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「何も聞かずについて来てくれ、保志」
 仕事場から外へ出ると、僕を認めた彼はそう言いながら、車道脇に停めた車に預けていた体を起こした。何事かと僕達の間を通り過ぎるサラリーマンがちらりと視線を向けて来たが、ただそれだけであり、足を止めるわけでも関わらないでおこうと慌てて逃げるわけでもない。
 以前からヤクザはおろかチンピラにさえあまり見えずにいたが、少し長めの黒髪にダークカラーのスーツという大人しい格好では、少し頼りない新人社会人にしか見えない。そんな青年の姿に、僕は思わず笑いを零してしまう。
「何だよ」
 詰め寄るような声に何でもないと首を振ると、岡山は実に嫌そうに顔を顰めた。一体いつから待っていたのか、その足下には煙草の吸い殻が数本落ちており、続いて今度は嫌な予感に僕が眉を寄せる。普段はあまり吸わない人物のそれは、長い時間暇を持て余していたからか、落ち着きを欠いているからかのどちらかであろう。
「頼むよ、来てくれ」
 果たしてこの青年は前者なのか後者なのか。それを見極めようと掛けられた言葉などとりあわず見やる僕に、岡山は真っ直ぐ見返しながら真剣な声で畳み掛ける。
「乗ってくれ」
 傍らの車のドアを開けようと手を掛けるその行動を最後まで見ず、僕は体の向きを変え歩道へと足を踏み出した。
「あっ、コラ!待てよ保志!」
 待つわけがない。
 だが、直ぐに追いかけて来た岡山に手首を掴まれ、引っぱられてしまう。その勢いのまま振り返った僕の目に、歯痒げな若い男の表情が飛び込んで来る。
 訳を聞かずに付き合えなど、極普通の友人であったとしても警戒するものであるのに、見た目はともかくヤクザ組織に関わる者に言われたならば逃げるのが当然だ。それなのに。
 まるで僕が悪いのかと錯覚してしまうくらいに、岡山のその表情は哀れをさそった。一体、何だと言うのか。
「頼む保志。俺を助けると思ってさ」
 岡山の身に何が起こっているのか知らないが、この方法は間違っている。この態度では僕の警戒心を増させるばかりでしかないのだと、何故気付かないのか。僕が必要ならば、もっと適当な事を言って付き合いさせれば良いだろうに、頭が足りなさすぎる。
 だが、これがこの青年の良いところなのだろう。こんな風に素人一人騙せないこの男に、果たしてヤクザ稼業が勤まっているのかどうなのか、逆に心配にさえなってしまう。
 こうなればもう、僕は負けたも同然だ。
 仕方がないと、固い表情の岡山を安心させるように彼の二の腕を叩き、僕は黒塗りの車へと足を向けた。悪いなと、心の底から吐いている様な深い謝罪に、肩を竦めるだけで応える。
「…筑波さんには、言わないでくれよ」
 助手席に体を預けた僕に、岡山はシートベルトを締めながら呟くように言った。もとより連絡するつもりはなかったが、その発言によりあの男に関する事態でもないのだと気付き、早くも少しばかりの後悔を覚える。
 知り合いだが友人であるわけでもなく、筑波直純という男を間におかねば繋がりなど全くない岡山が、僕に何をしようとしているのか。それはどんなに頭を捻ろうが、予想のひとつも出来ないものだ。しかし、何も聞くなと宣言したのだから、尋ねたところで教えてくれる訳もないのだろう。
 幾分か心配を覚えもしたが、負けた自分が悪いのだと、僕は深く座席に凭れ大人しく目を閉じた。

  +++

 岡山に連れられやって来たのは、オフィス街のすぐ近くにあるバーだった。まだ開店したばかりだろうに、夜の早い時間にも関わらず多くの席に客の姿があり、よく流行っている事が伺える。しかも、彼らの身形はどこか洗練されたようなものであり、それなりに高い地位にいる者達だろう事も感じられた。
