□ 真夏の熱

 モワッとする熱い空気の中で立っていると、息苦しくなり思考力が低下する。
 吐き気を覚える排気ガスを思い切り吸い込むと、このまま天に召されても不思議ではない気分になる。
 冷や汗なのかも知れない滴が、脇から腕へと流れた。
 霞む視界に捕らえていた赤が青へと変わると、周りの熱気が動きだす。
 それに飲まれるように身を任せた途端、逆の力が加わり、進めたはずの足を俺は戻すはめとなった。
「お待ち下さい、車はこちらです」
「…自力で帰る、迎えは要らない。そう言ったはずだが忘れたのか?」
 振り返ると、何を考えているのか分からない表情をした見慣れた男がいた。きちんと着込んだスーツが鬱陶しい。天候による熱さは快感でも、この暑苦しさは不快しか感じられない。しっかりと絞めているネクタイを更に絞めてやりたくなる。
「帰れよ」
「そういう訳にはいきません」
 毎日のように聞くその言葉に、言い厭きた問いを放つ。まるで学習能力のない子供のようだ。
「何故?」
「これが私の仕事です」
「へぇ、お前の仕事は、嫌がる俺を車に放り込み苦痛を与える事だったのか?なら、あの人から俺にそれ以外の行動は与えるなと命令されていると言う事なんだな」
「…いえ。旦那様は私にあなたの送り迎えを命じただけです」
 僅かに顔を歪めてそう言った相手を、俺は口元を歪めて嗤う。ガキの世話役を嫌な顔ひとつ見せずにこなしてはいるが、実は戸惑いきっているのを知っている。だがそれは、俺の我が儘のせいではなく、男の頭が固すぎるせいなのだ。
「車に乗って下さい、四谷さん。体に障ります」
「そんなヤワじゃないさ」
「ですが、」
 実際倒れたでしょう。そう黒い目が言っている。闇のようであるというのに、男の瞳はガラスであるかのようにその内にあるものを簡単に見せる。俺はそれに肩を竦めた。相手がどんな誤解をしていようが、先日目まいを起こした理由を教える気はない。
「四谷さん」
 そう名前で呼ぶなと何度言っても止めない頑固な男に、ただ帰れと言うだけではこの場は収まりはしないだろう。いくらなんでも、この炎天下でやり合いをし続ける趣味は俺にはない。
「そうだな。だったら、一緒に帰ろう。お前も上着なんか脱いで、俺と歩けば良い」
 思いもしなかったのだろうその提案に、男は焦るように戸惑う。
「しかし、」
「それしか方法はない。嫌なら、言う事を聞かないクソガキだとあの人に報告しろよ」
「車は、放っていけませんよ」
「駐禁を切られたなら、罰金は経費にしろと掛け合ってやるさ」
 行くぞと足を動かせると、観念したのか男は隣りに並び同じように歩き始めた。
「こうして歩くのも気持ちいいだろう?」
「暑すぎます」
「だからイイんだよ、何も考えなくて済む」
 そう言った俺の言葉をどう解釈したのか、男は真っ直ぐ前を見たまま言った。
「旦那様は、素晴らしい方です」
「ああ、そうだな。素晴らしすぎて、俺には理解不能だ」
「……」
 とんちんかんなボケた事をぬかした相手に、俺はあえてそれ以上返答出来ない言葉を選ぶ。それに気付きはしないのが、男の欠点。そしてそれこそが、俺のようなものを付け上がらせる原因だ。
 勝手に誤解していろ、悩んでいろ。お前が迷っている間に、逃げ道など完璧に塞いでやる。俺はいつまでもガキな訳じゃない。
「高山」
「はい」
「もしも倒れた時は。ちゃんと俺を支えろよ」
 それがお前の役目だろう。
 視線を向けずに言った言葉に、分かっています、と声が返る。それは、どこか涼しい響きを持っており、また、照り付ける太陽よりも俺を熱くした。


END
2004/07/21