凛と張り詰めたような、冷たく鋭い夜気。けれども、今はそれがかえって気持ちがいい。
火照った体を掠めるその空気を味わいながら、結城は空を見上げた。
残念ながら、厚い雲に覆われているのか星は見えない。あの神の子が生まれた夜のような輝く星は見当たらない。だが、それでも今日は、聖なる夜。
星は見えずとも、光は溢れている。
街の喧騒から少し離れた住宅街でも、小さなイルミネーションが各家庭に施されており、いつもより明るい感じがする。そんな道を足早に歩きながら、結城は軽く喉を鳴らした。
酒のせいばかりではない。クリスマスというだけで、小さな興奮が沸き起こる。
クリスマス直前に恋人に振られるという最悪の事態に陥った先輩に連行され、男五人、居酒屋でイブの夜をはじめる事となった。
何かと世話になっている先輩なので同じ課の自分と鈴木はもちろんの事、何故か別の課の安部と家族持ちの上司までいるので抜けるに抜けられず、結局何だかんだと騒ぎながらお開きになったのは真夜中近くの事であった。
駅で他の者達と別れ、自分のマンションに帰る事は全く考えず、結城は真っ直ぐと恋人の部屋へと向かっている。心を躍らせながら。
あの男ならきっと待っているだろうから。
…いや、そうではなく、自分が今あいつに会いたいのだ。
自身の弾む気持ちに喉を鳴らしながら、結城はもう一度心で思った。
早く、会いたい、と。
そんな感情を自分が持っていることなど知らない恋人は、いつもと違い少々素っ気なかった。
「寒かっただろう、何か飲むか?」
合鍵を使い中に入り、リビングの扉を開けた結城に、驚くことなどなく橋本は淡々とそう言った。
「……なんか、面白くない」
「…何だ?」
開口一番不満を言った自分に、恋人は軽く眉を寄せ首を傾げる。それもなんだか気に入らない。
そんな橋本の後ろにある時計は、12時が過ぎた事を示していた。
「……12時、過ぎちゃったな…」
「それが、どうかしたか?」
「…何となく」
「何だよ?」
怒っているわけではなく、本当に意味するところがわからないのだろう、疑問を顔に乗せる橋本にむかって結城は溜息を吐いた。
「だって、…折角のイブだったじゃん」
何でか知らないが、クリスマスよりもイブの方が騒ぐだろう。
そう言いながらコートを脱ぎソファに座ると、橋本が暫しの沈黙後、何を考え付いたのか喉を鳴らした。
恋人であるというのに、結城には橋本の事はイマイチわからない。単純だとは思うが、その思考はかなり複雑でもある。そういう時は理解が出来ないのでさっさと降参する事にしている。
もっとも、今はそうではなく、少しカチンと来たのだが。しんみりとしている自分に意味のわからない笑いは腹立たしいでしかない。
「…何だよ」
「いや、何でもない。
それより、男同士のイブは面白くなかったのか?」
「いや、面白かったよ」
「そうか。なら、良かったじゃないか」
「…だから。それが、気に入らないんだよ」
結城は再び溜息を吐き、更に文句を言おうと口を開いた。だが、そこから出てくる言葉はなく、代わりに頭を垂れる。そして、側にあったクッションを抱きしめ、小さく呟いた。
「……何で、お前は平気なの…?」
「…何が?」
全くわかっていない恋人が悲しい…。
そう、なんだかとても悲しすぎて、いつものように喧嘩をする勢いもない。
「……だってさ、お前いつもなら、クリスマスだし、一緒に居たいとか言うだろう…?」
そう、今日は定時に仕事が終われずそのまま飲みに行く事にもなったが、本当なら二人で過ごそうと、少なくとも自分はそう思っていた。なのに、連絡を入れた恋人は「そうか、飲みすぎるなよ」と言っただけで、そこには非難も寂しさも何もなかった。
いつも、イベント好きの女じゃないのだからと思うほど、ピュアさを持った男だというのに、何故か今日はその様子が見られない。そして、それが結城にはとても気になるのだ。
何だっていうのだろうか…。
餓鬼のように騒げとまで言わないが、恋人同士で迎える初めてのクリスマス・イブなのに、はしゃぐと思っていた男が大人しすぎる。そして、それを望んでいた、そんな風に喜んでいた自分が、虚しい…。
「…クリスマス、嫌いなのか?」
未だ立ったままの橋本を、結城は下から見上げた。
「そんなことはない」
そう答える男はどこかふてぶてしい感じがする。黙っていれば顔の作りが良すぎて、喧嘩を売っているのかと思えるくらいなのでそれも仕方がないのだろうが…。
「そんな風には、全然見えない」
「お前こそ、誕生日はしれっとしているのに、クリスマスは騒ぐのか? キリスト教徒でもないんだろう」