「こっちだ」
 良い雰囲気を持っている店だ。これで酒が旨ければ文句なしだなと、店内に気を取られていた僕を岡山が奥へと促す。やはりただ酒を飲みにきた訳ではないのかと肩を竦めながら、僕は関係者だけが通れる通路へと足を踏み入れた。
 営業中とはいえ、誰にも会う事なく廊下を進むうちに、店内とは違う特殊な雰囲気が肌に突き刺さって来る。監視カメラを視界の隅に捕らえながら、僕は前を行く青年に吹き掛けるような大きな溜め息をひとつ落とす。ほんの少し居ただけだが、店は至極真っ当なものであった。それが、こうして裏に入ればヤクザの存在がありありと感じられるのだから、厄介な事この上ない。きっと客の誰もが真の経営者など知らずに来ているのだろう。
 エレベーターに乗り込むと、岡山は迷わず向かう階へのボタンを押した。浮上する感覚に刺激されたかのように、脳が僕に空腹を教えてくる。しかし、鏡越しに重なった視線にそれを訴えるが、岡山は取り合ってはくれなかった。
 7階に到着し、扉が開く。少し先の廊下に男が立っており、エレベーターを降りた僕達を認めると、直ぐに明かりが零れる側の部屋へと入って行った。
 岡山が男へ続く様に部屋へと入り、僕もそれに続く。予想外にも、そこは事務所のような少し固い空間で、パソコンの画面に派手な影像が流れているのがかえって殺風景さを強調していた。
「入れ」
 奥の重そうな扉から出て来た先程の男が静かにそう言い、扉を大きく開く。岡山は男に頭を下げながら、奥へと声をかけ扉をくぐった。だが、流石に僕とて軽い気持ちで付いて行くような場所ではない事を悟り、足は止まる。
 しかし、そんな僕を男はとても簡単な仕草で中へと促した。残念ながら、僕にはそれに逆らうだけの理由が見付からない。
「待ちくたびれたぞ。お、そいつが筑波のオンナか」
 からかう声と不躾に観察する視線が、僕を迎え入れる。促されたからとはいえ、あっさりと入室した事を後悔した。回れ右でも左でもして退室するべきだと頭は判断したが、無情にも背後から扉が閉められる音があがる。どうやら逃げ道は絶たれたようだ。
「保志翔です」
 勝手に人の名を口にするなと、岡山の発言に思わず舌打ちを落とす。高そうなソファに座る40前後の体格の良い男は、センスを疑うような服装でも頭が足らなさそうな顔でもないが、ヤクザでしかない雰囲気を纏っていた。これで公務員などというのであれば、僕は世の中の全てを疑わなくてはならなくなるだろう。
「ご苦労だったな、岡山。下がって良いよ」
 カチャリと軽い音が上ると同時に、新たに男が一人部屋へと入って来た。手元の書類から目を外す事なく部屋を横切り、デスクへと腰を掛ける。
「岡山、聞こえなかったのか?」
「か、若頭、しかし…」
「下がれ」
 顔も上げず命令する男に、岡山は口惜しそうに顔を歪めはしたが、次の瞬間には綺麗に一礼し部屋を後にした。
 頭を下げてまで連れて来たのなら、最後まで面倒をみるべきだ。離れず側に居るか、一緒に連れだすか、それくらいの事はして欲しいものだと、僕はあっさり下がった岡山に胸の中で毒を吐く。彼が真剣に頼むからこそ付き合ったのに、これでは僕は頭の足りない馬鹿のよう。
「君は遠慮せずに座ればいい、保志翔クン」
「あぁ、そうだな。別に捕って喰うわけでもないし、安心しろ」
 顔も上げない男の言葉に続き、ソファの男が顎で僕に自分の前の席を勧めた。だが、この状況のどこに、安心出来る要素があるのだろうか。とてもではないが、小さなローテーブルひとつだけの距離では心もとない。
「それは筑波にでも教わったのか?」
 動かない僕に、何を考えているのか、書類を捲りながら男は小さく笑う。
