかった。
『嬉しい言葉だが、そう簡単に言える事じゃないだろう。社会人なんだ、責任があるだろう、お前にも』
 半ば本気で言った僕の心に、気付いているのか、いないのか。少し無責任すぎないかと呆れる男に、それ以上返せる言葉を僕は持っていなかった。確かに、そうだと言えるのだろうと、自分でも良くわかっていたからだ。
 結局。再会をして5ヶ月、指を折る必要もなく、片手で事足りるだけしか会ってはいない。遠距離だというのに加え、男が忙し過ぎであり、僕とて暇ではない。やりとりは携帯電話のメールでだが、それもあえて交わす会話もなく、いつも似たようなものばかりだ。
 そんな今に、けれどもこれと言った不満はない。東京に居たからといって、四六時中一緒に居れる訳でもなく、僕とてそんな子供の恋愛のような関係を望んではいない。男とて、自分で言ったから引っ込みがつかなくなったわけでもないだろう、会いたいなと言いはしても、帰って来いとは言わない。僕の立場を、仕事をわかっていてくれているのだろう。それは当たり前な事なのだろうが、有り難いと僕は心から思っている。
 だが、それでも僕は。
 筑波直純には言っていないが、今、こちらに戻ってくる事を考えている。
 店長には既に、辞表を提出したわけではないが、辞めたい旨を話した。僕の方は急ぐ何かがあるわけでもないので、後釜が決まるまではと申し出て勤めてはいるが、こちらに戻ると言えば直ぐに了承してくれるのだろう。店長は東京に戻る事は賛成している。
 いつだったか両親の話をした時に「さっさと親んとこ戻れや!」と噛み付いてきた事があった。どんなに親不孝の憎たらしい奴でも、子供が離れた場所で暮らすというのは、この歳になると理屈抜きで淋しくて仕方がないというのが彼の弁だった。それを聞いていた同僚に言わせれば、子供じゃなく店長の場合は孫なのだろうとの事だが、真相は別にどちらでも良い。父はともかく、母が淋しがっているのは明らかなのだから、僕としては人の親である店長に何も言い返しは出来ないというものだ。
 そして。
 CDの件も、津村氏が忙しい身なのでそう話は進んではいないが、前向きに検討しているところだ。多分、直ぐに録音をはじめるなどと言う事にはならず、まずはもっと色々な勉強をしていく事になるのだろう。それは大阪に居ても出来るものなのだろうが、東京の方が何かと便利なのも事実だ。
 気の遠い話だが、知識や経験を増やし、いつか自分の音が形に出来ればいいかもしれないと僕は思いはじめている。最近、前以上にサックスを吹くという事が楽しくなっている気がするのは、そう言うところから来ているのだろう。
 大阪の地にいては、やっているとは言い難い程度でしかないが、東京での仕事も探し始めている。新たな職は見つけられてはいないが、まだこれからだ。
 東京に帰ってくるのは、筑波直純がこの地に居るからだというのは、確かにある。無責任だと呆れられようが、半分はそれが理由だろう。だが、決して今が寂しいからだとか、離れていられないだとか、我慢出来ないだとかではなく、これは僕なりに前を向いて選んだ事だ。彼が居なければ東京に目を向けなかったのは確かだが、ただ単純に恋しさゆえに帰ろうと思うほど、僕も子供ではない。恋愛感情だけで動けはしないのだというのは、充分わかっているつもりだ。
 自分の事も、周りの事も、そして先の事を考えて、僕はこちらに戻って来ようと決めた。それを、筑波直純がどう思おうと、何と言おうと、関係はない。変える気もない。
 僕はこの夏で27歳になった。
 もう充分に大人であると言える年齢であり、同い年の同僚は既に二児の父親だ。きちんと考え始めるのが遅いと言うものであるのだろうが、これが僕だ、仕方がない。だが、考え始めたその芽を、自分で摘み取る事もないだろう。
 大阪は嫌いではない。むしろ、自分でも意外な程に住み易く、気に入っている。だが、僕はやはり、自分の生まれ育ったこの地を選びたい。ここで暮らすと言い張れるほどのものなど持っていないし、その意気込みもそうあるわけではないが、選択するのであればやはりここだろう。捨てられないと言う方が正しいのかもしれない曖昧さだが、今はそんなものでいい。この先、確かのものに変えられるのかもしれない。
 直ぐには無理だが、年末までには、僕はこの東京に帰ってくるのだろう。
 自分の意思だ。考えて、決めた事だ。だからこそ、男にはまだ、言う気はない。顔を顰められるのが怖い訳でも、喜ばれるのがうんざりする訳でもなく、単なる秘密だ。言う必要がないと思っているわけではない。多分、突然知らされれば、昨夜の誤解ではないが、男とて複雑な心境にもなるのだろう。だが、やはり、不愉快さを与えるとしても、今は言いはしない。

 僕は未来へと続く秘密を胸に隠したまま、迎えの車に乗り込む男に口元を上げて笑い、軽く片手を上げ踵を返す。
 態々最後まで見送る必要はないだろう、また直ぐに会うのだから。
 相変わらずだなと軽く笑う筑波直純を背中に感じた。僕は耳を済ませながら、それでも前に向かって足を進める。バタンと男が乗り込んだのだろう、ドアが閉まる音が後ろから届いてくる。表通りへと続く道を進む僕を、黒塗りの車が追い越していった。
 それこそ、昨夜の男の言葉ではないけれど。
 悪戯心もなくはないなと、自分の中に隠すそれに餓鬼臭さもあるという事に気付き、僕は小さくなっていく車に向かって肩を揺らせた。

 今は決してあの男には聞こえないこの笑い声も、その時が来れば、きちんと届くのかもしれない。
 その時、筑波直純は一体どんな顔をするのだろうか。


END
2003/12/05