□ キミが笑えば

 約束の時間から十分後、『少し遅れる』とのメールが届く。
 もう既に遅れているのだから、この文はおかしいだろう。一体、あの男の「少し」は何分なのか。オレとしては、約束の時間を過ぎた後の十分は少しではないと考え、現在進行形の遅刻をまずは謝るべきだと思う。だが、それでも相手も好き好んで待たせている訳ではないだろうと、遅れている理由は仕事であるのだろうから仕方がないと妥協し、突っ込みは心の中だけにしておく。

 先のメールから三十分後、『まだ掛かりそうだ、悪い』と、またもや微妙な連絡が届く。
 だから何がどうなのか、全然わからない。このまま待ち続けて欲しいのか、それとも帰ってもいいのか。己の状況を端的に述べての短すぎる謝罪は、何とも曖昧だ。訊き返す気分すらなくなる。

 二度目の連絡から、二十分が過ぎた。約束の時間からだと、丁度一時間。男からの連絡はない。ならば、この後の展開は決まっている。彼の部下が向かえに来て、オレは自宅へと送られるのだ。
 本人が来るのであれば、今から向かうとの連絡くらい入るだろう。会社へ招待されるのなら、迎えをやるのメールだ。つまり、何もない場合は、答えはそのひとつしかない。なんて馬鹿らしいのか。

 案の定、程無く通りにそれらしき車が現れた。助手席から降りたゴツい男が、似合わない洒落たカフェに入っていく。直ぐに店から出て来た男は、携帯を耳に当てながら車に戻った。
 店内に目当ての人物は居らず、居た形跡もない事を上司に伝えているのだろう。ご苦労な事だ。

 車が去って五分もしないうちに、電話が掛かってきた。
 約束を違え待たせるのは短い文面のメールであるのに、こちらが約束場所に居ないと知った時は、電話かよ。何ともわかり易い男だ。反吐が出る。
『どこだ?』
「店」
『約束した店には居なかったようだが?』
「それが何?オレはアンタを待っているんだ。アンタの部下に用はないよ」
『オイ』
「何故アンタが怒るんだ。怒るのは、待たされているオレだろう」
『どこに居る?』
「向かいのマックの二階。でも、もう出るよ。待つのはここまで。終了。来ないのなら、待つ意味がないからな」
「……行くさ」
「勝手に来れば。でも、オレはもう待てないから。今夜は中止、延期はなし。じゃあな」
 オレに会いたければ、また一から約束を取り付けろと通話口に吹き込み、携帯の電源を落とす。
 店を出て、向かうは自宅とは逆の方向にある映画館。ホテルのディナーがハンバーガーに変わったのは別にイイが、濃密な夜がなくなったのは面白くない。
 気分転換が必要だ。且つ、逃亡先は選ばねばならない。映画館は妥当なところだろう。