「危機感がなさすぎると聞いていたが、そう間抜けでもないようだな。知らない奴には気を付けるよう筑波に教え込まれたか?」
 馬鹿馬鹿しい。僕は男の言葉に思わず眉を寄せた。躊躇ったのは、僕自身の不安と抵抗によるものであり、筑波直純などは全く関係ない。
 この男は、自分がどんなにうさん臭い人物と見られているのか把握するべきだ。それが分かっているのならば、こんな発言はしないだろう。
「まぁ、どちらでもいいんだがな、そんな事は」
 自分で言い始めておきながら男はそう切り捨て、漸く手元から顔を上げた。そして、眉間に皺を寄せる僕を見、馬鹿にするかのように軽く肩を竦める。メタルフレームの眼鏡の奥にある切れ長の目が、とても楽しげに細められた。歳は、30半ばといったところだろう、ソファに座る男よりも幾つか若く見える。
 中身は兎も角、向かい合った男はこうして近くで見る限り、ヤクザよりも下の店にいた客達に近い容姿をしていた。端正な顔立ちをしているが、飛び抜けて目立つ程でもない。だが雰囲気が、内にある何かが、役者やモデルのようなどこか特別な魅力を放ち、目を向けずにはいられない人物だ。きっと、場合によってはその力が全面に押し出され、対峙する相手を飲み込むのだろう。そして、男は自分のそれら全てを把握しているに違いないと思える、強い眼をしていた。
 この男がヤクザだと言われれば、納得出来ない事もないが、その安っぽさに落胆さえ覚えてしまう。他にもっと似合う職があるだろうと、自分には関係ないが考えてしまう。そう不思議な感覚を与えられてしまった僕は、純粋なあの男とは違った意味でヤクザらしくないなと、不躾にしげしげとその姿を眺めた。
「何かおかしなものでも付いているか?」
 男の顔を眺めて楽しいか。
 そう言いながら雑な仕種で書類を机に放り、男は片手で顎を擦りあげニヤリと口許を歪める。
「馬鹿言っていずに、手を空けて本題を始めろよ正道」
 軽い乾いた音と共に、呆れ声が僕と男の間に入り込んできた。視線を向けると、いつの間にかソファからもうひとりの男が立ち上がっており、本棚の側で背中を見せている。
 ヤクザなのだろうか? いや、岡山の態度から考えて、それ以外にはありはしないのだろう。だが、何故僕がそんな二人と対面しているのか。今直ぐに納得出来る理由を並べて欲しかったが、目の前の二人にそれは期待出来そうもなかった。
「馬鹿を言っているつもりはないが、確かに遊んでいる場合じゃないな。あぁ、名執さん、俺にもくれるか?」
 眼鏡を外しながら、男が机から離れる。
「判っているさ」
 苦笑まじりに答えながら振り向いた男の手には、グラスがあった。ラックの中に冷蔵庫が組み込まれているらしく、カキンと氷が爆ぜる音があがる。
 僕にも飲むかと聞きながら、名執と呼ばれた男はソファに座った男にグラスを渡し、自分の酒に口をつけた。
「毒なん入れないから、心配するな。旨いぞ」
「座りもしない奴には無駄だな。なあ、保志くん」
 僕が首を振る前に、男が長い足を無造作に組ながら当然のように言う。お前には聞いていないと名執は苦笑するが、それ以上僕に問う事もなく、先程と同じように彼もソファに腰を降ろした。
「すでに判っているんだろうが、一応挨拶はしておこうか。俺は朝加組若頭の湊だ、湊正道。そして、こちらは名執組の組長さん」
「名執晋作だ」
 前屈みに座った大きな体をまるで更に小さくするかのように、名執は軽く頭を下げ会釈を寄越した。予想外の行動に僕は思わず目を丸め、挨拶を返し忘れる。
 だが。
「さて、保志くん」
 湊の低い笑いを耳にし、彼の人を見下すかのような表情を見た瞬間、挨拶など必要はないと開き直る。どの道、殆どの僕の情報は彼らに入っているのだろう。その中には、僕自身が知らない事実まであるのかも知れず、それを考えると面白くない感情が胸に湧き上がる。当然ながら初対面であり、筑波直純からは名前すらも聞いた事のない男達に対する態度は、彼らが僕に対する不躾さと同等のもので良いはずだ。
