□ 呼吸

 何が間違っていたのか。今も、良くわからない。
 彼は、正しかったと、君は間違っていないと言っていたが、本当にそうなのか。この結果を前にしては、自信など生まれるはずなどなくて。
 暗い空を見上げ、吹き付ける寒風に顔を晒し、目を閉じる。
 大丈夫だからと俺を遠ざけた彼の笑顔が浮かぶけれど、なんの慰めにもならなくて。
 遣る瀬無さが込み上げる。どうにも出来ない悲しみと苦しみの中に、凶暴さが生まれる。
 今の全てを大事にしたいのに、ひと思いに壊してしまいたくもなる衝動を抑えつけるよう、コートの上から胸を押さえる。皺になるほど、そこを強く握りしめる。
 別れを切り出したのは彼だった。確かに忙しかったけれど、それでも充分に時間を割き、二人で話し合っての選択だった。
 それでも、離れた彼が気になり、共通の友人から様子を窺ったのは最初の一ヶ月程だっただろうか。その時の友の答えはいつも、何の問題もないと言った無難なもので。俺ももう次へ進まなければなと口にしつつも、吹っ切れているという彼に寂しさを覚えてもいた。
 友のそれが、真実ではなく希望だったと。そうなるように期待を込めての強がりだったと知ったのは、それから半年以上経ってからだ。
『お前にとっちゃぁ今更なのかもしれないけれど、頼むよ。あいつに会ってくれ。じゃやないと、あいつもうダメかもしれない』
 問題ないと言った言葉が嘘だとわかった時の、足下から這い上がってくる恐怖と、身体が引きちぎられるような後悔は今も時々夢に見る程だ。
 俺と別れてから生きる事が下手になった彼を励まし続けた友人を、何故言ってくれなかったと詰るにはあまりにも自分は愚かで。何が、もうダメなのかなんて、それ以上の告白を強いる事すら出来なくて。ただわかったと頷き、近いうちに会う段取りをつけ友が帰ってからも、俺はまだ自体を飲み込めずに不安だけに捕らわれていた。
 そうして。思わぬかたちで訪れた再会。
 久し振りと、小さく笑った彼から目を逸らさなかったのは、今にして思えば奇跡なのかもしれない。
 ああ、そうだなと答える声が震えなかったのも、そう。神が与えた、俺への褒美なのかもしれない。
 人はこんなにも変わるのか。目の前にある現実が、彼のその姿が、俺には信じられなかった。
 だが。それでも、それが事実で。
『もうずっと、長い間会っていない気がしていたけど、まだあれから一年も経っていないんだな』
『そうだね。ずっと一緒に居たわけでもないのに、おかしいね』
 眼を瞑ってしまえば、変わりのないその声に縋り付いてしまいそうで。俺は意地になったように、窶れた彼を見続けた。
 そんな必死な俺とは違い、彼の眼は何処までも穏やかだった。
『…痩せたな』
『ああ、うん。少しね』
『……どうして』
『どうもしないよ』
『……そんなわけ、ないだろう』
『本当だよ。ただ、こうなってしまっただけなんだ』
『…俺のせいかだな』
『違う』
『だけど…』
『違うよ、君のせいじゃない。もしも、自分がこんな風になってしまうとわかっていても、僕は君と別れた。僕達は嫌いになって別れた訳じゃないから、気にするなと言っても気になるのかもしれないけど。もしかしたら、今更で後味が悪いのかもしれないけど』
『そうじゃない。俺は、お前が心配なだけだ…』
『うん。でも、大丈夫だから』
 そう言って、何を言っても彼ははぐらかせるばかりで取り合う事をしなかった。
『俺に何か出来る事はないか…?』
 その言葉にも、有るとも無いとも言わず、根拠のない言葉を紡いだ。
『大丈夫。もう、平気だから』
 もう平気。それは回復なんかではなく、何かを悟ったような色が付いた言葉で、そこに諦めしか感じられない俺には到底納得出来るものではなかったけれど。
 そうかとの答え以外を、彼は望んでいなかった。本当に今更だ。俺が出来る事などないのだと、頭を殴られたような目眩を覚えながらも、それでも悪足掻きをするように。頷きながらも、何かあった時は言えよと強いる。それくらいしかもう出来なくて。
 強引に彼を捉える術は、俺にはなかった。頼むしか、方法がなかった。
 ゆっくりと、着実に衰えていくその感触に怯える俺を、受け入れた彼は許していたのだろう。
 だが、その許しは、諦めだったのかもしれない。
 日に日に弱る彼を止める事も出来ずに、踏み出すその一歩を眺めるだけの関係。彼が、それを苦く思わなかったわけがない。手を拱いている俺以上に歯痒かっただろう。
 恋人に戻ったわけでも、友へと形を変えたわけでもなかったが。
 都合が合えば、一緒に過ごした。時には、ベッドを共にした。
 曖昧な、不確かな関係はきっと、彼にも負担を与えたはずだ。
 それでも一緒に居たのは、友への配慮か、俺への施しか。
『臭い事を言うけどさ。アイツにとってお前は空気みたいなものだったんだろうな。離れて上手く息が吸えなくなったんだよ』
『そんなんじゃないさ。そうであったら、あの時すぐに戻ってきてくれただろう?』
『いや、だからこそだろう。酸素ボンベか何か知らないけど、アイツは海とか宇宙とか、そんな中で生活していたんだ。だけど、いきなりそんな環境が変わって上手くいくはずがなくて。疲れ果てているのに、それでもここへは戻ってこなくてさ。アホだよな、ホント』
『俺は、アイツを全然わかってなかったのかな。俺はアイツが、そんなところで独りで居れるヤツだなんて、今なお信じられない』
『あいつ、我が強かったからな。負けん気も強かった』
『ああ。でも、寂しがり屋だった』
『そうだな。性格を裏切って、結構泣き虫だったしな』
『性格かぁ。こんな事を言ったら、本人は怒りそうだけど。子供、だよなアレは』
『確かに。ヘンなところでガキ臭かったな』
『ああ。だけど、自分に甘い訳じゃない。寧ろ、潔いくらいに冷めている部分があったよ』
『そう。だから、さ』
 今ここにアイツは居ないんだと、まっすぐ言葉を紡ぐ友から視線を逸らし、俺は短い頷きを返す。
 ホント不器用だよなと笑う声に、同意を示す。 
 さびしくて、さびしくて。
 会いたいと思う欲求すら浮かび上がらない程、さびしくて。
 この世界での生き方を少しずつ忘れていって。
 気付けばもう、全てが手遅れで。
 そこへ陥った自分を詰る事も呆れる事もなく、仕方がないのだと許していて。
 だから、その修復はもう気づいた時には不可能だったのだろうけど。
 それでも、俺は彼に生きていて欲しかった。
 その為ならば、俺は、彼が望むもの全てを与える努力は惜しまなかったというのに。
 けれど、彼は。俺にも、自分にも、この世にも、何も望みはしなかった。
 あいつが戻ればお前は元気になるのかと友に問われても、首を横に振るばかりで。一度も俺を呼びはしなかったらしい。
 友が居なければ、果たせなかった再会。与えられなかった、接触。持てなかった時間。

