□ love affair

「メリー・クリスマス」
 男の言葉に軽く喉を鳴らし、リヒトも同じ言葉を言い、グラスを合わせた。カチンと清んだ音が部屋に響く。
 細いシャンパングラスの中で、一筋の気泡がたっている。グラスを軽く傾けそれを楽しみ、そして口をつけ一口飲みこむ。
「美味しい」
「それは、良かった」
 隣で微笑む男に再び喉を鳴らす。
 何もクリスマスまで自分のようなものを相手にしなくともいいのに。
 そうリヒトが呆れると、「クリスマスだからね、君と居たいんだ」と男は笑った。
 いつもの事と言えばそうなのだが、それでも単純にこの聖なる夜を一緒に過ごす者がいるという事が嬉しい。
 一人の夜は、寂しいから…。
 リヒトはグラスを手にしたまま、隣に座る男に体重を預けた。
 いつもと違う自分のそんな甘えるような仕草に、男は軽く喉を鳴らす。だが、何も言わず、嫌がることなく直ぐに肩に腕を回してくれる。男の温かい体が心地良く、けれども、今夜はその慣れているはずの温もりが少しこそばゆい。恥ずかしい。
 リヒトは目を閉じ、ひとつ息を吐いた。
 穏やかな時間が、部屋に落ちている。体から力が抜けるのを味わい、ゆっくりと閉ざした目を開ける。
 都会の夜。
 窓の向こうには、暗闇の中で無数の光が輝いていた。数え切れないその光同様、沢山の人間がそこにいる。自分もその一つにしか過ぎない。
 けれども…。
 けれども、ここに今こうしていることが、とても不思議で、この上なく不安でもあり嬉しくもある。
 普段は意識しない、他人の命。
 自分のことばかりで他の人間を気遣う余裕はないというのに、今夜は何故かリヒトはその生命を意識した。
 今気分がいいから余裕が出来ただとか、こうして高みから見下ろす傲慢さだとかそういうものではなく、ただ、この夜が少し特別なのだ。
 溢れる光の洪水は綺麗ではあるがあまり好きではない。クリスマスを祝うよりも、この時期は他の事に心を捕らわれており、あまりその余裕がない。
 それでもこんな気分になるのは、どこかで未だ無垢な子供のように何かを願っているからなのかもしれない…。
 ぼんやりと窓の外を眺めるリヒトの視界に、男の手の影が入ってくる。
 少し冷たい手の甲で頬を撫でられ、自分の体が火照っていることに気付く。先程まで寒い外に居たせいか、酒のせいか、それとも、このおかしな感情のせいなのか…。
「…なに?」
 頬を撫で続ける男の手を軽く押さえ、斜め上に視線を向ける。
「いや、なんでもないよ」
 微笑む男に、「変なの」と言うと、「君もね」と喉を鳴らす。
「ま、クリスマスだから、ね」
 信者じゃなくても、厳かな気分になるよ。
 男はそう言い笑った。だが、言葉とは違い、神に叛く行為を今夜も男は選んだのだ…。
「…日本人は、影響されやすいんだって」
「あはは、単純だっていうことかな?」
「あなただけじゃない、俺もそう。
 なあ、何でクリスマスツリーにモミの木が使われるのか、知ってる?」
 ふと思いついた考えを躊躇うことなく口に乗せる。そんなリヒトを男は笑う事はせず、暫し考え首を傾げた。
「…さあ? 理由があるのかい?」
「寒い冬でも緑の葉を豊かに茂らせているから。それが、命や希望の象徴なんだってさ。
 昔からゲルマン人がモミの木を神が宿るものとして崇めていたのが広まったらしい」
「へえ、よく知っているね。
 じゃあ、日本のように枯れた木とかにライトアップするのは、おかしいのかな?」
「さあ? そもそも日本じゃイベントだから、いいんじゃないの。
 もしかしたら、派手なイルミネーションもクリスマスキャンドル代わりなのかもしれないし。いや、太陽とかと関係がありそう、かな」
 俺にはわからないや、とグラスを傾けながらリヒトは肩を竦めた。
「なら、サンタクロースは何だろうね。何故子供に贈り物をするのかな」
「サンタ?」
「そう。あれもキリスト教のものだろう?」
「さあ。俺はサンタに縁はないから、全くわからない」
「僕は8歳になるまで信じていたよ、サンタクロースを。父親がプレゼントを枕元に置きに来たのを目撃してね。あの年のイブの夜は泣きながら眠ったよ」
「可愛いね」
 自分よりもひとまわり以上年上の男にむかい、リヒトはニヤリと笑った。
「そりゃ、あの頃はね」
「俺は、サンタ自体知らなかった。周りが騒いでいるのも、「何それ?」って思っていた。
 だから、教えてもらった時も信じることが出来るほど幼くもなくてさ。ホント、冷めた餓鬼だったよ」
「想像がつくね」
「酷いな」
 男の言葉に肩を揺らせて笑う。
 幼い頃、クリスマスがどんなイベントなのかすら知らなかったので、一人で過ごす夜もサンタが来ない事も、全く疑問に思っていなかった。大きくなってからも、騒ぐ周りからはいつも一歩引いていた。
 だが、やはり。
 知らない時とは違い、何処かでは寂しかったのかもしれないと、今なら思う。
 だから…。だから、未だに、あの時果せなかった約束がこんなにも気になるのだ。
 ――クリスマスは一緒に教会へ行こう。
 そう言った男の笑顔が、未だ色褪せずにリヒトの中に残っている。