 まさかこの男達も、僕に傅いて貰う事など全く期待していないだろう。僕の振る舞いなど、どうであれ問題はないはずだ。
 そう思った僕の予想通り、湊はただ一方的な言葉を向ける為だけに、その整った口を綺麗に開いた。
「君にはひとつ言っておかねばならない事があるから来て貰ったんだがね。まず始めに、これは覚えておいて欲しい。
 俺は馬鹿は嫌いじゃないが、それは時と場合による。俺が今君に望むのは、一度で理解し協力する事だ。それが出来ないのなら、何も考えずに従う事。選択はこの二つに一つ、これ以外にはない。いいな?」
 この場合、いいな、とは問い掛けではないのだろう。だが、それは前置きされるような内容ではなく、何を言っているのか全く理解不明だ。
 あからさまに訝る僕に、お前は馬鹿かと言うかのように目で問い掛け、湊は片眉を器用にあげた。
「つまり、今の君は俺の前では頷くしか出来ないってわけだ。会話は必要ない。決定事項として大人しく聞くだけでいいのなら、話せられない君でも大丈夫だろう」
 湊はそう言い、自分の発言に満足したかのように嗤う。その笑みに、僕も鼻で嗤いを落とした。
 僕が大丈夫なのかどうかよりも、まずこの男自身がイカれているのは間違いない事実だろう。ならば、そんな男の不明な言葉など気にしておらず、相手などせずに立ち去るべきだ。今、僕がすべき当然の行動は、馬鹿な奴等から離れる事なのだ。
 それが何よりも正しいと、僕は笑いを収め、厚みのありそうな扉へと足をむけた。
 しかし。
「君の前ではどんな奴なのかは知らないが。筑波はなぁ、保志くん。うちの組にとっては貴重な男なんだよ」
 踵を返した僕に慌てる事なく、湊はゆっくりとそう言葉を紡いだ。何が言いたいのかと、思わず足を止め振り返ると、男はこちらを見てはいなかった。まるで疲れているかのようにソファに凭れ、顎を反らし天井を見つめている。
「筑波はまだ若いが、組の為にならなんだって出来る。そう躾たのは俺でもあるんだが、奴はその性格故に裏切る事も絶対にない。この上ない上質な部下だ」
 湊が話す度、反らされ露になった喉仏が上下に動いた。はっきりと見えるそれは、何故か僕を挑発しているかのように感じ、攻撃性を覚えてしまう。
 嫌な感情から目をつぶるように視線を反らすと、静かにこちらを伺う名執がそこにいた。僕と重なった視線に言い訳するかのように、目尻に皺を作りながら小さく笑う。
「だが、あいつには致命的な欠陥がある。優しすぎるんだ、筑波は」
「ヤクザに優しいなんて言葉は似合わないが、君にも思い当たる節はあるだろう?」
 自分に続いた名執の言葉に湊は喉を鳴らしながら、顔を戻し僕にそう問い掛けてきた。
 筑波直純が優しいかどうかは、僕には分からない。誠実ではあるように思うが、それは彼のプライドなどからくるものでもあり、正しいかどうかまでは僕には判断出来ない。しかし、確かに純粋ではある。だがそれも、優しいとイコールであるわけでもない。
 筑波直純という男は、多分、心が素直なんだろう。子供ではないのでそれを表に出す事は少ないが、感受性はとても強いように思う。
 それを優しさ故のものとするのならば、この男達の解釈も間違いではないのだろう。そう僕にも思えた。だが、何故か頷く事は出来ず、そんな僕を気にする事なく湊は口を開いた。
「だがな、優しいからと言っても、あいつは馬鹿ではないからやるべき事はやる。己の感傷の為に、ふざけた間違いを犯す事もない」
