□ 真夜中の月

 真夜中とは、12時から2時ぐらいまでの事をさすらしい。だが、今の世の中では、それはただの夜というだけであって、ひっそりとした、夜が深けた時刻だとはあまり感じない。それこそ、まだ夜は始まったばかりかのように、明かりが沢山散らばっている時刻だ。
 高台の新興住宅地の中にある公園からは、キラキラと輝く星よりも多い、無数の街の明かりを見下ろす事が出来る。先程まで居た若者のグループは、それを綺麗だと言って一頻り騒いでいた。そんな夜景をうりに立てられたマンションが、公園の裏手にある。そのいくつもの窓からも、やはりまだ明かりが零れている。
 何気に左手にあるそのマンションに目をやった私を察知したかのように、最上階に近い部屋にパッと明かりが点いた。漸く帰りついたサラリーマンが住む部屋なのだろうか、それとも眠っていた者が起きだしたのか。
 閑静な住宅街ではあるが、光同様音も途絶える事はない。終電に乗って帰ってきたらしい酔っ払った男や水商売風の女など、幾人かが公園を横切っていく。前の道路も、さすがに連なって走ってはいないがが、それでも車の往来はまだ途絶えない。
 真夜中。けれど、人目がなくなることはない。昔は何もかもが隠れられる闇であったのだろうが、そんな夜はもうこの街にはこないのだろう。だが、初めの頃はそれがわからなかった。何故もっと、人の目がないところで取引をしないのか。罪を犯す疚しさから、私は何もかもに怯えていた。人の気配を感じ取る度に驚き不安で胸を鳴らしていた。だが、それも今では落ち着いたものだ。
 水音が煩いからと夜の7時には止められてしまう、今はただの池となった噴水の前で、私は月に一度、人を待ちながらこの夜を味わう。もうそれが今日で何度目なのかも忘れてしまうほど、私はこの時を過ごしている。そう、男が指定する夜がいつも満月なのだと気付いたのも、一体いつの事だったのか。
 それに気付いた時、何だかとても悔しかったのを今でも覚えている。直ぐに気付かなかった自分の鈍感さはもちろんのこと、そんな真似をする男の意外さが、妙に腹立たしかった。
――あんたの名前は?
 そう聞いたのは、単調なやり取りで終わらせたくはない、暑い夏の夜に長く待たされた私のささやかな反抗だった。男はいつも、約束通りの時間に来る事がないのだ。
――お前が知る必要はない。
 私の言葉に、何を今更馬鹿を言うんだと言うように、男は冷めた視線でそう答えた。
――だが、…不便だ。
――そう思うのなら、お前が適当につけろ。
――私が?
 そうだと頷く男に、私は「なら…サク、だ」と名付けた。望ではなく、朔。そこに込めたのは、皮肉と願望。男はその名前を口元で軽く笑っただけで、何も言わなかった。そう、言う必要などなかったのだ。男が言うように、名前などつけても無意味だった。その名が必要な場面に出会うほど、私と男は時を共にしていない。

