□ その音色

 春に三日の晴れ間なし、とは良く云うけれど。
 こうも雨ばかりの天気では、流石にどうなっているのかと嘆きたくなる。
 梅雨の初めのように続く雨は、折角の新緑の匂いも消してしまっている。都心を離れ、小さいが庭付きの一軒家に移ってきたばかりだというのに、なんとも寂しいものだ。
 だが、しかし。
 雨には雨の楽しみがあるのも事実。
 そして、この住処には、更にそれ以上に私の心を捕らえるものがあった。
 夕方に雨が降っている時、必ずピアノの音が響いてくるのだ。
 上手いとは言えないその音に、はじめは近所の子供が学校から帰り練習をしているのかと思ったのだが、それが鳴るのは雨の日だけだと気付いた瞬間から、私はあの音に捕らわれている。そして、もう一つ。その音に耳を傾け続けていて気付いた事がある。
 夕暮れ時の細い路地裏を歩く一人の青年に気付いたのは、ピアノの音をよく聞くために窓辺に腰を掛け、その一時を過ごしていたからだ。塀の向こうを、紺の傘を差したその青年が通ると、ピアノの音は直ぐに止む。
 それは単なる偶然か、深い意味のある必然かなんて私にはわからない。
 不器用なピアノは、細い道を挟んだ前の家から流れてくる。そこにどんな人物が住んでいるのか、残念ながら私は知らない。あの青年と一体どんな関係があるのか、窺いようもない。第一、そんな憶測全てが、無粋というものだ。あの青年が隣家を訊ねているとは限らないのだから。
 ただ、流れるピアノの音、傘を差し歩く青年。それだけが、雨の日の事実でしかない。しかし。それだけで、充分に私の心を躍らすのだから、真実など何でもいいのだ。
 それなのに――


「その青年って、土方の仕事でもしているんでしょうかね」
 大きな煎餅をバリッと齧り、ボリボリと咀嚼しながら言った男の言葉は、私には理解出来ないものだった。何をどうやって、そんな予想をするのか。
「だって、土方って雨だと仕事が休みになるでしょう。今時、5時できちんと終わる会社はないですからね」
「…住田クン」
「なんでふ?」
 煎餅を詰め込みすぎ、まるでハムスターのように頬を膨らませて首を傾げる男に、私は丸めた原稿用紙を投げつける。
「イタイじゃないですか」
「嘘をつくのは良くないよ、君。こんな紙切れ一枚、痛いはずがないだろう」
 そういいながら、もう一度投げつける。どうにか口の中を空にした男は、自分の頭にあたったものを拾いながら文句を言った。
「もう、目に入ったらどうしてくれるんですか」
 その可能性はなくはないが、眼鏡をかけているこの男では、確率は極めて低い。
「君なんかにね、話すんじゃなかったよ」
 折角素敵な話をしてやったのに、茶化すとは何て奴なのか。
 そう不貞腐れた私に、けれども男は気にせずにさらりと言った。
「僕もお喋りなんてせずにさっさと原稿を書き上げて欲しいので、丁度いいですよ。仕事してください、センセイ」
「君のせいで、気分がのらなくなった」
 向かっている原稿用紙の上に突っ伏し、私が大きな溜息を吐くと、背中にふてぶてしい声がかかる。
「気分がのらなくても、書いてください。たった10枚です、1時間もあれば出来るでしょう。それを早く会社に持って帰らなきゃならないんですよ、僕は」
 バリッと新たな煎餅を齧る音を響かせ、男は少し笑いながら言葉を繋げた。
「ああ。ほら、センセイ。雨が降っていますよ」
 その声に顔をあげると、確かに窓の外では静かな雨が降っていた。いつの間に降り始めたのだろう。
「駄目ですよ」
 思わず立ち上がりかけた私を、齧りかけの煎餅を持った男が肩に手を置き押し止める。こういう時は素早い動きを見せる男に、私は溜息を落とす。
「仕事、してください。いいですか、センセイ。ピアノも傘の青年も、今のあなたには無用です。さっさとそれを書きあげてください」
 そう言い、私の変わりに路地が見える窓辺に腰を降ろした男は、「それとも、いつまでも書かずにいて、僕をここに縛り付けておきたいのですか?」と低く笑った。
「君ねぇ…」
「はい?」
「いや、何でもない」
「なら。早く仕上げてください」
 ニコリと笑い横を向いた男の顔は、黙っていると年相応な大人の顔だ。
「…下手ですね」
「ん?」
「ピアノですよ」
 肩を竦めた男の言葉に、漸く私の耳にいつもの音が流れてくる。今日もまた、音が紡がれだしたのだ。
 暫し聴き入っていた私に、小憎たらしい言葉が落ちる。
「あなたの話から、どんなに綺麗な音なのかと楽しみにしていたんですが。これなら、雨音の方が断然イイですね」
「ホント、君はねぇ…」
 喋らなければそれなりの男で、けれども口を開けばただの悪ガキ。だが、時に嫌味ともつかない辛辣な言葉を悪気など全く無いような爽やかさで言う。スマートな大人びた行動を見せるのは極稀の事で、普段は学生のようなだらしなさ。だが、どこまでそれが許されるのか、良くわかっている。相手の様子を見て動いている。
 計算しなければ出来ないものばかりなのに、そんな様子は微塵も見せない。全くもって、訳のわからない男だ。
「ほら。仕事してくださいよ」
 手に持っていた残りの煎餅を口に放り込む前に、私の視線に気付いたのかふと振り返り、男は変わりばえのしない言葉で私を促した。
 眼鏡の奥の目は、笑っていた。