 確かにそれは、湊の言うとおりなのだろう。ヤクザなど似合わない性格をした男が、その世界に居続ける覚悟をしているのだから、中途半端な事はしないはずだ。
 だが、自分がそう躾たのだと臆面もなく口にする男が理解者のように語るのは、とてもじゃないが納得出来ないものだ。この男にとって、筑波直純の葛藤などどうでもいいものでしかなく、悩む自体が愚かだと評価しているのだ。
 そんな奴の意見に同意した自分が、この男の方が僕よりも筑波直純の事をよく知っていりのかもしれないと一瞬でも感じた自分自身が、堪らなく情けない。
 苦虫を噛み潰したように、僕は盛大に顔を顰めながら、湊を睨んだ。しかし、相手はそんな視線はどこ吹く風というように、悠然とグラスに口付けながら笑みを浮かべる。
「そう睨むなよ。別に俺は奴を貶しているわけじゃない。イイ男だよ、筑波はな。君が惚れるくらいにさ」
 そう僕をからかいクククと喉を鳴らす人物は、間違いなく話題に上がる人物とは逆の、悪い男だろう。それは向かいに座る名執も感じているのか、顔に呆れの色を滲ませ溜息を吐く。しかしそれさえも効果はないのか、湊の口許から笑みは消えない。
「賢い奴だからな、あいつは。いちいち細かな指示を出さずとも、上の意思を違える事なく汲み取り動く、優秀な男だ。だが、ねぇ。残念な事に、朝加組の筑波は組の為に忠義をつくしてはいても、ひとりの男としての筑波直純は違う。ただの男になりさがった奴は、使い物にならない。いや、厄介な事に、無能じゃない分、こちらのリスクが高くなる。いわば、いつ爆発するかわからない核を保有しているみたいなものかな」
「核爆弾とは、言い過ぎだぞ。そこまで悪質じゃない」
「その能力を認めているんだよ、俺は。だからこそ、手を打つんだろう、ヤられないようにさ名執さん」
 何を言っているのかよくわからなかったが、彼らの話はどうでもよかった。それよりも、湊の言い草に腹が立った。
 人として割り切れない感情を持つのは当たり前の事なのに、あっさりと厄介だと言い切る。湊にとっては、筑波直純というものは単なるコマのひとつでしかないのだろう。思い通りに動くそれでなければ価値はない、そう言う事なのだ。
 見せつけられたその事実は、何とも言えない感情を僕に与える。
 己の思いよりも、仕える上役の意思が何よりも最優先される世界にあの男はいるのだと、今更ながらに実感する。社会に出ると言う事は大なり小なり同じものであるのだろうが、あの男が立つ場所は想像以上のもののようで、胸の奥がキリリと痛んだ。一般人とは、スケールが違いすぎる。
 自分に似合わないこんな世界を選んだ筑波直純を、僕は心の底から馬鹿だと思った。
「そこでだ、保志くん。君は気付いているだろうか。そんなあいつの鍵を、自分が握っている事に」
 カギ…?
 思わぬ言葉に、僕は口を開いた。だが、どういう意味かと問おうとする僕を、男は君に発言権はないのだというように静かに眺める。その視線に苛立ちを覚え、僕は音にはならない声をだした。
 くたばりやがれ、クソッタレ。
 はっきりとそう発した言葉は、唇を読めずとも、僕の表情や雰囲気で正確に伝わったのだろう。湊は笑いを口許に残しながらも、真剣な色を瞳に浮かべた。
 それは、息を飲みそうになるほどの強い眼差しであり、男がどんな立場の人間であるのか思い知らされるものでもあった。
「悪いが、組としてはそれを野放しにしておく事は出来ない。鍵を勝手に使わせる訳にはいかない」
 何の事だか分からない。だが、再び口を開く事も出来はしない。
 完全に、僕は男の空気に飲み込まれていた。それは相手が表情を緩めても同じで、湊がソファから立ち上がり近付いてくるのを視界にいれながらも、よく理解出来なかった。
「筑波と別れろとは言わない。そこまで制限する気はない。ただ、邪魔をするなと言う事だ」