 公園らしく、可愛げがあるというのか無駄に凝っているというのか、少し変わった形の丸い電灯が、地面に私の薄い影を幾つも作る。何もする事がなく、それを見下ろしていた私の視界に、不意に黒い靴が入ってきた。漸くお出ましだ。
「今夜は、寒い」
 遅れてきた詫びなど絶対に入れないのを承知の上で、私はささやかな悪態をつく。
「寒の戻りで明日は真冬並らしい」
 こんな男でも天気予報を見るのだろうか。そう思いながら私は少し視線を上げ、手にしていた大きな封筒を男に差し出した。靴同様、黒い細身のジーンズに、ダークグレーのセーター。こんな寒い夜だというのに、上着は着ていない。近くまで車で来ているのだろう。どんな車に乗っているのかまでは、私は知らない。知るはずがない。
 男は封筒を受け取り、簡単に中身を確認し、脇に挟んだ。仕事に関して文句を言われた事は一度もない。だが、それは完璧な出来だと言う事ではなく、駄目出しをする手間をかけないというだけのことなのだろう。私がした仕事を男がどう扱っているのかなど知らないし、興味もない。ただ、私は言われた事を出来る範囲でするだけなのだ。男がそれにより人を貶めていようが、殺していようが、私には関係がないのだ。手出しや口出しは命取りとなる。
「次は?」
 次の仕事は何かと、私は男が差し出した小さな太った封筒をコートのポケットにねじ込みながら立ち上がり、男と視線を合わせた。冷たいとも思えない、何を考えているのかなどわからない表情だ。この顔を変える事はあまりない。そうまるで、私達が会う日に上っている空の月のように、それはそれでしかない。男は、男でしかない。
「次は、何をするんだ」
「ない」
 切れ長の細い目を動かす事はなく、立ち上がった私を見たまま、男は簡潔にそう言った。その瞳は私など見ていずに、まるで昼間の噴水を見ているかのようだった。日本的な、噴水と言うにはお粗末過ぎるそれを嘲笑い、今の池の方が余程この公園に合っていると、全く私の事など関心にないかのような瞳。
「この仕事はもう終わりだ」
「……そうか」
 事務的に、機械のように出された言葉。突然のそれに、けれども何処かで私は納得もする。始まりもそうだったのだから、この終わりでいいのかもしれない。
「…なら、これであんたとは、もう会う事もないんだな」
 わかりきった事をそれでも確認するように、私は男を見る目に力を入れる。だが、男はそんな私を、ただ同じように見返した。
 光はあるといっても、街灯だけのもので、周りは闇だ。月明かりはそう強くはない。そんな中で男の顔には深い影が刻まれ、コントラストが生まれたその表情は、動くことはない彫刻のように無のものだった。
 何度この顔に、背筋を震わしただろうか…。
 その思いを隠して私は男から視線を外し、この時間を終わらせようと、断ち切ろうと、固まりかけていた足を動かした。
 だが、踏み出したそれは先の地面に付くことはなく、同じ場所へと戻される。男が私の腕を掴み、その場を動く事を阻止した。
「別の仕事がひとつある」
「…なに」
 自分には他の事など出来ないと答えると、「お前にしか出来ないことだ」と軽く口元を緩める。
「何をすれば、良いんだ」
「その頭で考えろ、俺と一緒に来るかどうかを」
 耳に届いた言葉は、直ぐには理解してもいいのかどうかさえわからないものだった。
「期限はひと月。来月の12日深夜12時に、俺はその答えを聞きに来る。ひと月の間で、俺についてくるのなら身の回りの処理をしておけ」
「……断るのなら…?」
 微かに声が震えた。男は口元に小さな笑みを浮かべたまま、そんな私の髪に手を入れ、ゆっくりと顔を近づけた。冷えた私の耳に、男の唇が触れる。
「俺を諦めさせられるだけの言い訳を用意しておけ」
 呟くようにそう言った男は、呆けている私から素早く身を離し、いつものように何の思いも持たないような背中を見せ、夜の闇に消えた。
「……ふざけるな」
 口から零れたのは、情けない声だった。
 わけがわからない。一体何なんだ今のは。腹立たしさが浮かぶが、それ以上に情けない気分になる。
 男の言葉が頭を駆け巡る。理由ではなく、言い訳だと言い切った男の自信が悔しく、同時に自分の想いを知られていた事実に泣きたくなる。
 私を面白くない男だと詰った妻の顔が頭に浮かんだ。あんたのような人間には絶対になりたくない、そう言った息子の顔も。今ならその二人の気持ちがわかる気がする。他人を嫌悪するほどの強い感情などわからなかったが、今は私もまた、あの男をそんな風に思うから。そう、最低な男だ。そして、自分も最低な人間だ。
 天を仰げば、そんな情けない私を、丸い月が見下ろしていた。
 月は嫌いではない。だが、満ち欠けするからこそ、そういう感情を持つのだろう。変わらない小さな粒でしかない星に特に感情は持たない。そう、変わらないものなど、面白くない。
 常に表情を変えず、事務的に接していただけの男が、今夜少しその心を見せた。
 だが、私はそんな小さな変化だけでは、満足出来ない。
 振り返った足元の、噴水の池に、月が漂っていた。今夜私はそれを捕まえるチャンスを手に入れたのだ。
 迷う必要は、どこにもない。
 答えはもう、決まっている。


END
2003/03/05