「センセイ。玄関の電気、切れていますよ」
 靴を履く前に手を伸ばしたスイッチをパチパチと何度も動かしながら、脇に鞄を挟んだ男は溜息交じりに言った。
「思いつきで、こんなボロ屋を借りるからですよ」
「電球が切れた事とそれは関係がないだろう。って、失礼だな、人の家をボロ屋だとは」
「他に言いようがないでしょう」
「悪いが、住田クン。今度来る時に電球を頼むよ」
「次に来るの、いつかわかっていますか? さっさと自分で換えてください」
 靴べらを所定の位置に戻して「それでは、お疲れ様でした」と玄関を出る男に続き、草履を引っ掛け私も外へと出る。
 家の前の細い道に、大きな人影があった。
 その影が、ゆっくりと二つにわかれ、漸く気付く。
「ああ」
 私の視線を追い、側にいた男が短い声を漏らした。何故か、少し笑いを含んでいる。
 その声に、路地に残った小さな影がこちらを振り返った。
 少女のように細い、けれども確かに男の骨格を持っている、すらりとした少年だった。顔までははっきりと窺えないが、私達を見て驚いているのが何故かよくわかった。その様子に、先程何が行われていたのかを察する。
 よく通る低い声が、私の耳に届いた。弾かれるように青年が去った方向を振り向く少年に、それが彼の名前だと知る。少年はこちらを気にしてか、小さく体の側で手を振り、足早に家の中へと入っていった。
「お気に召す結果でしたか?」
「…何がだい?」
 私の問いに肩を竦めて小さく笑っただけで、男は答えはしなかった。そして、そのかわりとでも言うように、私を引き寄せ唇を重ねてきた。
「……どうかしたのかい?」
「いえ、何となく」
 その答えに、今度は私が肩を竦める。
 視線を向けた先には、誰もいない細い道が続くばかり。
 会いに来て。早く会いたい。早く来い。
 あの音は、そう歌っているのだろう。言葉では言えない気持ちをのせて、音を奏でる。だがしかし、それでもやはり少し不器用で、控えめで。囁くように、歌う。それが余計に、少年の心を表しているようだ。純粋なあの音は、愛の歌というものなのだろう。
 少年の音に惹かれて、あの青年はやって来る。
「やはり、綺麗な音だよ。あのピアノは」
 先程の男の言葉を否定した私に、「あなただからそう聞こえるんですよ」と意味のわからない事を男は言った。
「ではまた、来週お伺いさせて頂きます」
「ああ、お疲れ様」
「本当に、ですよ。次回は、きちんと仕上げて置いてくださいね」
 失礼しますと頭を下げ踵を返した男の背中を見送り、私は家の中へと戻った。
 部屋の電気を落とし、屋根に落ちる雨音を、一人で静かに聴き入る。
 少年のピアノの音よりも雨の音の方が良いと言ったあの男には、この少し寂しい空しい音が綺麗な曲に聞こえるのだろうか。
 私をからかっただけなのかもしれないが、もしそれが本当なら…。

 彼が聞いた雨の曲を、私も聴けるようになりたいものだ。


END
2003/05/14