 目の前に立つ男を見ながら、ただその言葉の意味を探る。それしか、今の僕には出来そうになく、悔しさを覚えながらも問いを飲み込む。
「これから何があるのかはわからないが、その時君に取り乱されては困るんだよ。筑波が組ではなく君を優先させるような判断をとる危険があるのならば、君には早々に消えて貰わねばならないかもしれない」
「あの男を生かすも殺すも、お前にかかっている。それを忘れるな」
 黙ってグラスを傾けていた名執が、振り返り低い声で言った。先程までの緩んだ雰囲気はない、恐いくらいに真剣なその姿に僕は混乱する。
 この男達は何を言っているのか、僕を何だと思っているのか、筑波直純をどうするつもりなのか。聞かされた言葉だけではよくわからない。
「たとえば、君の命が何らかの取引材料になったら、筑波はどうするだろうか。」
 僕の混乱を知ってか、湊が軽く笑いながら付け加える。
「つまりは、そう言う事だ。筑波に前回のような事をされては、困るんだよ保志くん。俺は全てを把握していなければならない立場でね、馬に蹴られようと君との事に口を挟まない訳にはいかないんだ」
 俺の苦労も察してくれよとの嘆きを口に乗せながら、片手をあげ、湊は僕の胸に指を突き刺した。
「君の鍵は渡してもらうよ」
 シャツの上から的確に、今はもう役にはたたない、お守りでしかない鍵をつく。筑波直純から貰った鍵を僕が捨てずにこうして持ち続けている、こんな事まで知っているのかと僕は目を丸めた。
「あいつと別れたくなければ俺に従うんだ、いいな。たとえ理不尽な事でもだ」
 覚悟をきめておけ。
 そう言って湊は僕の頬を、パシパシと軽い音が上がるくらいに二度打った。それでも、僕の思考は纏まらず、ただ目の前の男を見る。
 本気だと、黒い瞳が語りかけてくる。冗談でもからかっている訳でもなく、僕を本気で取り込む気なのだとわかり、頭を殴られたような衝撃が体を貫いた。
 二人が言うように、自分が筑波直純の鍵になっているかどうかはわからないが、足枷になっているのは間違いないのだろう。
「今日のところはこれだけだ。帰ってよく考えろ。じゃあな」
 退出を促し重厚なドアを指差すと、湊は執務机へと戻り、先程放った書類を眺め始めた。こちらを伺うように見る名執と目はあったが反応は返さず、僕はそのまま踵を返し部屋を出た。
 よく考えろ、だなんて、僕に考える余地などない。出来ない事は何を言われようとも出来ないし、筑波直純から離れる気もない。湊の考えもわからなくはないが、協力する筋合いはない。
 僕自身、彼を想っているのだ。態々不利益になるような事をするつもりはない。想いだけでは駄目だと湊は鼻で笑うだろうが、僕は僕以上のものを与える気はないし、与えられもしない。
 嘘はつけない。つくとしても、自分のものでなければ絶対に駄目だ。誰かにつかされる嘘で、あの男を騙したくはない。たとえそのせいで別離が訪れようとも、だ。傷つけようとも、逆に軽蔑されようとも、僕は僕のまま彼に向き合っていたい。
 そう自分の心を確認する僕は、けれども突然の呼び掛けに一瞬で頭の中を真っ白にした。
「保志…?」
 顔を上げると、廊下に筑波直純がいた。部屋の入口で歩みを止めてしまった僕に、足早に近付いて来る。
「何故、」
 ここに居る?
 続く言葉はそれだったのだろう。だが男は口を噤み、顔を顰めた。
「…俺の用は、すぐに終わる。そこで待っていてくれ」
 筑波直純はどうして僕がここに居るのか、その理由に気付いたのだろう。チラリと部屋の奥へと視線をはしらせ眉を寄せながら、淡々と僕にエレベーターホールの長椅子を示す。まるでそうしなければ暴言を吐いてしまうのだと言うように、唇を歪める。