 本当に君のせいだと思った事はなかったのだけど、恨む気持ちもなかったのかと問われればウンとは言えない。
 けれど、別れて以来初めて顔を合わせた時に悟ったよ。自分がこうなってしまった事に君は関係ないと。
 確かにきっかけはそうだったのかもしれないけど、別れ自体は僕が望んだ事だ。今があの時であっても、同じ選択をするだろう。あの時に、後悔はない。
 結局は、僕がそれまでの人物だったと言う事で。こんな僕に付き合わせた君のことは申し訳なく思う。今になって関わらせた事には、謝罪しか浮かばない。
 それでも。僕はこれがなるべくしてなった結果だと受け入れる覚悟はあるから。
 ありがとう。
 そう言わせて欲しいんだ。君には、謝りたくはないんだ。

『楽しかったよ、ありがとう』
 どんなに言葉を並べられても、その引き金を引いたのは自分であるのだろう事は変えようもなくて。彼が連ねるそれに納得など出来ないけれど。理解さえも持てないけれど。
 それでも、最期に貰ったそれは、俺の中にもあるもので。
 ありがとう、俺も幸せだったと。悴む唇に何度もその言葉を乗せる。
 けれど。俺もまた、彼を失った痛みを、さびしさを、苦しさを抱えて生きていかねばならないのが現実で。時にはこの言葉を忘れて、恨みを吐きそうでもある。
 だけど。
 それが、生きると言う事だろう?
 俺は、生きる。友もまた、生きるだろう。
 彼が居なくても、俺達は生きていく。

 たとえ、呼吸の仕方を忘れたとしても。


END
2007/10/10