「そうだけど…。でも、楽しいもんじゃん、クリスマスは」
結城の言葉に肩を竦め、橋本はやっと結城の隣に腰を降ろした。
「な、結城。
クリスマスはこの夜を祝っているんだ。まだ夜は終わっていない」
「は? 何それ。25日のお祝いだろう?」
「25日というか、キリストの誕生を祝うんだろう。俺も詳しくは知らないけど、知っているだろう?」
「25日の夜に生まれたんだろう?」
それくらいは知っている、と結城は「何なんだよ、一体」と少し頬を膨らませた。頭がいいくせに、この男の話は時々要領を得ない。遠回りが好きなのか、コミュニケーションが下手なのか…。
そんな風に呆れる結城に橋本が微笑む。
「そうだ。それがどうして今は24日の夜を祝うのかは、色々説があるらしいけど…。
昔はアラブ暦では日没後に日付が変わるとされていたから、その当時の『25日の夜』っていうのは、今の24日の日没から25日までの日の出のことだ。だから、この夜を祝うんだ」
「えっ、そうなのか?」
「そう。だからさ、まだ夜は終わっていないだろう」
気にすることはない。
そう言った橋本の言葉に、自身の感情が何もかもばれているような気がして、結城は少し顔を赤らめた。
「俺は、別に…」
「俺は今夜お前が来てくれただけで充分嬉しい。そりゃ、もっと早く来て欲しかったと思わないこともないけれど。
正直、酔いつぶれてしまってやって来ない可能性もあるなと考えてもいたしな」
橋本がソファの背に腕を乗せ、肩を抱きにきた。結城は抵抗はせず、けれどもなんだか恥しくて協力もしない。
「…それは、気にかけさせて悪かったな。
なら、行くなとか言えよ」
「独占欲を見せたら嫌うのはお前だろう」
「別に…、……見たい時もある」
「なんだよ、それは」
俺はそれを読めるほど、お前を把握していないよ。
橋本はそう笑いながら、更に結城の頬に手を伸ばす。
「クリスマスってさ、キリストとミサっていう意味の言葉だから、本来はこの夜にキリストに祈りを捧げるんだ。
だが、別にそんなキリスト教徒じゃないんだから、ただ楽しく過ごせばいいんだと俺は思う。
俺は酒に付き合えないし、だから、止めなかった。お前が来るのを待つのもいいなと思った」
それに、真似事じゃないが、お前が来るのを祈るのも悪くはないかなって。
はにかんだ恋人は、やはりその辺の女よりもピュアな言葉を口にした。
「俺が来る事を? 来なかったら、どうするんだよ」
それって祈るというよりも、サンタクロースにプレゼントを頼む子供のようだ。そんな事を思いながらも、結城はそう茶化しはせず、けれども呆れて聞き返す。
「その時は、俺が行けばいいだろう」
当然だろうと微笑む恋人のそれは、自分じゃなくても一発でノックアウトしてしまいそうな力を持っており、さすがの結城も暫し言葉を失う。これはある意味、凶器だ。未だに慣れない。
「…なんか、お前、急に利口になったみたいだ」
「なんだ、その言い方は。俺は子供かよ。
そういうお前は、今日は可愛いな、甘えてる?」
煩いよ、と照れ隠しに言おうとした言葉を飲み込み、結城は頬を撫でる橋本の手を取った。
「そうだな、うん。今日は甘えることにする」
腕を伸ばすと抱え上げるように引かれ、結城は橋本の膝の上に乗った。そして、そのままぎゅっとしがみ付く。
大きく息を吸うと、恋人の匂いが体に満ちた。
「我が儘、いっぱい言ってやる。覚悟しろよ」
その言葉に橋本は「お手柔らかに頼む」と喉を鳴らす。
「そうだな、まずは、雪を降らせろ。ホワイト・クリスマス」
「無理を言うな。…いや、それは後回しにしてくれ。明日の朝叶えてやる」
「えっ? 何? 明日雪降るの?」
「天気予報では、夜中から明け方にかけて、と」
「ふ〜ん、そうか。当たるといいな〜」
降らなかったらお前、責任取れよ。
ニヤリと笑う結城に、橋本は軽く眉を上げ口元に笑みを浮かべた。
「っで、他には? 次は何?」
どんな無理難題を言われるのかもわからないというのに、橋本は嬉しそうに結城を促した。その微笑みを浮かべる男の唇に、結城は自分のそれを落とす。
遊ぶように絡めた舌を抜き、恋人の耳に囁く。
「なあ、考えるの面倒になってきた」
「…何だ、それは」
「だからさ、お前の好きなようにしろよ。俺を楽しませろ」
楽しむための夜なんだろう?
先程の言葉とは似ていてもニュアンスの違うその言い方に恋人はは肩を揺らせて笑い、
「なら、まず…。もう一度キスをしないか?」
と、律儀に覗いをたてた。
「一度と言わずに、何度もしろよ」
「了解…」
END
2002.12.25.