 男のその表情に、僕は心の底から、軽い気持ちでノコノコ岡山に付いて来た自分に愛想をつかした。僕とて決して望んだ接触ではなかったが、面白くない思いはこの男の方が強いのだろう。仕えているのだから、僕には分からない魅力を湊に感じているのだろうが、彼の横暴さにも覚えはあるはずだ。
「一人で帰るなよ、保志」
 一緒に帰ろう。これで今日の仕事は終わりだから。
 色々思うところはあるのだろうに、筑波直純は静かにそう告げると、僕が出て来たばかりの部屋へと足を向ける。大きなドアに背中が吸い込まれるのを眺め、僕は大人しく男の言葉に従った。

  +++

 二本目の煙草に火を点けた時なので、十分程しか経っていないのだろう。言葉通り直ぐに戻って来た筑波直純と一緒に一階までエレベーターに乗り、来た時のように店を通ることはせず、さらに階段を降り地下駐車場へと出た。入る時に何故岡山は態々店内を通り抜けたのか。その理由を考えながら男に付いて歩いていくと、一台の車が直ぐに近付いて来た。
 気難しい顔で一言も喋らない筑波直純と、疲れた僕。男に続き乗り込んだ車内には岡山がおり、不機嫌な上司を送らねばならない運転席に座る彼を憐れに思うが、僕には気を回してやるだけの気力はなかった。
「保志、俺…」
 マンションに着き車から降りると、岡山が声を掛けて来た。振り返り彼の顔を見、僕は漸く気付く。
「…悪かった」
 謝罪を口にする岡山の顔には、僕が思ってもみなかったほどに彼が今夜の事を気に病んでいる心情が浮かんでいた。何故そんなにも岡山が気にかけるのかわからないが、僕は確かに胸中では悪態を吐きはするが落ち込んでる奴を更に苛めるアクマでもなく、気にする事はないと首を振ろうとしたその時。
「お前は悪くはない」
 僕を遮るように前に立った男が、岡山に言った。だが、落とされた言葉は僕が伝えようとしたものと同じでも、声音は全く逆のものだった。
「上の命令をきいただけだろう」
「ですが…それは俺の立場であって、保志には関係ないでしょう。だから…」
「それはお前には必要ない考えだ。違うか?」
「……」
「命令は絶対だ、そしてそこに己の感情を挟んではならない。そんな事も忘れたか、岡山。若の命で動いたのであれば、最後までそれに徹しろ。器用に割り切れるのならともかく、迷いになるものは捨てろよ。中途半端な罪悪感など邪魔なだけだ。自分のそれを軽くする為に、安易な謝罪を口にするなど以ての外だ」
「筑波さん…!」
 やけに饒舌な男に何を思ったのか、岡山が遮るように名前を呼んだ。だが続ける言葉が見つけられないのか、戦慄く口からは何の音も零れず、一呼吸の間を置き再び筑波直純が語りだす。
「上に間違った事を命じられても実行するのが、お前の立場だ。出来ないと断りたいのなら、間違っていると注意したいのなら、最低でも俺のところまで上がって来てからにしろ。だがな、それでも、やれと言われたらやるんだよ、どんな命令だろうと。お前はそれを馬鹿だと思うか?思うよな、俺だって思っている。だがそれでも、命令には従う。何故かなんて考えない、自分がここに居るからだ。その理由だけで十分だ、違うか?己の感情など必要ないだろう?」
 疑問形の言葉は、けれども、それこそ命令のようでしかなかった。男らしからぬ物言いに驚く僕と違い、岡山は耐えるように唇を噛み締め俯く。突き放すような言い方に、まるで自身の全てを否定されたかのように、青年はその痛みに耐える。
「行くぞ、保志」
 筑波直純は僕に声を掛けると同時に踵を返し、エレベーターへと足を向けた。冷たいようでいて何も語らない背中を追いかけようとし、僕は振り返る。そこには、捨てられた子犬のような岡山がいた。
 何故、筑波直純はあんな言い方をしたのか。自分を慕う岡山をとても気にかけていたのに、何故?