「子供のところにしか来ないサンタはいいとして。
 何が欲しい? 僕はサンタじゃないけれど、君に贈り物は出来るよ」
 サンタが来ない大人には、また別の楽しみ方がある。
 そうだろう、と男は軽く首を傾げた。
「…贈り物?」
「ああ。何でもいいよ、何がいい?」
「欲しいもの……。そうだね、なら…。
 …今夜だけでいい、俺を愛してよ」
 何を馬鹿な事を、と自身で思いながらも、気付けばそう口にしていた。
「……君からそんな言葉を聞くとは、思わなかった」
 心底驚く男に、リヒトは自嘲気味に喉を鳴らす。けれどもそれには気付かせず、悪戯をする子供のようにニヤリと笑う。
「そう? っで、どう? 駄目かな?」
「僕はいつでも、愛しているよ、君を」
 なのに、今夜だけと言うのかい?
 男は微笑み、リヒトの頬に唇を落した。
「…あなたは、何が望み?」
 男の問いには答えず、リヒトは男の耳元で囁く。
 この男が自分を多少なりとも気に入っているのを知っているからと言うわけではないが、その愛情を今夜だけ、受け止めてみたくなった。いや、それだけではない。嘘でも、錯覚でも、自分には受け入れられない大きすぎる重い想いでも、なんでもいい。誰かに愛されている事を感じてみたかった。
 たとえ、男の気持ちを利用する事でも。
 たとえ、後で自分に残るのが、苦しみだけでも。
 今夜だけでいい。この聖なる夜だけで。
 男が自分と今の関係以上になる気もなく、まして自分もそうなる事を望んでいず、互いにその事をわかっているのだから、ふざけるのもいいところと言うものだろう。だけど、こうして一夜限りの戯れが出来るのも、こんな関係だからこそ。
 手軽な恋をするわけでも、錯覚に溺れて現実から逃避するわけでもない。
 ただ、夢を見るのだ。幸せな、夢を。
 この手に確かに掴める、けれども直ぐに思い出となる夢を。
 だが、この夜はそう短いわけではない。
 冬の夜は長い。
 そして、今夜は聖なる夜。
 奇跡が起こっても、それを自分が望んでも、許されるのではないか…?
「なあ、何が欲しい?」
「僕も、君と同じものを」
 男が覗き込むように、リヒトの額と自分のそれをくっつけ、視線を合わせてきた。
「君が欲しい」
「…欲が無いね、こんなものでいいのか?」
「これほどのものがあるとは思えないよ」
 男の言葉に笑いを漏らす。
 自分が望んだものを与えてくれようとしている男に、この自分が同じものを返せるのかわからないが、努力をしよう。愛される事に飢えて求めるばかりで、逆に人を愛する事が出来ていない自分だが、それでも今夜は、この男を心から愛せる気がする。
「キス、しよう」
 自分の言葉に目を細めた男のそれを了解と取り、リヒトは少し頭を動かし、男の唇に唇を重ねた。触れるだけのくちづけを何度も交わし、そして互いに笑い合う。
「愛しているよ、リヒト」
「うん、俺も。愛してるよ」
 口に出したそれは、いつもの睦言では感じない、心の中に何かを広げる。
「愛してる」
 それが何なのか知りたくて、もう一度同じ言葉を男に贈る。
 けれども、心の中に広がるものの正体はわからない。
 だが、男の自分に向けられる優しい微笑みに、もう自分の事などどうでも良くなる。
 再び重ねた唇はとても温かく、そしてそれは、リヒトの胸を高鳴らせるものだった。


END
2002.12.25.