赤く染まった掌は、あの時の小さな紅い葉を思い出させた。
季節を先取りしたかのように、まだ青々と茂る木々の中から、ひらりと舞い降りてきた紅い葉。
勘違いしてしまったかのようなその姿が可笑しく、目が醒めるような真っ赤な色が愛しく、靴先に落ちたそれを手にしたのは、離れた故郷の秋をそこに見たからなのだろう。
この土地も、あと半月もすれば紅葉の時季になり、赤や黄色に染まるのだと知ってはいたが、広大なその光景よりも手の中の小さな葉に、僕の心は惹かれた。
手の中の、たった一枚の、小さな葉に。
――魔法でもかけたのか?
紅く染まった葉を眺める僕に、真面目な顔で問い掛けてくる男がいた。
彼と話したのは、それが初めてだったのだが…。
僕はあの時、その質問に何と答えたのだろうか。
そう遠い昔の事ではないのに、いつの間にか忘れてしまっている。
今はもうそれを思い出せない僕を、君は笑うのだろうか――。
ぼやける視界で見た自分の手は、小刻みに震えていた。紅葉とたとえるには骨ぼったく、風情も何もないただの汚れた手だ。だがそれでも、その手を捕らえてくる者がいる。確りと、悪戯な風に飛ばされないように強く握り締めてくる。
まるで、綺麗な落ち葉を集め、その中の特別な一葉を大事に手の中にしまった子供のような、そんな真っ直ぐさが僕の手に伝わる。そう強く握っては、脆い葉だと粉々に崩れてしまうだろうに、壊れるという考えは浮かばないその純粋さが、僕の心に落ちてくる。
痛みを放棄するために、全ての感覚を遮ったのだろうこの体に、温もりが流れてくる。
音にはならない笑いを落とし、僕は辛うじて開いていた目を閉じた。瞼の裏に、愛しい者の手の中に消えた紅い葉が蘇る。
…ああ、そうだ。
あの時も、僕は確か、不思議そうに見る紅い葉を彼に差し出したのだ。故郷の優しさを思い出させた葉を、躊躇いもせずに初めて言葉を交わした男にやったのだ――。
「――カズヤ…!」
耳に飛び込んできた悲痛な叫び声と同時に、僕の体を激痛が襲った。もう、どこが痛いのかすらわからない。ただ、千切れるような、燃えるようなその全身を襲う苦痛に、僕は歯を食いしばる。拷問の訓練など、役には立たない苦しみが僕を飲み込む。
だが、くたばるわけにはいかないと、酸素が不足した頭で、目を開けろと僕は自分を叱責する。このまま意識を手放せば、どうなるのかわからない訳ではないだろうと自らを詰る。
「カズヤッ!」
身体を貫くような声があがり、一瞬、全てを忘れた。だが、直ぐにその源を思い出す。
酷く擦れてはいたが、訊き間違えるわけがない。
聴覚だけを蘇らせる芸当は出来なかった自分の軟弱さを呪うよりも、その声が聞けるのならばこの激痛も耐えてやろうではないかと、僕をやる気にさせる声が体に響く。そう、どう抗おうとも、この痛みに僕の体は長くはもたないだろう。だが、それが変えられないのなら、せめてその間は、痛みよりも別のものと向きあいたい。
望むものが傍にいるのだ。それをしないで、一体何をするというのか。
もう後はないんだと、最後の意地を振り絞り開けた目で、僕は愛しい者の姿を捉える。握られた手は、その感覚を僕に伝えはしないが、それでも温もりを胸に湧き上がらせた。
僕の手を握っている男のそれは、全ての指が揃い、その全部に力が込められている。僕を見下ろすその顔は、土で汚れてはいるが傷はない。血の気は引いているが、彼自身が大きな怪我をしている訳ではない事を悟り、僕は震える喉で安堵の息を溢した。
「カズヤ…」
先程から、馬鹿みたいに僕の名を呼び続ける男に目を細め、視線を少しそらす。
愛しい男の向こうには、抜けるように高いスカイブルーの空があった。鮮やかなその色が目に染み入る。照りつける太陽は見えずとも、熱気を充分に含んだ風が、その強さを教える。
一年を通して夏のような気候であるこの国にすっかりと慣れてしまい忘れていたが、僕の国も、この男の国も、今頃は真っ赤に染まっているのだろう。
何もない、本当に田舎としか言えない街だが、深まる秋は何処にも負けないくらいに絶品なんだと、僕は男に故郷を教えた事があっただろうか。
もう一度見たいよ、あの秋を。
君に見せたいよ。僕の生まれ育った、あの景色を。
任務だ何だと互いに忙しく、結局一緒に眺められたのは、夏の終わりに季節を間違えて染まった、あの小さな一枚の葉だけだった。もっと、一緒に見たかったのに。ついていない。
本当に、ついていない。
「カズヤ! お前は、俺を放って逝くのか!? こんなところで、死ぬつもりか!?」
何をグズグズしているんだ。さっさと陣地に戻れ。それだけを考えろ。
そう言わなければならないのだろうが、僕にはもうそんな事も出来そうになく、ただ、狭くなっていく視界で悲愴な男の顔を捕らえる。その向こうには、青い空。
空が高いと、この地に足をおろした時、君は開口一番そう言っていた。確かに、青い空も悪くはない。だが、今は、故郷のあの景色を見たいのだ、僕は。
わかってくれないかと、その思いを視線に込める。
けれど。
直ぐに僕は、仕方がないなと諦める。この男には勝てないらしいと、何度も感じたそれをまた思い知る。
これだから、僕は甘いといつもからかわれるのだ。
汗か涙かわからない雫が、男の頬を伝い僕に落ちる。触れたいと、それを拭ってやりたいと願う心が体を動かしたのか、気付けば握られていた筈の手を、僕は愛しい者へと伸ばしていた。
君を放って、行くわけがないだろう。次は二人で見ると決めたんだ。君が傍にいなければ、あの景色を見る意味がない。君の国でも、僕の国でも、何処でもいい。ここじゃない僕達の場所に帰るんだ、絶対に。それまで、死ねるわけがないだろう。
なあ、そうだろう?
僕は上手く笑いを浮かべる事が出来たのか、愛しい男の目が優しく細められる。伸ばした僕の手に、指先で触れてくる。愛していると、唇が囁く。
温かい手が、再び僕の手を包んだ。
そして。
薄れゆく意識の中、僕は愛する男の頬に、それを見る。
どうしても見たかった、深い色をした紅葉を。
自らの汚れた手で描いたそれは、けれども何よりも美しい、愛しいものだった。
END
2003/11/07