 僕が見ている事に気付いた岡山は、直ぐに車へと乗り込みマンションを後にした。走り去って行くエンジン音が、耳に、心に響く。
 岡山にあたる程、今夜の事は筑波直純にとっては面白くなかったのだろう。ならば、怒られるべきは彼よりも僕の方ではないのか。
 そう。僕の軽はずみな行動に、男は怒っているのかもしれない。
「来てくれ、保志」
 思い付いたそれは部屋に辿り着くまでに確信に変わっており、呼ばれるままにソファに座る男の前に立った時には、僕は問い掛けていた。怒っているのかと。ならば、はっきりそう言ってくれと。
「怒っているわけないだろう。岡山の事も考えがあってのものだ。さっきのは今夜の事をそれに利用したにすぎないから、お前には関係ない。気にしないでくれ」
 立ったままの僕を見上げ語りながら、男は両腕を伸ばしてくる。腰を抱き締められ、反射的に腹の前に来た頭を抱えた。そのまま体を丸め髪に唇を落とすと、抱き上げらるようにソファに膝をつかされる。男の脚を跨ぐ格好で向き合うと、視線を逸らすように頬を重ねてきた。
「それよりも…、済まなかった」
 重なる頬から、背中にまわした手から、男の震えが伝わってくる。痺れるような感覚に、僕は思わず体を離した。
 だが、間近で重なった視線に、今度は僕が耐え切れず俯く。
「保志」
 青灰色の瞳は、怯え泣いているかのように、戸惑い揺れていた。
「俺はお前を、俺のいる世界に入れたいわけじゃない。だが、遠ざけるだけの力は、俺には無い」
 苦しげに呟く声に、じんわりと血の気が引く思いがした。実際に指先が冷たく固まってしまったような気がして、両手をきつく握り締める。
「湊さんが何を言ったのか知らないが、全て俺のせいだ。岡山が悪いわけでも、あの人が悪いわけでも、お前が悪いわけでもない。俺に力がないだけだ。力がないくせに欲だけは強い、俺の未熟さが招いた事だ」
 済まないと、僅かに瞼を伏せながら、筑波直純は真摯に謝罪を口にする。僕は堪らずに、顔を歪めてしまった。
 そんな事は、岡山に言ったように気にしなくていいのだ。僕は自分で選んでここに居る。それは男の住む世界をわかっていてのものなのだから、責任は僕にある。ヤクザな世界に関わりたくないのなら、自分が対処するべきであり、何もせず筑波直純に守られるような無力な子供ではないのだ。僕は彼と同じ大人の男であり、人並みに欲もあれば狡さも持っている。守られるものではなく、守る側にまわれもするのをこの男は忘れているのか。
 自分の身は自分で守る。もしそれをしくじったとしても、それは自身の責任であり、あなたを責める事はない。絶対に。
 筆記具をとりに立つことはせず、身振り手振りを混ぜながらその思いを伝えると、短い沈黙後、筑波直純は深い息を落とした。
「お前は、甘い。難題を突き付け困らせてくる時もあるが、総じてお前は俺に甘いよ保志。そう甘やかされていると、俺は調子に乗っていつかとんでもない仕打ちをお前にしてしまいそうだ」
 それが怖くて堪らない。
 顔を近付け僕の唇の上で弱音を吐いた男は、それを再び飲み込むかのように口付けて来た。僕は直ぐに口を開き、少しでも相手の苦しみを吸い取ろうと貪りつく。
 ゆっくりと首筋を這う男の唇に、僕は焦れた。静かに交わろうとする筑波直純とは違い、僕は逆に焦燥感に襲われ強さを欲する。
 湊の声が耳奥に蘇り、頭を駆け巡った。鍵だと言ったその言葉の真意を、僕はまだ十分には理解出来ていないが、漠然とした恐怖を感じる。それは、鍵を持つ恐怖ではない。まして、湊に都合よく利用されるかもしれない不安でもない。僕が恐れるのは、ひとつだけだ。
「…保志」
 掠れた声で男は僕の名を呼ぶ。裸の胸に唇をつけ、外側からも胸を震えさせてくる。狂おしい甘い痺れが、理性を奪う。
 自分を迷わせる僕という材料を、この男はいつまで持ち続けるのだろう。湊は僕が筑波直純をただの男に変えるといったが、そんな事は本人もとっくに気付いているのではないだろうか。ならば。
 ならば、自分が選んだ道を貫く為に、胸の箱が開かないよう自ら鍵を捨ててしまうのではないだろうか、この男は。
 また、いつか。
 いつの日かこの男は、あの時のように僕を遠ざけるのではないか?
 馬鹿な考えだと思いながらも、冷静さを欠いた今の僕にそれは捨てられなかった。すぐそこまで近付いているのかもしれないそんな未来に、僕は怯え男を求める。
 こんな情けない僕を、恋人は知りはしないのだろう。
 部屋の明かりをうけ鈍く光る胸の鍵に、筑波直純は口付けを落とした。
 無意識に、喉が鳴る。震えそうになる奥歯をきつく噛み締める。
 それはまるで別れのキスのように、僕の胸には切なさが込み上げてくるものだった。


END
2005/03/15〜2005/04/15