 だが、しかし。

「ナナミ」
「……」
 レイトショーが終わった23時40分。人気の少ないロビーの長椅子に悠然と座る男の姿に、自然と眉が寄る。
「…何してるの」
「冷たい事を言わないでくれよ」
「言わせるのは、誰?」
「済まない」
 口先ばかりの謝罪を述べながら、男が立ち上がる。その姿は、確かにオレが数時間前に欲していたものだ。だが、今は違う。もう、要らない。纏う空気が余裕綽々であるのが、とてつもなく気に食わなかった。
「…オレが許すと思う?」
「思う。だから、ここに居るんだ、俺は」
「……」
「向かえに来た、行こう」
「…勝手に何処へでもいけばいい。オレは帰る」
「強情だな」
「尻の軽い奴が好みなら、二丁目へでも行きな」
 肩を竦める男に背中を向け、エスカレーターを歩いて降りる。
 社長だかなんだか知らないが、地位や名誉があるからと言って、それがない者をバカにして良いとは限らない。少なくとも、フリーターでも意地を持っているオレをナメるなよ、だ。
 どうしても今夜会いたいと言うから、無理してバイトを休んだのに。上司や同僚のイヤミを甘んじて受けたオレを、一体なんだと思っているのか。腹立たしい。
 会いたい時間ではなく、会える時間に約束をしろ…!
「ナナミ」
 上からの呼び掛けに顔を向けると、手摺に凭れた男が俺を見下ろしていた。吹き抜けの一階と二階。五メートル程の差など存在しないかのように、声を大きくする事もなく、男は言葉を紡ぐ。
「あと十一分あるぞ」
「……」
「俺に祝わせないつもりか?」
「…自業自得じゃん」
「そうだな。だが、お前はそれで良いのか?」
「……」
「あと、十分だ」
「……そこで言ってよ」
「俺は恥ずかしがり屋なんだ。人前でそれは出来ない、悪いな」
 どの口がそんな事を言うんだか…、アホだ。
「…じゃ、もういいよ」
「意地っ張り」
「……」
 だからそれは誰のせいだよと男を睨み上げ、オレはそれ以上取り合わずに出口へと向かった。
 自動ドアから外へと出ると、深夜の冷気に晒される。すぐそこには、見覚えのある高級車。黒塗りフォードから降りた運転手が、オレの行く手を塞ぐように歩道に立った。
「奈波さん、お帰りですか?」
「……そうだよ、悪い?」
「いいえ。しかし、残念です。本日中に貴方にお会いする為、韓国から蜻蛉返りする真下に同行し、先程漸くこの地に帰ってきた身としては、この結果では何だか苦労が報われない気がします」
「…あっそう」
 勝手に嘆いていればと返しつつも、俺の鼓動が高まる。
 仕事だろうと思いはしたが、まさか出張とは。それも韓国? 全然聞いていない…。
「貴方と真下の間の話であって、私が口を挟む事ではないのでしょうが。それでも一言宜しいでしょうか?」
「…ナニ」
「奈波さん。真下は貴方が思う以上に、貴方中心に生きています。そんな彼はもう、リサイクルは不可能です。捨てる時は、きちんと潰してゴミ箱にお願いします」
「…………何それ」
「中途半端に放棄されては困ります。後始末は、手にした者の義務ですよ」
「……」
 …つまりは、その責任をとれと言う事か?  ……馬鹿馬鹿しい。
「どうぞ」
 慇懃に、後部座席のドアを開け乗車を促す男を眺め、嫌いなタイプだと改めて思う。
 心底から嫌だなと、絶対に乗らないぞと思い考え、その決断を行動に変えようとした時――。
「ナナミ」
 耳への囁きと同時に、後ろから伸びてきた腕に抱き締められた。
「……」
 視線の先で、嫌な男が微かに笑う。妙な忠告ではなく、オレの足止めが最大の目的だったのか。謝るかのように軽く頭を下げた男は、ドアをそのままに運転席に戻った。
 やられたと思っても、後の祭りだ。
「俺にはツレないのに、矢木とは何のお喋りだ?」
「…韓国土産は?」
「……それより、こっちが先だろう」
 前に回っていた手が一度消え、小さな箱を持って戻って来た。まさかな展開の予感に、思わずそれを睨み付ける。漫画なら、オレのこの眼力で、箱は木っ端微塵に砕けているだろう。
 背後の男は、そんなオレの表情など知るよしもなく。あくまでも、自分が用意したシチュエーションに適した声を落とした。
「ハッピーバースデー、ナナミ」
 囁きと同時にパカッと開けられたそこには、予想通りのシンプルなリング。
 ……ベタだ、ベタ。ベタ過ぎる。
「ベタベタじゃん…」
「ナナミは俺とベタベタしたいのか?そうかそうか、よしっ」
「…よしじゃねぇ、違う」
「ああ?だったら、ベターってか?」
「死ね」
「それは、ムリ。俺にはまだ、お前を愛する使命があるから…なんて」
「…………」
 …何が悲しくて。
 薬指に指輪をはめられながら、こんな馬鹿会話をせねばならないのか。…クソッ。
「気にいらないか?」
「……」
 己の手を見下ろすオレに、男はこめかみにキスをしながら問い掛けてくる。
 気にいらないのは、この状況と自分の心だ。指輪自体ではない。
「…アリガト」
「もっと嬉しそうに言ってくれよ」
「それは、ムリ…」
 これが、限界。
 先の相手の発言を真似てそう言うと、男は全てを知っているかのような笑いを落とした。


END
2006/02/11〜2006/02/15